一年生
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「ナマエ、図書館に行くの?」
「ちょうどいいわ。ねえナマエ、試験勉強を兼ねてご一緒していいかしら?」
「ハーマイオニー、試験はまだズーッと先だよ。」
「十週間先でしょ。ズーッと先じゃないわ。……」
『……。』
頭二つ分は小さな彼らにトライアングルに囲まれて、名前は身動きができずにいた。
名前の返答を聞かずに、三人(特にハーマイオニーとロンは)またやいのやいのと討議している。
人の往来がある廊下のど真ん中でそんなことをやっているので、通る人々は至極鬱陶しそうな顔をして睨んできた。
しかし事の中心の人物が名前だと知るなり、勢いよく前を向いて足早に去っていく。
中には名前の姿を見るなりユーターンをする者もいた。
そんな人々の背中を見つめる名前の後ろ姿からは、どことなく哀愁が漂っている。
名前はとりあえず、この場から立ち去るために、コクリと一つ頷いた。
人も疎らな図書館は静かで、少し音を立てただけでも睨まれる。
だから名前たち四人は、奥の隅っこ、日当たりの良い窓際を選び、各々勉強や読書に勤しんだ。
禁じられた森であった事を見た日以来、ハリーたちは前以上に名前によく話し掛けるようになった。当然一緒にいる時間も、ぐんと増えた。
そして三人は、クィレルにも異様に優しい。
名前はハリー達には何も言っていないし何も聞いていない。
けれどその様子から、ハリーがクィレルとスネイプの話を聞いていたであろうことは、容易に察することができた。
そしてそのことはハリーから、ハーマイオニーとロンの二人にも話したのだろう。
「こんなのとっても覚えきれないよ。」
ロンは机に倒れ込んで脱力した。
音を立ててペンが転がり、机には少量のインクが飛び散る。
名前は横目でちらりとその光景を見て、転がるペンをペン立てに戻し、飛び散ったインクを素早く拭き取った。
更に今にも引っ掛けて溢してしまいそうなインクに蓋をして、そっと遠くにやった。
ロンは全く気付かない。
浜辺にうちつけられたクラゲのように伸びきっている。
正面に座るハーマイオニーだけが名前の行動に気が付いて、呆れたような、責めるような目付きで此方を見据えていた。
その目は明瞭に「甘やかすな」と名前に語り掛けていた。
『……。』
そっと目を逸らし、本を閉じて席を立った。
じっとりと刺さる視線から逃れるため、そして別の本を探しに行くためだ。
ハーマイオニーは「やれやれ」と言いたげに首を横に振り、呆れたように溜め息を吐いた。
「ハグリッド!図書館で何をしてるんだい?」
「いや、ちーっと見てるだけ。」
背後から突然会話が聞こえて、名前は顔だけ後ろを向いた。
本棚と本棚の間にぬりかべのような、今まで見たこともない大男が立っている。
もしゃもしゃと広がる髪の毛と、グローブのように大きな手が極めて目立つ。
名前はハグリッドを知らない。
しかしハリーたちの会話の中で、ハグリッドの名は何度か聞いたし、彼がどのような人物か話も聞いていた。
『……。』
爪先から天辺までハグリッドの後ろ姿を見つめる。
そうして名前はふむふむと頷いた。
なるほど、話に聞いていた通りの人物だ。
ハグリッドは後ろ手に分厚い本を何冊か手に持っていた。
ハグリッドの手はとても大きいので、持っているものが手帳ではなくて分厚い本だと分かるまでに、少々時間が必要だった。
本の存在を、何だかハリー達から気付かれないようにしているみたいだ。
その様子を見て何となく好奇心をそそられたのか、名前は目を細めて本の表紙の文字を読んだ。
本の表紙には『趣味と実益を兼ねたドラゴンの育て方』と書いてある。
見てから、名前は興味が失せたようにスッと目をそらした。
本を探しに奥へ入っていく。
「おまえさんたちは何をしてるんだ?
まさか、ニコラス・フラメルをまだ探しとるんじゃないだろうね。」
「そんなのもうとっくの昔に分かったさ。
それだけじゃない。あの犬が何を守っているかも知ってるよ。賢者のい」
「シーッ!…」
盛り上がる会話を背後に聞きながら、名前は本棚の列をいくつも通り過ぎた。
話に興味を抱かないのか、それとも知りもしない話を盗み聞きしては悪いと思ったのか。
声なんてとっくに届かないのに名前は四人から大分離れた本棚までやって来て、そうしてようやく足を止めた。
『……。』
あるいは、そこが目当ての本棚だったのかもしれない。
本棚の角を曲がって、並べられた本をぐるりと見渡す。
ぴたりと視線を止めて近付き、一冊の本を抜き出した。
分厚く、重たそうな、ハードカバーの本だ。
パラパラとページをめくり、目的の言葉を探す。
手を止めて、指で文字をなぞる。
【賢者の石】
ポケットから紙切れを引っ張り出す。
折り畳まれた紙切れを開き、本に書かれた内容と、紙切れに書かれた内容を見比べた。
そして、名前は一人頷く。
本を閉じて、元の位置に戻した。
紙切れを折り畳み、ポケットにしまう。
やや首を傾げながら、本と本との隙間を見つめた。
『(……マグル界で得た知識と同じ……
賢者の石……
……物をお金に変えたり、病気を治したり、……
……不老不死になる、石……。)』
ポケットの上から紙切れを触って存在を確かめる。
もしこれを落として、スネイプかクィレルが拾いでもしたら。
落とし主など、魔法があるこの世界なら一発でわかるだろう。
名前は青ざめた。
寮に戻ったら誰もいない時を見計らって暖炉で燃やしてしまおう。
……と、名前は強く決心した。
『(スネイプ先生か、クィレル先生は、……お金がほしい、……
もしくは、病気を治したい……
それとも、不老不死になりたい……のか。)』
本当にそうだろうか。
名前は首を傾げる。
どれも二人のイメージにあてはまらない気がする。
それとも、実は病気を患っていたりするのだろうか。
他人は自分ではない。
いくら想像したところで、思考や思惑など分からない。
『(どちらに、忠誠を……)』
そのとき名前に電流が走る。
よくよく思い返してみると、二人にはそれぞれ忠誠を誓う人がいるのだ。
もしかしたら賢者の石は自分の為に使うのではなくて、その忠誠を誓う人に捧げるものなのかもしれない。
『(でも……わざわざ学校に移動して置いている。ダンブルドア校長先生が、賢者の石を狙う……なんてことは、ないと思う……あるんだから。……すぐ近くに……。
すぐ近くに置いておかなきゃいけない理由は……狙われる……誰に………
俺がクィレル先生に見られている、らしい…理由は、……分からない……
……ハリーの箒に呪いをかけた、スネイプ先生……
クィレル先生には近付いちゃいけない……
……………ハリーは…危険な目に合った……
……賢者の石、不老不死…………
ダンブルドア校長先生が近くに……。)』
ハリーが狙われた。
賢者の石が狙われた。
今年、ハリーが入学した。
今年、賢者の石がホグワーツに移動した。
ハリーと賢者の石。
あまりのも妙なタイミングだ。
きっと関係はあるはず、名前はそう考える。
ハリーと賢者の石を繋ぐ、何かしらの共通点が。
『(お金がほしいのか、病気を治したいのか、不老不死になりたいのか……分からない…でも……
……ハリーと関係があるなら……
何か特徴的な……特筆する、際立つ事……何か───……)』
ヴォルデモート。
脳裏に浮かんだのはその名前だった。
赤ん坊だったハリーが闇の帝王ヴォルデモートを撃退した事で、魔法界でハリーは英雄として十年以上経った今でも賞賛されている。
ハリー本人がどのような人物かは知らなくても、その事実を知る者は大勢いるのだ。
狙われているのは賢者の石とハリー。
果たして、ヴォルデモートは本当に消滅したのだろうか?
かつてヴォルデモートを崇拝した従者達が、ハリーに復讐しないと言い切れるだろうか?
もしもヴォルデモートが命からがら逃げ延びて、かつての従者達と再び巡り合っていたら?
ハリーを再び殺そうと狙っていたなら。
賢者の石を使い、不老不死になり、二度と死ぬことはない体になって、ハリーを狙っていたなら。
『…………。』
ぶるぶると頭を振る。
考えすぎだ、と言い聞かせる。
しかし、一度思い描いた想像はなかなか頭から離れない。
さっと踵を返した。
このコーナーにはいたくなかった。
早足で歩く。
もしヴォルデモートがハリーを狙っていたら。
もしクィレルかスネイプが、それに加担していたら。
クィレルかスネイプが、ハリーを殺そうとしていたら。
どれも嫌な想像だ。
けれど一度思考が深みにはまると、ズブズブと沈んで不安のぬかるみから抜け出せなくなる。
ぎゅう、と一回、強く目を閉じて、足早に図書館の出口を目指す。
名前は走り出したかった。
早く賑やかな談話室に戻って、いつも通りゆったりとしたかった。
「あ……み、Mr.ミョウジ?」
『……。』
突如壁にぶつかり、一瞬視界が真っ暗になった。
真っ直ぐ前を見て歩いていたつもりが注意力散漫になっていたらしい。
慌てて離れてみると、壁だと思ったのはクィレルの背中だった。
驚いた顔をして名前を見ていた。
名前の全身に一瞬だけ緊張が走る。
けれど脳が悟られまいとしてか、すぐに身体の力を抜こうとした。
『ごめんなさい……。』
「いえ、私は、だ、大丈夫ですので。
ど、どうしたのですか?ずいぶん、い、いそ、急いでいる、ようでしたが。」
『…………。』
素直に話すわけにもいかなくて、名前は黙り込む。
しかし長く黙り込んで重苦しい空気を作るわけにはいかない。
俯いて爪先辺りを見つめ、ゆるりと首を左右に振った。
「特に理由は……な、ないと。」
『……。』
「そうですか。……」
顔には微笑みを浮かべているが明らかに納得していない様子だ。
軽く他愛もない話をするだとか、会釈でもしてこの場を抜け出せたら良いのだが、今この時名前にその発想は無くて、それに何だかクィレルも簡単には逃がしてくれない雰囲気があった。
クィレル何か言いたげに、落ち着かなさそうに此方を見ては目をそらしたり、体をもぞもぞさせていた。
「禁じられた森」で盗み聞いた会話と、自分で導き出したストーリーが、名前の頭の中でグルグルと巡る。
ただここでそれらの事を匂わせるような発言は絶対に良くないと理解している。
だから名前は静かに息を吐き、じっとクィレルの顔を見つめた。
『先生は、本を借りに……』
「あ……え、ええ。」
『……先生も、図書館を利用するのですね。』
「そ、そうですね……教師という立場ですが、す、すべてを把握しているわけではないですし、……調べたいときもありますし、度忘れする、な、なんてことも、ありますからね。……」
名前の気持ちを和らげようと、クィレルは笑みを深くさせた。
けれどもその笑顔は無理矢理に作ったかのようで、頬が小刻みにぴくぴくと痙攣していた。
笑顔を向けられても、その笑顔が明らかに作り笑いだとしても、名前の無表情は変わらない。
ただ生真面目に頷き返した。
「前々から、お、思っていたことがあるのですが……聞いてもよろしいでしょうか?」
『……はい。』
「何故ミョウジ君は、私の名前は呼ばないのでしょうか?」
『……呼んでいませんでしたか。』
「はい。い、一度も。」
『……。』
「ほ、他の先生方の名前は呼んでいるようなので、す、少し気になってしまって……。」
名前はクィレルの目をじっと見た。
それからそっと目を逸らし、どこか遠くを見つめる。
その様子を見てクィレルは何か大層な事情でもあるのだろうかと思ったらしい。
作り笑いを引っ込めて真剣な表情を浮かべ、静かに名前の言葉を待った。
『その、俺は……───悪いので。』
「す、すみません。何ですって?」
『……滑舌が、……悪いのです。』
「…………」
あっという間にクィレルの真剣な表情は崩れ去った。
口をポカンと開けて、見開いた目で名前を見詰めている。
何と言えば良いのか言葉が見つからないようだ。
クィレルは黙っている。
それとも衝撃的な発言のあまり思考が停止してしまっているのかもしれない。
沈黙に耐えきれず、名前は俯いて自分の靴を見下ろす。
そうしてようやく再起動されたのか、クィレルは持っていた本を抱え直して口を開いた。。
「か……滑舌?」
『……はい。』
「ど、どの辺りが悪いのですか?今聞いている範囲では……何もも、問題無いようですが。」
『先生の、名前です。』
「名前……クィレル、ですか?」
『はい。ク……クレル……に、なってしまうのです。』
恥ずかしそうに背中を丸めて、名前は俯いたまま小さな声でそう言った。
でもクィレルの方はあまり気にしていないようだ。
合点がいったように深く頷いている。
「そ、そうでしたか……。わた、私の名前だけ呼ばれたことが、な、ないので……てっきり、き、嫌われているものだと。」
『そんなことはないです。』
「その言葉を聞いて、あ、安心しましたよ……はは、は。」
『……。』
「き、君は、そつがなくて、な、なんでもこなせる生徒だと思っていたので、正直、い、意外です。し、しかし……滑舌がわ、悪いというのは、少し問題ですね。じ、呪文はしっかり唱える事も、だ、だ、大事ですから……。」
『はい……。』
いくらクィレルが怪しくても、それはもっともな意見だ。
名前は素直に言葉を飲み込み、自分の滑舌の悪さが致命的だと改めて理解した。
早く出来る限りの対処した方が良さそうだ。
しかし、一人で改善が出来るだろうか?
それとも誰かに協力してもらうべきだろうか?
滑舌と声の通りの良さといえばハーマイオニーだ。
けれどハーマイオニーは色々やる事があるだろう……。
目の前にクィレルがいるというのに、名前はそっちのけで考え込んでいる。
「ミョウジ君。」
名前を呼ばれて名前は自分の世界から現実世界へと意識が戻った。
クィレルを見てみると微かに笑みを浮かべている。
作り笑いだと一目見て分かる。
口元がひくひくと痙攣していた。
『はい。』
「ご、午後は授業の予定はありますか?」
『……いいえ。……』
「わ、私も、午後は授業がないんです。よかったら……れん、練習、しませんか?」
『練習というのは……』
「滑舌の。ほ、他に予定が、あ、あるのなら、無理にとは言いません。」
『……。』
クィレルに対して不信感を抱いている今、出来ることなら断りたい提案だ。
しかし教師であるクィレルがわざわざ時間を割いて滑舌の指導をしてくれると言うのなら、それを断る理由が無い。
名前には何かうまい言い訳や、予定をでっち上げることが出来るような器用さもない。
『とても有り難いです。でも、俺一人の為に時間を割いていただくのは、申し訳ないです……。ご迷惑になりませんか。』
「め、迷惑だなんて。そんなことはありません。た、正しい滑舌を取り戻す、こ、ことは、呪文の正確さにもか、関係しますから、君にその意欲があるのなら、わ、私はいち教師として手助けしたいのです。」
『………………
あの、それでは、よろしくお願いいたします。』
「分かりました。で、では、私の教室に行きましょう。ここで、や、やるわけには、いきませんからね。」
『……。』
一体何をやっているのか。
断る理由が思い付かず、黙ったまま時が過ぎていくことにも耐え切れず、名前はクィレルの提案を受け入れてしまった。
不信感と警戒心を抱いていながら、今や二人仲良く並んで廊下を歩いている。
意外な取り合わせなのか、何人かの生徒は物珍しそうな目で二人を見てきた。
何かにおびえているかのように、クィレルはおどおどと忙しなく周囲に目を配っており、明らかに挙動不審だ。
一体何に怯えているのだろう。
対立しているスネイプに出会すことを警戒しているのだろうか?
もしそうだとしたら、一緒にいる名前もスネイプに目の敵にされるのではないだろうか。
そう思うと背筋が冷える。
一気に身体が緊張で縮こまり、名前は背中を丸めて廊下を歩いた。
「ミョウジ君、そこに腰掛けて結構ですよ。」
『……。』
連れてこられたのはいつもの教室を通り過ぎた奥の部屋だった。
日当たりが良くて明るい教室とは違い、この部屋は薄暗くて冷えた空気が漂っている。
あまりジロジロと見ては良くないので、名前は素早く周囲を見回した。
ベッドや机、私服がかけられたクローゼットがあるあたり、ここはクィレルの私室なのだろう。
足の低い大きなテーブルと、それを取り囲むように配置されたソファー。
両方ともしっかりとした作りで高価そうに見える。
名前は棒立ちだった。
動いたら絶対何か傷付けると思った。
「ミョウジ君。ど、どうしたのですか?さ、さあ。ここに座ってください。今お茶を出しますから。あ、甘いものはお好きですか?」
『……。』
名前は右を見たり左を見たり、手を意味もなくわたわたさせたりして落ち着きがなく、挙動不審だ。
こんなふうにもてなされるとは思っていなかったのだろう。
「自分なんかにお茶出さなくていいのに!」という心境らしい。
口に出していないので、伝わるわけがないのだが。
クィレルもどうしたらいいのか分からない様子で、困った表情を浮かべてしどろもどろだった。
けれどこの状況を変えようと、杖を一振りした。
紅茶とクッキーを出してローテーブルにそっと置く。
そうして再度ソファーに腰掛けるよう促した。
名前は諦めたのかしずしずとソファーへ近寄ってきた。
高価そうなソファーに、そっと座る。
思いの外沈み込んだから危うく引っくり返りそうになって、それでもどうにか踏ん張る。
ゆっくりと、クィレルも対面に腰掛けた。
クィレルに勧められ、湯気が立つ紅茶を一口飲む。
緊張で味も香りもよく分からない。
勧められるままにクッキーも食べた。
甘さも食感も分からない。
「そ……それでは、早速、は、始めましょうか。ええと……
では、今の状態を把握したいので、わ、私の名前を言ってみてもらえますか?」
最難関だ。
緊張でガチガチに身体が強張っていて、通常より更に舌が回らないこの状態で、良い結果は絶対に出ない。
だが逃げられないのだ。
逃げるタイミングを自分で断ち切ったから。
名前は紅茶のカップを、そっとソーサーに置く。
カップもソーサーも高価そうだった。
『……く、……クレル。』
「……クィレル、ですよ。」
『クイレル……』
「クイレルになってますが……」
『クイ……く、……キィ……く、キュレル……』
「(もはや別のものに……)
……クィディッチは言えますか?」
『クディッチ……』
「……」
『……くい……く……きでぃっち……』
「…………」
『……きゅでぃっち……』
「…………
……練習が必要なようですね。」
『…………』
クィレルによる滑舌講座は、とっぷり日が暮れて、晩御飯にありつくまで続いた。
クィレルは驚くほど熱心に指導を続けて、なんと二人で大広間に行く間も練習が続いたのだ。
練習をしながら二人で大広間に入ったとき、ハリー達からは生暖かい眼差しで見つめられ、教員席に座っていたスネイプからは、これまでにない鋭い目で睨まれた。
生まれて初めて、名前は視線で殺されると思った。
なるべく来賓席の方を見ないようにして席に着く。
興味津々の様子のロンが、すぐに顔を寄せてきた。
「ねえねえ、ナマエ。どうしてクィレルと一緒に来たんだい?君、何かやったの?」
『……。』
好奇心を隠そうともせず、ロンの瞳はキラキラと輝いている。
名前は少しだけその瞳を見つめて、それからゆるりと首を左右に振った。
ミルクの瓶を手に取り、慎重にゴブレットへ注ぐ。
そしてこれもまた慎重な手付きでミルクの瓶をテーブルに置く。
並々と盛られたサラダを空のお皿へ取り分けていく。
それから手を合わせて、いただきます、と小さく呟いた。
「じゃあ、なに?」
焦れた様子でハリーが身を乗り出した。
ハーマイオニーも気になるようで、パンをちぎりながらチラチラと名前を見ている。
皿の上のパンはもう粉々だった。
名前はレタスをパリパリと咀嚼する。
中々話さそうとしない。
フォークに一粒ずつグリーンピースを刺しながら、やっと口を開いた。
『滑舌の練習……。』
「……はあ?」
『く……くぃれる先生は、意外とスパルタ。……』
「ちゃんと発音できてる?」と言いたげに、名前は首を傾げた。
一体何の事やら、突然の話に三人はついていけていない。
ぽかんとした顔で名前を見つめ、それから互いに顔を見合わせた。
その後しばらくして、初めに話を切り出したのはハーマイオニーだった。
クィレルと滑舌と名前に何の関係があるのか、根掘り葉掘り聞き出したのだ。
内容が内容なだけに名前の声は普段よりも小さくて聞き取りづらかったが、三人は根気よく耳を傾けた。
そして最終的に皆は笑いを堪えるのに必死になった。
名前本人の手前、これは笑い話でもないし、笑ってはいけないと態度を装ってはいるが、皆の口角が不自然な動きを見せている。
「ナマエ、悩み事があるなんて知らなかったわ。言ってくれたのなら、私はいつだって力になったのに。」
「そうだよ、ナマエ。クィレルとだけじゃなくて、これからは僕らも力になるよ。きっと、その方が早く上達するよ。」
「良い考えだな、ハリー。ナマエ、初日の練習の成果はあったのかい?クィディッチって言ってみてよ。」
『……いやだ。』
「クィレルは?」
『やだ。』
含み笑いをするロンとハリーから目をそらし、名前はそっぽを向いた。
皆はついに吹き出して、大きな笑い声をあげた。
「ちょうどいいわ。ねえナマエ、試験勉強を兼ねてご一緒していいかしら?」
「ハーマイオニー、試験はまだズーッと先だよ。」
「十週間先でしょ。ズーッと先じゃないわ。……」
『……。』
頭二つ分は小さな彼らにトライアングルに囲まれて、名前は身動きができずにいた。
名前の返答を聞かずに、三人(特にハーマイオニーとロンは)またやいのやいのと討議している。
人の往来がある廊下のど真ん中でそんなことをやっているので、通る人々は至極鬱陶しそうな顔をして睨んできた。
しかし事の中心の人物が名前だと知るなり、勢いよく前を向いて足早に去っていく。
中には名前の姿を見るなりユーターンをする者もいた。
そんな人々の背中を見つめる名前の後ろ姿からは、どことなく哀愁が漂っている。
名前はとりあえず、この場から立ち去るために、コクリと一つ頷いた。
人も疎らな図書館は静かで、少し音を立てただけでも睨まれる。
だから名前たち四人は、奥の隅っこ、日当たりの良い窓際を選び、各々勉強や読書に勤しんだ。
禁じられた森であった事を見た日以来、ハリーたちは前以上に名前によく話し掛けるようになった。当然一緒にいる時間も、ぐんと増えた。
そして三人は、クィレルにも異様に優しい。
名前はハリー達には何も言っていないし何も聞いていない。
けれどその様子から、ハリーがクィレルとスネイプの話を聞いていたであろうことは、容易に察することができた。
そしてそのことはハリーから、ハーマイオニーとロンの二人にも話したのだろう。
「こんなのとっても覚えきれないよ。」
ロンは机に倒れ込んで脱力した。
音を立ててペンが転がり、机には少量のインクが飛び散る。
名前は横目でちらりとその光景を見て、転がるペンをペン立てに戻し、飛び散ったインクを素早く拭き取った。
更に今にも引っ掛けて溢してしまいそうなインクに蓋をして、そっと遠くにやった。
ロンは全く気付かない。
浜辺にうちつけられたクラゲのように伸びきっている。
正面に座るハーマイオニーだけが名前の行動に気が付いて、呆れたような、責めるような目付きで此方を見据えていた。
その目は明瞭に「甘やかすな」と名前に語り掛けていた。
『……。』
そっと目を逸らし、本を閉じて席を立った。
じっとりと刺さる視線から逃れるため、そして別の本を探しに行くためだ。
ハーマイオニーは「やれやれ」と言いたげに首を横に振り、呆れたように溜め息を吐いた。
「ハグリッド!図書館で何をしてるんだい?」
「いや、ちーっと見てるだけ。」
背後から突然会話が聞こえて、名前は顔だけ後ろを向いた。
本棚と本棚の間にぬりかべのような、今まで見たこともない大男が立っている。
もしゃもしゃと広がる髪の毛と、グローブのように大きな手が極めて目立つ。
名前はハグリッドを知らない。
しかしハリーたちの会話の中で、ハグリッドの名は何度か聞いたし、彼がどのような人物か話も聞いていた。
『……。』
爪先から天辺までハグリッドの後ろ姿を見つめる。
そうして名前はふむふむと頷いた。
なるほど、話に聞いていた通りの人物だ。
ハグリッドは後ろ手に分厚い本を何冊か手に持っていた。
ハグリッドの手はとても大きいので、持っているものが手帳ではなくて分厚い本だと分かるまでに、少々時間が必要だった。
本の存在を、何だかハリー達から気付かれないようにしているみたいだ。
その様子を見て何となく好奇心をそそられたのか、名前は目を細めて本の表紙の文字を読んだ。
本の表紙には『趣味と実益を兼ねたドラゴンの育て方』と書いてある。
見てから、名前は興味が失せたようにスッと目をそらした。
本を探しに奥へ入っていく。
「おまえさんたちは何をしてるんだ?
まさか、ニコラス・フラメルをまだ探しとるんじゃないだろうね。」
「そんなのもうとっくの昔に分かったさ。
それだけじゃない。あの犬が何を守っているかも知ってるよ。賢者のい」
「シーッ!…」
盛り上がる会話を背後に聞きながら、名前は本棚の列をいくつも通り過ぎた。
話に興味を抱かないのか、それとも知りもしない話を盗み聞きしては悪いと思ったのか。
声なんてとっくに届かないのに名前は四人から大分離れた本棚までやって来て、そうしてようやく足を止めた。
『……。』
あるいは、そこが目当ての本棚だったのかもしれない。
本棚の角を曲がって、並べられた本をぐるりと見渡す。
ぴたりと視線を止めて近付き、一冊の本を抜き出した。
分厚く、重たそうな、ハードカバーの本だ。
パラパラとページをめくり、目的の言葉を探す。
手を止めて、指で文字をなぞる。
【賢者の石】
ポケットから紙切れを引っ張り出す。
折り畳まれた紙切れを開き、本に書かれた内容と、紙切れに書かれた内容を見比べた。
そして、名前は一人頷く。
本を閉じて、元の位置に戻した。
紙切れを折り畳み、ポケットにしまう。
やや首を傾げながら、本と本との隙間を見つめた。
『(……マグル界で得た知識と同じ……
賢者の石……
……物をお金に変えたり、病気を治したり、……
……不老不死になる、石……。)』
ポケットの上から紙切れを触って存在を確かめる。
もしこれを落として、スネイプかクィレルが拾いでもしたら。
落とし主など、魔法があるこの世界なら一発でわかるだろう。
名前は青ざめた。
寮に戻ったら誰もいない時を見計らって暖炉で燃やしてしまおう。
……と、名前は強く決心した。
『(スネイプ先生か、クィレル先生は、……お金がほしい、……
もしくは、病気を治したい……
それとも、不老不死になりたい……のか。)』
本当にそうだろうか。
名前は首を傾げる。
どれも二人のイメージにあてはまらない気がする。
それとも、実は病気を患っていたりするのだろうか。
他人は自分ではない。
いくら想像したところで、思考や思惑など分からない。
『(どちらに、忠誠を……)』
そのとき名前に電流が走る。
よくよく思い返してみると、二人にはそれぞれ忠誠を誓う人がいるのだ。
もしかしたら賢者の石は自分の為に使うのではなくて、その忠誠を誓う人に捧げるものなのかもしれない。
『(でも……わざわざ学校に移動して置いている。ダンブルドア校長先生が、賢者の石を狙う……なんてことは、ないと思う……あるんだから。……すぐ近くに……。
すぐ近くに置いておかなきゃいけない理由は……狙われる……誰に………
俺がクィレル先生に見られている、らしい…理由は、……分からない……
……ハリーの箒に呪いをかけた、スネイプ先生……
クィレル先生には近付いちゃいけない……
……………ハリーは…危険な目に合った……
……賢者の石、不老不死…………
ダンブルドア校長先生が近くに……。)』
ハリーが狙われた。
賢者の石が狙われた。
今年、ハリーが入学した。
今年、賢者の石がホグワーツに移動した。
ハリーと賢者の石。
あまりのも妙なタイミングだ。
きっと関係はあるはず、名前はそう考える。
ハリーと賢者の石を繋ぐ、何かしらの共通点が。
『(お金がほしいのか、病気を治したいのか、不老不死になりたいのか……分からない…でも……
……ハリーと関係があるなら……
何か特徴的な……特筆する、際立つ事……何か───……)』
ヴォルデモート。
脳裏に浮かんだのはその名前だった。
赤ん坊だったハリーが闇の帝王ヴォルデモートを撃退した事で、魔法界でハリーは英雄として十年以上経った今でも賞賛されている。
ハリー本人がどのような人物かは知らなくても、その事実を知る者は大勢いるのだ。
狙われているのは賢者の石とハリー。
果たして、ヴォルデモートは本当に消滅したのだろうか?
かつてヴォルデモートを崇拝した従者達が、ハリーに復讐しないと言い切れるだろうか?
もしもヴォルデモートが命からがら逃げ延びて、かつての従者達と再び巡り合っていたら?
ハリーを再び殺そうと狙っていたなら。
賢者の石を使い、不老不死になり、二度と死ぬことはない体になって、ハリーを狙っていたなら。
『…………。』
ぶるぶると頭を振る。
考えすぎだ、と言い聞かせる。
しかし、一度思い描いた想像はなかなか頭から離れない。
さっと踵を返した。
このコーナーにはいたくなかった。
早足で歩く。
もしヴォルデモートがハリーを狙っていたら。
もしクィレルかスネイプが、それに加担していたら。
クィレルかスネイプが、ハリーを殺そうとしていたら。
どれも嫌な想像だ。
けれど一度思考が深みにはまると、ズブズブと沈んで不安のぬかるみから抜け出せなくなる。
ぎゅう、と一回、強く目を閉じて、足早に図書館の出口を目指す。
名前は走り出したかった。
早く賑やかな談話室に戻って、いつも通りゆったりとしたかった。
「あ……み、Mr.ミョウジ?」
『……。』
突如壁にぶつかり、一瞬視界が真っ暗になった。
真っ直ぐ前を見て歩いていたつもりが注意力散漫になっていたらしい。
慌てて離れてみると、壁だと思ったのはクィレルの背中だった。
驚いた顔をして名前を見ていた。
名前の全身に一瞬だけ緊張が走る。
けれど脳が悟られまいとしてか、すぐに身体の力を抜こうとした。
『ごめんなさい……。』
「いえ、私は、だ、大丈夫ですので。
ど、どうしたのですか?ずいぶん、い、いそ、急いでいる、ようでしたが。」
『…………。』
素直に話すわけにもいかなくて、名前は黙り込む。
しかし長く黙り込んで重苦しい空気を作るわけにはいかない。
俯いて爪先辺りを見つめ、ゆるりと首を左右に振った。
「特に理由は……な、ないと。」
『……。』
「そうですか。……」
顔には微笑みを浮かべているが明らかに納得していない様子だ。
軽く他愛もない話をするだとか、会釈でもしてこの場を抜け出せたら良いのだが、今この時名前にその発想は無くて、それに何だかクィレルも簡単には逃がしてくれない雰囲気があった。
クィレル何か言いたげに、落ち着かなさそうに此方を見ては目をそらしたり、体をもぞもぞさせていた。
「禁じられた森」で盗み聞いた会話と、自分で導き出したストーリーが、名前の頭の中でグルグルと巡る。
ただここでそれらの事を匂わせるような発言は絶対に良くないと理解している。
だから名前は静かに息を吐き、じっとクィレルの顔を見つめた。
『先生は、本を借りに……』
「あ……え、ええ。」
『……先生も、図書館を利用するのですね。』
「そ、そうですね……教師という立場ですが、す、すべてを把握しているわけではないですし、……調べたいときもありますし、度忘れする、な、なんてことも、ありますからね。……」
名前の気持ちを和らげようと、クィレルは笑みを深くさせた。
けれどもその笑顔は無理矢理に作ったかのようで、頬が小刻みにぴくぴくと痙攣していた。
笑顔を向けられても、その笑顔が明らかに作り笑いだとしても、名前の無表情は変わらない。
ただ生真面目に頷き返した。
「前々から、お、思っていたことがあるのですが……聞いてもよろしいでしょうか?」
『……はい。』
「何故ミョウジ君は、私の名前は呼ばないのでしょうか?」
『……呼んでいませんでしたか。』
「はい。い、一度も。」
『……。』
「ほ、他の先生方の名前は呼んでいるようなので、す、少し気になってしまって……。」
名前はクィレルの目をじっと見た。
それからそっと目を逸らし、どこか遠くを見つめる。
その様子を見てクィレルは何か大層な事情でもあるのだろうかと思ったらしい。
作り笑いを引っ込めて真剣な表情を浮かべ、静かに名前の言葉を待った。
『その、俺は……───悪いので。』
「す、すみません。何ですって?」
『……滑舌が、……悪いのです。』
「…………」
あっという間にクィレルの真剣な表情は崩れ去った。
口をポカンと開けて、見開いた目で名前を見詰めている。
何と言えば良いのか言葉が見つからないようだ。
クィレルは黙っている。
それとも衝撃的な発言のあまり思考が停止してしまっているのかもしれない。
沈黙に耐えきれず、名前は俯いて自分の靴を見下ろす。
そうしてようやく再起動されたのか、クィレルは持っていた本を抱え直して口を開いた。。
「か……滑舌?」
『……はい。』
「ど、どの辺りが悪いのですか?今聞いている範囲では……何もも、問題無いようですが。」
『先生の、名前です。』
「名前……クィレル、ですか?」
『はい。ク……クレル……に、なってしまうのです。』
恥ずかしそうに背中を丸めて、名前は俯いたまま小さな声でそう言った。
でもクィレルの方はあまり気にしていないようだ。
合点がいったように深く頷いている。
「そ、そうでしたか……。わた、私の名前だけ呼ばれたことが、な、ないので……てっきり、き、嫌われているものだと。」
『そんなことはないです。』
「その言葉を聞いて、あ、安心しましたよ……はは、は。」
『……。』
「き、君は、そつがなくて、な、なんでもこなせる生徒だと思っていたので、正直、い、意外です。し、しかし……滑舌がわ、悪いというのは、少し問題ですね。じ、呪文はしっかり唱える事も、だ、だ、大事ですから……。」
『はい……。』
いくらクィレルが怪しくても、それはもっともな意見だ。
名前は素直に言葉を飲み込み、自分の滑舌の悪さが致命的だと改めて理解した。
早く出来る限りの対処した方が良さそうだ。
しかし、一人で改善が出来るだろうか?
それとも誰かに協力してもらうべきだろうか?
滑舌と声の通りの良さといえばハーマイオニーだ。
けれどハーマイオニーは色々やる事があるだろう……。
目の前にクィレルがいるというのに、名前はそっちのけで考え込んでいる。
「ミョウジ君。」
名前を呼ばれて名前は自分の世界から現実世界へと意識が戻った。
クィレルを見てみると微かに笑みを浮かべている。
作り笑いだと一目見て分かる。
口元がひくひくと痙攣していた。
『はい。』
「ご、午後は授業の予定はありますか?」
『……いいえ。……』
「わ、私も、午後は授業がないんです。よかったら……れん、練習、しませんか?」
『練習というのは……』
「滑舌の。ほ、他に予定が、あ、あるのなら、無理にとは言いません。」
『……。』
クィレルに対して不信感を抱いている今、出来ることなら断りたい提案だ。
しかし教師であるクィレルがわざわざ時間を割いて滑舌の指導をしてくれると言うのなら、それを断る理由が無い。
名前には何かうまい言い訳や、予定をでっち上げることが出来るような器用さもない。
『とても有り難いです。でも、俺一人の為に時間を割いていただくのは、申し訳ないです……。ご迷惑になりませんか。』
「め、迷惑だなんて。そんなことはありません。た、正しい滑舌を取り戻す、こ、ことは、呪文の正確さにもか、関係しますから、君にその意欲があるのなら、わ、私はいち教師として手助けしたいのです。」
『………………
あの、それでは、よろしくお願いいたします。』
「分かりました。で、では、私の教室に行きましょう。ここで、や、やるわけには、いきませんからね。」
『……。』
一体何をやっているのか。
断る理由が思い付かず、黙ったまま時が過ぎていくことにも耐え切れず、名前はクィレルの提案を受け入れてしまった。
不信感と警戒心を抱いていながら、今や二人仲良く並んで廊下を歩いている。
意外な取り合わせなのか、何人かの生徒は物珍しそうな目で二人を見てきた。
何かにおびえているかのように、クィレルはおどおどと忙しなく周囲に目を配っており、明らかに挙動不審だ。
一体何に怯えているのだろう。
対立しているスネイプに出会すことを警戒しているのだろうか?
もしそうだとしたら、一緒にいる名前もスネイプに目の敵にされるのではないだろうか。
そう思うと背筋が冷える。
一気に身体が緊張で縮こまり、名前は背中を丸めて廊下を歩いた。
「ミョウジ君、そこに腰掛けて結構ですよ。」
『……。』
連れてこられたのはいつもの教室を通り過ぎた奥の部屋だった。
日当たりが良くて明るい教室とは違い、この部屋は薄暗くて冷えた空気が漂っている。
あまりジロジロと見ては良くないので、名前は素早く周囲を見回した。
ベッドや机、私服がかけられたクローゼットがあるあたり、ここはクィレルの私室なのだろう。
足の低い大きなテーブルと、それを取り囲むように配置されたソファー。
両方ともしっかりとした作りで高価そうに見える。
名前は棒立ちだった。
動いたら絶対何か傷付けると思った。
「ミョウジ君。ど、どうしたのですか?さ、さあ。ここに座ってください。今お茶を出しますから。あ、甘いものはお好きですか?」
『……。』
名前は右を見たり左を見たり、手を意味もなくわたわたさせたりして落ち着きがなく、挙動不審だ。
こんなふうにもてなされるとは思っていなかったのだろう。
「自分なんかにお茶出さなくていいのに!」という心境らしい。
口に出していないので、伝わるわけがないのだが。
クィレルもどうしたらいいのか分からない様子で、困った表情を浮かべてしどろもどろだった。
けれどこの状況を変えようと、杖を一振りした。
紅茶とクッキーを出してローテーブルにそっと置く。
そうして再度ソファーに腰掛けるよう促した。
名前は諦めたのかしずしずとソファーへ近寄ってきた。
高価そうなソファーに、そっと座る。
思いの外沈み込んだから危うく引っくり返りそうになって、それでもどうにか踏ん張る。
ゆっくりと、クィレルも対面に腰掛けた。
クィレルに勧められ、湯気が立つ紅茶を一口飲む。
緊張で味も香りもよく分からない。
勧められるままにクッキーも食べた。
甘さも食感も分からない。
「そ……それでは、早速、は、始めましょうか。ええと……
では、今の状態を把握したいので、わ、私の名前を言ってみてもらえますか?」
最難関だ。
緊張でガチガチに身体が強張っていて、通常より更に舌が回らないこの状態で、良い結果は絶対に出ない。
だが逃げられないのだ。
逃げるタイミングを自分で断ち切ったから。
名前は紅茶のカップを、そっとソーサーに置く。
カップもソーサーも高価そうだった。
『……く、……クレル。』
「……クィレル、ですよ。」
『クイレル……』
「クイレルになってますが……」
『クイ……く、……キィ……く、キュレル……』
「(もはや別のものに……)
……クィディッチは言えますか?」
『クディッチ……』
「……」
『……くい……く……きでぃっち……』
「…………」
『……きゅでぃっち……』
「…………
……練習が必要なようですね。」
『…………』
クィレルによる滑舌講座は、とっぷり日が暮れて、晩御飯にありつくまで続いた。
クィレルは驚くほど熱心に指導を続けて、なんと二人で大広間に行く間も練習が続いたのだ。
練習をしながら二人で大広間に入ったとき、ハリー達からは生暖かい眼差しで見つめられ、教員席に座っていたスネイプからは、これまでにない鋭い目で睨まれた。
生まれて初めて、名前は視線で殺されると思った。
なるべく来賓席の方を見ないようにして席に着く。
興味津々の様子のロンが、すぐに顔を寄せてきた。
「ねえねえ、ナマエ。どうしてクィレルと一緒に来たんだい?君、何かやったの?」
『……。』
好奇心を隠そうともせず、ロンの瞳はキラキラと輝いている。
名前は少しだけその瞳を見つめて、それからゆるりと首を左右に振った。
ミルクの瓶を手に取り、慎重にゴブレットへ注ぐ。
そしてこれもまた慎重な手付きでミルクの瓶をテーブルに置く。
並々と盛られたサラダを空のお皿へ取り分けていく。
それから手を合わせて、いただきます、と小さく呟いた。
「じゃあ、なに?」
焦れた様子でハリーが身を乗り出した。
ハーマイオニーも気になるようで、パンをちぎりながらチラチラと名前を見ている。
皿の上のパンはもう粉々だった。
名前はレタスをパリパリと咀嚼する。
中々話さそうとしない。
フォークに一粒ずつグリーンピースを刺しながら、やっと口を開いた。
『滑舌の練習……。』
「……はあ?」
『く……くぃれる先生は、意外とスパルタ。……』
「ちゃんと発音できてる?」と言いたげに、名前は首を傾げた。
一体何の事やら、突然の話に三人はついていけていない。
ぽかんとした顔で名前を見つめ、それから互いに顔を見合わせた。
その後しばらくして、初めに話を切り出したのはハーマイオニーだった。
クィレルと滑舌と名前に何の関係があるのか、根掘り葉掘り聞き出したのだ。
内容が内容なだけに名前の声は普段よりも小さくて聞き取りづらかったが、三人は根気よく耳を傾けた。
そして最終的に皆は笑いを堪えるのに必死になった。
名前本人の手前、これは笑い話でもないし、笑ってはいけないと態度を装ってはいるが、皆の口角が不自然な動きを見せている。
「ナマエ、悩み事があるなんて知らなかったわ。言ってくれたのなら、私はいつだって力になったのに。」
「そうだよ、ナマエ。クィレルとだけじゃなくて、これからは僕らも力になるよ。きっと、その方が早く上達するよ。」
「良い考えだな、ハリー。ナマエ、初日の練習の成果はあったのかい?クィディッチって言ってみてよ。」
『……いやだ。』
「クィレルは?」
『やだ。』
含み笑いをするロンとハリーから目をそらし、名前はそっぽを向いた。
皆はついに吹き出して、大きな笑い声をあげた。