ユーリス篇
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聖堂に響き渡る美しく澄んだ歌声。誰もがそれに聞き惚れ、感嘆のため息を漏らした。
本来であれば複数人で歌うはずの賛美歌を孤独に歌う少女は固く手を合わせ、目を閉じたままでいる。
この歌声が人の心を掴み、大金を集めていた。寂れていた町には人が溢れ、宿は泊まり客で埋まり賑わいを見せる。話題にするのは天上の歌声を持つという少女のことばかり。生まれた瞬間に嵐が過ぎ去ったという逸話を持つ少女を、町の人間は聖女と呼んだ。
歌が終われば、今度は悩み多きもの達が聖女の助言を求め列を成す。祭り上げられた少女はどこか遠くを見て、俯き、それでもなお前を見据えていた。それが痛々しくて、見ていられなかった。
「評判になってるぜ。『慈しみの丘』に『天上の歌声』ありってな」
近頃姿を見せなくなっていたユーリスは前触れもなく突如現れると、そんなことを言い出した。久しぶりに会ったというのに、触れられたくない話題を振られてため息をつきたくなるのを堪えて頷く。
「…………そうみたいね」
「なんだ、嬉しくなさそうだな」
「誇るべきことではないでしょう。女神様のための賛美歌を利用しているようなものだもの。……今更やめるわけにもいかないのだけど」
寄進の額が上がるにつれて、預かる子どもの数が増えている。どんな人間も見放さないという教会の噂を聞きつけ、炊き出しに並ぶために他所の地域からも人が集まってきている。今やめて前の状態に戻れば、その人たちがどうなるか。そっと息をついた私に、ユーリスは事も無げに口を開く。
「なあ、連れ去ってやろうか」
一瞬、呼吸が止まった。簡単に言ってくれるが、そんな事が出来るはずがない。心が揺らいだとしても、ここまで来た以上、私に辞める選択肢はないのだ。
「………いいえ。今寄進が途絶えれば、何もかも立ち行かなくなる。私が始めたことを、投げ出す訳には行かないわ」
「……望んで始めたことじゃねえだろ」
いつ頃からか声変わりしたユーリスの声が更に低まる。望んではいなかったけれど、都合が良かったのは確かだ。けれど、いつの間にか後戻りすらできない所まで流されていた。もう逃げられない。
「いつも心配してくれてありがとう、ユーリス。だけど、私は大丈夫よ」
「お前の大丈夫は当てになんねえんだよ……いいか、何か困ったことになったら、必ず俺を頼れ。いいな、レイラ」
「……ユーリス」
半ば呆然としながら、彼の名を呟く。どうして、そんな事を言ってくれるのだろう。私が大丈夫と言えば、皆それを信じて安心して笑ってくれるのに。
「誰も彼もがお前を勝手に祭り上げてやがる。高くなりすぎて降りられないってんなら、俺が手を引いてやるよ」
ユーリスはそう言って不敵に笑うと、私の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜてきた。何か言いたくて、でも何を言えばいいのかも分からない。乱れた髪をそのままにして、見つからない言葉を探して俯く。
「……レイラ?」
行商の付き添いで来ているという、年の近い男の子。本当は何者で、何をしているのかも分からないし、聞いたこともない。私は彼のことを何も知らないのだ。それなのに。
「…………ユーリスは、変わってるわ。私の歌が評判になって、皆、喜んでいる。私のことを褒め称える。これでいいのだと、誰もが思っているのに」
「変わってる、ねえ。俺は町の人間じゃねえからよ、妹分が困ってんなら、見過ごせねえってだけだ」
「……」
「一人で全部どうにかしようと思うな。お前には、俺がついてるんだからよ」
掻き回した髪を、今度は整えるように梳いてていく。顔を上げるとユーリスは優しく微笑んでいた。もし兄がいたら、こんな感じなのだろうか。それなら、どうしてこんなに心臓が騒ぐのだろう。どうしてこんなに、切なくなるのだろう。大丈夫と、何度も何度も自分に言い聞かせてきた。それなのに、全てを投げ出してその手に縋り着いてしまいそうになる。そんなこと、今更私に許されるはずがないのに。
商人は多額の寄進をすると、教会の運営にあれこれ口を出すようになった。教会の修繕や増築を勧め、身寄りのない孤児や貧しいもの連れてきては慈悲を求め、そして、ある日突然寄進を打ち切った。
商人の寄進額は全体の半分程で、養う人数が増え、工事費用を工面出来なくなった教会には大きな痛手となった。
司祭様は頭を抱え、どうしたらいい、どうすればいい、と縋り着いた。私を育ててくれた、親代わりの人。沢山のことを教えてくれた。読み書きも、算術も、信仰も。他の子達とは少し違う私を、他の子と同じように扱ってくれていたはずだった。それなのに、いつから、どうして、こうなってしまったのだろう。
やがて商人は私に、何度目かの結婚を申し込んだ。承諾すれば、大金が手に入る。それはとても、簡単な話だった。
同年代の子供よりも遥かに早い段階から言葉を話し、読み書きを覚え、大人たちが抱える様々な問題事に口を出してはそれを解決に導いた。私にとってそれは普通のことだったけれど、周りから見ればそれは異常なことのようで、私を特別視する声に拍車がかかっていった。
日毎に寄せられる期待が大きくなっていく。一度くらい失敗をしておけばよかったのかもしれないが、運よく成功を重ね続け、寂れた港町に活気を取り戻した。人は私を聖女と崇め、歌声はまるで天上に響くように美しいと褒め称えた。けれど何事も、いつまでもうまく生き続けるなんてありえなかったのだ。代償を支払うときがやってきてしまった。
商人を教会に呼びつけて結婚を承諾した時、何故かユーリスの顔が頭をよぎった。私が望むなら、どこへでも連れて行ってくれると彼は言ってくれたけれど。窓の外から不安そうな顔で応接室を覗き込む子供たち。皆を置いていくことはできない。安心させるように微笑むけれど、どうしてだろう、いつものように笑ってくれない。心配しなくても、これでお金は手に入る。まだまだ仕上げは残っているけれど、当面はこれで大丈夫なはずだ。
満足げな商人を見送って、その足でいつもの場所へと向かった。森を抜けて、海を眺める。ユーリスと初めて会ったのも、ここだった。忙しくなるから暫くは顔を出せないという言葉の通り、随分長い間顔を見ていない。けれどそれで良かったのだろう。覚悟を決めてからでないと、顔を見た時に何を口走るか分かったものではない。何を言っても手遅れになるくらいに、何もかも終わらせてしまいたかった。
後ろから風が通り抜けて、振り返るがそこには誰もいない。誰も、いなかった。
久しぶりにいつもの場所に現れたユーリスは、いつになく真剣な顔をしていて、ああ、怒っているんだな、と思った。歩いてくるユーリスをぼんやりと眺めていると、彼は眉を吊り上げて、じっと私を見据えた。
「結婚するって、本気か?」
挨拶もなしに問われる。最初に会った時と同じだ。また、町の人達から聞いてきたらしい。どうせなら、式が終わるまで来なければ良かったのに。そうすれば、何も知られずに済んだ。
「本気よ」
目を逸らさずに伝えると、彼は綺麗な顔を歪めた。
「この、馬鹿が……」
呻くような罵倒にいつもの覇気がない。困ったことになったら、頼れと言ってくれた、唯一の人。私が望めば、きっと、言葉通り連れ出してくれたのだろう。それなのに相談もせずに決めたことを、怒っているだろうか。でも、私にはいつ来るか分からないユーリスを待つ時間は残されていなかったし、選択肢だって、もう、存在してなかった。
「うん、そうかもね。でも、決めたの。全部、終わりにするって」
きっと私は、間違えたのだ。それがいつからなのか分からないけれど、間違えてしまった。愚かな私は、それに気付かず間違い続けて、後戻り出来なくなってようやくそれを知った。
「……終わり、だと?」
「結婚を承諾したら、気前よく大金をくれたのよ。だからね、もう、死んでやろうかと思って」
縋りつく司祭、不安そうな顔をして纒わり付く町の人々、遠くから子どもを捨てにやってくる親、配給が減ったと喚き散らす浮浪者、ろくに寄進もせず賞賛だけして満足して帰る富裕層の人間、教会の運営方針に問題があるのだと言って手を貸そうともしない西方教会。もう、うんざりだ。何もかも。
「―――は?…………それは、一体何の冗談だ?」
訝しむユーリス。どうして今更やって来たのだろう。もう少し早く来てくれていたら、何か変わっただろうか。覚悟を決める前だったら、ここから逃げ出そうと思えただろうか。そうして子ども達を捨てて逃げたという罪悪感に苛まれて生きていくのか?逃げるも死ぬも、結局は同じことだけど、死ねば罪悪感すら覚えずに済む。
何も答えずにただ彼を見つめていると、ユーリスは顔を強ばらせた。
「……端に寄りすぎだ。危ねえからこっち来い」
後ろには崖がある。あと数歩下がれば海に落ちていくだろう。
「ここで身投げなんてしないわ。まだ、やることがあるんだから」
「いいから、早く」
硬い声で急かされて、言われるままに前へと足を踏み出す。近づく度に、目線の高さが少しずつずれていき、目の前に来た時には見上げなくてはならなくなった。出会った頃はまだ背の高さに開きは無かったはずなのに、この数年で随分引き離された。
いつだったか、町の人達に、お似合いだと言われたことがある。その時は深く考えはしなかったが、今思えばとても残酷なことを言われたのだと分かる。自覚していない時に言われた言葉が、今の私をズタズタに切り裂く。あの時、私は、確かに嬉しかったのだ。本当に、嬉しかった。
「……好きでもない男に嫁ぐなんて、死んでもごめんだわ。でも、結婚しないと、お金が足りない。なら、求婚を受け入れて、金を受け取って、式の前に死んでしまえばいい。―――簡単な話よね」
「おい、よせ、早まるな」
「式の最中に、花嫁が自ら命を絶つ。悲惨でしょう。そうしたらきっと、皆、目を覚ましてくれると思うの。好き勝手やってきた商人の鼻を明かすことも出来る。それで、終わりにするわ。全て、何もかも」
どうしてこんな事まで話してしまうのだろう。私の話を聞いてくれた人、泣いてもいいと言ってくれた人、頼れと言ってくれた人。言わないまま全て終わらせれば良かったのに。どうせユーリスにもどうすることだってできないのだから。
「―――なんで、こんなになるまで、助けを求めなかった!」
ユーリスが叫ぶ。こんなって、何。それ程見るに堪えないということなのだろうか。
「助け?」
助けて。たくさん、言われてきた。助けてくれ、助けてください、助けて。聖女様、女神様が遣わした聖なる乙女。どうか、助けてください。
ああ、もう、うんざり。
「誰が、どうやって、私の事を助けてくれるというの?ユーリスは知っている?私にはね、全然、全く、どれだけ考えてみても、思い当たらなかったわ。誰も思い浮かばなかった。だってみんな、私を聖女と呼ぶの」
嵐が鎮まった瞬間に、偶然産声を上げてしまった私を、皆が特別だと言った。
「皆は聖女に助けを求めても、皆は聖女のこと、助けてはくれないみたい。あなたなら大丈夫、あなたは特別な存在だから、あなたのおかげで町も教会も救われる、あなたがいてくれて良かった、結婚してもどうか私たちを変わらずお導きください。ですって」
皆、私が犠牲になるのは当然とでも言うかのように、求婚された段階なのに祝福の言葉を述べた。いつまでも首を縦に振らないでいると、何か他に考えがあるのだと言い出した。打開策が見つけられずに状況が悪化していくと、心底訳が分からないという顔をして、どうして何もしないのかと聞いてきた。
「……どうせ、何もかも、私が始めてしまったことよ。それなら、もういっそ、この手で全て終わらせる。助けなんていらない、救いなんて必要ない。もう、決めたのよ」
聖女だなどと呼ばれておいて、その実、私は無力な小娘でしかなかった。自分でももう何を言っているのかよく分からない。もうずっと前から疲れているのだ。頭がぼんやりして、何をするのも億劫で、こんな無様な姿をこの人にだけは見せたくなかったのに、どうして今更ここに来てしまうの。呆然とした顔で私を見るユーリス。そんな目で私を見ないで欲しいのに。
「落ち着け、自棄になるな」
「…………もう、駄目なのよ。司祭様は、止めてもくれなかった。これで皆救われる、これでもっと沢山の人を救済できるって―――いとも容易く私を売り飛ばした!いつから、ああなってしまったの?私が、今まで、歌ってきたのは―――子供たちを飢えさせない為よ!それなのにこれ以上誰を救うっていうの?そのお金は、私を犠牲にして得るものじゃない!私が結婚を決めたのは、このままだとまた子どもが死ぬからよ!それなのにまだ現実が分からないというのなら、もういっそ死んでやる。聖女なんてどこにもいない。私は、ただの無力な孤児でしかなかった!自分を犠牲にしてまで他人に尽くす聖人になんてなれやしなかった!」
聖女なんて、最初からどこにもいない。いないのに、私はその役を演じてきてしまった。その方が都合がいいから。その末路がこれだなんて、私はどれ程愚かなのだろう。
「―――レイラ」
私の名を呼ぶユーリスは、引き留めるかのようにこちらへ手を伸ばしかける。何もかも投げ出して、その手を取ってしまえばよかったのだろうか。でもそんなの、もう遅すぎる。私はそれを選べない。だって私には守らなくてはならない家族が、妹が、弟が、たくさん、たくさんいるのだ。
「……司祭様は、弱者の救済に夢中で、何も見えなくなってしまった。夢を見させたのが私なら、私があの人の目を覚まさせる」
「待て、早まるな。まだ方法はある。俺なら、お前を逃がしてやれる。だから」
「……私は、逃げない。あの人に歪んだ夢を見させたまま、子供たちを置いて逃げることはできない」
「考え直せ!それでいいわけねえだろ!」
「これでいいのよ!もう、何もかもうんざり!私は私の責任を果たして死んでいく!誰にも文句は言わせない!」
自分で考えて自分で決めた。そうするしかなかったから。誰も私の話など聞かない。私が皆の話を聞く聖女だから、私に求められるのは皆を救い導くことだけだったから、結婚なんてしたくないと言い出す孤児のレイラを、誰一人として必要としなかったから。だから、聖女なんて存在、永遠に葬ってやるのだ。
大声を上げたせいで、呼吸が乱れた。ユーリスがどんな顔をしているのか確かめたくなくて、下を向いたまま息を落ち着かせる。彼も私に幻滅しただろうか。結婚を渋る私に投げかけられた大人たちの物言いたげな視線を思い出して固く目を瞑った。
「……お前が諦めても、俺は諦めてやらねえ。必ずなんとかしてやるから、待ってろ」
頭に何かが乗って、髪をぐしゃぐしゃに掻き乱す。目を開くとユーリスがこちらに手を伸ばしていた。今更、何ができるというのだろう。何もできるはずない。そう思うのに、涙が次から次へと溢れ出して地面に染み込んでいく。
「……あなた、やっぱり変わってるわ。こんなの、普通は誰もが手を引きたがるはずでしょう」
「あいにく、俺は普通じゃないみたいなんでな。お前が俺を頼らないっていうなら、仕方ねえ。勝手にさせてもらうぜ」
「…………本当に、変な人」
その後、教会に私の父を名乗る男が現れた。その人は帝国の外務卿で公爵だという。ユーリスが言っていた方法とは、このことなのだとすぐに分かった。それから、彼がこの町に来ていた理由も。
ユーリスは、はじめから私が公爵家の血筋だということを知っていたのだろう。ずっと、私の様子を報告していた。だからこんなにも迎えに来る動きが速かったのだ。
結局、彼がどこの誰で、一体何者なのか全く分からないまま時が過ぎた。あれ以来ユーリスが姿を見せることはなく、私は公爵家で金策に奔走する日々に追われた。全てが終わったら、今度は私から会いに行こう。話したいこと、伝えたいこと、たくさんあるのだ。全て終わったら、会いに行く。そう、決めていたのに。
何もかも、みんな、燃えてしまった。守りたかった子たち、守らなければいけなかった子たち。みんな、みんな、死んでしまった。
私が今までしてきたことには、何の意味もなかったのだ。
本来であれば複数人で歌うはずの賛美歌を孤独に歌う少女は固く手を合わせ、目を閉じたままでいる。
この歌声が人の心を掴み、大金を集めていた。寂れていた町には人が溢れ、宿は泊まり客で埋まり賑わいを見せる。話題にするのは天上の歌声を持つという少女のことばかり。生まれた瞬間に嵐が過ぎ去ったという逸話を持つ少女を、町の人間は聖女と呼んだ。
歌が終われば、今度は悩み多きもの達が聖女の助言を求め列を成す。祭り上げられた少女はどこか遠くを見て、俯き、それでもなお前を見据えていた。それが痛々しくて、見ていられなかった。
「評判になってるぜ。『慈しみの丘』に『天上の歌声』ありってな」
近頃姿を見せなくなっていたユーリスは前触れもなく突如現れると、そんなことを言い出した。久しぶりに会ったというのに、触れられたくない話題を振られてため息をつきたくなるのを堪えて頷く。
「…………そうみたいね」
「なんだ、嬉しくなさそうだな」
「誇るべきことではないでしょう。女神様のための賛美歌を利用しているようなものだもの。……今更やめるわけにもいかないのだけど」
寄進の額が上がるにつれて、預かる子どもの数が増えている。どんな人間も見放さないという教会の噂を聞きつけ、炊き出しに並ぶために他所の地域からも人が集まってきている。今やめて前の状態に戻れば、その人たちがどうなるか。そっと息をついた私に、ユーリスは事も無げに口を開く。
「なあ、連れ去ってやろうか」
一瞬、呼吸が止まった。簡単に言ってくれるが、そんな事が出来るはずがない。心が揺らいだとしても、ここまで来た以上、私に辞める選択肢はないのだ。
「………いいえ。今寄進が途絶えれば、何もかも立ち行かなくなる。私が始めたことを、投げ出す訳には行かないわ」
「……望んで始めたことじゃねえだろ」
いつ頃からか声変わりしたユーリスの声が更に低まる。望んではいなかったけれど、都合が良かったのは確かだ。けれど、いつの間にか後戻りすらできない所まで流されていた。もう逃げられない。
「いつも心配してくれてありがとう、ユーリス。だけど、私は大丈夫よ」
「お前の大丈夫は当てになんねえんだよ……いいか、何か困ったことになったら、必ず俺を頼れ。いいな、レイラ」
「……ユーリス」
半ば呆然としながら、彼の名を呟く。どうして、そんな事を言ってくれるのだろう。私が大丈夫と言えば、皆それを信じて安心して笑ってくれるのに。
「誰も彼もがお前を勝手に祭り上げてやがる。高くなりすぎて降りられないってんなら、俺が手を引いてやるよ」
ユーリスはそう言って不敵に笑うと、私の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜてきた。何か言いたくて、でも何を言えばいいのかも分からない。乱れた髪をそのままにして、見つからない言葉を探して俯く。
「……レイラ?」
行商の付き添いで来ているという、年の近い男の子。本当は何者で、何をしているのかも分からないし、聞いたこともない。私は彼のことを何も知らないのだ。それなのに。
「…………ユーリスは、変わってるわ。私の歌が評判になって、皆、喜んでいる。私のことを褒め称える。これでいいのだと、誰もが思っているのに」
「変わってる、ねえ。俺は町の人間じゃねえからよ、妹分が困ってんなら、見過ごせねえってだけだ」
「……」
「一人で全部どうにかしようと思うな。お前には、俺がついてるんだからよ」
掻き回した髪を、今度は整えるように梳いてていく。顔を上げるとユーリスは優しく微笑んでいた。もし兄がいたら、こんな感じなのだろうか。それなら、どうしてこんなに心臓が騒ぐのだろう。どうしてこんなに、切なくなるのだろう。大丈夫と、何度も何度も自分に言い聞かせてきた。それなのに、全てを投げ出してその手に縋り着いてしまいそうになる。そんなこと、今更私に許されるはずがないのに。
商人は多額の寄進をすると、教会の運営にあれこれ口を出すようになった。教会の修繕や増築を勧め、身寄りのない孤児や貧しいもの連れてきては慈悲を求め、そして、ある日突然寄進を打ち切った。
商人の寄進額は全体の半分程で、養う人数が増え、工事費用を工面出来なくなった教会には大きな痛手となった。
司祭様は頭を抱え、どうしたらいい、どうすればいい、と縋り着いた。私を育ててくれた、親代わりの人。沢山のことを教えてくれた。読み書きも、算術も、信仰も。他の子達とは少し違う私を、他の子と同じように扱ってくれていたはずだった。それなのに、いつから、どうして、こうなってしまったのだろう。
やがて商人は私に、何度目かの結婚を申し込んだ。承諾すれば、大金が手に入る。それはとても、簡単な話だった。
同年代の子供よりも遥かに早い段階から言葉を話し、読み書きを覚え、大人たちが抱える様々な問題事に口を出してはそれを解決に導いた。私にとってそれは普通のことだったけれど、周りから見ればそれは異常なことのようで、私を特別視する声に拍車がかかっていった。
日毎に寄せられる期待が大きくなっていく。一度くらい失敗をしておけばよかったのかもしれないが、運よく成功を重ね続け、寂れた港町に活気を取り戻した。人は私を聖女と崇め、歌声はまるで天上に響くように美しいと褒め称えた。けれど何事も、いつまでもうまく生き続けるなんてありえなかったのだ。代償を支払うときがやってきてしまった。
商人を教会に呼びつけて結婚を承諾した時、何故かユーリスの顔が頭をよぎった。私が望むなら、どこへでも連れて行ってくれると彼は言ってくれたけれど。窓の外から不安そうな顔で応接室を覗き込む子供たち。皆を置いていくことはできない。安心させるように微笑むけれど、どうしてだろう、いつものように笑ってくれない。心配しなくても、これでお金は手に入る。まだまだ仕上げは残っているけれど、当面はこれで大丈夫なはずだ。
満足げな商人を見送って、その足でいつもの場所へと向かった。森を抜けて、海を眺める。ユーリスと初めて会ったのも、ここだった。忙しくなるから暫くは顔を出せないという言葉の通り、随分長い間顔を見ていない。けれどそれで良かったのだろう。覚悟を決めてからでないと、顔を見た時に何を口走るか分かったものではない。何を言っても手遅れになるくらいに、何もかも終わらせてしまいたかった。
後ろから風が通り抜けて、振り返るがそこには誰もいない。誰も、いなかった。
久しぶりにいつもの場所に現れたユーリスは、いつになく真剣な顔をしていて、ああ、怒っているんだな、と思った。歩いてくるユーリスをぼんやりと眺めていると、彼は眉を吊り上げて、じっと私を見据えた。
「結婚するって、本気か?」
挨拶もなしに問われる。最初に会った時と同じだ。また、町の人達から聞いてきたらしい。どうせなら、式が終わるまで来なければ良かったのに。そうすれば、何も知られずに済んだ。
「本気よ」
目を逸らさずに伝えると、彼は綺麗な顔を歪めた。
「この、馬鹿が……」
呻くような罵倒にいつもの覇気がない。困ったことになったら、頼れと言ってくれた、唯一の人。私が望めば、きっと、言葉通り連れ出してくれたのだろう。それなのに相談もせずに決めたことを、怒っているだろうか。でも、私にはいつ来るか分からないユーリスを待つ時間は残されていなかったし、選択肢だって、もう、存在してなかった。
「うん、そうかもね。でも、決めたの。全部、終わりにするって」
きっと私は、間違えたのだ。それがいつからなのか分からないけれど、間違えてしまった。愚かな私は、それに気付かず間違い続けて、後戻り出来なくなってようやくそれを知った。
「……終わり、だと?」
「結婚を承諾したら、気前よく大金をくれたのよ。だからね、もう、死んでやろうかと思って」
縋りつく司祭、不安そうな顔をして纒わり付く町の人々、遠くから子どもを捨てにやってくる親、配給が減ったと喚き散らす浮浪者、ろくに寄進もせず賞賛だけして満足して帰る富裕層の人間、教会の運営方針に問題があるのだと言って手を貸そうともしない西方教会。もう、うんざりだ。何もかも。
「―――は?…………それは、一体何の冗談だ?」
訝しむユーリス。どうして今更やって来たのだろう。もう少し早く来てくれていたら、何か変わっただろうか。覚悟を決める前だったら、ここから逃げ出そうと思えただろうか。そうして子ども達を捨てて逃げたという罪悪感に苛まれて生きていくのか?逃げるも死ぬも、結局は同じことだけど、死ねば罪悪感すら覚えずに済む。
何も答えずにただ彼を見つめていると、ユーリスは顔を強ばらせた。
「……端に寄りすぎだ。危ねえからこっち来い」
後ろには崖がある。あと数歩下がれば海に落ちていくだろう。
「ここで身投げなんてしないわ。まだ、やることがあるんだから」
「いいから、早く」
硬い声で急かされて、言われるままに前へと足を踏み出す。近づく度に、目線の高さが少しずつずれていき、目の前に来た時には見上げなくてはならなくなった。出会った頃はまだ背の高さに開きは無かったはずなのに、この数年で随分引き離された。
いつだったか、町の人達に、お似合いだと言われたことがある。その時は深く考えはしなかったが、今思えばとても残酷なことを言われたのだと分かる。自覚していない時に言われた言葉が、今の私をズタズタに切り裂く。あの時、私は、確かに嬉しかったのだ。本当に、嬉しかった。
「……好きでもない男に嫁ぐなんて、死んでもごめんだわ。でも、結婚しないと、お金が足りない。なら、求婚を受け入れて、金を受け取って、式の前に死んでしまえばいい。―――簡単な話よね」
「おい、よせ、早まるな」
「式の最中に、花嫁が自ら命を絶つ。悲惨でしょう。そうしたらきっと、皆、目を覚ましてくれると思うの。好き勝手やってきた商人の鼻を明かすことも出来る。それで、終わりにするわ。全て、何もかも」
どうしてこんな事まで話してしまうのだろう。私の話を聞いてくれた人、泣いてもいいと言ってくれた人、頼れと言ってくれた人。言わないまま全て終わらせれば良かったのに。どうせユーリスにもどうすることだってできないのだから。
「―――なんで、こんなになるまで、助けを求めなかった!」
ユーリスが叫ぶ。こんなって、何。それ程見るに堪えないということなのだろうか。
「助け?」
助けて。たくさん、言われてきた。助けてくれ、助けてください、助けて。聖女様、女神様が遣わした聖なる乙女。どうか、助けてください。
ああ、もう、うんざり。
「誰が、どうやって、私の事を助けてくれるというの?ユーリスは知っている?私にはね、全然、全く、どれだけ考えてみても、思い当たらなかったわ。誰も思い浮かばなかった。だってみんな、私を聖女と呼ぶの」
嵐が鎮まった瞬間に、偶然産声を上げてしまった私を、皆が特別だと言った。
「皆は聖女に助けを求めても、皆は聖女のこと、助けてはくれないみたい。あなたなら大丈夫、あなたは特別な存在だから、あなたのおかげで町も教会も救われる、あなたがいてくれて良かった、結婚してもどうか私たちを変わらずお導きください。ですって」
皆、私が犠牲になるのは当然とでも言うかのように、求婚された段階なのに祝福の言葉を述べた。いつまでも首を縦に振らないでいると、何か他に考えがあるのだと言い出した。打開策が見つけられずに状況が悪化していくと、心底訳が分からないという顔をして、どうして何もしないのかと聞いてきた。
「……どうせ、何もかも、私が始めてしまったことよ。それなら、もういっそ、この手で全て終わらせる。助けなんていらない、救いなんて必要ない。もう、決めたのよ」
聖女だなどと呼ばれておいて、その実、私は無力な小娘でしかなかった。自分でももう何を言っているのかよく分からない。もうずっと前から疲れているのだ。頭がぼんやりして、何をするのも億劫で、こんな無様な姿をこの人にだけは見せたくなかったのに、どうして今更ここに来てしまうの。呆然とした顔で私を見るユーリス。そんな目で私を見ないで欲しいのに。
「落ち着け、自棄になるな」
「…………もう、駄目なのよ。司祭様は、止めてもくれなかった。これで皆救われる、これでもっと沢山の人を救済できるって―――いとも容易く私を売り飛ばした!いつから、ああなってしまったの?私が、今まで、歌ってきたのは―――子供たちを飢えさせない為よ!それなのにこれ以上誰を救うっていうの?そのお金は、私を犠牲にして得るものじゃない!私が結婚を決めたのは、このままだとまた子どもが死ぬからよ!それなのにまだ現実が分からないというのなら、もういっそ死んでやる。聖女なんてどこにもいない。私は、ただの無力な孤児でしかなかった!自分を犠牲にしてまで他人に尽くす聖人になんてなれやしなかった!」
聖女なんて、最初からどこにもいない。いないのに、私はその役を演じてきてしまった。その方が都合がいいから。その末路がこれだなんて、私はどれ程愚かなのだろう。
「―――レイラ」
私の名を呼ぶユーリスは、引き留めるかのようにこちらへ手を伸ばしかける。何もかも投げ出して、その手を取ってしまえばよかったのだろうか。でもそんなの、もう遅すぎる。私はそれを選べない。だって私には守らなくてはならない家族が、妹が、弟が、たくさん、たくさんいるのだ。
「……司祭様は、弱者の救済に夢中で、何も見えなくなってしまった。夢を見させたのが私なら、私があの人の目を覚まさせる」
「待て、早まるな。まだ方法はある。俺なら、お前を逃がしてやれる。だから」
「……私は、逃げない。あの人に歪んだ夢を見させたまま、子供たちを置いて逃げることはできない」
「考え直せ!それでいいわけねえだろ!」
「これでいいのよ!もう、何もかもうんざり!私は私の責任を果たして死んでいく!誰にも文句は言わせない!」
自分で考えて自分で決めた。そうするしかなかったから。誰も私の話など聞かない。私が皆の話を聞く聖女だから、私に求められるのは皆を救い導くことだけだったから、結婚なんてしたくないと言い出す孤児のレイラを、誰一人として必要としなかったから。だから、聖女なんて存在、永遠に葬ってやるのだ。
大声を上げたせいで、呼吸が乱れた。ユーリスがどんな顔をしているのか確かめたくなくて、下を向いたまま息を落ち着かせる。彼も私に幻滅しただろうか。結婚を渋る私に投げかけられた大人たちの物言いたげな視線を思い出して固く目を瞑った。
「……お前が諦めても、俺は諦めてやらねえ。必ずなんとかしてやるから、待ってろ」
頭に何かが乗って、髪をぐしゃぐしゃに掻き乱す。目を開くとユーリスがこちらに手を伸ばしていた。今更、何ができるというのだろう。何もできるはずない。そう思うのに、涙が次から次へと溢れ出して地面に染み込んでいく。
「……あなた、やっぱり変わってるわ。こんなの、普通は誰もが手を引きたがるはずでしょう」
「あいにく、俺は普通じゃないみたいなんでな。お前が俺を頼らないっていうなら、仕方ねえ。勝手にさせてもらうぜ」
「…………本当に、変な人」
その後、教会に私の父を名乗る男が現れた。その人は帝国の外務卿で公爵だという。ユーリスが言っていた方法とは、このことなのだとすぐに分かった。それから、彼がこの町に来ていた理由も。
ユーリスは、はじめから私が公爵家の血筋だということを知っていたのだろう。ずっと、私の様子を報告していた。だからこんなにも迎えに来る動きが速かったのだ。
結局、彼がどこの誰で、一体何者なのか全く分からないまま時が過ぎた。あれ以来ユーリスが姿を見せることはなく、私は公爵家で金策に奔走する日々に追われた。全てが終わったら、今度は私から会いに行こう。話したいこと、伝えたいこと、たくさんあるのだ。全て終わったら、会いに行く。そう、決めていたのに。
何もかも、みんな、燃えてしまった。守りたかった子たち、守らなければいけなかった子たち。みんな、みんな、死んでしまった。
私が今までしてきたことには、何の意味もなかったのだ。