ユーリス篇
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「あんたが噂の聖女様か?」
教会の近くの森を抜けた先には崖がある。そこから海を眺めていると、背後から声をかけられた。フードを目深に被っているから定かではないが、体格と声の調子から年の近い少年だという事は分かった。それにしても、町の人間でもないのにその呼び名を持ち出すだなんて、余所者になんて説明をしたのだろう。
「そんな大層なものになった覚えはないけれど、そう呼ばれることがあるのは確かだわ。あなたは?」
「名乗るほどのもんじゃない。なあ、あんた。随分特別扱いされてるみたいだが、どんな気分なんだ?」
「名乗らない割に踏み込んだ質問をするのね」
「そりゃ失礼したな。で、どうなんだ」
別に答える義理はなかった。それでもつい、口を開いてしまったのは、誰かに話を聞いてもらいたかったからかもしれない。いつもは、私が皆の話を聞いてばかりだったから。
「私は、皆が思うほど特別な人間ではない。他の人より少しだけ物覚えがよくて、知恵がまわるだけの、ただの人間でしかない。女神様が遣わした、なんて、あるはずがないわ」
町の人は皆、私を特別な存在のように扱う。けれど、私自身はただの人間でしかないことを、私はよく知っている。
少年は私がそんなことを言うとは思わなかったのか、少しの間黙り込んだ。
「……そんなこと言っていいのか?俺が今のこと吹聴してまわったら、町の連中、なんて言うだろうな」
「さあ、やってみたら」
「随分余裕だな。ま、余所者が何言ったって、今更あの信奉心は揺るがねえだろうな」
信奉心。皆、私を特別だと思い込んでいる。私が生まれた時に、嵐が静まったから。ただそれだけの偶然の産物。それは、幻のようなものなのでは、と、時折思うことがある。
「……そうね。でも、もしも、その内、みんなが、私が普通の人間だということに気づいて、女神様の遣いを騙る卑しい孤児だ、なんて罵り始めたとしたら、どうすればいいのかしら」
自分から言い出したことではない。気が付けばそういうことになっていた。胸の内に巣食っていたものを吐露すると、顔を見せない彼はどこか戸惑っているようだった。
「何でそこで弱気になるんだ。変なこといって悪かったよ」
変なことだろうか。それはいつか来るかもしれない、未来の話だ。石を投げられる日が来ないとも限らない。
「いいえ。これが噂の聖女様でがっかりしたかしら」
「……いや。聖女様も普通の人間だって分かって安心したさ。それにしても、いいのか?俺みたいな得体の知れない奴に話しちまってよ」
「得体が知れないからこそ、話せたのかもしれない。いい息抜きになったわ。ありがとう」
お礼を言うと少年は再び黙り込み、溜息をついた。そして、被っていたフードを脱いで顔を見せた。一体どういうつもりなのだろう。彼は少し気まずそうに乱れた髪を撫で付けた。
「ユーリス」
「?」
「俺の名前。行商の付き添いで来てる。休憩の合間でいいなら、これからも話聞いてやってもいいぜ」
深く関わりたくないから何も教えてくれないのだと思ったのに。しかも、あんな話をした後でそんなことを言うだなんて。驚いている私に、ユーリスからかうような笑みを浮かべた。
「おいおい、あんたの名前教えてもらわなきゃ、聖女サマって呼ぶしかねえんだが?」
「……レイラ。私は、レイラというの。その、本当にいいの?」
「こんなつもりじゃなかったが、ま、別に構いやしねえよ。じゃ、またな、レイラ」
そう言うとユーリスはそのまま背を向けて行ってしまった。思いもよらぬ出来事にそのままぼうっと立っていると、教会から鐘の音が聞こえてきて我に帰る。時間だ。私も行かなくてはならない。
町に下りてきた、聖女と呼ばれている少女に人々はすぐに群がっていった。彼女は困惑したように、居心地悪そうにしながら、来るのが遅れたことを詫びた。町民は気にする事はないと口々に言いながらも次々と困り事が投げかけられ、少女はそれらに一つ一つ頷いていく。
「おいおい、みんな、レイラが困るだろ」
見兼ねた一人が声を上げると、声がおさまるが、代わりに期待するような目を投げかけられた。彼女はそれらを一身に引き受け、しっかりと頷く。
「私にできることがあるのなら、遠慮せずに言って。身重の母を受け入れてくれた、この町の人たちには恩がある。恩には報いるわ」
まるで自らに言い聞かせているかのようだった。町民はそんなことには欠片も気づかず、満足そうに笑う。なんて素晴らしい子なのだろう、やはりこの子は特別なのだと褒めそやす。おだてあげているのでなく、心からそう思っているようだ。
レイラは、どこか迷子のような顔をしていた。たくさんの人に囲まれているのにどこまでも孤独に見える少女のことは、一体誰が助けてやるのだろうと、その光景を遠目に見ながらユーリスはため息をついた。
帝国貴族の使用人から依頼されたのは、主人がかつて手を付けたメイドと、その子どもの居場所を見つけ、その様子を定期的に報告することだった。メイドは子どもを産んだ際に亡くなり、子どもは教会で育てられることになった。要するに、町民から聖女などと呼ばれているあの少女には帝国貴族の血が流れている、ということだ。
本当は深入りするつもりはなかったのだが、聖女と呼ばれている割に辛気臭そうな面をしているものだから、つい話し相手になってしまった。
町民は大層な名称で彼女を表すが、話してみればなんてことの無い、歳の割には達観しているだけのただの子どもだ。傍から見れば重荷を背負わされているようにしか見えなかった。
泣きじゃくる幼子を抱き上げる、まだ大人には遠い華奢な体。着古したスカートの裾が揺れる。
―――だいじょうぶ、だいじょうぶ、なにもこわくないわ
優しく囁きながら、背を撫でる。その周りには小さい子供たちが集まり、羨ましそうに見上げながら裾にしがみついて、服に皺がよる。
―――だいじょうぶ、わたしがまもるから、だいじょうぶよ
その様子を、少し離れた所から司祭が穏やかに微笑んでいた。
「……姉さんだって、まだ子供なのに」
木陰の下に佇む少女は唇を噛み、悔しそうに呟いた。
その隣に座るユーリスは、レイラから目を離し、彼女より一つ年下だという少女・エリーを見上げて続きを待った。
「小さな子には頼れる人が必要なのは分かってる。けど、じゃあ姉さんは誰を頼れるっていうのよ。大人たちだって何かあればすぐ姉さんを頼ってくるのに。馬鹿みたい。気持ち悪い」
嫌悪感を隠そうともしない少女の言い分は分からなくもない。まだ幼さの残る少女を聖女だなんて呼び、賢人に尋ねるように相談事を持ちかける。しかもそれを当然のように思っている。
「……確かに、ちっと異常だよなあ」
「そうよ、異常よ。姉さんだって、まだ子どもなのに」
「あいつ、昔からああなのか」
「……ううん。昔は今より口数が少なくて、表情も変わらなかった。大人達に難しいこと聞かれても、淡々と解決して、少し、怖かった」
大人びた笑みを浮かべるレイラ。初めて会った時には、感情を全て忘れてしまったような顔をしていたことを思い出す。
「……私、ここに来たのは親が盗賊に殺されたからなの。毎日毎日、泣いてた。それを見て、姉さん、何を思ったんだろう。私をね、抱きしめてくれたの。抱きしめて、だいじょうぶって。わたしがまもるからって。そう言って、笑ったの。それから、少しずつ、今みたいな感じになっていった。だからきっと、私が姉さんにその役を押し付けたんだ」
エリーはその場にしゃがみこんで顔を伏せた。泣いているのかと思ったが、彼女は地面を睨みつけて拳を叩きつけた。
レイラが幼子を抱いたままこちらを窺っているので、何でもないと手を振る。それでも彼女は心配そうな顔をして蹲る少女を見つめたままでいた。
「……あいつは、そういう風には思わねえんじゃねえの」
「そんなの、知ってるわよ。だから、せめて私だけは、姉さんの支えになりたいの」
そう言うとエリーは立ち上がり、そのままレイラの元へ駆けて行った。
「その日は嵐で、海が大荒れでね。波も高くて、危うく町ごと飲み込まれそうなくらいだったそうよ。それが、私が生まれた瞬間に鎮まった。それ以来、町の皆は私のことを、女神様が遣わした何か特別な存在だと思って大事にしてくれるの」
「……それで、相談役みたいなことしてるってわけか」
「事実がどうあれ、皆良くしてくれている。食べ物も着るものも、余剰があれば分けてくれる。だから私にできることがあれば、なんでもするわ。知恵が必要なら、手が必要なら、支えが必要なら、できる限りで何とかする。身重の母を受け入れて、私を生かしてくれたのはここの人たちだから。受けた恩を返していくだけよ」
また同じ台詞だ。何度も何度も、自分に言い聞かせるように、同じことを繰り返しているのだと思うと妙に腹立たしい。
「お前は、本当にそれでいいのか?外の世界を見てみたいとは思わないのか」
そう尋ねるとレイラは心底驚いたように目を見開いた。そして顔を海の方へ向けると、目を細めて遠くを見つめた。
「……今は、その時じゃない。ここでやることは、まだたくさんある。だから、ユーリスが話してくれることだけで満足しておくわ」
行商に来ているという名目で会いに来ると、レイラは自分の話をするよりも町の外での話を聞きたがった。今はその時でないというのなら、いつになったらその時は来るのか。
「……そうかよ。なら、お前が外に出たいと思った時には俺を呼べよ。どこへでも連れて行ってやるからさ」
レイラは再びこちらを見て、心底不思議そうな顔で瞬きを繰り返した。依頼で様子を見ているだけの相手にこんなことを言うのは馬鹿げているだろうが、こんな所でいつまでも辛気臭い顔をして過ごすより遥かにマシだろう。
「いいの?」
「だからそう言ってるだろ。男に二言はねえよ。約束だ」
そう言うと、レイラはいつものような大人びた笑みではなく、年相応の子供のような顔をして、嬉しそうに笑ったのだった。
「ありがとう、ユーリス」
「私が本当に特別な存在だったのなら、助けられたのかしら」
教会で暮らしていた子供が、風邪を拗らせて亡くなったという。付きっきりで看病していたレイラの目元には隈が刻まれていた。いつもよりぼんやりとした調子で、乾いた声が波の音に吸い込まれるように消えていく。
「……だけど、お前はお前にできることを、精一杯やったんだろ」
「…………精一杯やっても、私にできることは限られてる。大事なものを、取りこぼしてしまう。皆が思ってる程、私に特別な力なんてない。悔しくてたまらないわ」
「……それでも、お前はよくやったよ」
「………………ありがとう」
今にも消え入りそうな声で呟いてレイラは俯いたが、その瞳から涙が零れることはなかった。
「今のうちに、泣いておけよ」
「ううん。泣かないわ。私が泣く訳にはいかないから。子供たち、不安がっているだろうから、戻って慰めないと」
「なら、誰がお前を慰めるんだ?」
「そんなもの、私には必要のないものよ。だって私が、1番上の姉さんなんだから」
まるで呪いみたいだ。生まれた時に偶然海が静まったから、人より優れているから、特別だから、姉だから。理由をつけて、誰も彼も、自分自身でさえも顧みようとしない。
「なら、俺の前でくらい泣けばいいだろ」
腹立たしい気持ちになりながらそう言うと、レイラは目を大きく見開いた。
「何故?」
「俺はお前よか少しばかり年が上だからな。つまりはお前の兄さんみたいなもんだ。だからだ」
「……どういう理屈なのよ、それ」
「いいから、さっさと泣いちまえ。そんな湿気た面で戻ったらチビ達が不安がるだろうが」
「……泣けと言われて、泣けるものでもないわ」
「ったく、世話がやける。おら、これでどうだ」
レイラがいつも子供たちにやっているように、抱きしめて、頭を撫でてやる。体が強ばっているのが分かるが、何も言わず続けていくと、やがて力が抜けていった。
「…………泣いたのなんて、いつぶりかしら」
震える小さな肩に乗せられている重荷をを、代わってやることは出来ない。さっさと逃げ出してしまえ、と言っても、決して頷きはしないだろう。それならせめて、今だけだとしても傍にいてやりたい。それが、ただの監察対象に抱くには余計な情だとしても。