My fair lady
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先生の部屋へ行き、取り留めのない話をしている内に話が途切れた。そこで、いつもと何かが違うことに気がつく。私を見つめる瞳も、重なった手も、頬に触れる手も、普段とは感じが違うから、一体どうなっているのかが全く分からず、ただ事の成り行きを見守るしかできなかった。顔を近づけてきたフィガロ先生は、私が固まっていることに気がついて、なんだか気まずそうな顔で身を引いた。それと同時に頬に触れていた手をパッと離し、そのまま行き場もなく漂わせている。
「あれ……ごめん、もしかして違う?」
何が違うのかもよく分からないが、途端に心臓がどくどくと音を立てだした。急に血が回りだしたように顔も熱くなってくる。顔を上げていられずに俯いて胸を抑える。
「違うというか、驚いて」
「あー、まだ早かったかな。ごめんね、驚かせて」
まだ早いというか、なんというか、それ以前の問題があるように思えたが、果たして口にしていいものか分からない。
迷いながら先生を見ると、微笑ましそうな顔をしていた。
「大丈夫、ゆっくりでいいよ。君が待てっていうなら、いくらでも待てるから」
もしかして、これはそういうことなのだろうか。今までそんな雰囲気が欠片もなかったため、全く想像さえしていなかった。私の気持ちを受け入れてくれているということだけで満足して、確かめようという気にもならなかった。
「……先生は、私のこと、その、どう、思っていらっしゃいますか」
今にも消え入りそうな声になってしまった事が余計に恥ずかしくなり、いっそそのまま消えてしまいたくなる。
「……え、ちょっと待って。そう聞くって事はつまり、もしかして分かってない?」
「……庇護対象にむける愛情は、あるのかな、とは」
優しく、大事にしてくれているのは分かっていたが、それが同じ気持ちなのかは分かっていなかった。
「ああ〜、なるほどね。なんか噛み合わないと思ったら、それか」
先生はどこか困った様子で天を仰いだ。かと思えば重なったままでいた手を強く握りしめて、私の名を呼んだ。
「君のことが好きだよ。ずっと傍に置いておきたいし、許されるなら触れていたい」
不思議なことに、一欠片も嘘をついていないように見える。先生は少し照れたように頭を掻いた。
「そういえば、君に言ってもらうばかりだったかもしれないな。反省、反省。気をつけるよ」
全部本当のことなのだと飲み込めると、収まりかけていた熱が一瞬でぶり返した。何も言えないでいると先生は急に真顔になって、私をじっと見つめてきた。
「ねえ、サラ」
「……なんでしょう」
今度は笑って、また頬に触れる。先生は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「まだ待てをしていたほうがいい?それとも、許しをくれる?」
「その質問は、ずるいような」
「そうかもね。でも俺はずるい大人だから」
それは理由になるのだろうか。私がどう答えるのか、面白がっている気配を感じる。こういう所はどうかと思うが、まあ、これも含めて惚れた弱みということなのだろう。頬に触れた手に手を重ねて、先生を見つめ返す。
「いいですよ。あなたになら、なんだって許します」
先生は驚いたように目を見開いた。それから目を細めて心底嬉しそうに微笑んだ。それがあんまりにも綺麗で、見蕩れているうちに唇が触れ合っていた。先生の冷たい唇が私の体温と馴染んだ頃に唇が離れ、目が合う。
「こういう時は、目を閉じるものだよ」
仕方の無い子だね、と先生が優しい声で言う。見蕩れていましたと素直に言うと、彼はおかしそうに笑ってまた口付けをした。今度はちゃんと目を瞑っていると、いい子だね、と微笑むのが気配で分かる。いつのまにかベッドに背が付いていて、覆い被さる先生の後ろに今ではもう見慣れた自室の天井が目に写った。視線をずらすとすぐに先生と目が合って、その眼差しがなんだがいつもと違うからまた心臓が煩くなって目を逸らしてしまった。
「……怖い?」
「……いいえ。けど、心臓がうるさくて、どうにかなってしまいそうです」
何とか鎮めようと胸に手を当てながら息を吐くが、少しもマシにならない。黙ってしまった先生の様子を伺うと、どういう感情か分からないけれどただただ私を見つめていた。
「……先生?」
呼びかけると、胸に当てていた手をどかされて、そこに耳を置かれた。鼓動の音が聞かれているのが分かり、あまりのことに言葉もろくに出てこない。抵抗しようともがくが、抱きすくめられては効果が薄かった。
「何を、するんですか」
「んー、ちょっと気になって。……はは、お前は可愛いね」
宥めるように頭を撫でられる。軽く触れるだけのキスをして、ご機嫌とりでもしているみたいだ。なんだか悔しくて顔を背けると、先生は途端に慌てだした。
「あれ、サラ?どうしたんだい?」
「……」
「ごめんごめん、からかいすぎたね。ほら、機嫌を直して、こっちを向いて」
焦ったような声を出すので仕方なく顔を向けると、目に見えて安堵したようだった。
「……恥ずかしいので、今のはやめてください」
「うん、ごめんね。確かに、すっごくどきどきしていたもんね」
「口に出さないで」
「あっ、はい」
本当にこの人は、困った人だ。しまった、という顔で私の機嫌を伺っている。そんなことしなくてもただ望むだけでいいのに。
「先生」
「ん?なにかな」
静かに見つめると、先生は照れたような顔をして、視線をあちこちに飛ばした。手を伸ばして頬を固定させて、ようやく視線を私に定めたので満足して微笑む。先生は頬を赤らめて眉を下げた。
「本当に君には、適いそうもないや」
何度目かの口付けは深く息苦しく、互いの存在を侵食していくようで、不思議な心地良さと高揚感があった。指が絡まりシーツに押し付けられ、逃げ場がないことに酷く安堵を覚える。終始熱に魘されているような気がして、熱くて溶けてしまいそうだった。境界線がなくなって、本当にひとつになってしまえれば怖いことなど何一つないのに。幸せなのが恐ろしくて、どうせなら石になってこの人に食べられてしまいたかった。
満月の夜、山の中を私は走っていた。亡くなった母の故郷を興味本位で訪れてみて分かったことは、母はこの村から逃げ出してきたのだということだった。それなのに私はのこのことこんなところに来てしまい、己の身に流れる忌まわしい血の由来を知り、自分の尊厳を守り抜くために、風の騒ぐ満月の夜に逃げ出した。
吹き荒れる風は私の背を押してくれたけれど、逃げた先が崖で、追い詰められている以上飛び込むしかない。都合のいい助けなんてものはこの世には存在していないのだ。
落ちた先の川面には大きくて真ん丸の月が写っていて、ちょうどそこ目掛けて落ちていくようだった。だけど、水面の月は幻の月、落ちたって手にできない。私に手に入れられるものは、こんな、ひとりぼっちの最期だけなのだろうか。そう絶望しながら、私は、この世界へとやってきた。そうして私は、先生に出逢ったのだ。
どういう訳で記憶を取り戻したのかは分からないけれど、やはりそれは些細な事でしかない。前の世界での最後は、それは寂しいものだったけれど、その先で得たものは、他の何にも代えられない大切なものだった。だから忌まわしい記憶でも、それを再認識できたのはいい機会だったのだと思う。
おいで、とベッドの端に腰掛けて膝の上を叩いている酔っ払いを前に、どうしたものかと思案する。こちらは素面だしそもそもそんなことを平気でできるような性格もしていない。
「飲みすぎですよ」
試しに窘めてみるが、そんなことないよ、と酔っ払いの常套句を聞かされることになった。
「ね、ほら、おいで。サラ。いい子だから」
「私にだって、羞恥心はあるんですからね」
「あはは、照れてるの?かわいいなあ」
近くまでやって来ると誘導されて膝の上に横座りにさせられた。腰を抱かれてはいるが、姿勢を安定させるために肩に手を置いて、そこで顔の近さに気がつく。先生は満足そうに頷いてそっと唇を触れ合わせた。
「……重くないですか」
「軽いくらいだよ。まるで羽が生えているみたいだ」
「やっぱり飲みすぎたんですね」
「うん、そうだね。飲みすぎたかも」
今度はやけにあっさり認めて、首筋に顔を埋めてきた。甘えられているようで気分はいい。この体勢だと労せず頭を撫でられるという気づきも得て、早速実行に移してみる。先生は何も言わずに黙り込んでそのままベットに倒れ込んでしまい、もしや寝てしまったのかと少し身を離して確認すると、なんだかぼんやりとしているようだった。
「刹那」
私は驚いて、ただ目を瞬かせることしか出来なかった。どうしてまたその名で私を呼ぶのだろう。
「記憶、戻ったんだよね」
「……よく、分かりましたね」
「うん、まあね」
どこから詳しく聞いたものか思い悩んで、結局一番気になることから聞くことにした。
「サラとは、呼んでくださらないの」
「そんなことないよ。けど、今はもう皆君をサラと呼ぶから、二人きりの時くらいは本当の名前を呼びたくなったんだ」
「どうして?」
「その方が特別な感じがしない?皆、俺が名付けた名前を呼んで、俺だけが君の本当の名を呼ぶ。とてもいい気分だ」
「そういうものですか」
「そういうものなんだよ。嫌なら止めるけど、どうする」
「……嫌じゃないけど、何だか変な気分です」
「最初の内はそうかもね。でも、きっと慣れるよ」
先生は楽しそうに笑っている。何かあやしい企てをしていそうだが、害にはならないだろう。困ったことにはなりそうだ。
「いいですよ。あなたが呼んでくれるなら、どんな名前だって私になるから」
柔らかな瞳で見つめられて、気がつくと自分から口付けをしていた。触れて、また離れて、今度はからかいの色が目に宿っている。
「……足りないよ。いつも教えてあげているだろう?やってみせて」
「また難しいことを」
「そんなことはないよ。君はいつだって物覚えがいい。ね、ほら、早く」
焦れるように背を撫でられた。垂れた髪を耳にかけて、もう一度唇に触れる。いつもどうされているかを思い出しなが行う行為は居た堪れない気分になる。反応を確かめようと途中で目を開くと、ご機嫌に細められた目とかちあって、動揺してしまった。起き上がろうとしたがいつの間にか後頭部回った手に押さえられて元々譲られていた主導権が奪われる。ようやく息をつけた時には体に力が入らなくなって倒れ込むと、労るように背を撫でられだ。
「……刹那」
耳元で名前を呼ばれて一瞬息が止まる。背中を撫でる手が徐々に下がっていく。制止の代わりに名を呼ぶと、なんだい、なんてとぼけたことを言うのがわざとらしい。
「やめてほしい?」
今さらなんてことをいうのだろう。面白がっているのは声色で丸わかりだ。そんなことを望んでいないのは分かりきっているくせに。やめないでと小さな声で囁くと、先生は喉を鳴らして笑った。いい子だね、といつもの様に褒めてくれたがこの場には不釣り合いに思えた。
「記憶を取り戻した君が何て言うか、本当は少し、怖かったんだ」
だから、すぐには聞けなかったのだと、先生は目線を下げながら言った。
「でも、君が何も言わないから、どうしてなんだろうって、ずっと考えてた」
そういえば何だか物言いたげな視線を感じていたと、今になって気がつく。
「答えは、分かりましたか?」
そう尋ねると、先生は苦笑を浮かべる。そのまま答えをじっと待っていると、やがて観念したのかようやく口を開いた。
「……何も言う必要がないからだって、分かったよ。君が俺に言ってくれたことを、一つ一つ、思い返してみたんだ」
先生は深く息を吐くと、私をじっと見つめた。私は微笑んで、静かに次の言葉を待つ。
「俺が君の記憶を奪ったって知っても、君は少しも怒らなかった。半年の間、人形のように虚空を見つめていたのは、俺が記憶を奪って、君を廃人にさせたからなのに」
「……自覚があったんですね」
「自覚したんだよ。前はそんなこと気にも留めなかった。でも、君が俺を、愛してるだなんていうから―――すごく、後悔した。とんでもないことをしたって、思ったよ」
それはどうだろう。自我がない私の世話をするのは、魔法があるとはいえきっと大変だっただろう。それなら記憶を戻してしまった方が楽だったはずだ。だけどそうはしなかった。私が、泣いていたから。
「私は、そうは思いません」
先生は僅かに目を見張って、それから小さく笑みを浮かべた。
「……うん。君ならそう言ってくれるんだろうなって、思った。だから、何も言わなかったんだろうって」
そこまで分かっているのなら、そんなに罪悪感に塗れた顔をしなくてもいいのに。何をそんなに気に病むことがあるのだろう。手を伸ばして頬に触れると、先生はその手に自分のものを重ねて項垂れた。
「……君が俺に与えてくれるものに見合うものを、俺は与えてあげられるんだろうか」
おかしなことを言う。最初に私に与えてくれたのは、あなたの方なのに。
「あなたに会えて、私、幸せです」
俯いたままでいるから、どんな顔をしているか分からない。けれど、体が一瞬震えるのが分かった。
「もう、たくさんのものを、いただいています」
「……でも、俺は、君に傍にいてほしいけど、この気持ちが愛なのか、それともただの執着なのか、本当はよく分からないんだ」
「そんなの、どうだっていいですよ」
愛でも、執着でも、どちらでも構わない。先生は唖然として顔を上げた。本人が深刻に悩んでいるのなら、そう切り捨てる私は、酷いことを言っているのかもしれない。その瞳が動揺しているのを見て、微笑んだ。
「愛じゃなくても、ただの執着でも、傍においてくれるのなら、それだけでいいんです。私の気持ちを受け入れてくださるだけで、十分満足しています」
手が離れていったので、頬に伸ばしていた腕を下ろす。泣き出しそうに顔を歪めて、先生は私を抱きしめた。この人に助けられて、この人に与えられるものを享受して、これまで過ごしてきた。そんな私が、この人に何をしてあげられるだろう。
「……先生、私、あなたの願いなら何でも叶えてあげたいんです。何か、私にして欲しいことはありますか?」
そう訪ねると、先生はしばらくの間黙り込んでしまった。そして、抱きしめる力が僅かに強まり、そして、小さな声が耳元で囁く。前にも一度、似たことを言われたことがある。それを聞いて、私は自分のすべきことがなんなのか、はっきりと分かった。私がこの世界に来て、魔女になったのは、きっと、この人の為なのだ。
「ええ。あなたが石になるその時には、寂しくないようにずっと傍で手を握っています。石になった後は、あなたの石を食べてから、私も石になります」
「……本当に?」
「約束します」
躊躇いなく言い切った。先生は身を離すと、呆然とした顔で私を見下ろした。
「……今、何て」
「あなたを看取って、ともに石になる。そう、お約束します」
私を見つめたまま何度も瞬きを繰り返し、そして、片手で顔を覆ってしまった。
私の核となるのは、魔力の石。どういうわけで前の世界に紛れ込んだのかは見当もつかないが、魔法を使わないで生きてきたのがもう信じられないほどだ。今では、約束がどれほど重たい意味を持つのか、よく分かる。
「……どうしよう。君にはもう、本当に、敵わない」
声を震わせてそう言うから、その背を撫でて、愛しています、と囁く。先生は恐る恐るといった様子でこう返した。
「……俺も―――愛しているよ」
当人自身、本当のことなのかと疑いながら怖々と言うものだから、笑えて来てしまった。堪えられず声を上げて笑っていると、情けない声で抗議された。
その言葉がいつか嘘になっても、かまわない。私の手を離す時が訪れる日が来るかもしれない。それでもこの人が望む限りは、一人が怖いというのなら、ずっと傍にいよう。それが私がこの人にしてあげられる、唯一のことだと思うから。
「あれ……ごめん、もしかして違う?」
何が違うのかもよく分からないが、途端に心臓がどくどくと音を立てだした。急に血が回りだしたように顔も熱くなってくる。顔を上げていられずに俯いて胸を抑える。
「違うというか、驚いて」
「あー、まだ早かったかな。ごめんね、驚かせて」
まだ早いというか、なんというか、それ以前の問題があるように思えたが、果たして口にしていいものか分からない。
迷いながら先生を見ると、微笑ましそうな顔をしていた。
「大丈夫、ゆっくりでいいよ。君が待てっていうなら、いくらでも待てるから」
もしかして、これはそういうことなのだろうか。今までそんな雰囲気が欠片もなかったため、全く想像さえしていなかった。私の気持ちを受け入れてくれているということだけで満足して、確かめようという気にもならなかった。
「……先生は、私のこと、その、どう、思っていらっしゃいますか」
今にも消え入りそうな声になってしまった事が余計に恥ずかしくなり、いっそそのまま消えてしまいたくなる。
「……え、ちょっと待って。そう聞くって事はつまり、もしかして分かってない?」
「……庇護対象にむける愛情は、あるのかな、とは」
優しく、大事にしてくれているのは分かっていたが、それが同じ気持ちなのかは分かっていなかった。
「ああ〜、なるほどね。なんか噛み合わないと思ったら、それか」
先生はどこか困った様子で天を仰いだ。かと思えば重なったままでいた手を強く握りしめて、私の名を呼んだ。
「君のことが好きだよ。ずっと傍に置いておきたいし、許されるなら触れていたい」
不思議なことに、一欠片も嘘をついていないように見える。先生は少し照れたように頭を掻いた。
「そういえば、君に言ってもらうばかりだったかもしれないな。反省、反省。気をつけるよ」
全部本当のことなのだと飲み込めると、収まりかけていた熱が一瞬でぶり返した。何も言えないでいると先生は急に真顔になって、私をじっと見つめてきた。
「ねえ、サラ」
「……なんでしょう」
今度は笑って、また頬に触れる。先生は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「まだ待てをしていたほうがいい?それとも、許しをくれる?」
「その質問は、ずるいような」
「そうかもね。でも俺はずるい大人だから」
それは理由になるのだろうか。私がどう答えるのか、面白がっている気配を感じる。こういう所はどうかと思うが、まあ、これも含めて惚れた弱みということなのだろう。頬に触れた手に手を重ねて、先生を見つめ返す。
「いいですよ。あなたになら、なんだって許します」
先生は驚いたように目を見開いた。それから目を細めて心底嬉しそうに微笑んだ。それがあんまりにも綺麗で、見蕩れているうちに唇が触れ合っていた。先生の冷たい唇が私の体温と馴染んだ頃に唇が離れ、目が合う。
「こういう時は、目を閉じるものだよ」
仕方の無い子だね、と先生が優しい声で言う。見蕩れていましたと素直に言うと、彼はおかしそうに笑ってまた口付けをした。今度はちゃんと目を瞑っていると、いい子だね、と微笑むのが気配で分かる。いつのまにかベッドに背が付いていて、覆い被さる先生の後ろに今ではもう見慣れた自室の天井が目に写った。視線をずらすとすぐに先生と目が合って、その眼差しがなんだがいつもと違うからまた心臓が煩くなって目を逸らしてしまった。
「……怖い?」
「……いいえ。けど、心臓がうるさくて、どうにかなってしまいそうです」
何とか鎮めようと胸に手を当てながら息を吐くが、少しもマシにならない。黙ってしまった先生の様子を伺うと、どういう感情か分からないけれどただただ私を見つめていた。
「……先生?」
呼びかけると、胸に当てていた手をどかされて、そこに耳を置かれた。鼓動の音が聞かれているのが分かり、あまりのことに言葉もろくに出てこない。抵抗しようともがくが、抱きすくめられては効果が薄かった。
「何を、するんですか」
「んー、ちょっと気になって。……はは、お前は可愛いね」
宥めるように頭を撫でられる。軽く触れるだけのキスをして、ご機嫌とりでもしているみたいだ。なんだか悔しくて顔を背けると、先生は途端に慌てだした。
「あれ、サラ?どうしたんだい?」
「……」
「ごめんごめん、からかいすぎたね。ほら、機嫌を直して、こっちを向いて」
焦ったような声を出すので仕方なく顔を向けると、目に見えて安堵したようだった。
「……恥ずかしいので、今のはやめてください」
「うん、ごめんね。確かに、すっごくどきどきしていたもんね」
「口に出さないで」
「あっ、はい」
本当にこの人は、困った人だ。しまった、という顔で私の機嫌を伺っている。そんなことしなくてもただ望むだけでいいのに。
「先生」
「ん?なにかな」
静かに見つめると、先生は照れたような顔をして、視線をあちこちに飛ばした。手を伸ばして頬を固定させて、ようやく視線を私に定めたので満足して微笑む。先生は頬を赤らめて眉を下げた。
「本当に君には、適いそうもないや」
何度目かの口付けは深く息苦しく、互いの存在を侵食していくようで、不思議な心地良さと高揚感があった。指が絡まりシーツに押し付けられ、逃げ場がないことに酷く安堵を覚える。終始熱に魘されているような気がして、熱くて溶けてしまいそうだった。境界線がなくなって、本当にひとつになってしまえれば怖いことなど何一つないのに。幸せなのが恐ろしくて、どうせなら石になってこの人に食べられてしまいたかった。
満月の夜、山の中を私は走っていた。亡くなった母の故郷を興味本位で訪れてみて分かったことは、母はこの村から逃げ出してきたのだということだった。それなのに私はのこのことこんなところに来てしまい、己の身に流れる忌まわしい血の由来を知り、自分の尊厳を守り抜くために、風の騒ぐ満月の夜に逃げ出した。
吹き荒れる風は私の背を押してくれたけれど、逃げた先が崖で、追い詰められている以上飛び込むしかない。都合のいい助けなんてものはこの世には存在していないのだ。
落ちた先の川面には大きくて真ん丸の月が写っていて、ちょうどそこ目掛けて落ちていくようだった。だけど、水面の月は幻の月、落ちたって手にできない。私に手に入れられるものは、こんな、ひとりぼっちの最期だけなのだろうか。そう絶望しながら、私は、この世界へとやってきた。そうして私は、先生に出逢ったのだ。
どういう訳で記憶を取り戻したのかは分からないけれど、やはりそれは些細な事でしかない。前の世界での最後は、それは寂しいものだったけれど、その先で得たものは、他の何にも代えられない大切なものだった。だから忌まわしい記憶でも、それを再認識できたのはいい機会だったのだと思う。
おいで、とベッドの端に腰掛けて膝の上を叩いている酔っ払いを前に、どうしたものかと思案する。こちらは素面だしそもそもそんなことを平気でできるような性格もしていない。
「飲みすぎですよ」
試しに窘めてみるが、そんなことないよ、と酔っ払いの常套句を聞かされることになった。
「ね、ほら、おいで。サラ。いい子だから」
「私にだって、羞恥心はあるんですからね」
「あはは、照れてるの?かわいいなあ」
近くまでやって来ると誘導されて膝の上に横座りにさせられた。腰を抱かれてはいるが、姿勢を安定させるために肩に手を置いて、そこで顔の近さに気がつく。先生は満足そうに頷いてそっと唇を触れ合わせた。
「……重くないですか」
「軽いくらいだよ。まるで羽が生えているみたいだ」
「やっぱり飲みすぎたんですね」
「うん、そうだね。飲みすぎたかも」
今度はやけにあっさり認めて、首筋に顔を埋めてきた。甘えられているようで気分はいい。この体勢だと労せず頭を撫でられるという気づきも得て、早速実行に移してみる。先生は何も言わずに黙り込んでそのままベットに倒れ込んでしまい、もしや寝てしまったのかと少し身を離して確認すると、なんだかぼんやりとしているようだった。
「刹那」
私は驚いて、ただ目を瞬かせることしか出来なかった。どうしてまたその名で私を呼ぶのだろう。
「記憶、戻ったんだよね」
「……よく、分かりましたね」
「うん、まあね」
どこから詳しく聞いたものか思い悩んで、結局一番気になることから聞くことにした。
「サラとは、呼んでくださらないの」
「そんなことないよ。けど、今はもう皆君をサラと呼ぶから、二人きりの時くらいは本当の名前を呼びたくなったんだ」
「どうして?」
「その方が特別な感じがしない?皆、俺が名付けた名前を呼んで、俺だけが君の本当の名を呼ぶ。とてもいい気分だ」
「そういうものですか」
「そういうものなんだよ。嫌なら止めるけど、どうする」
「……嫌じゃないけど、何だか変な気分です」
「最初の内はそうかもね。でも、きっと慣れるよ」
先生は楽しそうに笑っている。何かあやしい企てをしていそうだが、害にはならないだろう。困ったことにはなりそうだ。
「いいですよ。あなたが呼んでくれるなら、どんな名前だって私になるから」
柔らかな瞳で見つめられて、気がつくと自分から口付けをしていた。触れて、また離れて、今度はからかいの色が目に宿っている。
「……足りないよ。いつも教えてあげているだろう?やってみせて」
「また難しいことを」
「そんなことはないよ。君はいつだって物覚えがいい。ね、ほら、早く」
焦れるように背を撫でられた。垂れた髪を耳にかけて、もう一度唇に触れる。いつもどうされているかを思い出しなが行う行為は居た堪れない気分になる。反応を確かめようと途中で目を開くと、ご機嫌に細められた目とかちあって、動揺してしまった。起き上がろうとしたがいつの間にか後頭部回った手に押さえられて元々譲られていた主導権が奪われる。ようやく息をつけた時には体に力が入らなくなって倒れ込むと、労るように背を撫でられだ。
「……刹那」
耳元で名前を呼ばれて一瞬息が止まる。背中を撫でる手が徐々に下がっていく。制止の代わりに名を呼ぶと、なんだい、なんてとぼけたことを言うのがわざとらしい。
「やめてほしい?」
今さらなんてことをいうのだろう。面白がっているのは声色で丸わかりだ。そんなことを望んでいないのは分かりきっているくせに。やめないでと小さな声で囁くと、先生は喉を鳴らして笑った。いい子だね、といつもの様に褒めてくれたがこの場には不釣り合いに思えた。
「記憶を取り戻した君が何て言うか、本当は少し、怖かったんだ」
だから、すぐには聞けなかったのだと、先生は目線を下げながら言った。
「でも、君が何も言わないから、どうしてなんだろうって、ずっと考えてた」
そういえば何だか物言いたげな視線を感じていたと、今になって気がつく。
「答えは、分かりましたか?」
そう尋ねると、先生は苦笑を浮かべる。そのまま答えをじっと待っていると、やがて観念したのかようやく口を開いた。
「……何も言う必要がないからだって、分かったよ。君が俺に言ってくれたことを、一つ一つ、思い返してみたんだ」
先生は深く息を吐くと、私をじっと見つめた。私は微笑んで、静かに次の言葉を待つ。
「俺が君の記憶を奪ったって知っても、君は少しも怒らなかった。半年の間、人形のように虚空を見つめていたのは、俺が記憶を奪って、君を廃人にさせたからなのに」
「……自覚があったんですね」
「自覚したんだよ。前はそんなこと気にも留めなかった。でも、君が俺を、愛してるだなんていうから―――すごく、後悔した。とんでもないことをしたって、思ったよ」
それはどうだろう。自我がない私の世話をするのは、魔法があるとはいえきっと大変だっただろう。それなら記憶を戻してしまった方が楽だったはずだ。だけどそうはしなかった。私が、泣いていたから。
「私は、そうは思いません」
先生は僅かに目を見張って、それから小さく笑みを浮かべた。
「……うん。君ならそう言ってくれるんだろうなって、思った。だから、何も言わなかったんだろうって」
そこまで分かっているのなら、そんなに罪悪感に塗れた顔をしなくてもいいのに。何をそんなに気に病むことがあるのだろう。手を伸ばして頬に触れると、先生はその手に自分のものを重ねて項垂れた。
「……君が俺に与えてくれるものに見合うものを、俺は与えてあげられるんだろうか」
おかしなことを言う。最初に私に与えてくれたのは、あなたの方なのに。
「あなたに会えて、私、幸せです」
俯いたままでいるから、どんな顔をしているか分からない。けれど、体が一瞬震えるのが分かった。
「もう、たくさんのものを、いただいています」
「……でも、俺は、君に傍にいてほしいけど、この気持ちが愛なのか、それともただの執着なのか、本当はよく分からないんだ」
「そんなの、どうだっていいですよ」
愛でも、執着でも、どちらでも構わない。先生は唖然として顔を上げた。本人が深刻に悩んでいるのなら、そう切り捨てる私は、酷いことを言っているのかもしれない。その瞳が動揺しているのを見て、微笑んだ。
「愛じゃなくても、ただの執着でも、傍においてくれるのなら、それだけでいいんです。私の気持ちを受け入れてくださるだけで、十分満足しています」
手が離れていったので、頬に伸ばしていた腕を下ろす。泣き出しそうに顔を歪めて、先生は私を抱きしめた。この人に助けられて、この人に与えられるものを享受して、これまで過ごしてきた。そんな私が、この人に何をしてあげられるだろう。
「……先生、私、あなたの願いなら何でも叶えてあげたいんです。何か、私にして欲しいことはありますか?」
そう訪ねると、先生はしばらくの間黙り込んでしまった。そして、抱きしめる力が僅かに強まり、そして、小さな声が耳元で囁く。前にも一度、似たことを言われたことがある。それを聞いて、私は自分のすべきことがなんなのか、はっきりと分かった。私がこの世界に来て、魔女になったのは、きっと、この人の為なのだ。
「ええ。あなたが石になるその時には、寂しくないようにずっと傍で手を握っています。石になった後は、あなたの石を食べてから、私も石になります」
「……本当に?」
「約束します」
躊躇いなく言い切った。先生は身を離すと、呆然とした顔で私を見下ろした。
「……今、何て」
「あなたを看取って、ともに石になる。そう、お約束します」
私を見つめたまま何度も瞬きを繰り返し、そして、片手で顔を覆ってしまった。
私の核となるのは、魔力の石。どういうわけで前の世界に紛れ込んだのかは見当もつかないが、魔法を使わないで生きてきたのがもう信じられないほどだ。今では、約束がどれほど重たい意味を持つのか、よく分かる。
「……どうしよう。君にはもう、本当に、敵わない」
声を震わせてそう言うから、その背を撫でて、愛しています、と囁く。先生は恐る恐るといった様子でこう返した。
「……俺も―――愛しているよ」
当人自身、本当のことなのかと疑いながら怖々と言うものだから、笑えて来てしまった。堪えられず声を上げて笑っていると、情けない声で抗議された。
その言葉がいつか嘘になっても、かまわない。私の手を離す時が訪れる日が来るかもしれない。それでもこの人が望む限りは、一人が怖いというのなら、ずっと傍にいよう。それが私がこの人にしてあげられる、唯一のことだと思うから。
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