My fair lady
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
真木晶はサラと呼ばれる少女に見覚えがあった。時折訪れていた喫茶店でバイトをしていた子によく似ていたのだ。その子は一年前に失踪したとされていた。
「本当に、よく似ているんです」
「時期は重なるね。この子は一年前の厄災の日に南の国に来たんだ。川から流れてきたんだよ」
「しかし、記憶がないのでは確かめようもないな」
「フィガロちゃん、試してみたんだよね?」
ホワイトがそう尋ねると、フィガロは不意に視線を外し、どこか気まずそうに遠くを見た。
「「フィガロちゃん?」」
様子がおかしい彼に双子が揃って声を合わせると、彼は観念したようにため息を吐いた。
「……彼女、熱に魘されて、ずっと泣きじゃくってたんですよ。それがなんだか絶望してるような感じだったので、そんなに嫌な記憶なら無い方が幸せだろうな……って」
その発言に部屋の中が静まり返る。フィガロは気まずそうにその沈黙に耐えていた。
「フィガロや」
「分かってます、人道的ではないって言いたいんでしょう?でも、本当に、可哀想なくらいだったんですよ」
「まあ、説教は後にするとして、その記憶は残してあるんじゃろうな」
「それはまあ、一応」
フィガロが呪文を唱えると、その手に灰色の箱のようなものが現れた。彼はそれをどこか複雑そうに見つめる。
「それが記憶、ですか」
「そうだよ、賢者様。見てみるかい?」
気軽に重たいことを言うものだから晶はすぐには答えず、眠りについたままの少女を見た。南の国に残してきたという女の子の話は時折聞いていた。フィガロから聞くよりも、ルチルとミチルから聞くことが多かった。二人から聞いていた話では、彼女はフィガロのことを深く信頼しているようだった。そして、彼女を見つめるフィガロの目はとても優しい気がした。
「いいえ。それはフィガロが見た方がいいと思います」
晶がそう答えると、フィガロは目を瞠り、それから困ったように微笑んだ。
「君は、これを彼女に返してあげた方がいいと思う?」
「それは分かりません。彼女が何を見て何を思ったか、想像もできませんから。だからそれは、本人に直接確かめてあげてください」
フィガロは何も言わず、ただ目を逸らした。
「嫌われるのが怖いと見た」
「最初からしなければよかったのにね」
スノウとホワイトを顔を見合わせ頷きあう。
「うるさいですよ、そこの双子」
図星だったせいもあるのか、フィガロはそこまで強くは出られないようだった。
「勝手に見るのは流石の俺でも罪悪感があるなあ。でも、本当に辛そうだったからさ、すぐには戻してあげられない。この子が泣く姿は、見たくないんだ」
そう言うとフィガロは、眠る彼女の頭を撫でる。見つめる瞳はやはり優しくて、やり方はどうあれ彼女を思ってのことだったのは確かなのだろうと思えた。
「今、何言いました?多分、聞き間違い、してます」
「言った通りだよ。サラはこれから魔法舎に来て、他の魔法使い達と一緒に暮らすんだ」
「暮らす……何故ですか?私、賢者の魔法使い、違います」
「うん。でもほら、魔法の使い方を覚えないと。南の国に一人残していくと、また暴走したとき危ないだろう。大丈夫、またフィガロ先生が一から教えてあげるよ」
フィガロ先生は何故か嬉しそうにニコニコしてる。けれど、それはやはりおかしいことなのではないだろうか。
「……私、変なこと言ったせいですか」
「変なこと?何か言ったんだっけ」
「…………違うならいいです」
眠る前に、多分恥ずかしいことを言っていた気がする。口ごもる私の頭に、先生が優しく触れる。
「突然環境が変わるから不安かもしれないけど、ルチルとミチル、レノックスもいるから大丈夫。勿論俺もいるから、もう、寂しくないよ」
「…………!」
「あれ?もしかして恥ずかしがってる?顔真っ赤にして、珍しいなあ」
寂しいなんて一言も言っていない。けれど、それが嘘なのかというと、そんなことあるはずもない。
「街の人達から、俺が魔法舎に戻る度すごく落ち込んでたって聞いたよ。会いに行った時は平気そうな顔してたから大丈夫だと思ってたのに」
「……賢者の魔法使い、大事な役目と聞きました。困らせる、だめ。でも、結局、迷惑かけました」
あまり顔を見られたくなくて、目を逸らした。まさかこんなことになるなんて、思いもしない。あの街でただ帰りを待つだけの日々が続くのだろうと思っていた。それが人攫いにあって競売にかけられて、実は魔法使いだったなんて、展開が早すぎてついていけなかった。
「迷惑なんかじゃないよ。間に合って、本当に良かった」
先生がくれる言葉はいつだって優しくて、たまに泣きそうになる。そういえば、まだ肝心なことを言っていない。1番大事なことなのに、すっかり伝え忘れていた。顔を上げて手を握りしめると、先生は少し驚いた顔をした。
「先生、来てくれて、助けてくれて、ありがとう。本当に、嬉しかった。……ありがとう」
「どういたしまして。……君が無事で良かった、心の底からそう思うよ。ああ、ほら、泣かないで。俺は君の泣き顔に弱いんだ」
いつの間にか涙が滲んでいて、視界がぼやけた。頭を優しく撫でられて、また一筋涙が零れる。先生は困ったように、しょうがないなあ、と笑って、ベッドの端に腰をかけた。抱きしめられて、落ち着かせるように背中を撫でられる。
「大丈夫、俺がついているから、もう安心だよ。怖いものは何も無い。俺が、君を守ってあげる」
怖いから泣いているんじゃない。あなたが助けに来てくれたことが嬉しくて、嬉しくて、仕方がないのだ。
「うーん、刹那かあ」
「……何してますか、先生」
「いやね、君の本当の名前がわかったから、そっちで呼んだ方がいいかと思ってね」
刹那。それが私の本当の名前だという。賢者だという人は、どうやら同郷のようで私のことを知っていたらしい。奇妙な巡りあわせもあったものだ。晶ははじめから言葉を理解していたとのことなので、私が言葉が分からないのはきっと、正規ルートを通っていないからなのだと思う。でも、そんなことは大した問題ではない。
「言い慣れないから噛みそうになるね。サラは、どっちで呼ばれたい?」
顔が段々強ばっていくのが分かる。何も言わずに先生の元へ近づき、そっと服の端を摘んだ。先生は不思議そうに首を傾げた。
「……刹那、知らない。私、サラです。あなたが付けた名前、とても、とても大事。知らない名前、呼ばないで」
「……ごめんね、不安にさせたかな」
「不安……わかりません。この感情、表現する言葉、難しい。私、記憶ないの気にしない。問題ない、です。これからも、サラで、いたいです」
自分の言いたいことを満足に表現も出来ないが、必死に言い募る。私がどこの誰かなんて、些末な問題でしかないのだ。
「分かった。今まで通りってことだね」
「はい。でも、成長、必要です。サラは、サラの……ままで、歩いていきたいです。だから、先生、たくさんのこと、教えてくださいね」
そう言うと先生は嬉しそうに微笑んで、頭を撫でてくれた。
「ねえ、サラ」
「はい」
「記憶、戻らなくていいって、本当?」
こちらを見つめてくる瞳は、まるで疑っているようだ。そんなもの、私にはどうだっていい。今ここにいられるだけで、満足しているのだから。
「本当、です。記憶、いりません。なくても、生きる、可能です」
そう言うと先生は安堵したようだった。そんな事で安心するなんて、何かあると言っているようなものだけど追求はしない。この人が見せたいものだけを見ていようと、思ったのだ。その方が都合がいいのなら、私はそれに準じよう。何故なら、私はこの人の為に生きていたいのだから。
部屋の戸をノックしたが、返事はなかった。探せるところは見たので、後はここくらいしか宛がない。今日のところは諦めようかと部屋の前から立ち去ろうとした時、中からカタン、と音がした。もう一度ノックをすると、今度は返事が帰ってきた。
「先生、サラです。今、時間、いいですか」
「もちろん。入っておいで」
言われた通りに扉を開けると、風を感じた。室内は暗く、窓が開いていて、そこから月の光が僅かに差し込んでいる。フィガロ先生はベッドの縁に腰かけていて、こちらに目を向けて気の抜けた笑みを浮かべた。手にはお酒の入ったグラスを持っている。
「また隠れて、飲む、してますね?ミチル、怒りますよ」
「内緒にしてて、お願い」
「居留守しなかったので、見なかったことにします」
「あのノックの音はサラだと思ったからね。どうしたの、また眠れない?」
おいで、と手招きされて、隣へ腰を下ろした。機嫌が良さそうなところをみるといいタイミングだったかもしれない。
「……気になること、あります。手、見せて下さい」
「手?なに、どうしたの」
見たい方とは違う手を出される。わざわざグラスを持ち替えたのなら、私の言いたいことなんて分かっているだろうに。この人はそういう面倒なところがある。
「こっち、違います。怪我、させた方」
先生は酒を飲み干して、空にしたグラスを弄ぶ。目を凝らしても、上手く隠されて確かめることが出来ない。
「もう治ったよ。心配いらないさ」
「……」
「あ、こら、お転婆はやめなさい」
グラスを奪おうと手を伸ばすが、やんわりと肩を押しとどめられてしまう。どうして隠そうとするんだろう。
「お願い……見せて」
尚も言い募ると、フィガロ先生は目を横に逸らして返答を渋る。
「……いや、男の手なんてみても面白くないでしょ」
「どうしても、駄目?私には、見せられない?」
「そういう訳じゃないけど。……全く、そんな顔されたら断りきれないじゃないか」
ようやく観念したのか先生はグラスを置いて手を見せてくれた。前に切り裂いた傷が、消えずに残っている。ああ、やっぱり。恐る恐るその手をとった。
「まだ、痛みますか」
「見た目はちょっと派手だけど、全然痛くないよ」
「……跡消す、先生には簡単。どうしてすぐ治療しませんでした?」
「あはは、ちょっと他にやることがあってね。ちゃんと治すの忘れてたんだ。でも、ほら、男の勲章みたいでかっこいいと思わない?」
明るい調子でなんでもないことみたいに言う。この人の事だからわざと治療しなかったのかもしれないけれど、助けに来て、手を差し伸べてくれたのに、私はこの人を傷つけてしまった。まるで、罪の証みたいに思える。
「……ごめんなさい」
傷痕をそっとなぞる。私がつけてしまった傷。
「謝ることは何もないよ。こんなの、なんでもない」
そう言うけど、気が済むことはきっとないだろう。
「あなたに、助けられてばかり。恩を、返しきれません」
「そんなことないよ。君が笑って、ありがとうを言ってくれる。それだけで全部帳消しになるんだ。だから、ほら、顔を上げて。俺は君を悲しませるために助けにいったんじゃないよ」
頭を撫でる手つきはとても優しい。ようやく顔を上げると、先生は安堵したように息をついた。
「よかった。泣いていたらどうしようかと思った」
「私泣くの、嫌ですか?」
「嫌じゃないよ。君が泣いていたら何でもしてあげたくなる。手のかかる子ほど可愛いって言うだろ?」
またこの人は私のことを子供扱いする。それが気に入らなくて、顔を背けた。
「そんなに泣いた覚え、ありません」
「はは、そうかもね。でも、今は笑ってくれると嬉しい。君が笑ってくれると、何もかもが上手くいっているような気になれるんだ。だから、サラ、笑って。俺にはそれだけで十分だよ」
笑えと言われて笑うことが、私にとってどんなに難しいことか。でも、この人が望むなら、幸せというなら、私は笑える。この人を思うだけで、自然に笑える気がするのだ。
「フィガロ先生、ありがとう。あなたに出会えて、良かった。……大好きです」
私の言葉にどれほどの力があるだろう。たまに、どこか遠くを眺めているこの人の孤独を埋めるには、何もかもが足りていないのかもしれない。それでも、この思いが伝わるといい。フィガロ先生は少しだけ照れたように目を逸らして、笑った。
「うん……こちらこそ、ありがとう。俺も君に会えて、良かった」
「本当に、よく似ているんです」
「時期は重なるね。この子は一年前の厄災の日に南の国に来たんだ。川から流れてきたんだよ」
「しかし、記憶がないのでは確かめようもないな」
「フィガロちゃん、試してみたんだよね?」
ホワイトがそう尋ねると、フィガロは不意に視線を外し、どこか気まずそうに遠くを見た。
「「フィガロちゃん?」」
様子がおかしい彼に双子が揃って声を合わせると、彼は観念したようにため息を吐いた。
「……彼女、熱に魘されて、ずっと泣きじゃくってたんですよ。それがなんだか絶望してるような感じだったので、そんなに嫌な記憶なら無い方が幸せだろうな……って」
その発言に部屋の中が静まり返る。フィガロは気まずそうにその沈黙に耐えていた。
「フィガロや」
「分かってます、人道的ではないって言いたいんでしょう?でも、本当に、可哀想なくらいだったんですよ」
「まあ、説教は後にするとして、その記憶は残してあるんじゃろうな」
「それはまあ、一応」
フィガロが呪文を唱えると、その手に灰色の箱のようなものが現れた。彼はそれをどこか複雑そうに見つめる。
「それが記憶、ですか」
「そうだよ、賢者様。見てみるかい?」
気軽に重たいことを言うものだから晶はすぐには答えず、眠りについたままの少女を見た。南の国に残してきたという女の子の話は時折聞いていた。フィガロから聞くよりも、ルチルとミチルから聞くことが多かった。二人から聞いていた話では、彼女はフィガロのことを深く信頼しているようだった。そして、彼女を見つめるフィガロの目はとても優しい気がした。
「いいえ。それはフィガロが見た方がいいと思います」
晶がそう答えると、フィガロは目を瞠り、それから困ったように微笑んだ。
「君は、これを彼女に返してあげた方がいいと思う?」
「それは分かりません。彼女が何を見て何を思ったか、想像もできませんから。だからそれは、本人に直接確かめてあげてください」
フィガロは何も言わず、ただ目を逸らした。
「嫌われるのが怖いと見た」
「最初からしなければよかったのにね」
スノウとホワイトを顔を見合わせ頷きあう。
「うるさいですよ、そこの双子」
図星だったせいもあるのか、フィガロはそこまで強くは出られないようだった。
「勝手に見るのは流石の俺でも罪悪感があるなあ。でも、本当に辛そうだったからさ、すぐには戻してあげられない。この子が泣く姿は、見たくないんだ」
そう言うとフィガロは、眠る彼女の頭を撫でる。見つめる瞳はやはり優しくて、やり方はどうあれ彼女を思ってのことだったのは確かなのだろうと思えた。
「今、何言いました?多分、聞き間違い、してます」
「言った通りだよ。サラはこれから魔法舎に来て、他の魔法使い達と一緒に暮らすんだ」
「暮らす……何故ですか?私、賢者の魔法使い、違います」
「うん。でもほら、魔法の使い方を覚えないと。南の国に一人残していくと、また暴走したとき危ないだろう。大丈夫、またフィガロ先生が一から教えてあげるよ」
フィガロ先生は何故か嬉しそうにニコニコしてる。けれど、それはやはりおかしいことなのではないだろうか。
「……私、変なこと言ったせいですか」
「変なこと?何か言ったんだっけ」
「…………違うならいいです」
眠る前に、多分恥ずかしいことを言っていた気がする。口ごもる私の頭に、先生が優しく触れる。
「突然環境が変わるから不安かもしれないけど、ルチルとミチル、レノックスもいるから大丈夫。勿論俺もいるから、もう、寂しくないよ」
「…………!」
「あれ?もしかして恥ずかしがってる?顔真っ赤にして、珍しいなあ」
寂しいなんて一言も言っていない。けれど、それが嘘なのかというと、そんなことあるはずもない。
「街の人達から、俺が魔法舎に戻る度すごく落ち込んでたって聞いたよ。会いに行った時は平気そうな顔してたから大丈夫だと思ってたのに」
「……賢者の魔法使い、大事な役目と聞きました。困らせる、だめ。でも、結局、迷惑かけました」
あまり顔を見られたくなくて、目を逸らした。まさかこんなことになるなんて、思いもしない。あの街でただ帰りを待つだけの日々が続くのだろうと思っていた。それが人攫いにあって競売にかけられて、実は魔法使いだったなんて、展開が早すぎてついていけなかった。
「迷惑なんかじゃないよ。間に合って、本当に良かった」
先生がくれる言葉はいつだって優しくて、たまに泣きそうになる。そういえば、まだ肝心なことを言っていない。1番大事なことなのに、すっかり伝え忘れていた。顔を上げて手を握りしめると、先生は少し驚いた顔をした。
「先生、来てくれて、助けてくれて、ありがとう。本当に、嬉しかった。……ありがとう」
「どういたしまして。……君が無事で良かった、心の底からそう思うよ。ああ、ほら、泣かないで。俺は君の泣き顔に弱いんだ」
いつの間にか涙が滲んでいて、視界がぼやけた。頭を優しく撫でられて、また一筋涙が零れる。先生は困ったように、しょうがないなあ、と笑って、ベッドの端に腰をかけた。抱きしめられて、落ち着かせるように背中を撫でられる。
「大丈夫、俺がついているから、もう安心だよ。怖いものは何も無い。俺が、君を守ってあげる」
怖いから泣いているんじゃない。あなたが助けに来てくれたことが嬉しくて、嬉しくて、仕方がないのだ。
「うーん、刹那かあ」
「……何してますか、先生」
「いやね、君の本当の名前がわかったから、そっちで呼んだ方がいいかと思ってね」
刹那。それが私の本当の名前だという。賢者だという人は、どうやら同郷のようで私のことを知っていたらしい。奇妙な巡りあわせもあったものだ。晶ははじめから言葉を理解していたとのことなので、私が言葉が分からないのはきっと、正規ルートを通っていないからなのだと思う。でも、そんなことは大した問題ではない。
「言い慣れないから噛みそうになるね。サラは、どっちで呼ばれたい?」
顔が段々強ばっていくのが分かる。何も言わずに先生の元へ近づき、そっと服の端を摘んだ。先生は不思議そうに首を傾げた。
「……刹那、知らない。私、サラです。あなたが付けた名前、とても、とても大事。知らない名前、呼ばないで」
「……ごめんね、不安にさせたかな」
「不安……わかりません。この感情、表現する言葉、難しい。私、記憶ないの気にしない。問題ない、です。これからも、サラで、いたいです」
自分の言いたいことを満足に表現も出来ないが、必死に言い募る。私がどこの誰かなんて、些末な問題でしかないのだ。
「分かった。今まで通りってことだね」
「はい。でも、成長、必要です。サラは、サラの……ままで、歩いていきたいです。だから、先生、たくさんのこと、教えてくださいね」
そう言うと先生は嬉しそうに微笑んで、頭を撫でてくれた。
「ねえ、サラ」
「はい」
「記憶、戻らなくていいって、本当?」
こちらを見つめてくる瞳は、まるで疑っているようだ。そんなもの、私にはどうだっていい。今ここにいられるだけで、満足しているのだから。
「本当、です。記憶、いりません。なくても、生きる、可能です」
そう言うと先生は安堵したようだった。そんな事で安心するなんて、何かあると言っているようなものだけど追求はしない。この人が見せたいものだけを見ていようと、思ったのだ。その方が都合がいいのなら、私はそれに準じよう。何故なら、私はこの人の為に生きていたいのだから。
部屋の戸をノックしたが、返事はなかった。探せるところは見たので、後はここくらいしか宛がない。今日のところは諦めようかと部屋の前から立ち去ろうとした時、中からカタン、と音がした。もう一度ノックをすると、今度は返事が帰ってきた。
「先生、サラです。今、時間、いいですか」
「もちろん。入っておいで」
言われた通りに扉を開けると、風を感じた。室内は暗く、窓が開いていて、そこから月の光が僅かに差し込んでいる。フィガロ先生はベッドの縁に腰かけていて、こちらに目を向けて気の抜けた笑みを浮かべた。手にはお酒の入ったグラスを持っている。
「また隠れて、飲む、してますね?ミチル、怒りますよ」
「内緒にしてて、お願い」
「居留守しなかったので、見なかったことにします」
「あのノックの音はサラだと思ったからね。どうしたの、また眠れない?」
おいで、と手招きされて、隣へ腰を下ろした。機嫌が良さそうなところをみるといいタイミングだったかもしれない。
「……気になること、あります。手、見せて下さい」
「手?なに、どうしたの」
見たい方とは違う手を出される。わざわざグラスを持ち替えたのなら、私の言いたいことなんて分かっているだろうに。この人はそういう面倒なところがある。
「こっち、違います。怪我、させた方」
先生は酒を飲み干して、空にしたグラスを弄ぶ。目を凝らしても、上手く隠されて確かめることが出来ない。
「もう治ったよ。心配いらないさ」
「……」
「あ、こら、お転婆はやめなさい」
グラスを奪おうと手を伸ばすが、やんわりと肩を押しとどめられてしまう。どうして隠そうとするんだろう。
「お願い……見せて」
尚も言い募ると、フィガロ先生は目を横に逸らして返答を渋る。
「……いや、男の手なんてみても面白くないでしょ」
「どうしても、駄目?私には、見せられない?」
「そういう訳じゃないけど。……全く、そんな顔されたら断りきれないじゃないか」
ようやく観念したのか先生はグラスを置いて手を見せてくれた。前に切り裂いた傷が、消えずに残っている。ああ、やっぱり。恐る恐るその手をとった。
「まだ、痛みますか」
「見た目はちょっと派手だけど、全然痛くないよ」
「……跡消す、先生には簡単。どうしてすぐ治療しませんでした?」
「あはは、ちょっと他にやることがあってね。ちゃんと治すの忘れてたんだ。でも、ほら、男の勲章みたいでかっこいいと思わない?」
明るい調子でなんでもないことみたいに言う。この人の事だからわざと治療しなかったのかもしれないけれど、助けに来て、手を差し伸べてくれたのに、私はこの人を傷つけてしまった。まるで、罪の証みたいに思える。
「……ごめんなさい」
傷痕をそっとなぞる。私がつけてしまった傷。
「謝ることは何もないよ。こんなの、なんでもない」
そう言うけど、気が済むことはきっとないだろう。
「あなたに、助けられてばかり。恩を、返しきれません」
「そんなことないよ。君が笑って、ありがとうを言ってくれる。それだけで全部帳消しになるんだ。だから、ほら、顔を上げて。俺は君を悲しませるために助けにいったんじゃないよ」
頭を撫でる手つきはとても優しい。ようやく顔を上げると、先生は安堵したように息をついた。
「よかった。泣いていたらどうしようかと思った」
「私泣くの、嫌ですか?」
「嫌じゃないよ。君が泣いていたら何でもしてあげたくなる。手のかかる子ほど可愛いって言うだろ?」
またこの人は私のことを子供扱いする。それが気に入らなくて、顔を背けた。
「そんなに泣いた覚え、ありません」
「はは、そうかもね。でも、今は笑ってくれると嬉しい。君が笑ってくれると、何もかもが上手くいっているような気になれるんだ。だから、サラ、笑って。俺にはそれだけで十分だよ」
笑えと言われて笑うことが、私にとってどんなに難しいことか。でも、この人が望むなら、幸せというなら、私は笑える。この人を思うだけで、自然に笑える気がするのだ。
「フィガロ先生、ありがとう。あなたに出会えて、良かった。……大好きです」
私の言葉にどれほどの力があるだろう。たまに、どこか遠くを眺めているこの人の孤独を埋めるには、何もかもが足りていないのかもしれない。それでも、この思いが伝わるといい。フィガロ先生は少しだけ照れたように目を逸らして、笑った。
「うん……こちらこそ、ありがとう。俺も君に会えて、良かった」