My fair lady
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逃げた先が崖なら、飛び込むしかない。捕まるくらいならそうするしか方法が残されていなかったからだ。勢いをつけて落ちた先には川が流れていたから、運が良ければ助かるかもしれない。
川面には大きくて真ん丸の月が写っていて、ちょうどそこ目掛けて落ちていくようだった。せっかくの満月だったのに、空を見上げて眺めることもできなかった。一人の夜に、この明るさがいつだって私の顔を上げさせてくれたのに、今は真っ逆さまに落ちていく。
水面の月は幻の月、落ちたって手にできない。私に手に入れられるものは、こんな、ひとりぼっちの最後だけなのだろうか。それはとても寂しく、悲しくてたまらなかった。
なだらかな丘の上に一本の大きな木が立っていて、その下の陰で探し人は昼寝をしていた。私が息を切らして登ってくるのは既に気がついているくせに、狸寝入りを決め込んでいる意地の悪い魔法使いだ。ようやくたどり着くと、傍らに座り込んで肩を揺さぶる。
「先生、フィガロ先生。起きて。患者さん、三人、怪我。早く」
「……サラ、もうちょっと優しく起こしてくれてもいいんじゃない?」
「急ぎ。皆先生待ってる。早く」
「はいはい」
ようやく起きる気になったフィガロ先生はその場で伸びをして立ち上がった。呪文を唱えて箒を取り出すと、それに跨って私の名を呼ぶ。記憶のない私に、この人が名付けてくれた名前だ。
「サラ、おいで」
「はい」
いつものように後ろに乗って、腰にしっかり掴まった。この浮遊感がいつまで馴れなくて、ついしがみついてしまう。その度に先生がこっそり笑っているのを知っていたし、そのことも含めてこの人は笑うのだ。
「荷車、壊れました。二人、軽傷。一人、頭打って、気絶、です。今、街の皆さん、運んでくれます」
「うん、報告ありがとう。優秀な助手がいて助かるよ」
「……私、未熟。言葉、不完全。努力、必要です」
「半年でこれだけ話せれば大したものだよ。聞き取りだって問題ないだろう。サラは十分頑張ってる。ゆっくりやっていけばいいよ」
先生はいつも優しい。けれど、今のままでは全然役に立てていないのは自分がよく分かっている。
「ありがとう、ございます。でも、甘やかす、駄目です」
「俺としてはもっと甘えてくれていいんだけどね。君はすぐに無理をするから、心配だよ」
「無理、違います。必要なこと。……けど、心配、嬉しい」
それは大事にされているように思えるからだ。この人が何を思って、いまだに私の面倒を見てくれるのかはよく分からない。それでも私はこの人のおかげで助かっているし、出来れば少しでも力になりたいと思って日々を過ごしている。
「うんうん、素直でよろしい。よし、後で頭を撫でてあげよう」
「……子供扱い、ですか?」
「違うよ。俺は君のこと、お姫さまだと思って扱ってる」
一体何を言っているのだろう。私は王族でないのだからそのままの意味では無い。言語には慣れてきたが、慣用句はまだ難しかった。
「それは、どんな意味ですか」
「はは、そのままの意味さ」
「……あ、分かりました。冗談、ですね?」
また笑っているのが背中の振動で分かった。何か面白かったらしい。
一年前、私は街の近くの川岸に流れついていた所を発見されたのだという。気を失っていたうえ、高熱を出していたためフィガロ先生の診療所に運ばれたのだ。
全身が燃えるように熱くて、頭が痛くて、自分が誰なのかもどこにいるのかも分からず、子供のように泣きじゃくっていたのは覚えている。私にとって初めての記憶だ。
優しい声が聞いたこともない言語を話すので、余計に混乱して泣きやめずにいると、困り顔で涙を拭いて頭を撫でてくれた。今なら分かるがずっと、大丈夫だよ、と言ってくれていた。そうしてずっと手を握ってくれていたから、私は安心することができたのだ。だ
その後目が覚めると、私は心神喪失状態で、何にも反応することなくただ虚空を見つめることしかできなかったらしい。半年掛けて自我を取り戻したが、記憶はなく、自分がどこの誰なのかも分からない。加えて皆が喋っている言葉を理解出来ず、私が話す言葉を誰も知らなかった。そんな得体の知れない異物だった私に、先生は根気強くたくさんのことを教えてくれた。ずっと、傍にいてくれた。
だから私は、あの人が見かけどおりの人でなくても、あの人が見せているものを全て信じようと思った。だって、本当に、いつだって優しくしてくれたから。私にはそれで十分過ぎたのだ。
その日は、まるで嵐でも来ているかのようだった。大いなる厄災とよばれている月が迫っているのだという。外に出てはいけないよ、とフィガロ先生が言っていた。
「眠れないのかい」
窓の外へ目を凝らしていると、後ろから声がかかった。振り向くと先生が戸口に寄りかかって立っている。頷くと、こちらに歩み寄りそっと肩に触れた。
「怖い?」
「分かりません。ただ、心臓、ざわつきます」
いつもこんな風なのかと尋ねると、どうも違うらしい。
「今夜は特に荒れているね。そうだ、眠れないなら一緒に寝てあげようか」
「……ベッド、狭くなります」
「平気だよ。落ちないように抱きしめてあげよう」
この人は私が年頃の娘だと言うのを分かっているのだろうか。物言いが覚束無いからか、必要以上に子供扱いされている気がする。正確な年齢は確かに分からないが少なくともこの国ではもう結婚ができる頃合だ。
十中八九からかっているのだろうが、一番安心出来るのはこの人の傍だから、ある意味では最善案だ。お願いしますと言うと、先生は意外に思ったのか僅かに目を見開いた。
「え、本当にいいの」
「あなたの傍、一番、安心。駄目、ですか?」
先生は目を細めて、どこか満足気に微笑んだ。
「そんなことないよ。さあ、おいで」
取り留めのない話をしながら、先生は私の頭を撫でていてくれた。その手があまりに優しいから、次第に瞼が重くなりはじめ、頭もぼんやりしてきた。
「先生」
「うん?」
「……」
「あれ、寝ちゃった?」
「……どこにも、行かないで」
何故そんなことを言ったのかはよく分からない。ただ、ずっとこのままでいたかった。
ここに来て一年が経ったそうだ。私としてはここに来る前の記憶は何も無いし、自我を取り戻したのだって半年前で、言葉だって満足に話せないから実感はない。だけど見た目にはもう一人前の女性と見なされるようで、他の街から縁談が持ち込まれることも増えてきた。
行かないで、というより、行きたくないの方が正しい気がするが、口に出たのは前者の方だった。
「ずっと、傍に……いさせて……くだ……さい」
答えを聞くよりも先に眠気が急速にやってきた。意識が暗闇に落ちていく。でもそれで良かった。答えを聞くには、まだ覚悟が出来ていなかったから。
そんなことを言っていたら、先生が賢者の魔法使いにというものに選ばれてしまったので、魔法舎という場所に行くことなったと聞かされた。変わらない日常が続いて欲しいと思っていたのに、永遠なんてものはどこにもないのだと思い知らされるようだった。
「ほら、そんな不安そうな顔しないで。いい子でお留守番できるね」
「……お帰りを、お待ちしています。お気をつけて」
フィガロ先生の手を両手で握りしめ、笑顔を作って見送りの言葉を告げた。急いで村の人に教わって、流暢に喋れるよう幾度も繰り返した言葉だ。
「うん、行ってくるよ。大丈夫、すぐ戻るから」
そう言って先生は、しばらく帰ってこなかった。ようやく帰ってきたかと思えば災厄に備えるために居をあちらに移すという。落ち着いたらまた顔を見せると言って、また行ってしまった。
私が気落ちしているのを見て、街の皆は気遣ってくれた。このままではいけないと、ひたすらに働いた。街の人の手伝いをしようと家畜の世話をし、畑を耕し、機を織った。病人が出れば先生が置いていった薬草を煎じたし、怪我人が出れば手当をした。たまに会いに来てくれる先生に近況を報告して、見送って、気落ちして。またひたすら働いた。よく動きよく寝て、朝と夜を繰り返し、気がつくと、何故か人攫いにあっていた。
おつかいで大きな街へいった帰りのことだ。袋詰めにされて、指示を出す男の声には聞き覚えがあった。しばらく前に袖にした、その街の長の息子の声だ。おそらく馬車の荷台に詰め込まれ、長い距離を移動したと思う。最終的に私はどこかの国のどこかの会場で、競売にかけられていた。
檻の中に入れられて強い光を浴びせられ、仮面で顔を隠した人々の目がこちらに向けられるのが分かった。舐め回すような視線に、全身が凍りつくようだった。あちこちから声が、手が上がる。興奮が、熱狂がその場を支配して、呑み込まれてしまいそう。息が上手く出来ない。
どうして。どうして私はこんな所にいるの。南の国での、あの穏やかな時間の中で、ずっと、あの人の傍に居たかった。それだけの事がもう遥かに遠く手が届かない。どうして。どうして。どうして。息ができない。
カンカンカン、音が鳴る。小槌が下ろされた。私を競り落とした男が、笑う。その時、ぶつり、と何かが切れる音がした。
室内のはずなのに風が渦巻き、私を閉じ込めていた檻が切断された。その風は、私が生み出したものだと、何故かそう思った。風はどんどん強くなり、辺りのものを巻き込んで吹き上げた。壁に傷が刻まれ、逃げ惑う人々を攫っていく。
風を止めようと思った時には、手遅れだった。私が生み出した筈の風は、制御が効かなくなっていたのだ。止まらない。止めらない。建物は瓦礫のように崩れ落ちていく。上を見ると満月が見えた。
「サラ」
こんな所で聞くとは思わなかった、聞き慣れた声がした。助けなんて誰も来ないと思っていたのに。その人は、いつものように優しく私の名を呼んだ。幻でも見ているんじゃないかと、呆然と名を呼ぶ。
「フィガロ、先生」
「うん、フィガロ先生だよ。遅くなって悪かったね、助けに来たよ」
悠然と微笑んで、暴風を気にもとめずゆったりと歩いてくる。
「あ、危ないです。だめ、来ないで」
風は鋭い刃になり、近くにいた人間を切り刻んでいた。今も床に伏せて、生きているのかも分からない。あの人がそんな目に合うのは耐えられない。恐怖心が増して風が強まったような気がした。それなのに先生は歩みを止めない。
「だめ、嫌です。だめ」
「大丈夫。落ち着いて、心を鎮めるんだ。サラならできるよ、俺を信じて」
「でも」
「サラは、俺の事傷つけたりしないだろう?大丈夫。怖いものはもう何もないよ。一緒に帰ろう」
弱まりかけた風が、一瞬で勢いを取り戻した。魔法使いは、心で魔法を使うのだ、先生は前に言っていた。なら、今、私の心は揺れたのだ。一緒に帰ろうだなんて、有り得もしないことを、平然と言うから。
それがこの人の優しさで、それを信じようと思っている。けれど今、その言葉で傷ついたのも確かだった。私の方へ差し伸べた手を、風が切り裂いても、先生は変わらず微笑んだまま手を伸ばし続けた。この人は、しょうがない人なのだ。その人へ手を預ける私も同じなのだろう。
風が止んで、途端に体から力が抜けていった。全身に疲労感があって、四肢が鉛のようだ。先生が受け止めてくれてくれなかったら、床に激突していただろう。
「おっと……お疲れさま、よく頑張ったね」
「……ごめん、なさい。先生、怪我を」
「このくらい平気だよ。ほら、シュガーだ。少しは楽になる」
唇に押し付けられたそれを口に含むと、懐かしい味がして何だかほっとしてしまった。
「先生のシュガー、久しぶり」
嬉しくて笑ったはずなのに、何故か同時に涙が溢れでた。先生が慌てて顔を覗き込んできた。さっきまであんなに冷静だったのに。想定外には弱いのだ。
「どうしたんだ?どこか痛いところでもあるのか?」
「……一緒に帰っても、先生、すぐ行ってしまう。街の人、優しい。でも、あなた、いない。ごめんなさい、怪我させたのそのせい。ごめんなさい、ごめんなさい」
視界がぼやけて何も見えないけど、先生の手から血が流れているのは分かる。魔法の使い方なんて欠片も分からないが、やってみたら止血はできたけど更に疲れてしまった。
「あ、こら。無闇に力を使うな。……もう、大丈夫だから、謝らなくていい。疲れたろう、今はもう、眠りなさい」
呪文を唱えられて、一瞬で眠気が襲ってきた。眠ったら、先生はまたいなくなっているかもしれない。そう思うと眠りたくないのに、私の気持ちなんて何にも知らない先生は優しさを押し付ける。瞼を閉じる前に見た先生は、どうしてだか嬉しそうに笑っていた。
川面には大きくて真ん丸の月が写っていて、ちょうどそこ目掛けて落ちていくようだった。せっかくの満月だったのに、空を見上げて眺めることもできなかった。一人の夜に、この明るさがいつだって私の顔を上げさせてくれたのに、今は真っ逆さまに落ちていく。
水面の月は幻の月、落ちたって手にできない。私に手に入れられるものは、こんな、ひとりぼっちの最後だけなのだろうか。それはとても寂しく、悲しくてたまらなかった。
なだらかな丘の上に一本の大きな木が立っていて、その下の陰で探し人は昼寝をしていた。私が息を切らして登ってくるのは既に気がついているくせに、狸寝入りを決め込んでいる意地の悪い魔法使いだ。ようやくたどり着くと、傍らに座り込んで肩を揺さぶる。
「先生、フィガロ先生。起きて。患者さん、三人、怪我。早く」
「……サラ、もうちょっと優しく起こしてくれてもいいんじゃない?」
「急ぎ。皆先生待ってる。早く」
「はいはい」
ようやく起きる気になったフィガロ先生はその場で伸びをして立ち上がった。呪文を唱えて箒を取り出すと、それに跨って私の名を呼ぶ。記憶のない私に、この人が名付けてくれた名前だ。
「サラ、おいで」
「はい」
いつものように後ろに乗って、腰にしっかり掴まった。この浮遊感がいつまで馴れなくて、ついしがみついてしまう。その度に先生がこっそり笑っているのを知っていたし、そのことも含めてこの人は笑うのだ。
「荷車、壊れました。二人、軽傷。一人、頭打って、気絶、です。今、街の皆さん、運んでくれます」
「うん、報告ありがとう。優秀な助手がいて助かるよ」
「……私、未熟。言葉、不完全。努力、必要です」
「半年でこれだけ話せれば大したものだよ。聞き取りだって問題ないだろう。サラは十分頑張ってる。ゆっくりやっていけばいいよ」
先生はいつも優しい。けれど、今のままでは全然役に立てていないのは自分がよく分かっている。
「ありがとう、ございます。でも、甘やかす、駄目です」
「俺としてはもっと甘えてくれていいんだけどね。君はすぐに無理をするから、心配だよ」
「無理、違います。必要なこと。……けど、心配、嬉しい」
それは大事にされているように思えるからだ。この人が何を思って、いまだに私の面倒を見てくれるのかはよく分からない。それでも私はこの人のおかげで助かっているし、出来れば少しでも力になりたいと思って日々を過ごしている。
「うんうん、素直でよろしい。よし、後で頭を撫でてあげよう」
「……子供扱い、ですか?」
「違うよ。俺は君のこと、お姫さまだと思って扱ってる」
一体何を言っているのだろう。私は王族でないのだからそのままの意味では無い。言語には慣れてきたが、慣用句はまだ難しかった。
「それは、どんな意味ですか」
「はは、そのままの意味さ」
「……あ、分かりました。冗談、ですね?」
また笑っているのが背中の振動で分かった。何か面白かったらしい。
一年前、私は街の近くの川岸に流れついていた所を発見されたのだという。気を失っていたうえ、高熱を出していたためフィガロ先生の診療所に運ばれたのだ。
全身が燃えるように熱くて、頭が痛くて、自分が誰なのかもどこにいるのかも分からず、子供のように泣きじゃくっていたのは覚えている。私にとって初めての記憶だ。
優しい声が聞いたこともない言語を話すので、余計に混乱して泣きやめずにいると、困り顔で涙を拭いて頭を撫でてくれた。今なら分かるがずっと、大丈夫だよ、と言ってくれていた。そうしてずっと手を握ってくれていたから、私は安心することができたのだ。だ
その後目が覚めると、私は心神喪失状態で、何にも反応することなくただ虚空を見つめることしかできなかったらしい。半年掛けて自我を取り戻したが、記憶はなく、自分がどこの誰なのかも分からない。加えて皆が喋っている言葉を理解出来ず、私が話す言葉を誰も知らなかった。そんな得体の知れない異物だった私に、先生は根気強くたくさんのことを教えてくれた。ずっと、傍にいてくれた。
だから私は、あの人が見かけどおりの人でなくても、あの人が見せているものを全て信じようと思った。だって、本当に、いつだって優しくしてくれたから。私にはそれで十分過ぎたのだ。
その日は、まるで嵐でも来ているかのようだった。大いなる厄災とよばれている月が迫っているのだという。外に出てはいけないよ、とフィガロ先生が言っていた。
「眠れないのかい」
窓の外へ目を凝らしていると、後ろから声がかかった。振り向くと先生が戸口に寄りかかって立っている。頷くと、こちらに歩み寄りそっと肩に触れた。
「怖い?」
「分かりません。ただ、心臓、ざわつきます」
いつもこんな風なのかと尋ねると、どうも違うらしい。
「今夜は特に荒れているね。そうだ、眠れないなら一緒に寝てあげようか」
「……ベッド、狭くなります」
「平気だよ。落ちないように抱きしめてあげよう」
この人は私が年頃の娘だと言うのを分かっているのだろうか。物言いが覚束無いからか、必要以上に子供扱いされている気がする。正確な年齢は確かに分からないが少なくともこの国ではもう結婚ができる頃合だ。
十中八九からかっているのだろうが、一番安心出来るのはこの人の傍だから、ある意味では最善案だ。お願いしますと言うと、先生は意外に思ったのか僅かに目を見開いた。
「え、本当にいいの」
「あなたの傍、一番、安心。駄目、ですか?」
先生は目を細めて、どこか満足気に微笑んだ。
「そんなことないよ。さあ、おいで」
取り留めのない話をしながら、先生は私の頭を撫でていてくれた。その手があまりに優しいから、次第に瞼が重くなりはじめ、頭もぼんやりしてきた。
「先生」
「うん?」
「……」
「あれ、寝ちゃった?」
「……どこにも、行かないで」
何故そんなことを言ったのかはよく分からない。ただ、ずっとこのままでいたかった。
ここに来て一年が経ったそうだ。私としてはここに来る前の記憶は何も無いし、自我を取り戻したのだって半年前で、言葉だって満足に話せないから実感はない。だけど見た目にはもう一人前の女性と見なされるようで、他の街から縁談が持ち込まれることも増えてきた。
行かないで、というより、行きたくないの方が正しい気がするが、口に出たのは前者の方だった。
「ずっと、傍に……いさせて……くだ……さい」
答えを聞くよりも先に眠気が急速にやってきた。意識が暗闇に落ちていく。でもそれで良かった。答えを聞くには、まだ覚悟が出来ていなかったから。
そんなことを言っていたら、先生が賢者の魔法使いにというものに選ばれてしまったので、魔法舎という場所に行くことなったと聞かされた。変わらない日常が続いて欲しいと思っていたのに、永遠なんてものはどこにもないのだと思い知らされるようだった。
「ほら、そんな不安そうな顔しないで。いい子でお留守番できるね」
「……お帰りを、お待ちしています。お気をつけて」
フィガロ先生の手を両手で握りしめ、笑顔を作って見送りの言葉を告げた。急いで村の人に教わって、流暢に喋れるよう幾度も繰り返した言葉だ。
「うん、行ってくるよ。大丈夫、すぐ戻るから」
そう言って先生は、しばらく帰ってこなかった。ようやく帰ってきたかと思えば災厄に備えるために居をあちらに移すという。落ち着いたらまた顔を見せると言って、また行ってしまった。
私が気落ちしているのを見て、街の皆は気遣ってくれた。このままではいけないと、ひたすらに働いた。街の人の手伝いをしようと家畜の世話をし、畑を耕し、機を織った。病人が出れば先生が置いていった薬草を煎じたし、怪我人が出れば手当をした。たまに会いに来てくれる先生に近況を報告して、見送って、気落ちして。またひたすら働いた。よく動きよく寝て、朝と夜を繰り返し、気がつくと、何故か人攫いにあっていた。
おつかいで大きな街へいった帰りのことだ。袋詰めにされて、指示を出す男の声には聞き覚えがあった。しばらく前に袖にした、その街の長の息子の声だ。おそらく馬車の荷台に詰め込まれ、長い距離を移動したと思う。最終的に私はどこかの国のどこかの会場で、競売にかけられていた。
檻の中に入れられて強い光を浴びせられ、仮面で顔を隠した人々の目がこちらに向けられるのが分かった。舐め回すような視線に、全身が凍りつくようだった。あちこちから声が、手が上がる。興奮が、熱狂がその場を支配して、呑み込まれてしまいそう。息が上手く出来ない。
どうして。どうして私はこんな所にいるの。南の国での、あの穏やかな時間の中で、ずっと、あの人の傍に居たかった。それだけの事がもう遥かに遠く手が届かない。どうして。どうして。どうして。息ができない。
カンカンカン、音が鳴る。小槌が下ろされた。私を競り落とした男が、笑う。その時、ぶつり、と何かが切れる音がした。
室内のはずなのに風が渦巻き、私を閉じ込めていた檻が切断された。その風は、私が生み出したものだと、何故かそう思った。風はどんどん強くなり、辺りのものを巻き込んで吹き上げた。壁に傷が刻まれ、逃げ惑う人々を攫っていく。
風を止めようと思った時には、手遅れだった。私が生み出した筈の風は、制御が効かなくなっていたのだ。止まらない。止めらない。建物は瓦礫のように崩れ落ちていく。上を見ると満月が見えた。
「サラ」
こんな所で聞くとは思わなかった、聞き慣れた声がした。助けなんて誰も来ないと思っていたのに。その人は、いつものように優しく私の名を呼んだ。幻でも見ているんじゃないかと、呆然と名を呼ぶ。
「フィガロ、先生」
「うん、フィガロ先生だよ。遅くなって悪かったね、助けに来たよ」
悠然と微笑んで、暴風を気にもとめずゆったりと歩いてくる。
「あ、危ないです。だめ、来ないで」
風は鋭い刃になり、近くにいた人間を切り刻んでいた。今も床に伏せて、生きているのかも分からない。あの人がそんな目に合うのは耐えられない。恐怖心が増して風が強まったような気がした。それなのに先生は歩みを止めない。
「だめ、嫌です。だめ」
「大丈夫。落ち着いて、心を鎮めるんだ。サラならできるよ、俺を信じて」
「でも」
「サラは、俺の事傷つけたりしないだろう?大丈夫。怖いものはもう何もないよ。一緒に帰ろう」
弱まりかけた風が、一瞬で勢いを取り戻した。魔法使いは、心で魔法を使うのだ、先生は前に言っていた。なら、今、私の心は揺れたのだ。一緒に帰ろうだなんて、有り得もしないことを、平然と言うから。
それがこの人の優しさで、それを信じようと思っている。けれど今、その言葉で傷ついたのも確かだった。私の方へ差し伸べた手を、風が切り裂いても、先生は変わらず微笑んだまま手を伸ばし続けた。この人は、しょうがない人なのだ。その人へ手を預ける私も同じなのだろう。
風が止んで、途端に体から力が抜けていった。全身に疲労感があって、四肢が鉛のようだ。先生が受け止めてくれてくれなかったら、床に激突していただろう。
「おっと……お疲れさま、よく頑張ったね」
「……ごめん、なさい。先生、怪我を」
「このくらい平気だよ。ほら、シュガーだ。少しは楽になる」
唇に押し付けられたそれを口に含むと、懐かしい味がして何だかほっとしてしまった。
「先生のシュガー、久しぶり」
嬉しくて笑ったはずなのに、何故か同時に涙が溢れでた。先生が慌てて顔を覗き込んできた。さっきまであんなに冷静だったのに。想定外には弱いのだ。
「どうしたんだ?どこか痛いところでもあるのか?」
「……一緒に帰っても、先生、すぐ行ってしまう。街の人、優しい。でも、あなた、いない。ごめんなさい、怪我させたのそのせい。ごめんなさい、ごめんなさい」
視界がぼやけて何も見えないけど、先生の手から血が流れているのは分かる。魔法の使い方なんて欠片も分からないが、やってみたら止血はできたけど更に疲れてしまった。
「あ、こら。無闇に力を使うな。……もう、大丈夫だから、謝らなくていい。疲れたろう、今はもう、眠りなさい」
呪文を唱えられて、一瞬で眠気が襲ってきた。眠ったら、先生はまたいなくなっているかもしれない。そう思うと眠りたくないのに、私の気持ちなんて何にも知らない先生は優しさを押し付ける。瞼を閉じる前に見た先生は、どうしてだか嬉しそうに笑っていた。