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どうしてこんなことになってしまったのか考えても明確な答えは出ずに時間だけが無駄に過ぎていく。昨夜は見逃してくれたが、今後またいつ気まぐれを起こすかわかったものでは無い。それよりもなによりも問題は私の方だ。昨夜は、逃げられた。でももし次があったら、私はどうするのだろう。やはり今のうちに逃げるべきか。でないと、私の人生は破滅まっしぐらに違いない。
カジノで客の相手をしている途中、見てはいけないものを見てしまった気がする。気のせいかと思い先程よりも意識的に確認すると、やはりいた。カジノの支配人に宣戦布告しておいて、こうも堂々と侵入するとは。楊らしいと言えばそうかもしれない。気が遠くなりそうになりながらもゲーム進行を続ける。
今日は久々にカジノ荒らしの相手をすることなった。偽札を増刷しているのであればカジノ自体に大した痛手はないのだろうが、それでは私がここにいる意義がない。どうして借りを返した後もここに残っているのか。金は充分に溜まっているのだから、イタリアでなくてもどこにでも行ける。それなのに私がここに留まり続けるのは、ひとえに単純な理由1つだけだった。
勤務時間を終えて、逃げれるものなら逃げてしまいたかったのに、私の足はいつものようにヴェレーノへ向いていた。昨日の件について何か言われるかと思ったが、予想に反して楊は何も触れずにいる。それにひとまずは安堵し、話を切り出すことができた。
「まさかカジノに侵入するだなんて思わなかったわ」
「……ほう?」
「見かけた時には流石に心臓が止まるかと思った。よりにもよって私に目撃させないで」
楊は何を考えてか愉快そうに笑う。
「お前がどんな顔をするのか見物だったが、あまりに表情が変わらなかったから気づいていないとばかり」
「仕事中に顔に出すわけないでしょう」
「ポーカーフェイスが売りだものな。おかげでまあまあ面白いものが見られた」
「……面白いもの?」
「何故ディーラーなんぞ続けているのか疑問だったが、お前はあれを愉しんでいるらしい」
私は少し驚いて、まじまじと楊の顔を見つめた。
「幸運の女神に愛されている、か。違うな。動体視力と記憶力がずば抜けているが故の引きの強さだ。加えて強気な駆け引きと堂々としたはったり。国営カジノのディーラーにしては異質だ。お前を迎え入れた支配人はやはりイカれているな」
「…………ふふ」
言外に私もイカれていると言われているようなものだが、イカれ具合では楊には遠く及ばないだろう。でも、確かに彼の言う通りだった。
「そうね、愉しんでやっているのは確かよ。負ければ大損って時に、大逆転勝利を掴むのは気持ちがいいわ」
一手読み違っただけで全てが台無しになってしまう。その危うさを飛び越えた先の快感がたまらないのだ。教会出身の女が言うことではないだろうし、こんなことを言えばただでさえ奇異の目で見られているのにますます気狂い扱いされてしまうだろう。でも、この男だけはきっと、呆れるでも嘲るでもなく、こんな風に笑うのだろう。楊は機嫌が良さそうで、気がつくと手を引かれ、いつの間にか楊の顔越しに天蓋が見えていた。これはそういう流れの話だったのか戸惑っていると、それを察して愉快そうに笑う。
「興が乗った。今夜は、相手をしてもらおう」
「……今の話のどこにそんな要素があったの」
「さあな、そんなものはどうでもいい。……単に、お前が破滅する所が見てみたくなった」
何か言うべきなのだろうが、何も言葉が出てこない。世界が変えられてしまいそうな予感。いつからだろう、もうとっくに気づいてはいた。退路は既に絶たれている。
「昨夜は逃がしてやったが、そう何度も逃げられるとは思っていないだろう?」
昨夜だけの気まぐれであれば、どんなに良かったか。逃げ場なんて、最初からなかった。私はずっとこの男の手の内にいたのだ。あの夜から、ずっと。
「…………私は、好きでもない男に抱かれはしない」
「なら、どうする」
覚悟というより、もう諦めに近い。ああ、何故よりにもよってこの男なのだ。
「だから、あなたの望み通り、破滅していくしかないのでしょうね」
そう言うことが分かっていたように、いい切る前に顔が近づいてくる。見ていられなくて瞼を閉じると、深く口付けられる。もうおしまいだ。千と一夜を越えた朝に、私はたどり着けるだろうか。それとも夜明けと同時に事切れるだろうか。耳元で私の名を囁く声の熱に思考が溶けていく。もう、なんだっていい。どうなってもいい。ここで終わりで構わない。こんな危ない男に惚れてしまったのなら、もう他の誰かが心に入る隙などどこにもないだろう。だから、もう、いいのだ。
目を覚まして感じたのは、後悔ではなく果てしない羞恥心だった。乱暴にされるかと思っていたのに、思いの外丁寧に触れられた。けれど遠慮は少しもなく、全て暴かれてしまったような気さえする。見上げればすぐそこにある寝顔も、体に巻き付く手足も、私を動揺させてやまない。これならいっそ殺されていたほうがよかったのかもしれない。どうして、いつの間にこんなに好きになってしまっていたのだろう。思考がぐちゃぐちゃで、もう既に壊れてしまいそうだ。
「……」
一瞬で息が止まる。閉じていた瞼から、金色の瞳が私を映し出していた。この目に、私は何もかもを曝け出してしまったのだ。思い出すと共に体温が上がっていくのを感じて、慌てて目を逸らした。
「……おい。起きて早々襲われたくないのなら、そんな顔をするな」
「制御できるなら、やってるわよ。でもこんなの、初めてで、私、どうかしてしまったんだわ」
一度抱かれただけでこんなにも心乱されてしまうなんて思いもしなかったのだ。楊は黙り込んでしまったが、それが呆れのせいなのかそれとも寝惚けているせいなのか確かめることすらできない。どちらでもないのだと気づいたときには体は組み敷かれていて、上に乗った楊は昨夜と同じ目をしていた。私は数秒の間それに心囚われ、ぎこちなく目を逸らす。
「レイラ」
名を呼ばれるだけで身体が震える。ああ、なんて恐ろしいのだろう。
「俺を見ろ」
そんなこと出来るはずもない。今度こそ確実にとどめを刺されてしまう。
「レイラ」
それなのに愚かな私は恐る恐る視線を戻してしまった。楊は満足そうに目を細める。そうなると今度は逆に、目を離すことができなくなってしまった。分かっている。分かっているのだ。もう、とっくに致命傷なのだと。私はこの男を愛してしまったのだ。
「あなたなんか、好きになるはずじゃなかったのに」
泣きたい気持ちで負け惜しみの台詞を吐くと、楊は喉を鳴らして可笑しそうに笑った。
「幸運の女神に愛された娘に見初められるとは、俺も存外、幸運らしい」
その目に見つめられているだけで、こんなにも心が震える。よりにもよってこの男に愛してほしいだなんて、やはり破滅的だ。穏やかな幸せとは程遠い男に心奪われる私のどこが幸運の持ち主なのだろう。
次に目覚めると既に日は高く、部屋には誰もいなかった。倦怠感と違和感を抱えながら立ち上がり、何とか身支度を整える。誰かに恋焦がれるというのは、自分で自分の首を絞めているようなものなのかもしれない。自分の気持ちに掻き乱され、振り回され、自分さえも手放してしまいそうになる。なんて恐ろしいのだろう。壊れてしまいそうだ。昨日の私は感情的で、衝動的で、理性というものが何一つ働かなかった。後悔、というよりも果てしなく絶望を覚える。私は、ここまで生きてきて、一体何をしているんだろう。何のために、ここまで。
『何故大人しく神の御元へ行かなかった』
今尚頭に響く声への答えを、私は未だ持ち合わせていない。大切なものを失って、たどり着いたこの街でまた大切なものを失って、自分だけ生き延びて、そうして今私は。
楊の顔が浮かぶ。声が、熱が、私を狂わせる。死ななかった理由も、生き続けている訳も、答えられないまま侵食されていく。
自宅へ戻ると、すぐに身を清めて着替えた。買ってきた昼食をとった後、疲労感は残っていたが家でじっとしている気にもなれなかったのでまた出かけることにした。今日は丸一日休みだから、まだ時間は沢山ある。今日は、夜が来なければいいのに。そうすれば会わずに居られるのに。いっそ、逃げてしまおうか。そうしたらあの男は私を殺すだろうか、それとも興味を無くして忘れ去るだろうか。後者であれば都合がいいはずなのに、嬉しいとは欠片も思えない。その事実がより私の心を暗く、重くさせる。こんなにも痛く苦しいのなら、恋なんて知らずにいた方が良かった。
通りを歩いている最中に差し出された大輪の薔薇を素通りし、まとわりつく男を無視し続ける。イタリア男というのは女であれば見境ない傾向にあるが、今日はいつにも増して声をかけられる。辟易しながら宛もなくさ迷っているうちに、教会へ至る道に来ていたことに気が付く。ディーラーになってから遠のいていた場所だ。行こうか行くまいか迷っているうちに、また声をかけられる。聞き覚えのあるような声に目を向けると、会ったことはないのに見覚えのあるような不思議な男が立っていた。
「突然済まない。思い詰めた顔をしているようだったので、つい声をかけてしまった」
こちらを口説こうとしているのではなく、純粋に心配しているような様子に、ふと心が凪ぐのを感じ、思い出した。
『確かに我がカジノは大損害を受けました。しかし、イカサマもなしにこれだけの事をやってのけるとは、大したものです。そうですねえ、では、ここで働いていただく、というのはどうでしょう』
私がこの街で無事に過ごせているのは、支配人が私に利用価値を見出してくれたからだ。思惑が何だったにせよ、それで救われたのは確かだった。
「……ご親切にどうも、シニョーレ。少し、悩み事があって」
「……見知らぬ男で良ければ、話を聞こうか。他人の方が話せる悩みもあるだろうし」
「……そうかもしれない。なら、少しだけ、いいかしら」
「きっと誰からも止めておけと言われる、危険な男を好きになってしまったの。その男は私に、今は興味を持っているようだけど、いつ関心がなくなるかわかったものじゃない。でも飽きるまでは決して手放してはくれなくて。もしその日がくれば、きっと私は、悲しくて死んでしまいたくなる。そのことに絶望しているの」
「酷い男を好きになったものだね」
「本当にそう。自分の愚かしさに腹が立つわ」
よりにもよって、何故あの男なのだろう。
「……その男は、君を幸せにはしないと思うよ」
「……そうね。でも、誰かに幸せにしてもらいたいかというと、それも違う気がする。幸せにしてもらいたいから、誰かを好きになるのではない、と思うの」
「でも、君は今絶望している、と言ったね。それならいっそ、忘れてしまえばいい。辛いのなら、この街を離れてみてもいいんじゃないか」
その選択肢は確かに持っている。教国が国教会に対して私の捜索を断念させたのであれば、もしかすると教国で保護してもらえるかもしれない。そうして、あの男を忘れて生きていく。いや、もう、忘れることは出来ない。一生私の心の中に巣食ったまま、消えない傷を負って生きていく。それならば、もう、いっそ。飽きたその瞬間に殺して欲しい。
「忘れられないわ。出会ってしまったんだもの。……もう、戻れない」
答えが出てしまった。それが、幸せには至らない道だとしても。
「それが、君を破滅させるとしても?」
「ええ。…………心は決まったわ」
男は複雑そうな顔をしたが、諦めたように微笑んだ。
「数年前、私、窮地に陥ったところをある人に助けられたの。そのことを、今でもずっと、感謝しているわ。それなのに、自分から破滅しようだなんて、呆れられてしまうわね」
「……それでも、決めたんだろう。君の人生は君の物だ。好きに生きるといい」
「……ええ。話を聞いてくれてありがとう、シニョーレ。さようなら」
「さようなら、シニョリーナ」
その人は儚く微笑んで立ち去っていった。何を考えて、マフィア相手に喧嘩を吹っかけたのか、私には知る由もない。私は雇い主のことは何一つ知らないのだ。でも、きっと彼も決めたのだろう。
カジノで客の相手をしている途中、見てはいけないものを見てしまった気がする。気のせいかと思い先程よりも意識的に確認すると、やはりいた。カジノの支配人に宣戦布告しておいて、こうも堂々と侵入するとは。楊らしいと言えばそうかもしれない。気が遠くなりそうになりながらもゲーム進行を続ける。
今日は久々にカジノ荒らしの相手をすることなった。偽札を増刷しているのであればカジノ自体に大した痛手はないのだろうが、それでは私がここにいる意義がない。どうして借りを返した後もここに残っているのか。金は充分に溜まっているのだから、イタリアでなくてもどこにでも行ける。それなのに私がここに留まり続けるのは、ひとえに単純な理由1つだけだった。
勤務時間を終えて、逃げれるものなら逃げてしまいたかったのに、私の足はいつものようにヴェレーノへ向いていた。昨日の件について何か言われるかと思ったが、予想に反して楊は何も触れずにいる。それにひとまずは安堵し、話を切り出すことができた。
「まさかカジノに侵入するだなんて思わなかったわ」
「……ほう?」
「見かけた時には流石に心臓が止まるかと思った。よりにもよって私に目撃させないで」
楊は何を考えてか愉快そうに笑う。
「お前がどんな顔をするのか見物だったが、あまりに表情が変わらなかったから気づいていないとばかり」
「仕事中に顔に出すわけないでしょう」
「ポーカーフェイスが売りだものな。おかげでまあまあ面白いものが見られた」
「……面白いもの?」
「何故ディーラーなんぞ続けているのか疑問だったが、お前はあれを愉しんでいるらしい」
私は少し驚いて、まじまじと楊の顔を見つめた。
「幸運の女神に愛されている、か。違うな。動体視力と記憶力がずば抜けているが故の引きの強さだ。加えて強気な駆け引きと堂々としたはったり。国営カジノのディーラーにしては異質だ。お前を迎え入れた支配人はやはりイカれているな」
「…………ふふ」
言外に私もイカれていると言われているようなものだが、イカれ具合では楊には遠く及ばないだろう。でも、確かに彼の言う通りだった。
「そうね、愉しんでやっているのは確かよ。負ければ大損って時に、大逆転勝利を掴むのは気持ちがいいわ」
一手読み違っただけで全てが台無しになってしまう。その危うさを飛び越えた先の快感がたまらないのだ。教会出身の女が言うことではないだろうし、こんなことを言えばただでさえ奇異の目で見られているのにますます気狂い扱いされてしまうだろう。でも、この男だけはきっと、呆れるでも嘲るでもなく、こんな風に笑うのだろう。楊は機嫌が良さそうで、気がつくと手を引かれ、いつの間にか楊の顔越しに天蓋が見えていた。これはそういう流れの話だったのか戸惑っていると、それを察して愉快そうに笑う。
「興が乗った。今夜は、相手をしてもらおう」
「……今の話のどこにそんな要素があったの」
「さあな、そんなものはどうでもいい。……単に、お前が破滅する所が見てみたくなった」
何か言うべきなのだろうが、何も言葉が出てこない。世界が変えられてしまいそうな予感。いつからだろう、もうとっくに気づいてはいた。退路は既に絶たれている。
「昨夜は逃がしてやったが、そう何度も逃げられるとは思っていないだろう?」
昨夜だけの気まぐれであれば、どんなに良かったか。逃げ場なんて、最初からなかった。私はずっとこの男の手の内にいたのだ。あの夜から、ずっと。
「…………私は、好きでもない男に抱かれはしない」
「なら、どうする」
覚悟というより、もう諦めに近い。ああ、何故よりにもよってこの男なのだ。
「だから、あなたの望み通り、破滅していくしかないのでしょうね」
そう言うことが分かっていたように、いい切る前に顔が近づいてくる。見ていられなくて瞼を閉じると、深く口付けられる。もうおしまいだ。千と一夜を越えた朝に、私はたどり着けるだろうか。それとも夜明けと同時に事切れるだろうか。耳元で私の名を囁く声の熱に思考が溶けていく。もう、なんだっていい。どうなってもいい。ここで終わりで構わない。こんな危ない男に惚れてしまったのなら、もう他の誰かが心に入る隙などどこにもないだろう。だから、もう、いいのだ。
目を覚まして感じたのは、後悔ではなく果てしない羞恥心だった。乱暴にされるかと思っていたのに、思いの外丁寧に触れられた。けれど遠慮は少しもなく、全て暴かれてしまったような気さえする。見上げればすぐそこにある寝顔も、体に巻き付く手足も、私を動揺させてやまない。これならいっそ殺されていたほうがよかったのかもしれない。どうして、いつの間にこんなに好きになってしまっていたのだろう。思考がぐちゃぐちゃで、もう既に壊れてしまいそうだ。
「……」
一瞬で息が止まる。閉じていた瞼から、金色の瞳が私を映し出していた。この目に、私は何もかもを曝け出してしまったのだ。思い出すと共に体温が上がっていくのを感じて、慌てて目を逸らした。
「……おい。起きて早々襲われたくないのなら、そんな顔をするな」
「制御できるなら、やってるわよ。でもこんなの、初めてで、私、どうかしてしまったんだわ」
一度抱かれただけでこんなにも心乱されてしまうなんて思いもしなかったのだ。楊は黙り込んでしまったが、それが呆れのせいなのかそれとも寝惚けているせいなのか確かめることすらできない。どちらでもないのだと気づいたときには体は組み敷かれていて、上に乗った楊は昨夜と同じ目をしていた。私は数秒の間それに心囚われ、ぎこちなく目を逸らす。
「レイラ」
名を呼ばれるだけで身体が震える。ああ、なんて恐ろしいのだろう。
「俺を見ろ」
そんなこと出来るはずもない。今度こそ確実にとどめを刺されてしまう。
「レイラ」
それなのに愚かな私は恐る恐る視線を戻してしまった。楊は満足そうに目を細める。そうなると今度は逆に、目を離すことができなくなってしまった。分かっている。分かっているのだ。もう、とっくに致命傷なのだと。私はこの男を愛してしまったのだ。
「あなたなんか、好きになるはずじゃなかったのに」
泣きたい気持ちで負け惜しみの台詞を吐くと、楊は喉を鳴らして可笑しそうに笑った。
「幸運の女神に愛された娘に見初められるとは、俺も存外、幸運らしい」
その目に見つめられているだけで、こんなにも心が震える。よりにもよってこの男に愛してほしいだなんて、やはり破滅的だ。穏やかな幸せとは程遠い男に心奪われる私のどこが幸運の持ち主なのだろう。
次に目覚めると既に日は高く、部屋には誰もいなかった。倦怠感と違和感を抱えながら立ち上がり、何とか身支度を整える。誰かに恋焦がれるというのは、自分で自分の首を絞めているようなものなのかもしれない。自分の気持ちに掻き乱され、振り回され、自分さえも手放してしまいそうになる。なんて恐ろしいのだろう。壊れてしまいそうだ。昨日の私は感情的で、衝動的で、理性というものが何一つ働かなかった。後悔、というよりも果てしなく絶望を覚える。私は、ここまで生きてきて、一体何をしているんだろう。何のために、ここまで。
『何故大人しく神の御元へ行かなかった』
今尚頭に響く声への答えを、私は未だ持ち合わせていない。大切なものを失って、たどり着いたこの街でまた大切なものを失って、自分だけ生き延びて、そうして今私は。
楊の顔が浮かぶ。声が、熱が、私を狂わせる。死ななかった理由も、生き続けている訳も、答えられないまま侵食されていく。
自宅へ戻ると、すぐに身を清めて着替えた。買ってきた昼食をとった後、疲労感は残っていたが家でじっとしている気にもなれなかったのでまた出かけることにした。今日は丸一日休みだから、まだ時間は沢山ある。今日は、夜が来なければいいのに。そうすれば会わずに居られるのに。いっそ、逃げてしまおうか。そうしたらあの男は私を殺すだろうか、それとも興味を無くして忘れ去るだろうか。後者であれば都合がいいはずなのに、嬉しいとは欠片も思えない。その事実がより私の心を暗く、重くさせる。こんなにも痛く苦しいのなら、恋なんて知らずにいた方が良かった。
通りを歩いている最中に差し出された大輪の薔薇を素通りし、まとわりつく男を無視し続ける。イタリア男というのは女であれば見境ない傾向にあるが、今日はいつにも増して声をかけられる。辟易しながら宛もなくさ迷っているうちに、教会へ至る道に来ていたことに気が付く。ディーラーになってから遠のいていた場所だ。行こうか行くまいか迷っているうちに、また声をかけられる。聞き覚えのあるような声に目を向けると、会ったことはないのに見覚えのあるような不思議な男が立っていた。
「突然済まない。思い詰めた顔をしているようだったので、つい声をかけてしまった」
こちらを口説こうとしているのではなく、純粋に心配しているような様子に、ふと心が凪ぐのを感じ、思い出した。
『確かに我がカジノは大損害を受けました。しかし、イカサマもなしにこれだけの事をやってのけるとは、大したものです。そうですねえ、では、ここで働いていただく、というのはどうでしょう』
私がこの街で無事に過ごせているのは、支配人が私に利用価値を見出してくれたからだ。思惑が何だったにせよ、それで救われたのは確かだった。
「……ご親切にどうも、シニョーレ。少し、悩み事があって」
「……見知らぬ男で良ければ、話を聞こうか。他人の方が話せる悩みもあるだろうし」
「……そうかもしれない。なら、少しだけ、いいかしら」
「きっと誰からも止めておけと言われる、危険な男を好きになってしまったの。その男は私に、今は興味を持っているようだけど、いつ関心がなくなるかわかったものじゃない。でも飽きるまでは決して手放してはくれなくて。もしその日がくれば、きっと私は、悲しくて死んでしまいたくなる。そのことに絶望しているの」
「酷い男を好きになったものだね」
「本当にそう。自分の愚かしさに腹が立つわ」
よりにもよって、何故あの男なのだろう。
「……その男は、君を幸せにはしないと思うよ」
「……そうね。でも、誰かに幸せにしてもらいたいかというと、それも違う気がする。幸せにしてもらいたいから、誰かを好きになるのではない、と思うの」
「でも、君は今絶望している、と言ったね。それならいっそ、忘れてしまえばいい。辛いのなら、この街を離れてみてもいいんじゃないか」
その選択肢は確かに持っている。教国が国教会に対して私の捜索を断念させたのであれば、もしかすると教国で保護してもらえるかもしれない。そうして、あの男を忘れて生きていく。いや、もう、忘れることは出来ない。一生私の心の中に巣食ったまま、消えない傷を負って生きていく。それならば、もう、いっそ。飽きたその瞬間に殺して欲しい。
「忘れられないわ。出会ってしまったんだもの。……もう、戻れない」
答えが出てしまった。それが、幸せには至らない道だとしても。
「それが、君を破滅させるとしても?」
「ええ。…………心は決まったわ」
男は複雑そうな顔をしたが、諦めたように微笑んだ。
「数年前、私、窮地に陥ったところをある人に助けられたの。そのことを、今でもずっと、感謝しているわ。それなのに、自分から破滅しようだなんて、呆れられてしまうわね」
「……それでも、決めたんだろう。君の人生は君の物だ。好きに生きるといい」
「……ええ。話を聞いてくれてありがとう、シニョーレ。さようなら」
「さようなら、シニョリーナ」
その人は儚く微笑んで立ち去っていった。何を考えて、マフィア相手に喧嘩を吹っかけたのか、私には知る由もない。私は雇い主のことは何一つ知らないのだ。でも、きっと彼も決めたのだろう。