1925
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目が覚めて、息をついた。外はまだ薄暗いけれど、朝は朝だ。このまま帰ってしまおう。今日の勤務は夜からだから、そのまま寝直せばいい。寝台から出ようとすると、突然伸びてきた腕に引き戻された。いつの間にか起きていた楊が訝しげにこちらを見ている。
「どこへ行く」
「……家に帰ろうかと」
「……魘されていたようだが」
「……夢見が悪かっただけよ」
楊は眉を寄せてため息をついた。呆れるくらいなら聞かなければいいのに。
「話せ」
有無を言わさぬ声色は、私が話すまで折れないのだろうが、それでも躊躇われるのは、他人に弱さを見せたくないからだ。
「でも」
「話せ」
二度同じ言葉が紡がれる。気は乗らないが、彼が望むのであれば、話すしかない。それが私の役回りだ。
「前に働いていた店の主人が、私に責任を押し付けようとしたでしょう。夢の中の私は逃げ切れなかった。最後の勝負でボロ負けして、それで終わり」
「……くだらんな」
くだらない、確かにそうだろう。もう既に終わった出来事の、もしもの悪夢に魘されるなんて、我ながら情けない。
「現実のお前は、上手くやってのけただろう。このブルローネでマフィアを相手にして生き残った。それはもう幸運であるという以上に、お前に強い意思とそれを実行するだけ力があったからだ」
楊は何故こんなに当たり前のことを言わなければならないのだと言わんばかりにつまらなそうに続ける。
「現にお前は、俺を相手にして平静を崩さない。恐れ、震える時も、決して目を逸らさない。そんなお前が、夢なんぞに怯えるな」
そう言うと楊は私を抱き寄せた。心臓がどくりと脈を打ち、体が強ばる。
「まだ暗い。寝ていろ。それから、勝手に出ることを許した覚えはない」
耳元で囁く声が勝手なことを言う。最初は話をして帰るだけだったのに、いつの間にか隣で眠るようになって、今度は出ていくのにも許可がいるのか。それとも、千と一夜なんて、本気で言っているのか。共に過ごす時間が積み重なっていくにつれ、気まぐれな態度にも、肌の温もりにも、随分馴れてしまった。良くない傾向だと、今では分かる。どうしてこうなることを受け入れてしまったのだろう。危険な男だと分かっているはずなのに。その答えに、私はもう薄々気がついている。見ないふりをしているだけで、確かに芽生えはじめていた感情がどれほど大きくなっているのか知りたくもなかった。
「今夜は、遅くなるかもしれない」
「……」
楊は聞いているのかいないのか、煙管を加えてつまらなそうな顔をしている。
「大きな勝負があるの」
「……負けたら結婚する、とか言うやつか」
「……知っていたのね」
「レッドフォードが要らぬ心配をしていた」
どういう話の流れで私の話題が上がったのだろう。少なくとも誤解を積極的に訂正しようとする男でないのは確かだろう。
外国の金持ちの男に勝負をもちかけられたのは先日のことだ。ここ数年バカンスの度にカジノに通い、飽きることなく私を口説き続けた男が、突如そんなことを言い出した。結婚なんて単語に周囲に居た客は騒ぎ出し、囃し立てられ、最終的に支配人の許可の元で賭けは成立した。ふざけた話だ。負けるつもりは毛頭ないが、私の進退を勝手に賭けの対象にされるのは気分が悪い。
「……」
「何を柄にもなく緊張している。それとも自信が無いのか?」
「……負けないわ、絶対に」
「そうだろうな。お前はそういう女だ。……俺はまだお前を手放す気はない。負ければどうなるか、賢いお前ならよく分かっているはずだな?」
楊は笑みを浮かべた。手放す気はないだなんて、どういうつもりで言っているのだろう。私たちの関係は、私が語り部で、彼が聞き手。つまらない話をすれば夜明け前に殺されてもおかしくない、そんな関係。最初は面倒なだけだったのに、どうしてか今となっては、嫌と思えないでいる。いつ殺されるか分からない相手なのに、賭けで私をものとして扱う今夜の対戦相手の男の方にこそ嫌悪を感じていた。
裏口から出ると、先程散々負かしてやった男が縋り付いてきたので顔面を蹴飛ばしてやった。鼻血を出してしまったが、痛みで怒りが増大したのかそれでも尚諦めようとしないのでどうしようかと思っていた所。
「レイラ」
暗がりから手が伸びてきた。それは私の手を掴み、ぐい、と引っ張る。代わりに前に出た声の主を見た途端、先程の男は悲鳴を上げ走り去っていった。一体どんな顔をしていのか、楊は真顔でこちらを振り返ると、そのまま歩き出した。手が繋がれているため自ずと私も足を動かす。
「あんな男に手加減などするな。本気でやれ」
「…………ありがとう。……その、間に入ってもらって、助かった」
礼を言うと楊は微かに笑みを浮かべたようだった。
「…………勝ったか」
「…………勝ったわ。…………あんな金に物言わせるだけの男、いくらやったって負けるはずない。吠え面かかせてやったわ」
私はまた、自分を勝ち取ることが出来た。晴れ晴れしい気持ちになって呟く。
「………………ざまあみろ」
見上げた夜空には月と星が瞬いている。冷たい空気を肺いっぱいに取り込むと、熱気が薄れ頭が冴えてくる。そういえば、わざわざ迎えに来てくれたのだろうか。いや、迎えに来てくれた、なんて、表現の仕方はおかしいけれど。見上げると彼もこちらを見ていて、どうしてかお互い足が止まった。顎に手がかけられたと思ったら、気がついた時にはもう、唇が触れていた。手を握られているからか、顎を掴まれているからか、賭博の興奮が抜けきらないのか、それとも違う理由からなのか、舌先が絡められても逃げるための行動が取れない。
「…………どう、して」
息も絶え絶えになりながらそう呟くと、楊は何が疑問なのか分からないと言ったように片眉を上げた。
「どうして、だと?そうしたいと思ったからそうした。それだけだ」
違う。そうではない。どうして私は、嫌だと思わない。どうして拒絶しない。どうして、今、受け入れようとした。答えを出せないまままた腕を引かれて歩き始める。出せないのではない、出したくないのだ。答えが出れば、引き返せない。破滅への第一歩を踏み出したいなんて、誰も思わないだろう。それでも、無理やり手を振りほどくことは出来なかった。
「遅い」
待たせた時には謝罪の一つもない癖に、今日はいたく機嫌が悪いらしい。構成員が何とも言えぬ気まずそうな顔をしていたのはそのせいなようだ。なんでもブルローネマフィアは今夜揃って支配人に宣戦布告をしに行ったそうだが、支配人に何か言われでもしたのだろうか。
「悪かったわね」
寝台に座り込む楊の元へ歩み寄ると目で促された。いよいよ逃げ場が無くなってきたと思いながら隅に腰掛け、自分から靴を脱ぐことの意味を考えてはそれを打ち消す。そんなことより、機嫌の悪いこの男をどう相手にするかが問題だ。靴を片方落とし、もう片方の踵に手をかけた時、背後から手が回って引きずり込まれた。靴がひとりでに落ちる音がして、気が付けば抱きすくめられている。深く息を吐くのが耳元でまざまざと感じられて、体が硬直するのが分かった。それが恐怖なのかはたまた別の何かなのか、そのどちらもなのかの区別も付かず、心臓が早鐘を打つ。この男の傍にいると、感情が複雑に作用して訳が分からずどうにかなってしまいそうになる。
「カジノで働く前の話を、レッドフォードに聞かされた」
「……」
もしかして機嫌が悪いのは支配人のせいだけではないのかもしれないと、その時になって思い至った。
「店の主人とは、古馴染みという話だったか。ストラノで窃盗団の頭をやっていた頃の仲間、だそうだな。全く、聞いてもいないのにご丁寧なことだ」
「……それは、本当にそうね」
わざわざ昔の話を持ち出すなんてご苦労な事だ。おかげでまた危機的状況に陥る羽目になった。
「良かったな、レイラ。おかげで今夜の話題には事欠かないようだ」
「……そうね、頭を悩まさずに済みそう」
私に責任を押し付け、自分だけ助かろうと計画した男が私を睨みつけた。かつての仲間だった男。
「お前が、奇跡みたいに勝ち続けるから、俺にだって、出来ると思ったんだよ!お前を売れば金になったのに!お前が逃げるから。何もかもお前のせいだ。あの時だって、お前が警察に捕まったから皆死んだんだ!」
この男は、いつからこうなってしまったのだろう。店を持つのが夢だと言って、それを叶えたというのに。唯一生き残った、昔の仲間。いつから、というなら、もう、あの時から何も変わっていないのだ。ああ、どうして今まで見逃してきてしまったのだろう。
「私が…………俺が、何も知らないとでも、思っているのか」
殺してやれば良かった。あの時、殺してやれば良かった。
「れ、レオーネ」
殺意をこめて見据えると、裏切り者が、昔の名を呼ぶ。いつ追っ手が来るかも分からない状況で、女の子供が一人で生きていくには厳しい環境のストラノでの日々の中で、私は男の振りをしていた。皆が皆私を男と思い込み、そう呼んだ。最初に私をそう呼んだのは目の前にいるこの男だ。私を、勇者だと、そう呼んだ。
「お前が警察と通じて、俺達を売ったこと。お前がそのおかげで一人だけ金持ちの家の養子になって、他の奴らを見殺しにしたこと、俺が本当に知らないとでも思ってるのか!」
跪いたままのウーゴを思い切り蹴り上げると、無様に床に転がった。その体に乗り上げて、逃げる時に持ち出してきたナイフを顔の横に突き刺す。耳を掠めたようで血が顔に飛んだが気にしていられない。耳障りな悲鳴を上げるので片手で口を塞いでやった。
「お前だけでも生きていてくれてよかったと、見逃した結果がこれだ。お前は俺を二度も裏切った。皆、皆、あの冬を越えられなかったのにお前だけが生き残った!カルロ、エリオ、ラウロ、ニーノ、テオ、ヴィート!皆死んだ!なのに、どうして俺を裏切るお前だけが生き残った!」
ナイフを振り翳す。ウーゴの目は恐怖に彩られていたけれど、躊躇いはなかった。でも、あと少しで眉間に突き刺するところで、腕が止まった。
「そこまでだ。その男にはこっちも虚仮にさせられたんでな。そいつは、マフィアの流儀でやらせてもらう」
声でヴィスコンティのボスだと分かった。腕を掴まれている。
「俺達はあんたを見逃す。陽の当たる道を歩きたいなら、その手は汚さねえ方がいい」
顔を上げると、彼は真剣な眼差しをしていた。そのまま体を引き揚げられて、遮るように私を背においやった。
「ウーゴ、残念だ。若いのによく頑張ってるって、応援してたんだがな。よりにもよってクレタで店を出してるお前がこんな真似するとはよ」
「……」
「何か、言い残すことはあるか?」
「…………あのままお前についてたって、俺たちに未来なんてなかった!お前が男なら、ファルツォーネだろうとヴィスコンティだろうと、いくらだってのし上がって行けただろうよ!俺たちはそれについていって、いくらだってお前を押し上げてやれた!だけどお前は、女だった!俺たちを、俺を、騙してた!レオーネ!何でお前みたいな奴が現れたんだよ!ちくしょう!」
私に言えることは、もう何も無いのだと分かった。この街にやって来て、右も左も、言葉もろくに分からず、ただスリを繰り返してその日を生きてきた私に、仲間にならないかと声をかけたのは、この男だった。あの時私は、本当に助けられたのだ。その恩を返そうと、ずっと思っていたけど。
「さようなら、ウーゴ」
「……待てよ!俺を助けろ!お前なら何でも出来るだろ!?いつも奇跡みたいに俺たちを助けてくれたのに、見捨てるのか!」
「私に出来ることはもう、何も無いわ。自分を陥れようとした人を救いたいとは、私は思わない」
喚き声に背を向けて、その場から離れる。何をどう間違ったのかは分からない。私はただ、生きていくのに必死だった。自分のことだけで精一杯な私は、きっと人の上に立つ者の資格はなかっただろう。それでも、そんな私についてきてくれるのであれば、最低限の責任はとろうと思っていた。けれど結局、誰も救えやしなかった。
その日の食糧を得るために仲間達と色々なことをやった。観光客相手にスリや詐欺を繰り返し、その内に警察に睨まれるようになって、ある日摘発された。皆を逃がすことは出来たけれど、私だけ捕まって教会に送られることになった。その時私は熱病にかかっていていつも通りには動けなかったのだ。教会で保護されることになり、シスター達が看病してくれた。まともに動けるのはその冬が終わってからで、皆の様子を見にストラノに行ったら、一人が行方不明で、他は全員冬を越えられなかったことが分かった。その冬は例年の寒さを超えた異常な寒波で、ストラノでは熱病も流行していたのだ。子供の体で耐えられる環境にはなかった。保護されなかったら、きっと私もみんなと同じように死んでいただろう。一人だけ無事だったことがしこりになって、成人すると直ぐに教会を出た。そこで、行方不明になってた仲間が店を開いていることが分かって、誘われて働き始めた。そいつが警察に情報を流したのは、再会した時に直ぐに気がついたけど。折角、生き残ってくれたのだからと、見逃したのが行けなかった。
昔の話なんて、本当はしたくなかった。自分の愚かさと無力さを思い知らされるから。私が本当に奇跡を起こせるような人間だったら、誰も彼も救うことが出来たのかもしれないが、私に出来ることは限られている。守りたいものも守れない。
「この話をしなかったのは、単に、口にしたくなかっただけ。いい思い出ではないし、面白くもないでしょう」
「いや?お前がどんな顔をして人を殺すのか見てみたくなった」
話を聞いての感想がそれとは、本当にこの男の頭はどうなっているのだろうと正気を疑いたくなる。
「…………私は真っ当に生きていきたいのよ」
「偽札に関わるカジノのディーラーが真っ当だと?」
「そこ突かれると痛いから止めてちょうだい」
「まだ辞めないつもりなのか」
「次の仕事先見つけていないの」
「では、俺の女になるか?」
巻き付く腕の力が、俄に強くなる。耳元の囁きに一瞬脳が麻痺して、どう返すのが最適か答えを導き出せない。ぎこちなく首を回してどんな顔をしているのか確かめると、楊は静かにこちらを見つめ返した。嘲りもからかいの色も見せない彼に、更に思考が止まる。にやにやと笑っていたのなら、まだ答えが見つけられたかもしれないのに。見つめあっているうちにいつの間にか唇が合わさっていた。抵抗をしなければという思いが頭を掠めたが、呆然とするあまり行動に移せない。離れても尚何も言えないでいる私に、楊は目を細めて続けた。
「女一人養う甲斐性はある。心配するな」
安心できる要素など金銭面しかない。老鼠の首領の女になるのは果たして真っ当に生きていると言えるのか。それよりも何よりも、どうして私はそれを嬉しいと感じているのか。こんな危険な男。そもそも初めて会った時の事を思い出せ。命を賭けさせられたというのに、何故惹かれることがある。この男に出会ってから、私の人生設計が狂いだした。足元からガラガラと何もかも全て崩れ去ってしまいそうな、底まで落ちていってしまいそうな、そんな気がしていた。
「私は、こんなことで破滅するわけにはいかないのよ……!」
腕を振りほどいて逃げ出した。靴に足先を突っ込んでそのまま駆け出し扉を開け放つ。階段を駆け下りてその間の勢いで夜のヴェレーノを飛び出すと、冬に近づく秋の肌寒さが頬を撫でた。見上げると、窓から楊がこちらを見下ろし愉快そうに笑みを浮かべているのが見えた。あの時この男に出会ってしまったのが、私の運のつきだった。視線から逃げるように走り出す。ああ、このままどこまでも逃げてしまいたい。逃げ場なんてもうどこにもないというのに、どこに逃げるというのだろう。
「どこへ行く」
「……家に帰ろうかと」
「……魘されていたようだが」
「……夢見が悪かっただけよ」
楊は眉を寄せてため息をついた。呆れるくらいなら聞かなければいいのに。
「話せ」
有無を言わさぬ声色は、私が話すまで折れないのだろうが、それでも躊躇われるのは、他人に弱さを見せたくないからだ。
「でも」
「話せ」
二度同じ言葉が紡がれる。気は乗らないが、彼が望むのであれば、話すしかない。それが私の役回りだ。
「前に働いていた店の主人が、私に責任を押し付けようとしたでしょう。夢の中の私は逃げ切れなかった。最後の勝負でボロ負けして、それで終わり」
「……くだらんな」
くだらない、確かにそうだろう。もう既に終わった出来事の、もしもの悪夢に魘されるなんて、我ながら情けない。
「現実のお前は、上手くやってのけただろう。このブルローネでマフィアを相手にして生き残った。それはもう幸運であるという以上に、お前に強い意思とそれを実行するだけ力があったからだ」
楊は何故こんなに当たり前のことを言わなければならないのだと言わんばかりにつまらなそうに続ける。
「現にお前は、俺を相手にして平静を崩さない。恐れ、震える時も、決して目を逸らさない。そんなお前が、夢なんぞに怯えるな」
そう言うと楊は私を抱き寄せた。心臓がどくりと脈を打ち、体が強ばる。
「まだ暗い。寝ていろ。それから、勝手に出ることを許した覚えはない」
耳元で囁く声が勝手なことを言う。最初は話をして帰るだけだったのに、いつの間にか隣で眠るようになって、今度は出ていくのにも許可がいるのか。それとも、千と一夜なんて、本気で言っているのか。共に過ごす時間が積み重なっていくにつれ、気まぐれな態度にも、肌の温もりにも、随分馴れてしまった。良くない傾向だと、今では分かる。どうしてこうなることを受け入れてしまったのだろう。危険な男だと分かっているはずなのに。その答えに、私はもう薄々気がついている。見ないふりをしているだけで、確かに芽生えはじめていた感情がどれほど大きくなっているのか知りたくもなかった。
「今夜は、遅くなるかもしれない」
「……」
楊は聞いているのかいないのか、煙管を加えてつまらなそうな顔をしている。
「大きな勝負があるの」
「……負けたら結婚する、とか言うやつか」
「……知っていたのね」
「レッドフォードが要らぬ心配をしていた」
どういう話の流れで私の話題が上がったのだろう。少なくとも誤解を積極的に訂正しようとする男でないのは確かだろう。
外国の金持ちの男に勝負をもちかけられたのは先日のことだ。ここ数年バカンスの度にカジノに通い、飽きることなく私を口説き続けた男が、突如そんなことを言い出した。結婚なんて単語に周囲に居た客は騒ぎ出し、囃し立てられ、最終的に支配人の許可の元で賭けは成立した。ふざけた話だ。負けるつもりは毛頭ないが、私の進退を勝手に賭けの対象にされるのは気分が悪い。
「……」
「何を柄にもなく緊張している。それとも自信が無いのか?」
「……負けないわ、絶対に」
「そうだろうな。お前はそういう女だ。……俺はまだお前を手放す気はない。負ければどうなるか、賢いお前ならよく分かっているはずだな?」
楊は笑みを浮かべた。手放す気はないだなんて、どういうつもりで言っているのだろう。私たちの関係は、私が語り部で、彼が聞き手。つまらない話をすれば夜明け前に殺されてもおかしくない、そんな関係。最初は面倒なだけだったのに、どうしてか今となっては、嫌と思えないでいる。いつ殺されるか分からない相手なのに、賭けで私をものとして扱う今夜の対戦相手の男の方にこそ嫌悪を感じていた。
裏口から出ると、先程散々負かしてやった男が縋り付いてきたので顔面を蹴飛ばしてやった。鼻血を出してしまったが、痛みで怒りが増大したのかそれでも尚諦めようとしないのでどうしようかと思っていた所。
「レイラ」
暗がりから手が伸びてきた。それは私の手を掴み、ぐい、と引っ張る。代わりに前に出た声の主を見た途端、先程の男は悲鳴を上げ走り去っていった。一体どんな顔をしていのか、楊は真顔でこちらを振り返ると、そのまま歩き出した。手が繋がれているため自ずと私も足を動かす。
「あんな男に手加減などするな。本気でやれ」
「…………ありがとう。……その、間に入ってもらって、助かった」
礼を言うと楊は微かに笑みを浮かべたようだった。
「…………勝ったか」
「…………勝ったわ。…………あんな金に物言わせるだけの男、いくらやったって負けるはずない。吠え面かかせてやったわ」
私はまた、自分を勝ち取ることが出来た。晴れ晴れしい気持ちになって呟く。
「………………ざまあみろ」
見上げた夜空には月と星が瞬いている。冷たい空気を肺いっぱいに取り込むと、熱気が薄れ頭が冴えてくる。そういえば、わざわざ迎えに来てくれたのだろうか。いや、迎えに来てくれた、なんて、表現の仕方はおかしいけれど。見上げると彼もこちらを見ていて、どうしてかお互い足が止まった。顎に手がかけられたと思ったら、気がついた時にはもう、唇が触れていた。手を握られているからか、顎を掴まれているからか、賭博の興奮が抜けきらないのか、それとも違う理由からなのか、舌先が絡められても逃げるための行動が取れない。
「…………どう、して」
息も絶え絶えになりながらそう呟くと、楊は何が疑問なのか分からないと言ったように片眉を上げた。
「どうして、だと?そうしたいと思ったからそうした。それだけだ」
違う。そうではない。どうして私は、嫌だと思わない。どうして拒絶しない。どうして、今、受け入れようとした。答えを出せないまままた腕を引かれて歩き始める。出せないのではない、出したくないのだ。答えが出れば、引き返せない。破滅への第一歩を踏み出したいなんて、誰も思わないだろう。それでも、無理やり手を振りほどくことは出来なかった。
「遅い」
待たせた時には謝罪の一つもない癖に、今日はいたく機嫌が悪いらしい。構成員が何とも言えぬ気まずそうな顔をしていたのはそのせいなようだ。なんでもブルローネマフィアは今夜揃って支配人に宣戦布告をしに行ったそうだが、支配人に何か言われでもしたのだろうか。
「悪かったわね」
寝台に座り込む楊の元へ歩み寄ると目で促された。いよいよ逃げ場が無くなってきたと思いながら隅に腰掛け、自分から靴を脱ぐことの意味を考えてはそれを打ち消す。そんなことより、機嫌の悪いこの男をどう相手にするかが問題だ。靴を片方落とし、もう片方の踵に手をかけた時、背後から手が回って引きずり込まれた。靴がひとりでに落ちる音がして、気が付けば抱きすくめられている。深く息を吐くのが耳元でまざまざと感じられて、体が硬直するのが分かった。それが恐怖なのかはたまた別の何かなのか、そのどちらもなのかの区別も付かず、心臓が早鐘を打つ。この男の傍にいると、感情が複雑に作用して訳が分からずどうにかなってしまいそうになる。
「カジノで働く前の話を、レッドフォードに聞かされた」
「……」
もしかして機嫌が悪いのは支配人のせいだけではないのかもしれないと、その時になって思い至った。
「店の主人とは、古馴染みという話だったか。ストラノで窃盗団の頭をやっていた頃の仲間、だそうだな。全く、聞いてもいないのにご丁寧なことだ」
「……それは、本当にそうね」
わざわざ昔の話を持ち出すなんてご苦労な事だ。おかげでまた危機的状況に陥る羽目になった。
「良かったな、レイラ。おかげで今夜の話題には事欠かないようだ」
「……そうね、頭を悩まさずに済みそう」
私に責任を押し付け、自分だけ助かろうと計画した男が私を睨みつけた。かつての仲間だった男。
「お前が、奇跡みたいに勝ち続けるから、俺にだって、出来ると思ったんだよ!お前を売れば金になったのに!お前が逃げるから。何もかもお前のせいだ。あの時だって、お前が警察に捕まったから皆死んだんだ!」
この男は、いつからこうなってしまったのだろう。店を持つのが夢だと言って、それを叶えたというのに。唯一生き残った、昔の仲間。いつから、というなら、もう、あの時から何も変わっていないのだ。ああ、どうして今まで見逃してきてしまったのだろう。
「私が…………俺が、何も知らないとでも、思っているのか」
殺してやれば良かった。あの時、殺してやれば良かった。
「れ、レオーネ」
殺意をこめて見据えると、裏切り者が、昔の名を呼ぶ。いつ追っ手が来るかも分からない状況で、女の子供が一人で生きていくには厳しい環境のストラノでの日々の中で、私は男の振りをしていた。皆が皆私を男と思い込み、そう呼んだ。最初に私をそう呼んだのは目の前にいるこの男だ。私を、勇者だと、そう呼んだ。
「お前が警察と通じて、俺達を売ったこと。お前がそのおかげで一人だけ金持ちの家の養子になって、他の奴らを見殺しにしたこと、俺が本当に知らないとでも思ってるのか!」
跪いたままのウーゴを思い切り蹴り上げると、無様に床に転がった。その体に乗り上げて、逃げる時に持ち出してきたナイフを顔の横に突き刺す。耳を掠めたようで血が顔に飛んだが気にしていられない。耳障りな悲鳴を上げるので片手で口を塞いでやった。
「お前だけでも生きていてくれてよかったと、見逃した結果がこれだ。お前は俺を二度も裏切った。皆、皆、あの冬を越えられなかったのにお前だけが生き残った!カルロ、エリオ、ラウロ、ニーノ、テオ、ヴィート!皆死んだ!なのに、どうして俺を裏切るお前だけが生き残った!」
ナイフを振り翳す。ウーゴの目は恐怖に彩られていたけれど、躊躇いはなかった。でも、あと少しで眉間に突き刺するところで、腕が止まった。
「そこまでだ。その男にはこっちも虚仮にさせられたんでな。そいつは、マフィアの流儀でやらせてもらう」
声でヴィスコンティのボスだと分かった。腕を掴まれている。
「俺達はあんたを見逃す。陽の当たる道を歩きたいなら、その手は汚さねえ方がいい」
顔を上げると、彼は真剣な眼差しをしていた。そのまま体を引き揚げられて、遮るように私を背においやった。
「ウーゴ、残念だ。若いのによく頑張ってるって、応援してたんだがな。よりにもよってクレタで店を出してるお前がこんな真似するとはよ」
「……」
「何か、言い残すことはあるか?」
「…………あのままお前についてたって、俺たちに未来なんてなかった!お前が男なら、ファルツォーネだろうとヴィスコンティだろうと、いくらだってのし上がって行けただろうよ!俺たちはそれについていって、いくらだってお前を押し上げてやれた!だけどお前は、女だった!俺たちを、俺を、騙してた!レオーネ!何でお前みたいな奴が現れたんだよ!ちくしょう!」
私に言えることは、もう何も無いのだと分かった。この街にやって来て、右も左も、言葉もろくに分からず、ただスリを繰り返してその日を生きてきた私に、仲間にならないかと声をかけたのは、この男だった。あの時私は、本当に助けられたのだ。その恩を返そうと、ずっと思っていたけど。
「さようなら、ウーゴ」
「……待てよ!俺を助けろ!お前なら何でも出来るだろ!?いつも奇跡みたいに俺たちを助けてくれたのに、見捨てるのか!」
「私に出来ることはもう、何も無いわ。自分を陥れようとした人を救いたいとは、私は思わない」
喚き声に背を向けて、その場から離れる。何をどう間違ったのかは分からない。私はただ、生きていくのに必死だった。自分のことだけで精一杯な私は、きっと人の上に立つ者の資格はなかっただろう。それでも、そんな私についてきてくれるのであれば、最低限の責任はとろうと思っていた。けれど結局、誰も救えやしなかった。
その日の食糧を得るために仲間達と色々なことをやった。観光客相手にスリや詐欺を繰り返し、その内に警察に睨まれるようになって、ある日摘発された。皆を逃がすことは出来たけれど、私だけ捕まって教会に送られることになった。その時私は熱病にかかっていていつも通りには動けなかったのだ。教会で保護されることになり、シスター達が看病してくれた。まともに動けるのはその冬が終わってからで、皆の様子を見にストラノに行ったら、一人が行方不明で、他は全員冬を越えられなかったことが分かった。その冬は例年の寒さを超えた異常な寒波で、ストラノでは熱病も流行していたのだ。子供の体で耐えられる環境にはなかった。保護されなかったら、きっと私もみんなと同じように死んでいただろう。一人だけ無事だったことがしこりになって、成人すると直ぐに教会を出た。そこで、行方不明になってた仲間が店を開いていることが分かって、誘われて働き始めた。そいつが警察に情報を流したのは、再会した時に直ぐに気がついたけど。折角、生き残ってくれたのだからと、見逃したのが行けなかった。
昔の話なんて、本当はしたくなかった。自分の愚かさと無力さを思い知らされるから。私が本当に奇跡を起こせるような人間だったら、誰も彼も救うことが出来たのかもしれないが、私に出来ることは限られている。守りたいものも守れない。
「この話をしなかったのは、単に、口にしたくなかっただけ。いい思い出ではないし、面白くもないでしょう」
「いや?お前がどんな顔をして人を殺すのか見てみたくなった」
話を聞いての感想がそれとは、本当にこの男の頭はどうなっているのだろうと正気を疑いたくなる。
「…………私は真っ当に生きていきたいのよ」
「偽札に関わるカジノのディーラーが真っ当だと?」
「そこ突かれると痛いから止めてちょうだい」
「まだ辞めないつもりなのか」
「次の仕事先見つけていないの」
「では、俺の女になるか?」
巻き付く腕の力が、俄に強くなる。耳元の囁きに一瞬脳が麻痺して、どう返すのが最適か答えを導き出せない。ぎこちなく首を回してどんな顔をしているのか確かめると、楊は静かにこちらを見つめ返した。嘲りもからかいの色も見せない彼に、更に思考が止まる。にやにやと笑っていたのなら、まだ答えが見つけられたかもしれないのに。見つめあっているうちにいつの間にか唇が合わさっていた。抵抗をしなければという思いが頭を掠めたが、呆然とするあまり行動に移せない。離れても尚何も言えないでいる私に、楊は目を細めて続けた。
「女一人養う甲斐性はある。心配するな」
安心できる要素など金銭面しかない。老鼠の首領の女になるのは果たして真っ当に生きていると言えるのか。それよりも何よりも、どうして私はそれを嬉しいと感じているのか。こんな危険な男。そもそも初めて会った時の事を思い出せ。命を賭けさせられたというのに、何故惹かれることがある。この男に出会ってから、私の人生設計が狂いだした。足元からガラガラと何もかも全て崩れ去ってしまいそうな、底まで落ちていってしまいそうな、そんな気がしていた。
「私は、こんなことで破滅するわけにはいかないのよ……!」
腕を振りほどいて逃げ出した。靴に足先を突っ込んでそのまま駆け出し扉を開け放つ。階段を駆け下りてその間の勢いで夜のヴェレーノを飛び出すと、冬に近づく秋の肌寒さが頬を撫でた。見上げると、窓から楊がこちらを見下ろし愉快そうに笑みを浮かべているのが見えた。あの時この男に出会ってしまったのが、私の運のつきだった。視線から逃げるように走り出す。ああ、このままどこまでも逃げてしまいたい。逃げ場なんてもうどこにもないというのに、どこに逃げるというのだろう。