1925
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話をした後、そのまま抱き枕となって共に寝るのが日課になってしまった。つまり、朝帰りをしているのだ。どうにも奇妙なことになってきている。暇つぶしの道具にされているだけなのに、構成員からもあらぬ疑惑をかけられていた。
「まるでシェヘラザードの真似事をしているような気分だわ」
「何だ、それは」
「千夜一夜物語というお話の語り部の名前よ。簡単に言うと、シャフリヤール王に嫁いだシェヘラザードが、夫に殺されないように毎晩興味の引く話をして、続きは明日と言って自分の命を引き伸ばしていくの」
「……何故、夫は妻を殺そうとする」
「一番目の奥さんが不貞を働いて、女性不信になってしまってね。その後、処女を娶ってはその翌朝には殺してしまうのが続いて、それを止めるために嫁いできたのがシェヘラザードというわけ」
「では、俺がその男と似たようなものと言いたい訳だな」
「まあ、あなたがいつ私を殺すかなんて分からないから、その男よりあなたの方が危険かもね」
「抱いたからと言って殺しはしないが」
「そうね。でも、絶対に殺さないとは言いきれないでしょう」
「そこまで言うなら、試してみるか?」
おかしなことを言うものだと、寝台に寝そべる楊を見やる。彼は何を考えているのか分からない目をして、私の髪に指を絡めた。私の命運を握っている男。男の暇つぶしの道具である私。だというのにこの距離感は、よくない傾向だ。
「止めておくわ。私、まだ破滅したくないもの」
「破滅、だと?」
「あなたみたいな人をうっかりでも好きになってしまったら、私の人生、破滅の道しかないわ。だから、そういうことはしない」
そう言うと楊は私を見上げ、可笑しそうに笑った。笑わせるつもりは無かったのだが、これで今日も面白い話をしたことになるだろう。ノルマは達成した。
休みに家事と買い物を終わらせてその後はゆっくりお茶にしようと思っていたのに、そんな私の目の前に現れたのは楊だった。こんな所に居るはずのない人物を見て驚きに目を見開いていると楊は満足気に笑みを浮かべる。
「……帰ってお茶にしたかったんだけど。折角の休みなのよ」
「ほう、それは知らなかった。では、ここで会ったのも何かの縁だろう。茶はうちで飲むといい」
「…………お茶のお誘いに来たの?」
「たまたまだ」
わざわざお茶に誘いに来るくらいには、気に入られているということなのだろうか。だとしても気まぐれな楊のことだ。いつそうでなくなってもおかしくない。それに、誘いにのる利点が私にあるだろうか。どうせ夜にはいかなくてはならないのだから、余計な労力は割きたくないのが本音だ。
「荷物を半分持ってくれるなら、考えるわ」
「……何故俺がわざわざそんなことを」
「嫌ならいいのよ。じゃあ、また夜に」
そう言って横を通り過ぎようとすると、舌打ちが聞こえてきて腕を掴まれた。下手に出なさすぎていよいよ命が危ないかもしれない。楊は眉を寄せて唸るように何か言った。
「…………寄越せ」
何を言ったか理解した時にはもう既に荷は奪われていた。
「行くぞ」
見たことも無い食べ物は興味深く、思いの外美味しいので来た甲斐があったというものだ。
「おいしい……」
「…………気に入ったか?」
「ええ、とても」
「そうか。遠慮せず食べろ」
「折角の休みを邪魔されたのだから、遠慮なんてしないわ」
食べている間、何が面白いのか楊は私のことをじっと眺めていた。いつもの薄い笑みをうかべるでなく、ただじっと。
「……何かしら」
「気にするな」
「気になるわよ」
「いいから黙って食え」
「一体なんなの……」
どういうつもりなのだろう。この男のやることなすこと、私の理解が追いつかない。言われるままに食べる。自分で作った訳でもないものをただでこんなにたくさん食べられるというのはいいものだ。それが美味しいのであれば尚更。いつの間にか視線は外れ、楊はどことなく機嫌良さそうにお茶を飲んでいた。相変わらず変な男だ。
「1人だけ、カジノにいる人間で、事件に関わってなさそうな人間に心当たりがある」
「……それってもしかして、彼女のこと?」
「……例の娘か」
「ああ。それに、俺らには貸しがあるはずだ」
「返済はもう終わってるけどね」
「確信があるわけじゃねえが、何か話が聞けるかもしれねえと思って、呼んである」
昔世話になった人に深夜教会に呼び出された。楊との時間に遅れるかもしれないとは思ったが、約束の時間など決めていないし、ここの所待たされる時間が多くなってきたので了承したのだが、まさかこんなことになるだなんて思いもしなかった。そこには、ブルローネのマフィアが勢揃いしていた。楊の姿も確認して気が遠くなりそうになる。
「…………ギル?今更この面子の前に私を出すなんて、何事なの」
「よく来てくれたな、アリア。なに、少し話を聞きてえだけだ」
「それは、あなたにかかってる容疑の話?……まさか」
思い当たる節にギルは真剣な目をする。
「わざわざ私を呼ぶっことは、カジノが関わっているというのね」
「察しが早すぎるが、あんたはいつもそうだったな。その様子が演技じゃなきゃ、何も知らねえってことでいいんだな」
「……偽札の件で私が知ることは何も無い。けど、知らないということを証明する方法もないわ。……分かった。聞いてくれれば知っている情報は全部出す。あなた達が探りを入れていることは誰にも口外しない。それでいいかしら」
「話が早くて助かる。悪いようにはしねえから、安心してくれ」
「そうなることを願うばかりね。面倒ごとはもう懲り懲りよ」
「支配人は……人心掌握に長けているわ。人の望む言葉を的確に与えて、その人を認め、理解者として振る舞ううちに、人は段々彼を信奉していくようになる。彼を取り囲んでいるのは、そう言った人達で。彼の言うことなら何でも聞く。カジノ内部ばかりじゃなく、外部にも多くいるようね。それから、用心深くて、重要な情報は一部の人間にしか開示しないし、全貌を把握しているのは彼だけ、ということがままある。私はただの雇われの身だから、その位しか知らないわ。それから、私の台は少し特殊だから、他の台のことに関しては把握できていない」
「特殊って?」
「度を超えて荒稼ぎした客からチップを回収する役割なのよ。あとはチャレンジャーの相手ね。観客を交えて勝負をするの。専ら後者の相手をする方が多いんだけど。他の台から距離が離れていて、観客に囲まれるから。でも、そういえば、私送りになるはずの客が、どういうわけかタダで返されてるというのは、聞いた事あるわ」
なんだか最近空気が浮ついていると感じることがあったが、原因はこれか。勤め先が偽札の鋳造に関わっているだなんて、どうして私の人生は平坦に進んでいってくれないのだろうか。
「でも、何だって支配人は君のことをスカウトしたんだろうね」
「……利害が一致した。ただそれだけでしょう。だから私たちはお互いに信用はしていない。私に知らされることは多くないわ」
「だが、もう潮時だろ。巻き込まれる前に辞めておけよ。あんたがあそこで働く必要はもう無くなったんだからな」
「お気遣いありがとう。本当に危なくなったら、逃げるとするわ」
幸いなことに私は関係者とは思われていないようだが、完全には信用されていないだろう。万が一どこかから情報が洩れれば真っ先に疑われるのは私のはずだ。だが、カジノがきな臭いという話を聞けたのは僥倖だった。これで最悪の場合を想定した身の振り方を考えやすくなる。
「仕事帰りに悪かったな。送ってく」
「有難いけど、遠慮しておくわ。ちょっと弁明しに行かないといけない人がいるのよ」
「約束でもしてたのか?そいつは悪かったな。なんだったら俺が話をつけてやろうか」
ギルバートの面倒見の良さは彼の美徳ではあるが、一番助かるのは放っておいてくれることだけだ。楊の方に目をやると、いつもより機嫌が斜めになっているのが見て取れた。
「おい、何をしている。行くぞ」
「……今行くわ。ギル、悪いけどそういうことだから」
「…………アリア、あんた、賭博の運は女神様に愛されてるってのに、男運は最悪だったんだな」
心底同情が込められた声で言われ、そういうのではないと弁解しようとしたが、先を行く楊の目が剣呑さを増していくのを見て何も言わずに足を急がせた。
「何かあったら言えよ!匿ってやる!」
お願いだから余計なことを言わないで欲しい。明らかに不機嫌になっている楊が何かしでかさないうちに、私は彼の手を掴んでヴェレーノへの道を急いだ。
「私が店主の借金を代わりに返済することで、身の安全の保証を交渉したと言ったでしょう。最初に了承してくれたヴィスコンティのおかげで他も承諾し、取り決めが成立した。だから私は今もこの街で生きている。その後も何かと気を回してくれてお世話になってるから、頼まれたら引き受けない訳にもいかないのよ。深夜の教会に呼び出されて何かと思えば、まさかあなたもいるとは思わなかったけれど」
「……」
気まぐれな楊はもうこの話に興味がないのか、下の方をじっと見ていた。何を見ているのかと視線の先を見ると、先程勢いで繋いだ手がそのままだった。
「ああ、ごめんなさい。忘れていたわ」
離そうとすると、逆に指を絡め取られた。どうしたのかと顔を上げると、感情の読めない横顔が見えるだけだった。どうやら機嫌は悪くないようなので、薮蛇をつつかないようこちらからは何もしないことにした。
「お前が啖呵を切る姿は想像に容易いが、この目で見られなかったのが些か惜しかったな」
「……そう?」
「追い込まれた状況でも、冷静に道筋を探す様は見ていて飽きない。そういう所は、多少気に入っている」
意外なことを言われまじまじと顔を見ていると、不意に目が合った。
「……先の話で分かっただろう。お前が乗っているのは泥船だ。早めに捨てた方が懸命だぞ」
「貴重な収入源だから、ギリギリまではいるつもりよ」
「……共に沈むつもりか?」
「まさか。……拾ってもらって助かったのは本当だから、給料分は働くというだけ」
「マフィアと通じていることが知られては、ただでは済まないのではないか?」
「支配人が不利になる情報なんて、初めから持っていないわ。それに、私があなたの所に通ってるのはとっくに知られている。それでも解雇されず、行方不明にもなっていない。だから、そこはあまり心配していない」
楊は自分から振った話のくせに興味の無さそうな顔をしている。実際、私のことに露ほどの興味もないのだろう。ただの暇つぶしの道具にすぎないのだ。それもいつまでもつものか。繋いだ手の温もりは確かなのに、いつか消え失せてしまうのだろう。
「まあ、そろそろ身の振り方を考えておかないといけないわね。いざとなったら国外にでも出ようかしら」
「……は?」
沈黙の後の苛立ちを含んだ声に殺気すら感じると、楊は眉を寄せて睨むようにこちらを見据えていた。今までよく見逃されてきたと思ったが、もしかするとこれが最期なのかもしれない。目を逸らした途端殺されそうで凍りついたように固まっていると、楊の方から視線を逸らして静かに息を吐いたので、殺される訳では無いと分かった。
「……俺を目の前にして逃亡計画とは、いい度胸をしている」
「…………逃亡って……そういえばあなた、いつになったら私を解放してくれるのよ」
その内飽きられるだろうと思っているうちに決して短くはない日数が経った。今まで聞けなかったことを尋ねると楊は暫し黙り込み、面白いことを思いついたように口の端を釣り上げる。どうせろくなことを言わないに違いない。
「千と一夜まで、まだまだかかるだろう。なあ、俺のシェヘラザード?」
いつかした話を持ち出されて、私は目を見開く。楊は動揺を露わにした私を見て愉しげに笑った。
「楊?冗談よね?」
「俺は嘘は嫌いだ」
「それがそもそも嘘じゃないの。……まあ、国教会に私の情報を流さないでくれるなら、今はそれでいいわよ」
千と一夜なんて、いつ殺されるか分からない今の私には遠すぎるのに、私を殺すかもしれない男がそれを持ち出すのかと思うと不思議な気分になる。そもそもそこまで生き延びた私の隣に、果たしてこの男は存在しているのだろうか。
「まるでシェヘラザードの真似事をしているような気分だわ」
「何だ、それは」
「千夜一夜物語というお話の語り部の名前よ。簡単に言うと、シャフリヤール王に嫁いだシェヘラザードが、夫に殺されないように毎晩興味の引く話をして、続きは明日と言って自分の命を引き伸ばしていくの」
「……何故、夫は妻を殺そうとする」
「一番目の奥さんが不貞を働いて、女性不信になってしまってね。その後、処女を娶ってはその翌朝には殺してしまうのが続いて、それを止めるために嫁いできたのがシェヘラザードというわけ」
「では、俺がその男と似たようなものと言いたい訳だな」
「まあ、あなたがいつ私を殺すかなんて分からないから、その男よりあなたの方が危険かもね」
「抱いたからと言って殺しはしないが」
「そうね。でも、絶対に殺さないとは言いきれないでしょう」
「そこまで言うなら、試してみるか?」
おかしなことを言うものだと、寝台に寝そべる楊を見やる。彼は何を考えているのか分からない目をして、私の髪に指を絡めた。私の命運を握っている男。男の暇つぶしの道具である私。だというのにこの距離感は、よくない傾向だ。
「止めておくわ。私、まだ破滅したくないもの」
「破滅、だと?」
「あなたみたいな人をうっかりでも好きになってしまったら、私の人生、破滅の道しかないわ。だから、そういうことはしない」
そう言うと楊は私を見上げ、可笑しそうに笑った。笑わせるつもりは無かったのだが、これで今日も面白い話をしたことになるだろう。ノルマは達成した。
休みに家事と買い物を終わらせてその後はゆっくりお茶にしようと思っていたのに、そんな私の目の前に現れたのは楊だった。こんな所に居るはずのない人物を見て驚きに目を見開いていると楊は満足気に笑みを浮かべる。
「……帰ってお茶にしたかったんだけど。折角の休みなのよ」
「ほう、それは知らなかった。では、ここで会ったのも何かの縁だろう。茶はうちで飲むといい」
「…………お茶のお誘いに来たの?」
「たまたまだ」
わざわざお茶に誘いに来るくらいには、気に入られているということなのだろうか。だとしても気まぐれな楊のことだ。いつそうでなくなってもおかしくない。それに、誘いにのる利点が私にあるだろうか。どうせ夜にはいかなくてはならないのだから、余計な労力は割きたくないのが本音だ。
「荷物を半分持ってくれるなら、考えるわ」
「……何故俺がわざわざそんなことを」
「嫌ならいいのよ。じゃあ、また夜に」
そう言って横を通り過ぎようとすると、舌打ちが聞こえてきて腕を掴まれた。下手に出なさすぎていよいよ命が危ないかもしれない。楊は眉を寄せて唸るように何か言った。
「…………寄越せ」
何を言ったか理解した時にはもう既に荷は奪われていた。
「行くぞ」
見たことも無い食べ物は興味深く、思いの外美味しいので来た甲斐があったというものだ。
「おいしい……」
「…………気に入ったか?」
「ええ、とても」
「そうか。遠慮せず食べろ」
「折角の休みを邪魔されたのだから、遠慮なんてしないわ」
食べている間、何が面白いのか楊は私のことをじっと眺めていた。いつもの薄い笑みをうかべるでなく、ただじっと。
「……何かしら」
「気にするな」
「気になるわよ」
「いいから黙って食え」
「一体なんなの……」
どういうつもりなのだろう。この男のやることなすこと、私の理解が追いつかない。言われるままに食べる。自分で作った訳でもないものをただでこんなにたくさん食べられるというのはいいものだ。それが美味しいのであれば尚更。いつの間にか視線は外れ、楊はどことなく機嫌良さそうにお茶を飲んでいた。相変わらず変な男だ。
「1人だけ、カジノにいる人間で、事件に関わってなさそうな人間に心当たりがある」
「……それってもしかして、彼女のこと?」
「……例の娘か」
「ああ。それに、俺らには貸しがあるはずだ」
「返済はもう終わってるけどね」
「確信があるわけじゃねえが、何か話が聞けるかもしれねえと思って、呼んである」
昔世話になった人に深夜教会に呼び出された。楊との時間に遅れるかもしれないとは思ったが、約束の時間など決めていないし、ここの所待たされる時間が多くなってきたので了承したのだが、まさかこんなことになるだなんて思いもしなかった。そこには、ブルローネのマフィアが勢揃いしていた。楊の姿も確認して気が遠くなりそうになる。
「…………ギル?今更この面子の前に私を出すなんて、何事なの」
「よく来てくれたな、アリア。なに、少し話を聞きてえだけだ」
「それは、あなたにかかってる容疑の話?……まさか」
思い当たる節にギルは真剣な目をする。
「わざわざ私を呼ぶっことは、カジノが関わっているというのね」
「察しが早すぎるが、あんたはいつもそうだったな。その様子が演技じゃなきゃ、何も知らねえってことでいいんだな」
「……偽札の件で私が知ることは何も無い。けど、知らないということを証明する方法もないわ。……分かった。聞いてくれれば知っている情報は全部出す。あなた達が探りを入れていることは誰にも口外しない。それでいいかしら」
「話が早くて助かる。悪いようにはしねえから、安心してくれ」
「そうなることを願うばかりね。面倒ごとはもう懲り懲りよ」
「支配人は……人心掌握に長けているわ。人の望む言葉を的確に与えて、その人を認め、理解者として振る舞ううちに、人は段々彼を信奉していくようになる。彼を取り囲んでいるのは、そう言った人達で。彼の言うことなら何でも聞く。カジノ内部ばかりじゃなく、外部にも多くいるようね。それから、用心深くて、重要な情報は一部の人間にしか開示しないし、全貌を把握しているのは彼だけ、ということがままある。私はただの雇われの身だから、その位しか知らないわ。それから、私の台は少し特殊だから、他の台のことに関しては把握できていない」
「特殊って?」
「度を超えて荒稼ぎした客からチップを回収する役割なのよ。あとはチャレンジャーの相手ね。観客を交えて勝負をするの。専ら後者の相手をする方が多いんだけど。他の台から距離が離れていて、観客に囲まれるから。でも、そういえば、私送りになるはずの客が、どういうわけかタダで返されてるというのは、聞いた事あるわ」
なんだか最近空気が浮ついていると感じることがあったが、原因はこれか。勤め先が偽札の鋳造に関わっているだなんて、どうして私の人生は平坦に進んでいってくれないのだろうか。
「でも、何だって支配人は君のことをスカウトしたんだろうね」
「……利害が一致した。ただそれだけでしょう。だから私たちはお互いに信用はしていない。私に知らされることは多くないわ」
「だが、もう潮時だろ。巻き込まれる前に辞めておけよ。あんたがあそこで働く必要はもう無くなったんだからな」
「お気遣いありがとう。本当に危なくなったら、逃げるとするわ」
幸いなことに私は関係者とは思われていないようだが、完全には信用されていないだろう。万が一どこかから情報が洩れれば真っ先に疑われるのは私のはずだ。だが、カジノがきな臭いという話を聞けたのは僥倖だった。これで最悪の場合を想定した身の振り方を考えやすくなる。
「仕事帰りに悪かったな。送ってく」
「有難いけど、遠慮しておくわ。ちょっと弁明しに行かないといけない人がいるのよ」
「約束でもしてたのか?そいつは悪かったな。なんだったら俺が話をつけてやろうか」
ギルバートの面倒見の良さは彼の美徳ではあるが、一番助かるのは放っておいてくれることだけだ。楊の方に目をやると、いつもより機嫌が斜めになっているのが見て取れた。
「おい、何をしている。行くぞ」
「……今行くわ。ギル、悪いけどそういうことだから」
「…………アリア、あんた、賭博の運は女神様に愛されてるってのに、男運は最悪だったんだな」
心底同情が込められた声で言われ、そういうのではないと弁解しようとしたが、先を行く楊の目が剣呑さを増していくのを見て何も言わずに足を急がせた。
「何かあったら言えよ!匿ってやる!」
お願いだから余計なことを言わないで欲しい。明らかに不機嫌になっている楊が何かしでかさないうちに、私は彼の手を掴んでヴェレーノへの道を急いだ。
「私が店主の借金を代わりに返済することで、身の安全の保証を交渉したと言ったでしょう。最初に了承してくれたヴィスコンティのおかげで他も承諾し、取り決めが成立した。だから私は今もこの街で生きている。その後も何かと気を回してくれてお世話になってるから、頼まれたら引き受けない訳にもいかないのよ。深夜の教会に呼び出されて何かと思えば、まさかあなたもいるとは思わなかったけれど」
「……」
気まぐれな楊はもうこの話に興味がないのか、下の方をじっと見ていた。何を見ているのかと視線の先を見ると、先程勢いで繋いだ手がそのままだった。
「ああ、ごめんなさい。忘れていたわ」
離そうとすると、逆に指を絡め取られた。どうしたのかと顔を上げると、感情の読めない横顔が見えるだけだった。どうやら機嫌は悪くないようなので、薮蛇をつつかないようこちらからは何もしないことにした。
「お前が啖呵を切る姿は想像に容易いが、この目で見られなかったのが些か惜しかったな」
「……そう?」
「追い込まれた状況でも、冷静に道筋を探す様は見ていて飽きない。そういう所は、多少気に入っている」
意外なことを言われまじまじと顔を見ていると、不意に目が合った。
「……先の話で分かっただろう。お前が乗っているのは泥船だ。早めに捨てた方が懸命だぞ」
「貴重な収入源だから、ギリギリまではいるつもりよ」
「……共に沈むつもりか?」
「まさか。……拾ってもらって助かったのは本当だから、給料分は働くというだけ」
「マフィアと通じていることが知られては、ただでは済まないのではないか?」
「支配人が不利になる情報なんて、初めから持っていないわ。それに、私があなたの所に通ってるのはとっくに知られている。それでも解雇されず、行方不明にもなっていない。だから、そこはあまり心配していない」
楊は自分から振った話のくせに興味の無さそうな顔をしている。実際、私のことに露ほどの興味もないのだろう。ただの暇つぶしの道具にすぎないのだ。それもいつまでもつものか。繋いだ手の温もりは確かなのに、いつか消え失せてしまうのだろう。
「まあ、そろそろ身の振り方を考えておかないといけないわね。いざとなったら国外にでも出ようかしら」
「……は?」
沈黙の後の苛立ちを含んだ声に殺気すら感じると、楊は眉を寄せて睨むようにこちらを見据えていた。今までよく見逃されてきたと思ったが、もしかするとこれが最期なのかもしれない。目を逸らした途端殺されそうで凍りついたように固まっていると、楊の方から視線を逸らして静かに息を吐いたので、殺される訳では無いと分かった。
「……俺を目の前にして逃亡計画とは、いい度胸をしている」
「…………逃亡って……そういえばあなた、いつになったら私を解放してくれるのよ」
その内飽きられるだろうと思っているうちに決して短くはない日数が経った。今まで聞けなかったことを尋ねると楊は暫し黙り込み、面白いことを思いついたように口の端を釣り上げる。どうせろくなことを言わないに違いない。
「千と一夜まで、まだまだかかるだろう。なあ、俺のシェヘラザード?」
いつかした話を持ち出されて、私は目を見開く。楊は動揺を露わにした私を見て愉しげに笑った。
「楊?冗談よね?」
「俺は嘘は嫌いだ」
「それがそもそも嘘じゃないの。……まあ、国教会に私の情報を流さないでくれるなら、今はそれでいいわよ」
千と一夜なんて、いつ殺されるか分からない今の私には遠すぎるのに、私を殺すかもしれない男がそれを持ち出すのかと思うと不思議な気分になる。そもそもそこまで生き延びた私の隣に、果たしてこの男は存在しているのだろうか。