1925
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「昨日の夜、教会で一悶着あったと聞いたわ」
怖気づいたり、出し惜しみしたりしてはこちらのペースを作れない。だから開口一番にそう切り出すと、楊はにやと口角を上げた。
「どうやらそうらしい」
「ファルツォーネと老鼠が揉めたそうね。あなたは昨夜、帰って早々、と言っていた。あれは教会を襲った帰りだったのね」
「襲った、とは人聞きが悪い。俺はただ、珍しいものがあると聞いて覗きに行っただけだ。それをファルツォーネがちょっかいを掛けてきたので相手したまで」
「……珍しいもの?」
「ああ。お前は知らないか?教会には、ファルツォーネが大事に囲っている娘がいるそうだ」
その言葉を聞いて私は思わず立ち上がっていた。その衝動で椅子が転がり、耳障りな音が響く。どうして。どうして私は今まで気が付かなかったのだ。老鼠の首領がわざわざ出向くなんて、何か目的があるはずに決まっている。信仰に興味を持たない彼らが興味を持つとすれば、それは、対立組織の弱味。ファルツォーネが何故か昔から、彼女のことを気にかけているのには気づいていた。
「……招くはずだった客というのは、リリアーナ・アドルナートのことね」
「そういえば、教会の出だと言っていたな」
いけしゃあしゃあと言ってくれる。そんなことはもう分かっていただろうに。子供時代を共に過ごした、大事な妹のような存在だ。母国を追われて遠い異国のスラム街を彷徨った果て、教会に行きついた私の心は酷く荒んでいた。そんな私にめげずに声をかけてくれたあの子の優しさがどれほど救いになったことか。
「来られなくなった、ということは、ファルツォーネが保護を?」
「さあな。邪魔が入って逃げられた。どこへ行ったのやら見当もつかん」
睨みつけると、楊は愉快そうに目を細めた。私が動揺しているのを見て面白がっている。一体、どこへ。訳もわからず巻き込まれて途方に暮れているかもしれない。
「……ヴィスコンティね」
「……何故、そう思う?」
「あなたの耳にもとっくにはいっているんでしょう。ヴィスコンティのボスが新しい女を連れていたと聞いたわ。ファルツォーネと老鼠が争った少女を、自分が手にしたと牽制している」
楊の反応から推測が当たっていると分かり安堵に胸を撫で下ろす。ヴィスコンティのギルバートならば、多少は安心できるかもしれない。筋の通った男だ。無体はしないだろう。楊は煙管を吹かし、薄く笑む。
「では、お前がここにいると知れば、その女、現れるかもしれんな」
「……私を脅しの材料にするつもり?」
「何、信頼できる人間と共にいた方が、その娘にとってもいいのではないかと思ったまでだ」
「あの子を危険な目に合わせるくらいなら、私は地獄に堕ちる。今度は弾が欠けていようが構わず全弾頭に撃ち込むわ」
「……神の家の娘が、か?」
「救いより、命より、大事なものはある。それを守るためには、形振り構っていられないわ」
若い女が、次々に行方不明になっている。老鼠が関与してることくらい、少し考えれば分かる話だ。そんな危険な組織の元へ、あの子を来させるわにはいかない。何よりファルツォーネの庇護を受けている以上、彼女は火種になりうる。
「お前自身が、死ぬとしても」
「私には、あなたを殺す力はない。けれど、自分くらいは殺してみせる」
この男のすることは予測がつけられない。人質をとるなんてこと訳もないだろうが、それではつまらないと考えるかもしれないし、私の反応を見て実行するかもしれない。ならばこちらの言い分ははっきりさせておかなければならないだろう。死にたいわけではないから、ここで止めてもらわなくてはならない。私を人質にするよりも、このまま生かしておいたほうが面白いかもしれないと思わせないと。
目を見ると僅かに興味を引かれているようだが、それだけでは足りない。こうなったらもう、生きるか、死ぬかだ。死にたい訳では無いが、比べるべくもない。私はもう、妹を犠牲にはしない。昨日手にしてそのままだった銃を取り出し、自分の頭に突きつける。冷たい鉄の感触が髪越しに伝わった。
「シリンダーは既に回った。次は、私の頭を撃ち抜くでしょう。死体に人質の価値はないわよ」
心臓の音がやけに大きく聞こえる。指先が冷たくて震えるから更に肌に埋め込ませて、意識的に呼吸する。
「できるのか?震えているぞ」
楊は薄ら笑いを浮かべ、嘲るように言う。
「できるか、できないかじゃない。やるのよ」
引き金に指を掛ける。楊は僅かに目を見開き、興味深そうに私を見る。震えを止めろ。一か八かの勝負の時に、恐れてなどいられない。
「私は、私に賭ける。私は、やるわ」
震えは止まった。引き金に指を掛けたまま、私は微笑む。楊は愉しげに唇を歪ませた。
「……賭けにならん。人質云々は冗談だ。そう真に受けるな」
「そう、なら良かった。これで死なずに済むわ」
「お前と話していると、いい退屈しのぎになる。しばらくは付き合ってもらわんとな」
結果的には狙い通りに事を進めることはできたが、話し相手はまだ終えられないらしい。銃を下ろして深くため息をつく私を、楊はにやにやと眺めていた。
楊の気に入る面白い話が何なのかを考えながら、仕事帰りにヴェレーノに足を踏み入れる。夜にこの地区には来たくないのだが、誘いを断ればどうなるか分からない。拠点に辿り着いて、躾のなっていない老鼠の一員をあしらいながら案内された先は、どうやら客室のようだった。手持ち無沙汰な私は窓に近づいて外を眺める。ここはイタリアの街なのに、見える景色は異国のようだ。どうもあの夜から散々な目に会い続けている。身に迫る危険をどうにか回避して、今夜もまた生存戦略を立てなくてはならない。だというのに私はもう疲れていて、何もかもが面倒だった。
いつの間にか眠ってしまっていたようで、気配を感じて目を開くと、楊は扉口に立って可笑しそうに肩を震わせていた。懐から時計を取り出すと、大分待たされたのだとわかる。謝罪すべきか責めるべきか迷って、結局欠伸が一つでた。
「老鼠の拠点で呑気に寝ているとは、相変わらず肝が据わった女だ」
「人を招いておいて訪ねてくるのが遅いからよ」
「それは失礼をした。だが、些か警戒心が足りぬのではないか?それとも、そのつもりなら、期待には応えねばならんか」
楊は真っ直ぐこちらに向かってくると、起き上がっていた私の肩を押して寝台に組み敷いた。金の瞳がこちらの反応を確かめるように見下ろしてくる。それほど力が強くないのは、抵抗を誘ってのことなのだろうか。今日も銃は持ってきている。退屈しのぎのためには、自分の命を危険に晒すことを厭わないのか、それとも私程度に殺されるつもりはないのか。まあ、そのどちらもあるだろう。
「……生憎、そんなつもりは欠けらも無いの。私は今夜、話をしに来たのよ。あなたがそのつもりなら、別に女を呼べばいい。私はその間に帰らせてもらう」
思った反応が帰ってこなかったからか、楊は白けた顔をしてゆっくりと離れていった。
「つまらん」
「期待に添えず悪かったわね」
「まったくだ。まあ、いい。それで、今日も俺を愉しませてくれるのだろうな。もし退屈させるようなら」
「その時は、あなたの好きにすればいい」
溜息をつきたい気分でそう続けると、楊は薄く笑みを浮かべた。全く、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。職場はきな臭くなっているし、リリアーナはおかしなことに巻き込まれているし、私自身一歩間違えれば悲惨な結末を遂げることだろう。
ヴェレーノに通いだしてしばらくがたった。私は辛うじて命を繋ぎとめることに成功し、成功しているがゆえに解放されることもないまま楊の暇つぶしの相手にされている。今日も今日とで仕事で疲れている中、危険人物の相手をしにわざわざやってきたのにこれはどうしたことだろう。酔っ払いに絡まれてかすり傷を負っただけでこんなに人を怒らせる事があるだろうか。実際目の前にいる男は今までにないほどの怒気を纏っていて、今夜が私の命日だと覚悟せざるを得なかった。死を覚悟したが、それでも何か言わなくては気が済まない。
「……夜のブルローネ、特にヴェレーノでの女の一人歩きは、こういう危険が付き纏うものなのよ。かすり傷で済んだのは運が良かった。でなかったら私は今頃ボロ雑巾のように扱われてここに来る前に死んでいる」
殺気すら纏う瞳から目を逸らさずにいると、やがて彼は目を細めて何故かわからないが唇を合わせてきた。本当にこの男の考えていることは理解不能で、私には欠片も分からないし分かり合えるとも思えない。無遠慮に入り込んできた舌に蹂躙されて、切った唇が痛くて眦に涙が浮かぶ。押しのけようとするが私の力では叶わない。解放された時にはもういろいろな意味で疲れ切っていた。
「……いきなり、何するのよ」
「随分熱烈に見つめられたものだから、誘っているものかと。違ったか?」
「全然違う」
「そうか。だが、今日のお前はつまらん。俺の好きにさせてもらおう」
そう言うと楊は服を脱ぎ出した。遂に恐れていた事態になってしまったと身を起こそうとするが、抱き寄せられて体が強ばった。殺されるのもこうなるのも必死に回避してきたというのに、訳のわからない理由でこんなことになるとは思わなかった。しかし、いつまで経ってもそのままの状態なのでどうしたのかと顔を上げると、楊は目を閉じていた。
「は?」
「つまらんから寝る。お前はじっとしていろ。いいな、レイラ」
良いわけがない。半裸の男に抱きしめられて共に眠るなど、親代わりのシスターが知ればどう思うだろう。だが、助かったのは事実だ。抵抗して気が変わられても困るので、癪だが言うとおりにじっとすることにした。だが、一つだけ文句がある。
「…………その名前で呼ばないで」
毎度毎度訂正しているが、それでも楊は私をその名で呼び続ける。無くした名前を、よりにもよってこの男に呼ばれるだなんて、気が狂いそうになる。
「俺は俺のやりたいようにやる。囀るようなら、また口を塞いでやるが」
それはごめんなので口を閉じた。眠ってくれると言うのなら、こちらも寝てしまおう。話をしないで済むのなら面倒なことはない。こんな機会は滅多にないのだから。
嫌な予感がしながらも路地裏をこっそり覗いてみると、そこには楊が一人たっていた。手には見慣れない刃物を握っていて、その足元には3つの死体。昨夜私に絡んできた連中だ。もしかしてまた私に絡もうとしてきたのだろうか。こんなことならもっと痛めつけておいた方が連中のためだったかもしれないが、もう遅い。感情の読み取れない顔で佇んでいた楊が、ふとこちらを見る。その目は真っ直ぐ私を捉え、その時何故か、ああ、なんて美しい目をしているのだろうと思った。妖しい獣に誘われるかのように、足は自然と動き出していた。近づく毎に血の匂いが深まり、月明かりに照らされた瞳の昏さに気づいたが、足は止まらない。やがて楊が腕を振るえば死ぬだろう距離で足を止める。
「……礼を、言った方がいいのかしら」
「……なんのことだ。俺はただ、目障りな奴等を始末しただけだ」
「それはそうでしょうね。でも、今日はかすり傷じゃ済まなかったかもしれないから、ありがとう」
ハンカチを取り出して差し出すと、彼はそれが何に使うものなのか見当がつかないようで、反応がない。仕方がないから私は更に近づいて、頬に付いた返り血をそれで拭った。
「まあ、直帰できていれば襲われるなんてこと無いわけだから、やっぱりお礼する必要ないのかも」
白い布が赤黒く染まっていく。これはもう綺麗には落ちないだろう。よく見れば顔の他に服にも大量の返り血がついているのが分かった。
「……ああ、服にもこんなに血が……これは洗うの大変だわ」
じっと見られていることに気がついて、一旦口を閉じる。
「何?」
「……お前を見ていると、飽きなくていい」
笑みを浮かべることなく、静かに一言だけ言うと、楊は通りの方へ足を進めた。その背をぼんやり見ていると顔をこちらに向けないまま、早く来いと命令される。飽きなくていい。その言葉は、少しは私の寿命を永らえさせるだろう。少なくとも今だけは。明日の夜には飽きられて、死体が一つ転がっているかもしれない。危ない橋を渡っているが、もう引き返せるところにはいない。こんなことになるなら、全財産を持って高飛びでもすればよかったのだろうか。
「受け取れ」
そう言って渡されたのは小さな包だった。持った感じ危ない様子はない。
「どうしたの、これ」
「…………汚れただろう。代わりに使え」
もしやと思い包みを開けると、ハンカチが入っていた。そんな律儀な男には見えないがどういう風の吹き回しだろう。横顔からは何の感情も読み取れないが、わざわざ気にしてくれたのは確かだ。
「………………ありがとう」
礼を言うと楊は目線だけこちらに寄越して、また逸らしてしまった。まさか自分から買いに行ったのだろうか。聞いてみようか迷ったが、機嫌を損ねるのは得策ではないので何も言わないことにした。
夜に居ない日は前もって教えてくれればいいのに、それをしないからこんなに待たされることになる。楊がいなければ私がここにいる意味はないのに、勝手に帰ればどうなるかわからないから留まるしかない。その日、待てども楊は帰って来ず、仕方なく他人の寝台を借りて寝ることにした。
物音がしたのは何時になってからだろう。目が覚めると楊が帰ってきていた。
「……いたのか」
「……来いと言われてる以上来るしかないでしょう。許可なく帰ればどんな目に合うかわからないから帰れないし。来なくていいならもう来ないけど、それでいいかしら」
彼は何も答えずに服を脱ぐとそのまま寝台に上がってきた。起き上がろうとすると、腕が伸びてきたまた前のように抱きしめられた。
「……寝るまで、何か話していろ」
「……これじゃあ終わった時に帰れないわ」
「ここ最近、朝晩が冷える。お前は体温が高いから、ちょうどいい」
「人を湯たんぽみたいに……言うのね…………」
話をしなくては、と思うのに途中で起こされたからまだ寝たりない。それに仕事の帰りで疲れている。一度目覚めた頭はまた眠りの淵に沈もうとしていた。
「……確かに最近……寒く、なってきてる。……みんなも、よく……私があったかいからって、くっつきに…………」
あの、寒い冬。すきま風吹き込むアジト。みんなで体を寄せあって寒さをしのぎ、少ない食料を訳あって食べた。ストラノの冬は、本当に寒かったけれど、孤独ではなかった。
「…………レイラ」
名を呼ばれる。その名で呼ばれるということは、ここは、ウェルズだろうか。ストラノでは男装していたからみんな私を男だと思って、レオーネと呼んでいたから。教会では、アリアと名乗った。声が低いから、お父様かもしれない。もしかして、もう朝かしら。でもまだ眠くて仕方がない。でも、起きなくては。身動ぎすると、ベッドに潜り込んできていたステラが、まだ寝ていようとぎゅっと抱きついてくる。少しくらいならまだいいかもしれない。いつも我慢ばかりのステラ。お母様がルーナに付きっきりな分、私がこの子にお母様の分も愛情を注いであげなくては。抱きしめ返して、頬を寄せる。
「わたしのかわいい……愛しい子。わたしがあなたを守るから」
女が夢現の意識で譫言を言う。
「…………ごめんね、ステラ。守れなくて、ごめん」
そして、涙が一筋流れた。それから眠りが深くなったようで何事も呟かなくなる。
(リリアーナでも、ルーナでもなく、ステラ)
どうやら、自らの頭に拳銃を突きつける程妹思いなこの女には、守れなかった後悔があるらしい。寝言を言っていたと言えば、どんな顔をするだろう。それとも、その内話題に上げるだろうか。などと、いつまでこの退屈しのぎを続けるのかも分からないというのにそんなことを思う。思いの外、愉しめている。国から離れ、いつ頃からかこの土地にやって来た女。母国の人間が探していたと知っても、それを拒絶した女。何故この地に留まるのか、それが深く関係しているはずだ。その話が聞ける時が来るのか、女に倣って賭けでもしてみるか。
怖気づいたり、出し惜しみしたりしてはこちらのペースを作れない。だから開口一番にそう切り出すと、楊はにやと口角を上げた。
「どうやらそうらしい」
「ファルツォーネと老鼠が揉めたそうね。あなたは昨夜、帰って早々、と言っていた。あれは教会を襲った帰りだったのね」
「襲った、とは人聞きが悪い。俺はただ、珍しいものがあると聞いて覗きに行っただけだ。それをファルツォーネがちょっかいを掛けてきたので相手したまで」
「……珍しいもの?」
「ああ。お前は知らないか?教会には、ファルツォーネが大事に囲っている娘がいるそうだ」
その言葉を聞いて私は思わず立ち上がっていた。その衝動で椅子が転がり、耳障りな音が響く。どうして。どうして私は今まで気が付かなかったのだ。老鼠の首領がわざわざ出向くなんて、何か目的があるはずに決まっている。信仰に興味を持たない彼らが興味を持つとすれば、それは、対立組織の弱味。ファルツォーネが何故か昔から、彼女のことを気にかけているのには気づいていた。
「……招くはずだった客というのは、リリアーナ・アドルナートのことね」
「そういえば、教会の出だと言っていたな」
いけしゃあしゃあと言ってくれる。そんなことはもう分かっていただろうに。子供時代を共に過ごした、大事な妹のような存在だ。母国を追われて遠い異国のスラム街を彷徨った果て、教会に行きついた私の心は酷く荒んでいた。そんな私にめげずに声をかけてくれたあの子の優しさがどれほど救いになったことか。
「来られなくなった、ということは、ファルツォーネが保護を?」
「さあな。邪魔が入って逃げられた。どこへ行ったのやら見当もつかん」
睨みつけると、楊は愉快そうに目を細めた。私が動揺しているのを見て面白がっている。一体、どこへ。訳もわからず巻き込まれて途方に暮れているかもしれない。
「……ヴィスコンティね」
「……何故、そう思う?」
「あなたの耳にもとっくにはいっているんでしょう。ヴィスコンティのボスが新しい女を連れていたと聞いたわ。ファルツォーネと老鼠が争った少女を、自分が手にしたと牽制している」
楊の反応から推測が当たっていると分かり安堵に胸を撫で下ろす。ヴィスコンティのギルバートならば、多少は安心できるかもしれない。筋の通った男だ。無体はしないだろう。楊は煙管を吹かし、薄く笑む。
「では、お前がここにいると知れば、その女、現れるかもしれんな」
「……私を脅しの材料にするつもり?」
「何、信頼できる人間と共にいた方が、その娘にとってもいいのではないかと思ったまでだ」
「あの子を危険な目に合わせるくらいなら、私は地獄に堕ちる。今度は弾が欠けていようが構わず全弾頭に撃ち込むわ」
「……神の家の娘が、か?」
「救いより、命より、大事なものはある。それを守るためには、形振り構っていられないわ」
若い女が、次々に行方不明になっている。老鼠が関与してることくらい、少し考えれば分かる話だ。そんな危険な組織の元へ、あの子を来させるわにはいかない。何よりファルツォーネの庇護を受けている以上、彼女は火種になりうる。
「お前自身が、死ぬとしても」
「私には、あなたを殺す力はない。けれど、自分くらいは殺してみせる」
この男のすることは予測がつけられない。人質をとるなんてこと訳もないだろうが、それではつまらないと考えるかもしれないし、私の反応を見て実行するかもしれない。ならばこちらの言い分ははっきりさせておかなければならないだろう。死にたいわけではないから、ここで止めてもらわなくてはならない。私を人質にするよりも、このまま生かしておいたほうが面白いかもしれないと思わせないと。
目を見ると僅かに興味を引かれているようだが、それだけでは足りない。こうなったらもう、生きるか、死ぬかだ。死にたい訳では無いが、比べるべくもない。私はもう、妹を犠牲にはしない。昨日手にしてそのままだった銃を取り出し、自分の頭に突きつける。冷たい鉄の感触が髪越しに伝わった。
「シリンダーは既に回った。次は、私の頭を撃ち抜くでしょう。死体に人質の価値はないわよ」
心臓の音がやけに大きく聞こえる。指先が冷たくて震えるから更に肌に埋め込ませて、意識的に呼吸する。
「できるのか?震えているぞ」
楊は薄ら笑いを浮かべ、嘲るように言う。
「できるか、できないかじゃない。やるのよ」
引き金に指を掛ける。楊は僅かに目を見開き、興味深そうに私を見る。震えを止めろ。一か八かの勝負の時に、恐れてなどいられない。
「私は、私に賭ける。私は、やるわ」
震えは止まった。引き金に指を掛けたまま、私は微笑む。楊は愉しげに唇を歪ませた。
「……賭けにならん。人質云々は冗談だ。そう真に受けるな」
「そう、なら良かった。これで死なずに済むわ」
「お前と話していると、いい退屈しのぎになる。しばらくは付き合ってもらわんとな」
結果的には狙い通りに事を進めることはできたが、話し相手はまだ終えられないらしい。銃を下ろして深くため息をつく私を、楊はにやにやと眺めていた。
楊の気に入る面白い話が何なのかを考えながら、仕事帰りにヴェレーノに足を踏み入れる。夜にこの地区には来たくないのだが、誘いを断ればどうなるか分からない。拠点に辿り着いて、躾のなっていない老鼠の一員をあしらいながら案内された先は、どうやら客室のようだった。手持ち無沙汰な私は窓に近づいて外を眺める。ここはイタリアの街なのに、見える景色は異国のようだ。どうもあの夜から散々な目に会い続けている。身に迫る危険をどうにか回避して、今夜もまた生存戦略を立てなくてはならない。だというのに私はもう疲れていて、何もかもが面倒だった。
いつの間にか眠ってしまっていたようで、気配を感じて目を開くと、楊は扉口に立って可笑しそうに肩を震わせていた。懐から時計を取り出すと、大分待たされたのだとわかる。謝罪すべきか責めるべきか迷って、結局欠伸が一つでた。
「老鼠の拠点で呑気に寝ているとは、相変わらず肝が据わった女だ」
「人を招いておいて訪ねてくるのが遅いからよ」
「それは失礼をした。だが、些か警戒心が足りぬのではないか?それとも、そのつもりなら、期待には応えねばならんか」
楊は真っ直ぐこちらに向かってくると、起き上がっていた私の肩を押して寝台に組み敷いた。金の瞳がこちらの反応を確かめるように見下ろしてくる。それほど力が強くないのは、抵抗を誘ってのことなのだろうか。今日も銃は持ってきている。退屈しのぎのためには、自分の命を危険に晒すことを厭わないのか、それとも私程度に殺されるつもりはないのか。まあ、そのどちらもあるだろう。
「……生憎、そんなつもりは欠けらも無いの。私は今夜、話をしに来たのよ。あなたがそのつもりなら、別に女を呼べばいい。私はその間に帰らせてもらう」
思った反応が帰ってこなかったからか、楊は白けた顔をしてゆっくりと離れていった。
「つまらん」
「期待に添えず悪かったわね」
「まったくだ。まあ、いい。それで、今日も俺を愉しませてくれるのだろうな。もし退屈させるようなら」
「その時は、あなたの好きにすればいい」
溜息をつきたい気分でそう続けると、楊は薄く笑みを浮かべた。全く、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。職場はきな臭くなっているし、リリアーナはおかしなことに巻き込まれているし、私自身一歩間違えれば悲惨な結末を遂げることだろう。
ヴェレーノに通いだしてしばらくがたった。私は辛うじて命を繋ぎとめることに成功し、成功しているがゆえに解放されることもないまま楊の暇つぶしの相手にされている。今日も今日とで仕事で疲れている中、危険人物の相手をしにわざわざやってきたのにこれはどうしたことだろう。酔っ払いに絡まれてかすり傷を負っただけでこんなに人を怒らせる事があるだろうか。実際目の前にいる男は今までにないほどの怒気を纏っていて、今夜が私の命日だと覚悟せざるを得なかった。死を覚悟したが、それでも何か言わなくては気が済まない。
「……夜のブルローネ、特にヴェレーノでの女の一人歩きは、こういう危険が付き纏うものなのよ。かすり傷で済んだのは運が良かった。でなかったら私は今頃ボロ雑巾のように扱われてここに来る前に死んでいる」
殺気すら纏う瞳から目を逸らさずにいると、やがて彼は目を細めて何故かわからないが唇を合わせてきた。本当にこの男の考えていることは理解不能で、私には欠片も分からないし分かり合えるとも思えない。無遠慮に入り込んできた舌に蹂躙されて、切った唇が痛くて眦に涙が浮かぶ。押しのけようとするが私の力では叶わない。解放された時にはもういろいろな意味で疲れ切っていた。
「……いきなり、何するのよ」
「随分熱烈に見つめられたものだから、誘っているものかと。違ったか?」
「全然違う」
「そうか。だが、今日のお前はつまらん。俺の好きにさせてもらおう」
そう言うと楊は服を脱ぎ出した。遂に恐れていた事態になってしまったと身を起こそうとするが、抱き寄せられて体が強ばった。殺されるのもこうなるのも必死に回避してきたというのに、訳のわからない理由でこんなことになるとは思わなかった。しかし、いつまで経ってもそのままの状態なのでどうしたのかと顔を上げると、楊は目を閉じていた。
「は?」
「つまらんから寝る。お前はじっとしていろ。いいな、レイラ」
良いわけがない。半裸の男に抱きしめられて共に眠るなど、親代わりのシスターが知ればどう思うだろう。だが、助かったのは事実だ。抵抗して気が変わられても困るので、癪だが言うとおりにじっとすることにした。だが、一つだけ文句がある。
「…………その名前で呼ばないで」
毎度毎度訂正しているが、それでも楊は私をその名で呼び続ける。無くした名前を、よりにもよってこの男に呼ばれるだなんて、気が狂いそうになる。
「俺は俺のやりたいようにやる。囀るようなら、また口を塞いでやるが」
それはごめんなので口を閉じた。眠ってくれると言うのなら、こちらも寝てしまおう。話をしないで済むのなら面倒なことはない。こんな機会は滅多にないのだから。
嫌な予感がしながらも路地裏をこっそり覗いてみると、そこには楊が一人たっていた。手には見慣れない刃物を握っていて、その足元には3つの死体。昨夜私に絡んできた連中だ。もしかしてまた私に絡もうとしてきたのだろうか。こんなことならもっと痛めつけておいた方が連中のためだったかもしれないが、もう遅い。感情の読み取れない顔で佇んでいた楊が、ふとこちらを見る。その目は真っ直ぐ私を捉え、その時何故か、ああ、なんて美しい目をしているのだろうと思った。妖しい獣に誘われるかのように、足は自然と動き出していた。近づく毎に血の匂いが深まり、月明かりに照らされた瞳の昏さに気づいたが、足は止まらない。やがて楊が腕を振るえば死ぬだろう距離で足を止める。
「……礼を、言った方がいいのかしら」
「……なんのことだ。俺はただ、目障りな奴等を始末しただけだ」
「それはそうでしょうね。でも、今日はかすり傷じゃ済まなかったかもしれないから、ありがとう」
ハンカチを取り出して差し出すと、彼はそれが何に使うものなのか見当がつかないようで、反応がない。仕方がないから私は更に近づいて、頬に付いた返り血をそれで拭った。
「まあ、直帰できていれば襲われるなんてこと無いわけだから、やっぱりお礼する必要ないのかも」
白い布が赤黒く染まっていく。これはもう綺麗には落ちないだろう。よく見れば顔の他に服にも大量の返り血がついているのが分かった。
「……ああ、服にもこんなに血が……これは洗うの大変だわ」
じっと見られていることに気がついて、一旦口を閉じる。
「何?」
「……お前を見ていると、飽きなくていい」
笑みを浮かべることなく、静かに一言だけ言うと、楊は通りの方へ足を進めた。その背をぼんやり見ていると顔をこちらに向けないまま、早く来いと命令される。飽きなくていい。その言葉は、少しは私の寿命を永らえさせるだろう。少なくとも今だけは。明日の夜には飽きられて、死体が一つ転がっているかもしれない。危ない橋を渡っているが、もう引き返せるところにはいない。こんなことになるなら、全財産を持って高飛びでもすればよかったのだろうか。
「受け取れ」
そう言って渡されたのは小さな包だった。持った感じ危ない様子はない。
「どうしたの、これ」
「…………汚れただろう。代わりに使え」
もしやと思い包みを開けると、ハンカチが入っていた。そんな律儀な男には見えないがどういう風の吹き回しだろう。横顔からは何の感情も読み取れないが、わざわざ気にしてくれたのは確かだ。
「………………ありがとう」
礼を言うと楊は目線だけこちらに寄越して、また逸らしてしまった。まさか自分から買いに行ったのだろうか。聞いてみようか迷ったが、機嫌を損ねるのは得策ではないので何も言わないことにした。
夜に居ない日は前もって教えてくれればいいのに、それをしないからこんなに待たされることになる。楊がいなければ私がここにいる意味はないのに、勝手に帰ればどうなるかわからないから留まるしかない。その日、待てども楊は帰って来ず、仕方なく他人の寝台を借りて寝ることにした。
物音がしたのは何時になってからだろう。目が覚めると楊が帰ってきていた。
「……いたのか」
「……来いと言われてる以上来るしかないでしょう。許可なく帰ればどんな目に合うかわからないから帰れないし。来なくていいならもう来ないけど、それでいいかしら」
彼は何も答えずに服を脱ぐとそのまま寝台に上がってきた。起き上がろうとすると、腕が伸びてきたまた前のように抱きしめられた。
「……寝るまで、何か話していろ」
「……これじゃあ終わった時に帰れないわ」
「ここ最近、朝晩が冷える。お前は体温が高いから、ちょうどいい」
「人を湯たんぽみたいに……言うのね…………」
話をしなくては、と思うのに途中で起こされたからまだ寝たりない。それに仕事の帰りで疲れている。一度目覚めた頭はまた眠りの淵に沈もうとしていた。
「……確かに最近……寒く、なってきてる。……みんなも、よく……私があったかいからって、くっつきに…………」
あの、寒い冬。すきま風吹き込むアジト。みんなで体を寄せあって寒さをしのぎ、少ない食料を訳あって食べた。ストラノの冬は、本当に寒かったけれど、孤独ではなかった。
「…………レイラ」
名を呼ばれる。その名で呼ばれるということは、ここは、ウェルズだろうか。ストラノでは男装していたからみんな私を男だと思って、レオーネと呼んでいたから。教会では、アリアと名乗った。声が低いから、お父様かもしれない。もしかして、もう朝かしら。でもまだ眠くて仕方がない。でも、起きなくては。身動ぎすると、ベッドに潜り込んできていたステラが、まだ寝ていようとぎゅっと抱きついてくる。少しくらいならまだいいかもしれない。いつも我慢ばかりのステラ。お母様がルーナに付きっきりな分、私がこの子にお母様の分も愛情を注いであげなくては。抱きしめ返して、頬を寄せる。
「わたしのかわいい……愛しい子。わたしがあなたを守るから」
女が夢現の意識で譫言を言う。
「…………ごめんね、ステラ。守れなくて、ごめん」
そして、涙が一筋流れた。それから眠りが深くなったようで何事も呟かなくなる。
(リリアーナでも、ルーナでもなく、ステラ)
どうやら、自らの頭に拳銃を突きつける程妹思いなこの女には、守れなかった後悔があるらしい。寝言を言っていたと言えば、どんな顔をするだろう。それとも、その内話題に上げるだろうか。などと、いつまでこの退屈しのぎを続けるのかも分からないというのにそんなことを思う。思いの外、愉しめている。国から離れ、いつ頃からかこの土地にやって来た女。母国の人間が探していたと知っても、それを拒絶した女。何故この地に留まるのか、それが深く関係しているはずだ。その話が聞ける時が来るのか、女に倣って賭けでもしてみるか。