1925
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「数年前の写真ですが、見つかりました」
写真の中の女はカメラに気づいているのか、強い目でこちらを射抜くかのようだった。国教会が現在探している娘の写真と見比べると、顔立ちこそ似ているが決定的に違うのがその瞳のほの暗さだ。かつて国教会がその存在を方々探し回り、六鳳会へ捜索依頼までしてあと一歩というところで逃れたという女。国教会と教国の対立により捜索が打ち切られ、国教会側には一切情報が明かされないまま今もこの街で暮らしている。そして今度はその妹を探すために、また裏組織へと依頼を持ち掛けた。ただの娘が家出をしたくらいでこの騒ぎようとくれば、ブラックウェルという家自体に何かがあるに決まっている。ならばその妹は、かつて行方不明となった姉を探しにくるだろう。その方が都合がいい誰かが情報を流したのだ。
「現在の写真は?」
「…………その、どうしても気づかれるようで失敗しています。なので昔の写真しか用意できませんでした」
「ほう?」
「職場と家は抑えられているのですが、道中必ず撒かれます。なので姉の方を見張るよりも、街道で張るのがいいかと。まあ、本当にここに来るかはわかりませんが」
「妹の方はそれでいい。姉の方はしばらく放っておけ」
支度を整えて夕暮れの街へ出る。職場までの道のりを歩いていると、巡回帰りだろう顔見知りの警官に声をかけられた。
「ようアリア、今からか」
「ええ。マルコは警察署に戻るところ?お疲れ様」
マルコの後ろに控えている、確かロベルトとかいう警官は会話に入る気はないようだが、こちらを見る目つきは好意的とは言い難い。この時代に女の身でカジノのディーラーなんてやっていると、物珍し気に見られるか反感を抱かれるかのどちらかだ。どちらにせよ偏見の目であることに違いはない。
「そういや、レイラ・ブラックウェルって名前に心当たりあるか?」
懐かしい名前に、時が止まるような気がした。もう長いこと聞いていない、失われた筈の名前だ。
「…………知らないわ。誰なの」
「旅行客のイギリス人のお嬢ちゃんが探してるんだってよ。片言のイタリア語で」
「……ふうん。どうして私にその話を?」
「そのお嬢ちゃん、お前さんが前にチャリティに出してた、あの手の込んだ刺繍のハンカチ持っててよ、それをその探し人が作ったって思い込んでるみたいだ」
刺繍は、まだ国にいる頃に亡き母が教えてくれたものだ。たしか観光客がいたく気に入って持っていったものだが、確かに英語を話していた。そこからどういう道を辿ってその名前を再び聞くことになったのか知る由もないが、まさかそんな所から気づかれるだなんて、神様がもしも本当にいるのだとしたら、余程私たちに苦難を与えたいらしい。
「それを作ったのは別の人間だって言ったら、誰なのか聞かれたから喋っちまった。そのうちお前のところに行くかもしれねえ」
「その子、1人なの?」
「どうもそうらしい。用心しろとは言ったんだが」
「心配ね。この街は、少し特殊だから」
何事もなければいいのだが、嫌な予感しかしない。聞くはずのなかった名前、イギリスから探しに来た女の子。遠い異国の地に逃れ果て、短くはない時間が過ぎ、もう、全て終わったはずだった。そう思っていたのは私だけだったのだろうか。
「例の女、本当にブルローネに来たようです」
「そうか」
「捕まえなくていいんですか?」
「いらん。動向を見張らせて所在だけ報告しておけ。余計なことはするな、との仰せだからな。後は向こうが勝手にやるだろう」
「……うちの連中がおとなしく見張りだけしていると思いますか?」
「さあな、俺の知ったことではない。殺しだけはするなと言っておけ」
「……はあ、どうなっても知りませんからね」
業務が終わり、裏口から帰路についている途中、どこからか争う声が聞こえてきた。普段なら気にもとめないのだが、片方が女ということに気づき、考える間もなく足がそちらに向く。今日はずっと嫌な予感がしてならない。段々と駆け足になり、全速力で声の方へ向かう。すると向こうの通りで女性が男に掴まれた手をなんとか振り払い、走って逃げる後ろ姿が遠目に見えた。あの方向はまずい。ヴェレーノへ向かっている。
追いかけている内に見失ってしまったが、微かに聞こえる物音を頼りに細い路地に入り込み、壁にぶつかりそうになりながら進む。遠くにはいっていないはずだ。それどころか、走る音が段々と近づいてきている。そして、角を曲がってきた女性とかち合った。互いに目が合い、同時に見開く。同じ髪の色、同じ色の瞳。私たちは揃いも揃って母によく似ている。ああ、やはり。やはり、あなただった。彼女は泣きそうな顔でレイラと、私の本当の名を呟いた。私も彼女の名を呼びそうになったが、再会を喜んでいる場合ではないし、そもそも喜べるはずがない。私たちは、会ってはいけないのだ。呆然としているうちに男が角から姿を現し、彼女の手を掴もうとした。咄嗟にそれを払いのけて彼女の腕を引くと、強く力を込めてしまったせいか体制を崩して地面に倒れこんでしまった。立ち上がらせようとするが、その前に激高した男が銃口こちらに向けるのが見えて動きが止まった。ここまで手が早いと誰が思う。
「てめえ、何しやがる!」
指先が引き金にかかるのを見て、手首目掛けて蹴り上げる。銃声が鳴り響き、拳銃が回転しながら上空へ飛ぶ。落ちてきたそれを掴み、痛みに蹲る男へと銃を突きつけた。
「……こ、このアマ!」
「動かないで」
両手で構えながら彼女の様子を伺うが、銃声に脅えた彼女は足に力が入らないようだ。
「時間を稼ぐから、どうにか立ってちょうだい。私ではあなたを抱えては逃げられない」
「……で、でも、あ、足が、震えて」
「し、素人が当てられるはずねえだろ!」
「素人?こんな街で生きてるのよ。一般市民でも銃を扱える人間がいてもおかしくないと思わない?」
「ハッタリだ!」
「試してみてもいいけど、この距離なら脳天を打ち抜く自信があるわよ。さあ、どうする?あなた、こんな所でこんなくだらない死に方がしたい?引くなら見逃すわ」
引けと念じながら引き金に手をかける。銃声が響いて数秒が経過している。音を聞きつけて人が増える前にどうにかしなくては。警官ならいい。だがここは、老鼠の住処だ。厄介な連中が増えれば活路はなくなる。
「気まぐれに来てみれば、これはどうしたことだろうな」
突然、背後から声が聞こえてきた。眼前にいる男が、顔を引き攣らせて、ヤン、と呟いた。楊。それはヴェレーノで、もしかするとこのブルローネで今一番敵にしてはいけない男の名だ。
「帰って早々に銃声とは、お前、何をしている?」
「ち、違うんです!お、俺はただ、」
「煩い、黙れ。……女、お前に聞いているのだが?」
耳元で囁かれて、背筋にぞくりと悪寒が走る。生存確率はこれで大幅に下がってしまった。仕方なく顔を向けると、老鼠の首領は存外若いことが分かった。月の色をした瞳とかち合う。部下が銃を突きつけられているというのに愉しそうな顔をしているのを見て、それだけで危険な男だというのがよく分かった。
「そちらの男が彼女を襲っているところに出くわしてね。やむなく強硬手段に出たところよ」
「ほう?その銃は、お前のものか?」
「……いいえ」
「だろうな。では、奪い取ったと、そういうことだな」
楊は前方へ目を向けた。味方が訪れたはずなのに、その男は何故か怯えているようだった。彼女に目を向けると、立ち上がれるようにはなったようだ。
「どうやら世話になったようだ。これは、礼をしなければならないか」
「大したことはしていないわ」
「そうつれないことを言うな。女、名は、なんと言う?」
こんな危険な男相手に名乗りたくはなかったが、有無を言わさぬ声色はそれを許さないだろう。
「……アリア。アリア・フォンターナ」
「…………ああ、聞いたことがある。カジノでディーラーをしている奇特な女か。ならば、そうだな。運試しでもしてもらおうか」
「運試し、ですって?」
「俺にも立場があるのでな。か弱い女2人、黙って見逃してやりたいところだが、下の者の手前そうもいかん。だからせめて、お前の得意分野で決着をつけてやろう。どうだ、俺は優しいだろう」
見逃してやりたいなんて、平気で嘘をつくものだ。本当に優しい人間は無条件で解放してくれる。だが、拒否した所で待つ結果は目に見えている。
「何をすればいいのかしら」
「その前に、返してもらおう」
黙って拳銃を渡すと、男はシリンダーを出して弾を確認し、それを回転させてまた戻した。そして、それをまた、私へと差し出しす。
「今、この銃は弾を放つか、否か」
「…………」
「弾が出ると思うなら、女如きに簡単に銃を奪われる者など不要だからな。あれを撃て。だが、もし出ないと思うならば、お前自身で確かめて見せろ」
「……外せば、どうなる」
「当てれば、見逃してやる」
老鼠に捕まった者の末路がどうなるか、想像しなくてもよく分かる。
「お前は運の強い女だと聞く。なんでも、神に愛されているそうではないか。だとすれば、この程度簡単に乗り越えられるのではないか?」
男は嘲るように笑った。神なんて、欠片も信じていないくせに。
「私が本当に神に愛されているのなら、間違ってもこんな状況に陥るなんて有り得ないはずだけど」
「ふむ、それもそうか。では、どうする、己の不運を嘆くか?それとも、命乞いでもしてみるか?俺を愉しませるのであれば、助けてやらんこともないが」
命乞いをして助かるのであれば、喜んでやって見せよう。怯えて表情で立ちすくむ妹に一瞬だけ目をやる。私はこの子を、無事家に帰してやらないとならない。そのためには確実な手段を選ぶ。
「……幸運だとか、不運だとか、そんなことに意味なんてない。賭けには、ただ勝つか負けるかどちらかの結果があるだけ。本当に助けてくれるか分からないあなたに賭けるより、私は自分自身に賭ける」
銃口をこめかみに当てると、彼女が息を呑んだ。男は薄い笑みを浮かべたままじっとこちらを観察している。
「祈りの時間くらいくれてやってもいいが」
「あいにく、こんな時に祈る言葉なんて持ち合わせていないわ」
「そうか。なら、さっさと引き金を引け」
指をかけて、深呼吸。タチの悪いロシアンルーレットだ。分の悪い賭けだが負けるつもりは無い。私は運がいいのでなく、目がいいのだ。深く息を吐き、迷うことなく引き金を引く。撃鉄は起こらず、弾は射出されなかった。賭けには勝った。だが、この男が大人しく言うことを聞くかも分からない。男は口の端を釣り上げた。
「……なるほど、確かに強運の持ち主のようだ。噂になるのも頷ける。余興にはなった」
命をかけさせておいて余興とは言ってくれる。
「賭けには勝った。今日は、見逃してもらうわ」
「ああ、勝者には褒美をやらねばならんからな。今日は見逃してやろう。急ぐといい」
目を逸らしたタイミングで少女の手を握り走り出す。懐から時計を出すと日付変更まで時間がない。
「ど、どうして走るの?見逃してくれたんでしょう?」
「今日はね。もうすぐ明日になる。急いで」
彼女は言葉を失ってしまった。無理もない。
そこで終わりだった。鐘の音が聞こえてくる。
「どうにか、間に合ったわ」
息も絶え絶えな彼女を支え、何とか自力で立たせる。
「……ほ、本当に?」
「あそこから中立地帯だからもう心配いらない。あとは一人でお帰りなさい。くれぐれも今回の件は口外しないこと。でないと、彼らはまたあなたに会いに来る」
そう告げると彼女は呆けたように口を開け、不安そうに眉を寄せた。
「ここまで面倒見てあげたのよ、もういいでしょう。さあ、行って」
「でも、私、あなたに会いに」
「あなたのせいで、死ぬところだった。一緒にいたくない」
ショックを受けて口を噤む彼女にもう一度だけ告げる。
「今夜私は誰にも会わなかった。あなたは夜ホテルから出なかった。いい、あなたは、誰にも襲われなかったし、明日は昼の内にこの街を離れる。それでもう、怖いことは何も無くなる。いいわね」
言うだけ言って肩を掴み、アルカの方へ押し出す。
「レイラ・ブラックウェルは、もう、死んだの。そうでなくてはならないの。あなたは姉を探しに来たのでなく、ただ観光に来たのよ。国教会の人間には、絶対に、話しては駄目」
振り帰っては駄目よと囁くと、彼女は震えながらも頷いてそれから走り出した。
今日は見逃すと言った。なら日付を越えればどうなる。念を入れて急いだのは正解だったようで、私はまた、賭けには勝った。
「言葉遊びをするなんて、弄んでくれるわね」
「さて、なんのことだ?俺はただ、女二人無事に帰れたかどうか様子を見に来ただけだが」
「老鼠の首領自ら?」
「ああ、そうだ」
「それはどうも、有難いことね」
振り返ると相変わらず薄い笑みを浮かべて何を考えているのか分からない男がいた。深くため息をついてこの後の展開を予想した。
「……あの子は、いいのね」
「いいも何も、見逃すと言っただろう。そんなに俺の言葉が信用ならないか?」
「確認しただけよ。私も帰らせてもらうわ」
「まあ待て。少し、お前に興味が沸いた。部下の非礼の詫びに、もてなしてやろう」
「生憎と、こんな夜中に他所様にお邪魔するほど身の程知らずじゃないの。遠慮させていただくわ」
「俺がいいと言っている。なんなら、先程の娘も招待してやってもいいが、どうする?」
選択肢なんて最初からないのだ。こちらの反応を愉しげに眺める男を見据え、口を開く。
「……興味があるのは私なのでしょう。他の女を同席させるなんて、一体どういうつもりなのかしら」
非難するように言うと男は僅かに目を見張ったが、くつくつと笑い、満月のような目を歪ませた。
「これはこれは、失礼した」
「お分かりいただいて嬉しいわ。老鼠のもてなしがどんなものか、楽しみね」
写真の中の女はカメラに気づいているのか、強い目でこちらを射抜くかのようだった。国教会が現在探している娘の写真と見比べると、顔立ちこそ似ているが決定的に違うのがその瞳のほの暗さだ。かつて国教会がその存在を方々探し回り、六鳳会へ捜索依頼までしてあと一歩というところで逃れたという女。国教会と教国の対立により捜索が打ち切られ、国教会側には一切情報が明かされないまま今もこの街で暮らしている。そして今度はその妹を探すために、また裏組織へと依頼を持ち掛けた。ただの娘が家出をしたくらいでこの騒ぎようとくれば、ブラックウェルという家自体に何かがあるに決まっている。ならばその妹は、かつて行方不明となった姉を探しにくるだろう。その方が都合がいい誰かが情報を流したのだ。
「現在の写真は?」
「…………その、どうしても気づかれるようで失敗しています。なので昔の写真しか用意できませんでした」
「ほう?」
「職場と家は抑えられているのですが、道中必ず撒かれます。なので姉の方を見張るよりも、街道で張るのがいいかと。まあ、本当にここに来るかはわかりませんが」
「妹の方はそれでいい。姉の方はしばらく放っておけ」
支度を整えて夕暮れの街へ出る。職場までの道のりを歩いていると、巡回帰りだろう顔見知りの警官に声をかけられた。
「ようアリア、今からか」
「ええ。マルコは警察署に戻るところ?お疲れ様」
マルコの後ろに控えている、確かロベルトとかいう警官は会話に入る気はないようだが、こちらを見る目つきは好意的とは言い難い。この時代に女の身でカジノのディーラーなんてやっていると、物珍し気に見られるか反感を抱かれるかのどちらかだ。どちらにせよ偏見の目であることに違いはない。
「そういや、レイラ・ブラックウェルって名前に心当たりあるか?」
懐かしい名前に、時が止まるような気がした。もう長いこと聞いていない、失われた筈の名前だ。
「…………知らないわ。誰なの」
「旅行客のイギリス人のお嬢ちゃんが探してるんだってよ。片言のイタリア語で」
「……ふうん。どうして私にその話を?」
「そのお嬢ちゃん、お前さんが前にチャリティに出してた、あの手の込んだ刺繍のハンカチ持っててよ、それをその探し人が作ったって思い込んでるみたいだ」
刺繍は、まだ国にいる頃に亡き母が教えてくれたものだ。たしか観光客がいたく気に入って持っていったものだが、確かに英語を話していた。そこからどういう道を辿ってその名前を再び聞くことになったのか知る由もないが、まさかそんな所から気づかれるだなんて、神様がもしも本当にいるのだとしたら、余程私たちに苦難を与えたいらしい。
「それを作ったのは別の人間だって言ったら、誰なのか聞かれたから喋っちまった。そのうちお前のところに行くかもしれねえ」
「その子、1人なの?」
「どうもそうらしい。用心しろとは言ったんだが」
「心配ね。この街は、少し特殊だから」
何事もなければいいのだが、嫌な予感しかしない。聞くはずのなかった名前、イギリスから探しに来た女の子。遠い異国の地に逃れ果て、短くはない時間が過ぎ、もう、全て終わったはずだった。そう思っていたのは私だけだったのだろうか。
「例の女、本当にブルローネに来たようです」
「そうか」
「捕まえなくていいんですか?」
「いらん。動向を見張らせて所在だけ報告しておけ。余計なことはするな、との仰せだからな。後は向こうが勝手にやるだろう」
「……うちの連中がおとなしく見張りだけしていると思いますか?」
「さあな、俺の知ったことではない。殺しだけはするなと言っておけ」
「……はあ、どうなっても知りませんからね」
業務が終わり、裏口から帰路についている途中、どこからか争う声が聞こえてきた。普段なら気にもとめないのだが、片方が女ということに気づき、考える間もなく足がそちらに向く。今日はずっと嫌な予感がしてならない。段々と駆け足になり、全速力で声の方へ向かう。すると向こうの通りで女性が男に掴まれた手をなんとか振り払い、走って逃げる後ろ姿が遠目に見えた。あの方向はまずい。ヴェレーノへ向かっている。
追いかけている内に見失ってしまったが、微かに聞こえる物音を頼りに細い路地に入り込み、壁にぶつかりそうになりながら進む。遠くにはいっていないはずだ。それどころか、走る音が段々と近づいてきている。そして、角を曲がってきた女性とかち合った。互いに目が合い、同時に見開く。同じ髪の色、同じ色の瞳。私たちは揃いも揃って母によく似ている。ああ、やはり。やはり、あなただった。彼女は泣きそうな顔でレイラと、私の本当の名を呟いた。私も彼女の名を呼びそうになったが、再会を喜んでいる場合ではないし、そもそも喜べるはずがない。私たちは、会ってはいけないのだ。呆然としているうちに男が角から姿を現し、彼女の手を掴もうとした。咄嗟にそれを払いのけて彼女の腕を引くと、強く力を込めてしまったせいか体制を崩して地面に倒れこんでしまった。立ち上がらせようとするが、その前に激高した男が銃口こちらに向けるのが見えて動きが止まった。ここまで手が早いと誰が思う。
「てめえ、何しやがる!」
指先が引き金にかかるのを見て、手首目掛けて蹴り上げる。銃声が鳴り響き、拳銃が回転しながら上空へ飛ぶ。落ちてきたそれを掴み、痛みに蹲る男へと銃を突きつけた。
「……こ、このアマ!」
「動かないで」
両手で構えながら彼女の様子を伺うが、銃声に脅えた彼女は足に力が入らないようだ。
「時間を稼ぐから、どうにか立ってちょうだい。私ではあなたを抱えては逃げられない」
「……で、でも、あ、足が、震えて」
「し、素人が当てられるはずねえだろ!」
「素人?こんな街で生きてるのよ。一般市民でも銃を扱える人間がいてもおかしくないと思わない?」
「ハッタリだ!」
「試してみてもいいけど、この距離なら脳天を打ち抜く自信があるわよ。さあ、どうする?あなた、こんな所でこんなくだらない死に方がしたい?引くなら見逃すわ」
引けと念じながら引き金に手をかける。銃声が響いて数秒が経過している。音を聞きつけて人が増える前にどうにかしなくては。警官ならいい。だがここは、老鼠の住処だ。厄介な連中が増えれば活路はなくなる。
「気まぐれに来てみれば、これはどうしたことだろうな」
突然、背後から声が聞こえてきた。眼前にいる男が、顔を引き攣らせて、ヤン、と呟いた。楊。それはヴェレーノで、もしかするとこのブルローネで今一番敵にしてはいけない男の名だ。
「帰って早々に銃声とは、お前、何をしている?」
「ち、違うんです!お、俺はただ、」
「煩い、黙れ。……女、お前に聞いているのだが?」
耳元で囁かれて、背筋にぞくりと悪寒が走る。生存確率はこれで大幅に下がってしまった。仕方なく顔を向けると、老鼠の首領は存外若いことが分かった。月の色をした瞳とかち合う。部下が銃を突きつけられているというのに愉しそうな顔をしているのを見て、それだけで危険な男だというのがよく分かった。
「そちらの男が彼女を襲っているところに出くわしてね。やむなく強硬手段に出たところよ」
「ほう?その銃は、お前のものか?」
「……いいえ」
「だろうな。では、奪い取ったと、そういうことだな」
楊は前方へ目を向けた。味方が訪れたはずなのに、その男は何故か怯えているようだった。彼女に目を向けると、立ち上がれるようにはなったようだ。
「どうやら世話になったようだ。これは、礼をしなければならないか」
「大したことはしていないわ」
「そうつれないことを言うな。女、名は、なんと言う?」
こんな危険な男相手に名乗りたくはなかったが、有無を言わさぬ声色はそれを許さないだろう。
「……アリア。アリア・フォンターナ」
「…………ああ、聞いたことがある。カジノでディーラーをしている奇特な女か。ならば、そうだな。運試しでもしてもらおうか」
「運試し、ですって?」
「俺にも立場があるのでな。か弱い女2人、黙って見逃してやりたいところだが、下の者の手前そうもいかん。だからせめて、お前の得意分野で決着をつけてやろう。どうだ、俺は優しいだろう」
見逃してやりたいなんて、平気で嘘をつくものだ。本当に優しい人間は無条件で解放してくれる。だが、拒否した所で待つ結果は目に見えている。
「何をすればいいのかしら」
「その前に、返してもらおう」
黙って拳銃を渡すと、男はシリンダーを出して弾を確認し、それを回転させてまた戻した。そして、それをまた、私へと差し出しす。
「今、この銃は弾を放つか、否か」
「…………」
「弾が出ると思うなら、女如きに簡単に銃を奪われる者など不要だからな。あれを撃て。だが、もし出ないと思うならば、お前自身で確かめて見せろ」
「……外せば、どうなる」
「当てれば、見逃してやる」
老鼠に捕まった者の末路がどうなるか、想像しなくてもよく分かる。
「お前は運の強い女だと聞く。なんでも、神に愛されているそうではないか。だとすれば、この程度簡単に乗り越えられるのではないか?」
男は嘲るように笑った。神なんて、欠片も信じていないくせに。
「私が本当に神に愛されているのなら、間違ってもこんな状況に陥るなんて有り得ないはずだけど」
「ふむ、それもそうか。では、どうする、己の不運を嘆くか?それとも、命乞いでもしてみるか?俺を愉しませるのであれば、助けてやらんこともないが」
命乞いをして助かるのであれば、喜んでやって見せよう。怯えて表情で立ちすくむ妹に一瞬だけ目をやる。私はこの子を、無事家に帰してやらないとならない。そのためには確実な手段を選ぶ。
「……幸運だとか、不運だとか、そんなことに意味なんてない。賭けには、ただ勝つか負けるかどちらかの結果があるだけ。本当に助けてくれるか分からないあなたに賭けるより、私は自分自身に賭ける」
銃口をこめかみに当てると、彼女が息を呑んだ。男は薄い笑みを浮かべたままじっとこちらを観察している。
「祈りの時間くらいくれてやってもいいが」
「あいにく、こんな時に祈る言葉なんて持ち合わせていないわ」
「そうか。なら、さっさと引き金を引け」
指をかけて、深呼吸。タチの悪いロシアンルーレットだ。分の悪い賭けだが負けるつもりは無い。私は運がいいのでなく、目がいいのだ。深く息を吐き、迷うことなく引き金を引く。撃鉄は起こらず、弾は射出されなかった。賭けには勝った。だが、この男が大人しく言うことを聞くかも分からない。男は口の端を釣り上げた。
「……なるほど、確かに強運の持ち主のようだ。噂になるのも頷ける。余興にはなった」
命をかけさせておいて余興とは言ってくれる。
「賭けには勝った。今日は、見逃してもらうわ」
「ああ、勝者には褒美をやらねばならんからな。今日は見逃してやろう。急ぐといい」
目を逸らしたタイミングで少女の手を握り走り出す。懐から時計を出すと日付変更まで時間がない。
「ど、どうして走るの?見逃してくれたんでしょう?」
「今日はね。もうすぐ明日になる。急いで」
彼女は言葉を失ってしまった。無理もない。
そこで終わりだった。鐘の音が聞こえてくる。
「どうにか、間に合ったわ」
息も絶え絶えな彼女を支え、何とか自力で立たせる。
「……ほ、本当に?」
「あそこから中立地帯だからもう心配いらない。あとは一人でお帰りなさい。くれぐれも今回の件は口外しないこと。でないと、彼らはまたあなたに会いに来る」
そう告げると彼女は呆けたように口を開け、不安そうに眉を寄せた。
「ここまで面倒見てあげたのよ、もういいでしょう。さあ、行って」
「でも、私、あなたに会いに」
「あなたのせいで、死ぬところだった。一緒にいたくない」
ショックを受けて口を噤む彼女にもう一度だけ告げる。
「今夜私は誰にも会わなかった。あなたは夜ホテルから出なかった。いい、あなたは、誰にも襲われなかったし、明日は昼の内にこの街を離れる。それでもう、怖いことは何も無くなる。いいわね」
言うだけ言って肩を掴み、アルカの方へ押し出す。
「レイラ・ブラックウェルは、もう、死んだの。そうでなくてはならないの。あなたは姉を探しに来たのでなく、ただ観光に来たのよ。国教会の人間には、絶対に、話しては駄目」
振り帰っては駄目よと囁くと、彼女は震えながらも頷いてそれから走り出した。
今日は見逃すと言った。なら日付を越えればどうなる。念を入れて急いだのは正解だったようで、私はまた、賭けには勝った。
「言葉遊びをするなんて、弄んでくれるわね」
「さて、なんのことだ?俺はただ、女二人無事に帰れたかどうか様子を見に来ただけだが」
「老鼠の首領自ら?」
「ああ、そうだ」
「それはどうも、有難いことね」
振り返ると相変わらず薄い笑みを浮かべて何を考えているのか分からない男がいた。深くため息をついてこの後の展開を予想した。
「……あの子は、いいのね」
「いいも何も、見逃すと言っただろう。そんなに俺の言葉が信用ならないか?」
「確認しただけよ。私も帰らせてもらうわ」
「まあ待て。少し、お前に興味が沸いた。部下の非礼の詫びに、もてなしてやろう」
「生憎と、こんな夜中に他所様にお邪魔するほど身の程知らずじゃないの。遠慮させていただくわ」
「俺がいいと言っている。なんなら、先程の娘も招待してやってもいいが、どうする?」
選択肢なんて最初からないのだ。こちらの反応を愉しげに眺める男を見据え、口を開く。
「……興味があるのは私なのでしょう。他の女を同席させるなんて、一体どういうつもりなのかしら」
非難するように言うと男は僅かに目を見張ったが、くつくつと笑い、満月のような目を歪ませた。
「これはこれは、失礼した」
「お分かりいただいて嬉しいわ。老鼠のもてなしがどんなものか、楽しみね」