1927〜
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
その場は一瞬で嵐が通り過ぎたかのような惨状となった。椅子もテーブルも破壊しつくされ、床には血しぶきが飛び散り、天井までもその赤が届いていた。剣戟の音は鳴り続き、楊の体には決して浅くない傷が増えていく。私はそれを離れた所で祈るような気持ちで見ていた。簡単に死ぬ男じゃないのは分かっている。だけど、もしものことを思うと恐ろしくてたまらなかった。
永遠とも思えるような時間の後、楊が片膝をついた。心臓が早鐘を打ち、恐怖に体が震えたけれど、絶望を感じたのはほんの一瞬だった。失いたくないものがあるのなら、それを奪われないように手を尽くすしかない。自分で勝ち取るしかないのだ。賭ける前から諦めていたのでは話にならない。手元にあるカードで、すべて失う覚悟で勝負するしか道はないのだと、私はよく知っている。
「袁!」
膝を着いた楊の背後に駆け寄り、迷うことなく銃を構え、引き金を引く。飛び出た弾丸は心臓を貫く前にサーベルで弾かれた。
「無粋な女だ。邪魔をしないでくれないか」
もう一度引き金を引く前に、袁はそれを私に向けて投げつけてきた。私に袁は殺せない。そんなことは最初から分かっている。だけど。肩に刃が突き刺さると同時に、楊の刃が袁の胸を貫くのが見えた。床に叩きつけられるかのように倒れ込み、激痛が走る。早く起き上がって楊の手当てをしないといけないのに、痛みがそれを邪魔する。何とか堪えていると、傷だらけの楊が傍らに膝をつき顔を覗いていた。
「……ご、めん、なさい。しょう、ぶの、邪魔、して」
「口を閉じていろ。舌を噛むなよ」
私が口を閉じたのを見て楊は突き刺さったサーベルを一気に引き抜いた。余りの激痛に視界が白む。彼は手早く止血をしてくれた。
「わたし、より、先に……自分の止血、して」
「馬鹿を言え。前も失血死しかけたのを忘れたのか。この程度では俺は死なん」
そうは言うけれど立ち上がった体はふらついている。私を抱えようとしたので急いで立ち上がって支えるように脇に入った。
「……邪魔をしたのに、怒らないの」
勝負に水を差されることを嫌うのを知って、邪魔をした。不興を買うかもしれなかったけれど、生きていてくれるなら、何だって良かった。
「お前がじっとしているような人間でないことは知っている。…………おい、何故泣く。傷がそんなに痛むのか」
痛みなんて、どうだっていい。本当に死んでしまうかと思った。
「……生きていて、本当に、良かった。ずっと、ずっと、怖くて」
突然泣き出すものだから何かと思えば、そんなことかと呆れた。自分が死にかけた時はああも安らかな顔をしていたというのに。そうだ、問題はいつだってこの女自身だ。
「……俺の方が余程肝が冷えた」
急所を外していたからいいものの、下手をすれば即死も有り得た。
「お前は、お転婆というよりもはやじゃじゃ馬だな」
「……じゃ、じゃじゃ馬ですって?」
「手綱を握るこちらの身にもなれ。お前を殺すより先に死なれては、かなわん」
「……じゃじゃ馬で結構よ。あなたには私を殺してもらわなくちゃならないんだもの。長生きしてもらわないと、困るわ」
長生きをするつもりなど、欠片もなかったのだが。そう言われて少し思い出したことがある。
「支え、か」
「何?」
女の顔を見つめる。いつも涼し気な顔をしているのに、涙と血に汚れ、苦痛に顔を歪めている。だというのに、いや、だからこそ、いつになく魅入られる。
『いつか楊の支えになれる相手が―――大切な人が、あなたの前に現れるかも』
いつだったかそんなことを言われた。大切、などとはよく分からんが、俺はこの女を欲し、そしてこの女は、俺を選んだ。子供の頃に殺されるのが運命だったという女が生き延びて俺と出会い、一度死にかけ、袁の刃を受けても尚生き延びて運命の相手に俺を選ぶ。定められている筈の運命を、自分で決めると宣う傲慢な女だ。まったく俺の女らしいと、愉快な気分になる。
「どうしてこんな状況で笑っているのよ。痛みに鈍いのにも程があるわ」
俺は痛みには鈍いが、女には酷な傷だろう。眉を寄せて痛みに耐えているのが分かる。それでも支えようとするのであれば、それを選んだのは女であり俺が止めることもない。どうせもう、手放しはしないのだ。
「レイラ」
俺に会うために生きてきたとお前は言った。なら、俺はお前に会うために生きてきた、とでもいうのか。笑える話だが、この女は勘がいいからなのかなんなのか、すぐに嘘を見抜くから、試してみてもいい。
「……俺はお前に会うために生きてきたのかもしれんな?」
そう言うと女は大きく目を見開いて、折角泣き止んだと言うのにまた泣き出した。成程、そういうことらしい。俺がこの女を見つけたように、女も俺を見つけたということだろう。運命など、信じはしないが、自分で選んだものが運命になるのならそれは確かに存在するということになるだろう。ならば俺の運命は―――
傷を縫って退院になった後、しばらく教会で世話になることになった。袁を倒した楊はそのまま六鳳会での位が上がるらしく、引き継ぎやら何やらで組織がごたついているためだ。楊は忙しくしているようだったが、夜には必ず様子を見に来てくれた。
国教会の一部がブラックウェルを排除しようとした件については正式な謝罪があり、妹達の方も無事に家に帰れたと聞く。これでいよいよ全ての片がついたことになった。少し困ったのは、イタリア国籍のアリア・フォンターナはなかった事にされ、レイラ・ブラックウェルのイギリス国籍を取り戻すことになってしまったことだ。教会の皆やお見舞いに来てくれた知人たちに説明するのに手間取ることになったのだ。
そうこうしていう内に日は経ち、傷が落ち着いてき頃、私は一度拠点に戻ることになった。足を踏み入れた楊の私室は、少しの間留守にしていただけなのに少しだけ入るのが躊躇われた。中に居た楊はもちろんお帰り、などという台詞を吐くことはなかったが、代わりに私の手を引いて寝台の端に座らせた。
「……傷の具合はどうだ」
「大分痛まなくなったわ。あなたは?私よりも傷が多いはずでしょう」
「大したことではない。お前の話をしろ」
膝を着くほどの怪我だった癖に、などと言えば機嫌を損なうので言わないでおく。
「肩はまだ上がらないけど、大事な神経は傷つけていないからそのうち平気になるでしょう。跡はまだ残ってる。リリィとエレナに心配されてしまったわ」
積極的に世話をしてくれた、ブルローネでできた妹達。ずっと偽名を使っていたことを謝ると驚きはしたもののすぐに受け入れてくれたのだが、傷を見ると悲しそうな顔になってしまった。
「見せろ」
「……今?」
「そう言っている」
楊は妙に静かだった。無理に見ようともしつこく食い下がることもなく、ただ私の許しを待っている。珍しいこともあると思いながら、ブラウスのボタンを1つずつ外して襟を広げた。10cm程の、確かにそこにある傷。もうあと少しズレていたら、あと少し深かったら、危なかった。
楊は顔を近づけて、それを見つめる。そして、彼の口から零れた言葉にわたしは耳を疑う。以前謝られた時以上の驚きが心に広がって言った。傷なんてこの男はどうせ気にしないだろうし、わたしも悔いはない。けれど、それはあまりにも不意打ちすぎて、両の眼から泪がポロポロと落ちていった。顔を上げた楊が動揺するのが気配で伝わるが、私も同じくらい驚いている。
「…………そんなこと言うなんて、思わないじゃない」
言い訳じみた言葉の合間も、それは絶え間なく流れる。ハンカチを取り出して、目元を押さえた。
「…………普段、全く、言わない癖に」
言葉なんて、いらない。傍にいられるのなら、それだけでいい。なのに、この男はいつも私をいとも容易く揺さぶる。不意にくれる、言葉が好きだ。私を一人の人間として見ているのが分かるから。私を見つめる瞳が好き。私を呼ぶ声が好き。私に触れる手が好き。何もかもが愛おしくて仕方がない。
「……それ、まだ使っているのか」
「…………当たり前でしょう。あなたがくれたもの、全部、大事なものよ」
手首を掴まれて、顔の前から退かされた。堰き止めていたものがなくなって、また涙が頬を伝う。代わりに楊の指がそれを拭った。
「お前は最近、よく泣く」
「…………そんなに、泣いてないわ」
「今も泣いているだろう。俺を想って泣くとは、存外いじらしい」
「…………好きなのよ、あなたのことが。仕方ないじゃない」
好きなのだ。どうしようもなく。
「あなた以外の誰にも、こんな気持ちにさせられること、一生ないわ」
こんなに泣くなんてきっとこんなのは面倒な筈なのに、楊はどこか満足そうな顔をして私を見つめる。その目に私は、かなわない。心ごと全て差し出してしまって、そうしてもう、この人なしでは生きることもできないのだ。でもそれを不幸とは思わない。傍にいられるだけで、それだけでこんなにも幸せなのだから。
暫く疎遠になっていた知人に話がしたいと持ち掛けると、彼女は不思議そうにしながらもそれに応じてくれることになった。
「本当に楊でいいの?」
挨拶もそこそこに本題を切り出すと、彼女は僕の顔をまじまじと見つめてくる。今更何を言い出すのかと思っているのだろう。
「驚いた。何の用かと思ったら、心配してくれているの?」
「まあね。君とは知らない仲でもないし。いつの間にか疎遠になっちゃったけどね」
「自分から疎遠にしておいてよく言うわ」
「それは、だって、君が」
女の子だったから。賢くて、頭が切れて、喧嘩の強いレオーネ。教会で引き取られたという孤児の少年は度々教会から脱走し、その先で偶然出会って度々話をするようになった。でも、ある日現れた君は女の子の恰好をして、アリアと名乗った。どうして言われるまで気が付かなかったのだろう。確かに君は女の子だった。それも、今まで会ったどんな子よりも、ずっと綺麗な。
「……この話はいいよ。僕が言いたいのは、もし君が楊から離れられずにいるのなら、助けてあげてもいいってこと」
「三組織の均衡を崩すようなこと、あなたはしないわ」
「僕は何もしないよ。ただ、少しだけ裏から手を回すだけ」
「そう。なら、余計なお世話、とでも言っておこうかしら。離れる気なんてさらさらないわ」
そう言い切られて、どうしてよりにもよってあんな危険な男を選ぶのだろうと不思議な気持ちになる。あんなにたくさん求婚されておいて、選んだのが老鼠の首領なんて、どうかしている。
「どこがそんなに良かったのさ」
「……カジノでディーラーなんかやってた、ギャンブル好きの奇特な女を、面白がって手元に置こうとしたところ、とか?」
「それ、当てつけで言っているのかな」
「ディーラーなんてさっさと辞めればいいのに、と言ったことなら別に気にしていないわよ」
「本当かなあ」
「本当よ。あなたには、感謝してるもの。疎遠にしていた私に付き添ってカジノに行ってくれてありがとう」
教会を出て働き始めたという話は聞いていた。そのしばらく後に、腕に縄の跡をつけた彼女が訪ねてきた。揉め事に巻き込まれて金を用意したいから、カジノへ同伴してほしいと。
「言ってくれれば、僕が何とか出来たかもしれないのに。君はなんにも言わなかったね」
「ファルツォーネだけならどうにかなったかもしれないけど、他の組織も関わっているのだから言ったって無駄でしょう」
「……楊との出会いだって、どうせ何かに巻き込まれたんでしょ。どうしてその時にも相談しなかったの?」
「だって、疎遠になった友人を助けるメリットなんてあなたにはないわ」
「……酷い言い草。僕って全然信用ないんだね」
「別に。ただ、私を守れるのは私だけだって、ずっと思って生きてきたのよ」
そう、彼女は、いや、当時の彼は奇妙だった。孤児だというのに、どこで学んだのかもわからない知識を豊富に持っていて、いつも周囲を警戒していた。
「まさかアリアも偽名だなんて思わなかったよ。イギリス出身のレイラ・ブラックウェル嬢?」
「まさか、またそう名乗るとは思ってなかったわ」
「僕は、本当に君のこと、なんにも知らなかったんだなあ」
「まあ、それはお互い様じゃない?」
「はは、そうかも。ねえ、どこがそんなに良かったの?」
最後にそう尋ねると、彼女はそれは美しく微笑んだ。恋というものは、こんなにも人を変えてしまうらしい。
「死んでもいいから傍にいたいって思わせてくれた所」
「……やっぱり、やめておいた方がいいと思うんだけど」
「ふふふ、ご心配どうも。でも、あの人がいいのよ」
「せめて大事にしてあげてほしいなあ。怪我させないのは絶対じゃない?」
「あれはあの女が望んで負った傷だ。貴様にどうこう言われる筋合いはない」
「……君のことだから、飽きたら殺すっていうのも有り得るよね」
「そうだな。あれもその覚悟はとうに決めている」
本当に、どうしてこんなのがいいのだろう。長くギャンブルをやっているうちに普通の男では満足できなくなってしまったのだろうか。
「だが、飽きはまだ来ない。すぐに飽きるものと思っていたのだがな、俺にしては存外長く続いているものだ」
「君の興味が尽きないことを、祈るしかないのかな。どうしてよりにもよって君なんか選ぶかな」
「見る目がある、ということだろう」
「見る目がない、の間違いだと思うけど」
「諦めろ、フランチェスカ。あれはもう、とうの昔に俺の物だ」
陥れられて、自分の身を守るためにマフィアとの交渉の席に自ら臨んだあの子。できることなら裏の世界とは二度と関わらずに普通の人と一緒になって、平凡な幸せを手に入れてくれたらと思っていたのに。あろうことかこんな男が相手だなんて。
「君を選ばざるを得ないんじゃなくて?」
「ほざけ。あれは心底、俺に惚れている」
「…………もしかして、僕は今、惚気られているのかな」
「事実を言ったまでだ。用が終わったのならさっさと帰れ」
「言われなくてももう帰るよ。……ねえ、君は、彼女を幸せにできるの?」
出来るはずがない。平穏とは無縁の世界に生きて、いつの日かあの子は争いに巻き込まれて死ぬかもしれない。誰よりも賢く強かったあの少年はどこにもいないのだから
「くだらんな。その問いになんの意味がある。あの女は、死ぬまで俺から離れられん。それは俺が決めたことであり、女自ら選んだことだ。それが幸か不幸かは、あの女自身が決める。他人に口出しされるいわれはない」
「……はあ。本当に、どうしてこんなのがいいんだか」
何の準備をしているのかと思っていたら、英国に渡る算段をつけていたと知ったのは出発の当日だ。教会の皆に挨拶する時間をくれたのはありがたいが、その後すぐに出発することになり、長い道のりを心構えもなく移動させられる羽目になった。
「……まさか行先がロンドンになるとはね」
「不服か?」
「ううん。でも、国には二度と帰れないと思っていたから……少し、複雑な気分ね。まあ、あなたが居ればどこでも構わないのだけれど」
「……そうだろうな」
「本当に、戻ってこられるなんて」
長い年月を経て、祖国へと帰り着いた。妹に手紙を送ると遊びに来ると息巻いていたが、あの子たちにもそろそろ落ち着いてもらわないと父の心労が目に浮かぶ。
「俺がいるというのに、どこを見ている」
顎を掴まれて顔の向きを変えさせられた。楊は気の所為でなければ拗ねたような顔をしている。この人は前よりも表情が読みやすくなった。微笑むと彼は一瞬眉を寄せ、小さく息をついた。
「お前、幸せになりたいか」
おかしなことを聞いてくるものだから、つい、こちらもため息をついてしまった。楊のくせに、随分くだらないことを聞いてくるものだ。
「…………馬鹿ね」
「なんだと?」
「傍にいられるのなら、それだけで幸せよ」
「……そうだな。お前は、そういう女だ」
千と一夜。その夜、楊は外での仕事があるということで、夜更けを過ぎても戻ってこなかった。
この生活がいつまで続くかは分からない。それでも、ここまで来ることはできた。明日の朝どうなるかは分からないけれど、私はもう、割と満足している。楊がどういうつもり千と一夜なんて言い出したのかなんて、特に深い意味はなかったに違いない。律儀に数えてきてしまったが、楊はきっと覚えていないだろう。だけど、私の中でそれはひとつ大きな意味を持つことになった。
物音がして振り返ると、そこには部屋の主が立っていた。おかえりなさいと声をかけると、楊はどこかぼんやりとした様子でこちらを見つめ、それから何も言わずに歩み寄る。伸びてきた手が頬を包み、覗き込むように遠慮のない視線が突き刺さった。血の匂いがして、何をしてきたのかは聞かなくても分かる。けれど、それにしてはいつもと様子が異なっていた。
「……どう、したの?」
返り血はついているけれど、怪我はしていないようだ。何か起きたのだろうかと心配になっていると、やがてようやく口を開いた。
「……お前が、遠くを見ていると……」
そこで言葉を止めて、楊は眉を寄せる。何事かと見守っていると、不意に担ぎあげられた。急な展開に声を上げる間もなく、寝台に降ろされる。体がシーツに沈み、上から静かに見下ろされた。
「千一夜越えたとて、お前を手放しはしない。だから、お前は俺の事だけ見ていればいい」
そう言い終わるや否やキスをされる。まさかそんなことを覚えているだなんて思いもしなかった。
「……覚えていたのね」
「まだ耄碌していないからな」
くすくすと笑う私の頬を、指先がそっと撫でる。この手は、多くの人を殺めてきた。私も最初は、いつ殺されるか分からなかった。千の夜なんて途方もなく思えたのに、一夜一夜生き延びて、私はまだ楊の傍にいる。言われるまでもなく、余所見なんてしていられない。私を見る、黄金の月の色。あなたの目を、ずっと、見つめていたい。
もうじき夜明けが訪れる。千と一の夜を越えて、その先には何があるだろう。例えどれだけ悲惨な死が待ち受けていようと、後悔なんてひとつもない。命を賭けるだけの価値があると、私は知っている。だけど一つだけ望むのなら―――死ぬ時は、あなたの目を見つめながら死んでいきたい。夜明けの光の中で見るあなたの瞳は、きっと何よりも美しいから。
永遠とも思えるような時間の後、楊が片膝をついた。心臓が早鐘を打ち、恐怖に体が震えたけれど、絶望を感じたのはほんの一瞬だった。失いたくないものがあるのなら、それを奪われないように手を尽くすしかない。自分で勝ち取るしかないのだ。賭ける前から諦めていたのでは話にならない。手元にあるカードで、すべて失う覚悟で勝負するしか道はないのだと、私はよく知っている。
「袁!」
膝を着いた楊の背後に駆け寄り、迷うことなく銃を構え、引き金を引く。飛び出た弾丸は心臓を貫く前にサーベルで弾かれた。
「無粋な女だ。邪魔をしないでくれないか」
もう一度引き金を引く前に、袁はそれを私に向けて投げつけてきた。私に袁は殺せない。そんなことは最初から分かっている。だけど。肩に刃が突き刺さると同時に、楊の刃が袁の胸を貫くのが見えた。床に叩きつけられるかのように倒れ込み、激痛が走る。早く起き上がって楊の手当てをしないといけないのに、痛みがそれを邪魔する。何とか堪えていると、傷だらけの楊が傍らに膝をつき顔を覗いていた。
「……ご、めん、なさい。しょう、ぶの、邪魔、して」
「口を閉じていろ。舌を噛むなよ」
私が口を閉じたのを見て楊は突き刺さったサーベルを一気に引き抜いた。余りの激痛に視界が白む。彼は手早く止血をしてくれた。
「わたし、より、先に……自分の止血、して」
「馬鹿を言え。前も失血死しかけたのを忘れたのか。この程度では俺は死なん」
そうは言うけれど立ち上がった体はふらついている。私を抱えようとしたので急いで立ち上がって支えるように脇に入った。
「……邪魔をしたのに、怒らないの」
勝負に水を差されることを嫌うのを知って、邪魔をした。不興を買うかもしれなかったけれど、生きていてくれるなら、何だって良かった。
「お前がじっとしているような人間でないことは知っている。…………おい、何故泣く。傷がそんなに痛むのか」
痛みなんて、どうだっていい。本当に死んでしまうかと思った。
「……生きていて、本当に、良かった。ずっと、ずっと、怖くて」
突然泣き出すものだから何かと思えば、そんなことかと呆れた。自分が死にかけた時はああも安らかな顔をしていたというのに。そうだ、問題はいつだってこの女自身だ。
「……俺の方が余程肝が冷えた」
急所を外していたからいいものの、下手をすれば即死も有り得た。
「お前は、お転婆というよりもはやじゃじゃ馬だな」
「……じゃ、じゃじゃ馬ですって?」
「手綱を握るこちらの身にもなれ。お前を殺すより先に死なれては、かなわん」
「……じゃじゃ馬で結構よ。あなたには私を殺してもらわなくちゃならないんだもの。長生きしてもらわないと、困るわ」
長生きをするつもりなど、欠片もなかったのだが。そう言われて少し思い出したことがある。
「支え、か」
「何?」
女の顔を見つめる。いつも涼し気な顔をしているのに、涙と血に汚れ、苦痛に顔を歪めている。だというのに、いや、だからこそ、いつになく魅入られる。
『いつか楊の支えになれる相手が―――大切な人が、あなたの前に現れるかも』
いつだったかそんなことを言われた。大切、などとはよく分からんが、俺はこの女を欲し、そしてこの女は、俺を選んだ。子供の頃に殺されるのが運命だったという女が生き延びて俺と出会い、一度死にかけ、袁の刃を受けても尚生き延びて運命の相手に俺を選ぶ。定められている筈の運命を、自分で決めると宣う傲慢な女だ。まったく俺の女らしいと、愉快な気分になる。
「どうしてこんな状況で笑っているのよ。痛みに鈍いのにも程があるわ」
俺は痛みには鈍いが、女には酷な傷だろう。眉を寄せて痛みに耐えているのが分かる。それでも支えようとするのであれば、それを選んだのは女であり俺が止めることもない。どうせもう、手放しはしないのだ。
「レイラ」
俺に会うために生きてきたとお前は言った。なら、俺はお前に会うために生きてきた、とでもいうのか。笑える話だが、この女は勘がいいからなのかなんなのか、すぐに嘘を見抜くから、試してみてもいい。
「……俺はお前に会うために生きてきたのかもしれんな?」
そう言うと女は大きく目を見開いて、折角泣き止んだと言うのにまた泣き出した。成程、そういうことらしい。俺がこの女を見つけたように、女も俺を見つけたということだろう。運命など、信じはしないが、自分で選んだものが運命になるのならそれは確かに存在するということになるだろう。ならば俺の運命は―――
傷を縫って退院になった後、しばらく教会で世話になることになった。袁を倒した楊はそのまま六鳳会での位が上がるらしく、引き継ぎやら何やらで組織がごたついているためだ。楊は忙しくしているようだったが、夜には必ず様子を見に来てくれた。
国教会の一部がブラックウェルを排除しようとした件については正式な謝罪があり、妹達の方も無事に家に帰れたと聞く。これでいよいよ全ての片がついたことになった。少し困ったのは、イタリア国籍のアリア・フォンターナはなかった事にされ、レイラ・ブラックウェルのイギリス国籍を取り戻すことになってしまったことだ。教会の皆やお見舞いに来てくれた知人たちに説明するのに手間取ることになったのだ。
そうこうしていう内に日は経ち、傷が落ち着いてき頃、私は一度拠点に戻ることになった。足を踏み入れた楊の私室は、少しの間留守にしていただけなのに少しだけ入るのが躊躇われた。中に居た楊はもちろんお帰り、などという台詞を吐くことはなかったが、代わりに私の手を引いて寝台の端に座らせた。
「……傷の具合はどうだ」
「大分痛まなくなったわ。あなたは?私よりも傷が多いはずでしょう」
「大したことではない。お前の話をしろ」
膝を着くほどの怪我だった癖に、などと言えば機嫌を損なうので言わないでおく。
「肩はまだ上がらないけど、大事な神経は傷つけていないからそのうち平気になるでしょう。跡はまだ残ってる。リリィとエレナに心配されてしまったわ」
積極的に世話をしてくれた、ブルローネでできた妹達。ずっと偽名を使っていたことを謝ると驚きはしたもののすぐに受け入れてくれたのだが、傷を見ると悲しそうな顔になってしまった。
「見せろ」
「……今?」
「そう言っている」
楊は妙に静かだった。無理に見ようともしつこく食い下がることもなく、ただ私の許しを待っている。珍しいこともあると思いながら、ブラウスのボタンを1つずつ外して襟を広げた。10cm程の、確かにそこにある傷。もうあと少しズレていたら、あと少し深かったら、危なかった。
楊は顔を近づけて、それを見つめる。そして、彼の口から零れた言葉にわたしは耳を疑う。以前謝られた時以上の驚きが心に広がって言った。傷なんてこの男はどうせ気にしないだろうし、わたしも悔いはない。けれど、それはあまりにも不意打ちすぎて、両の眼から泪がポロポロと落ちていった。顔を上げた楊が動揺するのが気配で伝わるが、私も同じくらい驚いている。
「…………そんなこと言うなんて、思わないじゃない」
言い訳じみた言葉の合間も、それは絶え間なく流れる。ハンカチを取り出して、目元を押さえた。
「…………普段、全く、言わない癖に」
言葉なんて、いらない。傍にいられるのなら、それだけでいい。なのに、この男はいつも私をいとも容易く揺さぶる。不意にくれる、言葉が好きだ。私を一人の人間として見ているのが分かるから。私を見つめる瞳が好き。私を呼ぶ声が好き。私に触れる手が好き。何もかもが愛おしくて仕方がない。
「……それ、まだ使っているのか」
「…………当たり前でしょう。あなたがくれたもの、全部、大事なものよ」
手首を掴まれて、顔の前から退かされた。堰き止めていたものがなくなって、また涙が頬を伝う。代わりに楊の指がそれを拭った。
「お前は最近、よく泣く」
「…………そんなに、泣いてないわ」
「今も泣いているだろう。俺を想って泣くとは、存外いじらしい」
「…………好きなのよ、あなたのことが。仕方ないじゃない」
好きなのだ。どうしようもなく。
「あなた以外の誰にも、こんな気持ちにさせられること、一生ないわ」
こんなに泣くなんてきっとこんなのは面倒な筈なのに、楊はどこか満足そうな顔をして私を見つめる。その目に私は、かなわない。心ごと全て差し出してしまって、そうしてもう、この人なしでは生きることもできないのだ。でもそれを不幸とは思わない。傍にいられるだけで、それだけでこんなにも幸せなのだから。
暫く疎遠になっていた知人に話がしたいと持ち掛けると、彼女は不思議そうにしながらもそれに応じてくれることになった。
「本当に楊でいいの?」
挨拶もそこそこに本題を切り出すと、彼女は僕の顔をまじまじと見つめてくる。今更何を言い出すのかと思っているのだろう。
「驚いた。何の用かと思ったら、心配してくれているの?」
「まあね。君とは知らない仲でもないし。いつの間にか疎遠になっちゃったけどね」
「自分から疎遠にしておいてよく言うわ」
「それは、だって、君が」
女の子だったから。賢くて、頭が切れて、喧嘩の強いレオーネ。教会で引き取られたという孤児の少年は度々教会から脱走し、その先で偶然出会って度々話をするようになった。でも、ある日現れた君は女の子の恰好をして、アリアと名乗った。どうして言われるまで気が付かなかったのだろう。確かに君は女の子だった。それも、今まで会ったどんな子よりも、ずっと綺麗な。
「……この話はいいよ。僕が言いたいのは、もし君が楊から離れられずにいるのなら、助けてあげてもいいってこと」
「三組織の均衡を崩すようなこと、あなたはしないわ」
「僕は何もしないよ。ただ、少しだけ裏から手を回すだけ」
「そう。なら、余計なお世話、とでも言っておこうかしら。離れる気なんてさらさらないわ」
そう言い切られて、どうしてよりにもよってあんな危険な男を選ぶのだろうと不思議な気持ちになる。あんなにたくさん求婚されておいて、選んだのが老鼠の首領なんて、どうかしている。
「どこがそんなに良かったのさ」
「……カジノでディーラーなんかやってた、ギャンブル好きの奇特な女を、面白がって手元に置こうとしたところ、とか?」
「それ、当てつけで言っているのかな」
「ディーラーなんてさっさと辞めればいいのに、と言ったことなら別に気にしていないわよ」
「本当かなあ」
「本当よ。あなたには、感謝してるもの。疎遠にしていた私に付き添ってカジノに行ってくれてありがとう」
教会を出て働き始めたという話は聞いていた。そのしばらく後に、腕に縄の跡をつけた彼女が訪ねてきた。揉め事に巻き込まれて金を用意したいから、カジノへ同伴してほしいと。
「言ってくれれば、僕が何とか出来たかもしれないのに。君はなんにも言わなかったね」
「ファルツォーネだけならどうにかなったかもしれないけど、他の組織も関わっているのだから言ったって無駄でしょう」
「……楊との出会いだって、どうせ何かに巻き込まれたんでしょ。どうしてその時にも相談しなかったの?」
「だって、疎遠になった友人を助けるメリットなんてあなたにはないわ」
「……酷い言い草。僕って全然信用ないんだね」
「別に。ただ、私を守れるのは私だけだって、ずっと思って生きてきたのよ」
そう、彼女は、いや、当時の彼は奇妙だった。孤児だというのに、どこで学んだのかもわからない知識を豊富に持っていて、いつも周囲を警戒していた。
「まさかアリアも偽名だなんて思わなかったよ。イギリス出身のレイラ・ブラックウェル嬢?」
「まさか、またそう名乗るとは思ってなかったわ」
「僕は、本当に君のこと、なんにも知らなかったんだなあ」
「まあ、それはお互い様じゃない?」
「はは、そうかも。ねえ、どこがそんなに良かったの?」
最後にそう尋ねると、彼女はそれは美しく微笑んだ。恋というものは、こんなにも人を変えてしまうらしい。
「死んでもいいから傍にいたいって思わせてくれた所」
「……やっぱり、やめておいた方がいいと思うんだけど」
「ふふふ、ご心配どうも。でも、あの人がいいのよ」
「せめて大事にしてあげてほしいなあ。怪我させないのは絶対じゃない?」
「あれはあの女が望んで負った傷だ。貴様にどうこう言われる筋合いはない」
「……君のことだから、飽きたら殺すっていうのも有り得るよね」
「そうだな。あれもその覚悟はとうに決めている」
本当に、どうしてこんなのがいいのだろう。長くギャンブルをやっているうちに普通の男では満足できなくなってしまったのだろうか。
「だが、飽きはまだ来ない。すぐに飽きるものと思っていたのだがな、俺にしては存外長く続いているものだ」
「君の興味が尽きないことを、祈るしかないのかな。どうしてよりにもよって君なんか選ぶかな」
「見る目がある、ということだろう」
「見る目がない、の間違いだと思うけど」
「諦めろ、フランチェスカ。あれはもう、とうの昔に俺の物だ」
陥れられて、自分の身を守るためにマフィアとの交渉の席に自ら臨んだあの子。できることなら裏の世界とは二度と関わらずに普通の人と一緒になって、平凡な幸せを手に入れてくれたらと思っていたのに。あろうことかこんな男が相手だなんて。
「君を選ばざるを得ないんじゃなくて?」
「ほざけ。あれは心底、俺に惚れている」
「…………もしかして、僕は今、惚気られているのかな」
「事実を言ったまでだ。用が終わったのならさっさと帰れ」
「言われなくてももう帰るよ。……ねえ、君は、彼女を幸せにできるの?」
出来るはずがない。平穏とは無縁の世界に生きて、いつの日かあの子は争いに巻き込まれて死ぬかもしれない。誰よりも賢く強かったあの少年はどこにもいないのだから
「くだらんな。その問いになんの意味がある。あの女は、死ぬまで俺から離れられん。それは俺が決めたことであり、女自ら選んだことだ。それが幸か不幸かは、あの女自身が決める。他人に口出しされるいわれはない」
「……はあ。本当に、どうしてこんなのがいいんだか」
何の準備をしているのかと思っていたら、英国に渡る算段をつけていたと知ったのは出発の当日だ。教会の皆に挨拶する時間をくれたのはありがたいが、その後すぐに出発することになり、長い道のりを心構えもなく移動させられる羽目になった。
「……まさか行先がロンドンになるとはね」
「不服か?」
「ううん。でも、国には二度と帰れないと思っていたから……少し、複雑な気分ね。まあ、あなたが居ればどこでも構わないのだけれど」
「……そうだろうな」
「本当に、戻ってこられるなんて」
長い年月を経て、祖国へと帰り着いた。妹に手紙を送ると遊びに来ると息巻いていたが、あの子たちにもそろそろ落ち着いてもらわないと父の心労が目に浮かぶ。
「俺がいるというのに、どこを見ている」
顎を掴まれて顔の向きを変えさせられた。楊は気の所為でなければ拗ねたような顔をしている。この人は前よりも表情が読みやすくなった。微笑むと彼は一瞬眉を寄せ、小さく息をついた。
「お前、幸せになりたいか」
おかしなことを聞いてくるものだから、つい、こちらもため息をついてしまった。楊のくせに、随分くだらないことを聞いてくるものだ。
「…………馬鹿ね」
「なんだと?」
「傍にいられるのなら、それだけで幸せよ」
「……そうだな。お前は、そういう女だ」
千と一夜。その夜、楊は外での仕事があるということで、夜更けを過ぎても戻ってこなかった。
この生活がいつまで続くかは分からない。それでも、ここまで来ることはできた。明日の朝どうなるかは分からないけれど、私はもう、割と満足している。楊がどういうつもり千と一夜なんて言い出したのかなんて、特に深い意味はなかったに違いない。律儀に数えてきてしまったが、楊はきっと覚えていないだろう。だけど、私の中でそれはひとつ大きな意味を持つことになった。
物音がして振り返ると、そこには部屋の主が立っていた。おかえりなさいと声をかけると、楊はどこかぼんやりとした様子でこちらを見つめ、それから何も言わずに歩み寄る。伸びてきた手が頬を包み、覗き込むように遠慮のない視線が突き刺さった。血の匂いがして、何をしてきたのかは聞かなくても分かる。けれど、それにしてはいつもと様子が異なっていた。
「……どう、したの?」
返り血はついているけれど、怪我はしていないようだ。何か起きたのだろうかと心配になっていると、やがてようやく口を開いた。
「……お前が、遠くを見ていると……」
そこで言葉を止めて、楊は眉を寄せる。何事かと見守っていると、不意に担ぎあげられた。急な展開に声を上げる間もなく、寝台に降ろされる。体がシーツに沈み、上から静かに見下ろされた。
「千一夜越えたとて、お前を手放しはしない。だから、お前は俺の事だけ見ていればいい」
そう言い終わるや否やキスをされる。まさかそんなことを覚えているだなんて思いもしなかった。
「……覚えていたのね」
「まだ耄碌していないからな」
くすくすと笑う私の頬を、指先がそっと撫でる。この手は、多くの人を殺めてきた。私も最初は、いつ殺されるか分からなかった。千の夜なんて途方もなく思えたのに、一夜一夜生き延びて、私はまだ楊の傍にいる。言われるまでもなく、余所見なんてしていられない。私を見る、黄金の月の色。あなたの目を、ずっと、見つめていたい。
もうじき夜明けが訪れる。千と一の夜を越えて、その先には何があるだろう。例えどれだけ悲惨な死が待ち受けていようと、後悔なんてひとつもない。命を賭けるだけの価値があると、私は知っている。だけど一つだけ望むのなら―――死ぬ時は、あなたの目を見つめながら死んでいきたい。夜明けの光の中で見るあなたの瞳は、きっと何よりも美しいから。
3/3ページ