1927〜
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数日後、こちらの様子を確かめにアベルが再び訪れた。教国は今回の件に関しては暫く静観することでまとまったということだった。国教会の方は未だ紛糾しているが、拮抗を保っているとのことらしい。それについて、処刑人が私の元へ来たという話をすると彼は顔色を変えた。
「その男は、ローガンですね。彼はかつて、その」
言い淀む彼に対して、続けて欲しいと目線を送ると、彼は戸惑いながらも頷いた。
「あなたを逃がしたことで、しばらくの間謹慎処分を受けたそうです。優秀な男だったそうですが、その後の任務も失敗続きで閑職に追いやられ、最近になって突然姿を消したと聞いています」
「ということは、国教会からの命令を受けた訳では無いということ?」
「そこまでは……もしかすると、万が一の時に切り捨てられるために、かもしれません」
「それも有りうるわね」
けれど、命令にしろそうでないにしろ私を殺したがっているのは確かだ。命令を受けていたとして、それが撤回されても退きはしないだろう。
「……実は、お父上から伝言を預かっています」
「伝言?父が?」
「はい。事が収まるまではこちらで用意した隠れ家にて共に潜んではどうか、と。あなたのことをとても心配しておいでです」
私が移動するということは、その隠れ場所が誰かにバレる可能性が上がるということだ。そんな危険を冒してまで行く必要は感じられないし、何より私が楊から離れることは無い。
「……その、お耳をお借りしても、よろしいでしょうか」
私が断る前に、アベルは心底言いづらそうにそう口にした。ここは食堂だが構成員は出払っている。いるのはこちらの話を聞いているのかいないのか分からない態度でお茶を飲んでいる楊だけだ。どうしたものかと楊を見ると、彼は視線をこちらに寄せることも無く、ただ「好きにしろ」とだけ言った。
「どうぞ」
アベルは立ち上がるとこちらに歩み寄り、身を屈めた。
「お父上はどちらかの一派が六鳳会に依頼をするのではと恐れています。老鼠は六鳳会の下部組織。あなたの為に上の命令に背くかどうか分かったものではない、と仰せでした」
それは、可能性の一つとして頭の片隅にはあった。だけど、彼が私を手放すのなら、その時に私がとる行動は一つだけと、心に決めている。自分で自分の頭に銃口を向けるだけだ。私にはそれが出来る。
「全て覚悟の上よ。私はここを離れない。私は私の思うようにすると、父には伝えて」
だから笑って答えると、アベルは目を見開いて、少し寂しげに微笑んだ。
「やはり、姉妹ですね。本当によく似ておられる」
「……妹たちに、何か?」
「いいえ、危ないことは何も。ただ、あなた方の強さには驚かされるばかりです。守っているつもりで、私の方が逆に守られていたりもするので」
私で本当にいいのか、不安になります。
零すつもりはなかったのか、口を抑えてなんとも気まずそうな顔をしている。
「……妹があなたを選んだのなら、あなたしかいないということなのでしょう。どうかその気持ちに、真っ直ぐに向き合ってあげてください」
余計なことかもしれないが姉としての気持ちを伝えてみると、彼はハッとしてから力強く頷いた。
「随分と親しくなったようだ」
「そうね、まあ、妹の大事な人だから」
「そんなに気に入ったのなら、父親の言う通りに共に隠れ家とやらに向かっても構わないが?」
「……」
それはいつもの、なんてことはない、ただの意地の悪い問いかけで、日常茶飯事とも言える戯言の一種だった。それなのに自分でも珍しいとは思うのだが、その言葉にどうしてか不快感のようなものを覚えた。いつもなら流してしまうそれに引っかかりを覚える理由が分からず、思考すら鈍くなり、一言も返せず押し黙るという我ながららしくもないことをした。私が、どういう気持ちであなたの傍にいるのか知って、そんなことを言うのか。
「……レイラ?」
訝しげに名を呼ばれて我に返る。楊も珍しい反応をする私に驚いているようだった。
「…………よくも、そんな事が言えるわね」
ようやく発した言葉の元は、多分、怒りだ。だけどそれを突き詰めれば、きっと悲しみにたどり着く。そんな自分の心情の揺れに動揺して二の句がつけないでいた。気づけばその場を離れるべく足が動きだしていた。それを止めるかのように再び名を呼ばれて、後ろ髪を引かれて振り返るけれど、こんな訳も分からない惨めな思いであなたの前にどんな顔を晒せというのか。
「…………少し、頭を冷やしてくるわ」
すぐに顔を逸らしたから、楊がどんな顔をしているのかも分からなかった。その時ちょうどランとフェイが部屋に入ってくるところだったから、外に行ければそのほうがいいと付き添いを頼むことにすると、二人は私と楊の顔を見比べたが二つ返事で請け負ってくれた。
「いいヨ~!」
「丁度出かけようと思ってたんダ」
「お客が帰ったなら遠慮はいらないネ」
両側から手を引かれて、歩き出す。拠点から出ると、双子は興味津々に口を開いた。
「楊と喧嘩でもしたノ?」
「喧嘩というわけじゃないけど……」
「でもアリアが怒るなんて、珍しいネ」
「……怒ってる、というよりは、ちょっとだけ癪に障ったというか、なんというか」
他人に改めて説明すると、どうしようもないことをしているような気分になってきた。ため息を吐くと、二人は顔を見合わせる。
「まあ、そんな時もあるヨ」
「楊、意地悪なところあるカラ、気にしちゃダメ」
年下の子供たちに慰められるのは成人している身としては居た堪れないが、二人のおかげで気が紛れてきたのでありがたい。今度またおいしいものを用意してあげようと思うのだった。
どこに行こうか思いつかなくて、結局教会に行くことにした。成人まで過ごした場所だが、教会での暮らしは平穏そのもので、優しさに満ち溢れていた。それは私が遠い故郷で失くしてしまったもので、心地よくもあり、痛さを感じることもくあった。母を亡くした私にとってシスター・ソフィアはもう1人の母のような人で、妹を犠牲にした私にとって年下のリリィとエレナは守らなければならない存在だった。だけど、救われていたのはずっと、私の方だった。大切で、愛しい人達。あの頃、皆が私を愛してくれたから、私は生きていくことができた。その優しさは今もずっと変わらないままで、なんの見返りもないのにずっと私を見守ってくれている。そのことがとても暖かく胸に沁みた。
けれど、私の幸せは平穏で温かい場所にはない。楊は、ろくな死に方をしないと言った。私にはいつか、悲惨な死が待ち受けているのかもしれない。それでも、私は決めたのだ。何よりも欲しいもののためならば、命さえ賭けてみせると。
教会の敷地内で、鐘塔は一番のお気に入りの場所だった。空が近くて海が見えて、ここでなら歌を口ずさんでいても誰にも聞こえないから、よくここで故郷の歌を歌っていた。歌は母が好きで、よく教えてくれた。一番初めに教えもらったのは、一族に代々伝わる、魔女へ捧げる歌だった。
気配を感じて振り返ると、そこにはいつの間にか楊がいた。迎えに来てくれたのは素直に嬉しい。微笑むと、楊はその場に立ち尽くして僅かに目を瞠る。それから決まり悪そうな顔をしてゆっくりとこちらに近づいてきた。この男が、わざわざ、たかが女一人を迎えに来る。その事実がどれほどの意味を持つのか、私はもうよく分かっている。それなのに、欲深い私はもうそれだけでは足りないのだ。視線を外して遠く眺めると、隣にやってきたがそちらを見ることはしない。
「……………………すまん」
驚くべきことに、謝罪の言葉が飛び出してきた。いつもの悪びれることの無い口だけの悪かったとは違う、なんだか反省したような声音だ。出会ってから、この男も随分変わったように思う。
「冗談なのは、分かっているのよ。でも、なんだか悲しくなってしまって…………自分でも、らしくないと思うのだけど」
この男に出会ってから、私の人生は掻き回されてばかりだ。どうしてこの男を好きになってしまったのか今でもよく考えるが、やはり理屈では説明できない。私の全てがこの男を求めている。
「でも、私の命も、心までも奪っておいて、今更あんなことを言うのはやっぱり、酷いと思うわ。ええ、傷ついた。私の気持ちをなんだと思っているのかしら」
「………自分の頭に銃を突きつけて、震えを止められる女だぞ、お前は。…………あんな言葉で落ち込むとは思わんだろう」
「そうね、私も自分で驚いたわ」
「………………悪かった」
「……ふふ。いいわ、許してあげる」
隣を見ると、楊は居心地悪そうな顔をしている。更に笑うと軽く睨まれた。そんな彼の手をとって、握りしめる。
「迎えに来てくれてありがとう。大好きよ、昴」
目を見て本心を伝えると、彼は一瞬言葉を失い、それから笑みを浮かべた。ああ、ほら、優しい目をしている。あなたは愛が分からないというけれど、私はあなたからそれを確かに受け取っている。あなたがそれに気づく日は、果たして来るのだろうか。
教会からの帰り道、夕闇の迫るヴェレーノの通りで、ローガンは再び現れた。私が立ち止まったのを見て、楊も察したようだ。
「奴か」
「……ええ」
男の足取りはふらついていたが、その目は私をじっと見ている。そこには確かに狂気が宿っていた。あまり見ていたいものではないが、目を逸らしては自分が次にどうすればいいのか分からなくなる。それを見返していると、視線を遮るように楊が私の目の前に立った。
「その目、気に入らんな。何か言いたいことがあるなら言ってみろ」
いつになく冷たい声でそう言い放つと、男は身を震わせる。それは怯えではなく、怒りと嘆きによるものだった。
「聖堂で、光に包まれながら使命を授かったお前は神々しかった。まるで天使のようだった。その無垢なる魂を神の元へ送ることは、私の誇りであり幸福だった。……それなのに、それなのにお前は、逃げ出した!今ではもう、お前は身も心も汚れてしまっている……。何故だ!何故、あの時のまま、清らかな魂のまま死ななかった!そうすればお前は永遠に清廉潔白なままでいられたのに!どうしてあの時のまま、神の御許へ行かなかった!」
誰も彼も、好き勝手なことを言う。勝手に枠に当てはめておいて、それから逸脱すれば親の仇のように責め立てる。だが、そんな言葉が私の心に届くはずがない。清らかで、無垢な魂など最初から幻に過ぎないのだ。確かに、私は国を出て変わってしまった。でも、変容した私を、奇特な女だと言って傍に置いている男が目の前にいる。それだけで、私はこれまでの人生を悪くなかったと思えるのだ。
「想像していた以上に耳障りだったな……。いいか、この女は、俺のものだ。死に時も、命の使い道も、全て俺が決める。お前如きにくれてやるものか」
それは身勝手な科白だが、私にはそれが何よりも嬉しいものだった。
終わりは呆気ないものだった。今にも事切れそうな男は、地に伏したまま私に手を伸ばすが、その手を楊の双鈎が貫いた。目に光が失われていくのを見て、楊に駆け寄る。体を確かめるとどれも深い傷ではなさそうなので安心した。
「薬でもやっているのかと思えば、なんてことはない、ただの狂人だったか」
「……」
「『どうして神の御許へ行かなかった』か。まったく、くだらんな」
楊がくだらないと斬り捨てたそれは、ずっと私の心の中に聞こえ続けてきた声だ。それに対する答えを持たないまま、これまで生きてきた。
「当時、私はそれに答えることが出来なかったけれど、今なら、答えられる気がする。私が今生きているのは、あなたがいるから。結果論だけどね。あなたに会うために、私は生きてきたんだわ」
まるで陳腐な夢物語だ。でも、そう思うことにした。私はもう、救われなくたってかまわない。
「自分の運命は、自分で決める。私の運命は、あなたよ」
あの夜、私は危険な男に出会った。その男は私の人生を狂わせて、そして、私に運命を選ばせた。あなた以外の誰にも、こんな気持ちにさせられることはない。私の特別。楊は可笑しそうに笑った。
「運命を自分で決めるか。俺の女は随分と強欲らしい」
「あら、あなたの隣に立つならそのくらいが丁度いいんじゃないかしら」
信仰より、救いより、大事なものがある。世界が滅びたって構わないから、この人の傍で、最期の眠りにつきたい。それは願わくば、千と一夜よりも長い夜を超えた先の、夜明けの中であってほしいと思う。
ローガンに暗殺の指示をしていたという裏が取れたことにより、強硬手段を取った排除思想の一派は他の勢力から猛抗議を受けらしい。情勢が傾いたとを見て教国側もそれに倣い、一族を教国で保護するとの声明を出した。加えて魔女の力を利用しようとしてる派閥を痛烈に批判した。教国と敵対したい訳では無い国教会側は穏便に事を進めたがり、魔女の力を再び利用しようと画策していた連中は沈黙を選んだという。
「我はそこの女を連れて来い、と依頼されていたのだがね、やはり取り下げられた。あの組織は馬鹿の一つ覚えのように同じことを繰り返す。まあ、貸しが増えればいろいろとやりやすくもなるから、これはこれでいい」
その情報を教えてくれたのは袁だった。脅しまがいの招待状を受け取り袁の拠点へやってくることになったのだが、楊はずっと不機嫌さを隠さないままでいた。
「そんなことを知らせにわざわざ呼んだのか。用が済んだのならさっさと英国に帰ればいいだろう。いつまでここにいるつもりだ」
袁はすぐにはそれに答えず、何故か私を見た。無遠慮な視線に晒されて、また手を出されては叶わないと身構える。
「……一人の人間をああも狂わせるとは、何がそうさせるのだろうね。お前も、珍しく執着しているようだ」
「……何が言いたい」
「我がその女を引き渡せと言っていたら、お前はどうしていたのかと思ってね」
楊は眉を寄せて袁を睨み付けた。
「決まっている。これは俺の物だ。くれてやるはずがない」
「……」
袁は冷めた顔をして、何か考えるように目を滑らせる。そんな態度に苛立ったのか楊は更に続けた。
「そもそも依頼が取り下げられたのなら、この問答に意味などない。もしも、などというくだらないものに興味がある人間でもないだろう」
「そんなに我に帰って欲しいのかい?いつも危険な方を選ぶお前にしては、随分用心深くなったものだ」
「……なんだと」
「つまらなくなったね、楊。その女のせいかな。たかが女ごときで腑抜けるとは、情けないものだ。これでは、何のために拾ったのか分かったものではない」
ぼやくように言うと袁は立ち上がった。感情というものがまるで見られない空虚な瞳が私を映す。何の温度もない無機質な目。いつの間にかその手にはサーベルが握られていた。
「人を狂わす女、か。末の妹よりも姉の方が余程魔女らしい。そうは思わないか、楊?」
私のことも、一族のこともよく知りもしない人間が、好き勝手なことを言う。袁の目は既に私を見ていなかった。同席させておいて、話を振ることも、口を開くこともさせない。この男には、私に対する興味は一欠けらもないのだ。その手に持つ物で、いつでも私を貫ける。
楊は嘲るように口の端を持ち上げた。椅子を蹴倒すように立ち上がると、座っていた私の腕を引いて後ろへ追いやる。
「聖女などより、余程面白いだろう。……腑抜けたかどうか、確かめてみるか?」
袁はもう何もかもどうでもいいというように息を吐いた。
「……獣が人の真似をしている内に、自分を人間だとでも思いこんだか。……もう、いい。お前はもう駄目だ。仕舞にするとしよう」
「その男は、ローガンですね。彼はかつて、その」
言い淀む彼に対して、続けて欲しいと目線を送ると、彼は戸惑いながらも頷いた。
「あなたを逃がしたことで、しばらくの間謹慎処分を受けたそうです。優秀な男だったそうですが、その後の任務も失敗続きで閑職に追いやられ、最近になって突然姿を消したと聞いています」
「ということは、国教会からの命令を受けた訳では無いということ?」
「そこまでは……もしかすると、万が一の時に切り捨てられるために、かもしれません」
「それも有りうるわね」
けれど、命令にしろそうでないにしろ私を殺したがっているのは確かだ。命令を受けていたとして、それが撤回されても退きはしないだろう。
「……実は、お父上から伝言を預かっています」
「伝言?父が?」
「はい。事が収まるまではこちらで用意した隠れ家にて共に潜んではどうか、と。あなたのことをとても心配しておいでです」
私が移動するということは、その隠れ場所が誰かにバレる可能性が上がるということだ。そんな危険を冒してまで行く必要は感じられないし、何より私が楊から離れることは無い。
「……その、お耳をお借りしても、よろしいでしょうか」
私が断る前に、アベルは心底言いづらそうにそう口にした。ここは食堂だが構成員は出払っている。いるのはこちらの話を聞いているのかいないのか分からない態度でお茶を飲んでいる楊だけだ。どうしたものかと楊を見ると、彼は視線をこちらに寄せることも無く、ただ「好きにしろ」とだけ言った。
「どうぞ」
アベルは立ち上がるとこちらに歩み寄り、身を屈めた。
「お父上はどちらかの一派が六鳳会に依頼をするのではと恐れています。老鼠は六鳳会の下部組織。あなたの為に上の命令に背くかどうか分かったものではない、と仰せでした」
それは、可能性の一つとして頭の片隅にはあった。だけど、彼が私を手放すのなら、その時に私がとる行動は一つだけと、心に決めている。自分で自分の頭に銃口を向けるだけだ。私にはそれが出来る。
「全て覚悟の上よ。私はここを離れない。私は私の思うようにすると、父には伝えて」
だから笑って答えると、アベルは目を見開いて、少し寂しげに微笑んだ。
「やはり、姉妹ですね。本当によく似ておられる」
「……妹たちに、何か?」
「いいえ、危ないことは何も。ただ、あなた方の強さには驚かされるばかりです。守っているつもりで、私の方が逆に守られていたりもするので」
私で本当にいいのか、不安になります。
零すつもりはなかったのか、口を抑えてなんとも気まずそうな顔をしている。
「……妹があなたを選んだのなら、あなたしかいないということなのでしょう。どうかその気持ちに、真っ直ぐに向き合ってあげてください」
余計なことかもしれないが姉としての気持ちを伝えてみると、彼はハッとしてから力強く頷いた。
「随分と親しくなったようだ」
「そうね、まあ、妹の大事な人だから」
「そんなに気に入ったのなら、父親の言う通りに共に隠れ家とやらに向かっても構わないが?」
「……」
それはいつもの、なんてことはない、ただの意地の悪い問いかけで、日常茶飯事とも言える戯言の一種だった。それなのに自分でも珍しいとは思うのだが、その言葉にどうしてか不快感のようなものを覚えた。いつもなら流してしまうそれに引っかかりを覚える理由が分からず、思考すら鈍くなり、一言も返せず押し黙るという我ながららしくもないことをした。私が、どういう気持ちであなたの傍にいるのか知って、そんなことを言うのか。
「……レイラ?」
訝しげに名を呼ばれて我に返る。楊も珍しい反応をする私に驚いているようだった。
「…………よくも、そんな事が言えるわね」
ようやく発した言葉の元は、多分、怒りだ。だけどそれを突き詰めれば、きっと悲しみにたどり着く。そんな自分の心情の揺れに動揺して二の句がつけないでいた。気づけばその場を離れるべく足が動きだしていた。それを止めるかのように再び名を呼ばれて、後ろ髪を引かれて振り返るけれど、こんな訳も分からない惨めな思いであなたの前にどんな顔を晒せというのか。
「…………少し、頭を冷やしてくるわ」
すぐに顔を逸らしたから、楊がどんな顔をしているのかも分からなかった。その時ちょうどランとフェイが部屋に入ってくるところだったから、外に行ければそのほうがいいと付き添いを頼むことにすると、二人は私と楊の顔を見比べたが二つ返事で請け負ってくれた。
「いいヨ~!」
「丁度出かけようと思ってたんダ」
「お客が帰ったなら遠慮はいらないネ」
両側から手を引かれて、歩き出す。拠点から出ると、双子は興味津々に口を開いた。
「楊と喧嘩でもしたノ?」
「喧嘩というわけじゃないけど……」
「でもアリアが怒るなんて、珍しいネ」
「……怒ってる、というよりは、ちょっとだけ癪に障ったというか、なんというか」
他人に改めて説明すると、どうしようもないことをしているような気分になってきた。ため息を吐くと、二人は顔を見合わせる。
「まあ、そんな時もあるヨ」
「楊、意地悪なところあるカラ、気にしちゃダメ」
年下の子供たちに慰められるのは成人している身としては居た堪れないが、二人のおかげで気が紛れてきたのでありがたい。今度またおいしいものを用意してあげようと思うのだった。
どこに行こうか思いつかなくて、結局教会に行くことにした。成人まで過ごした場所だが、教会での暮らしは平穏そのもので、優しさに満ち溢れていた。それは私が遠い故郷で失くしてしまったもので、心地よくもあり、痛さを感じることもくあった。母を亡くした私にとってシスター・ソフィアはもう1人の母のような人で、妹を犠牲にした私にとって年下のリリィとエレナは守らなければならない存在だった。だけど、救われていたのはずっと、私の方だった。大切で、愛しい人達。あの頃、皆が私を愛してくれたから、私は生きていくことができた。その優しさは今もずっと変わらないままで、なんの見返りもないのにずっと私を見守ってくれている。そのことがとても暖かく胸に沁みた。
けれど、私の幸せは平穏で温かい場所にはない。楊は、ろくな死に方をしないと言った。私にはいつか、悲惨な死が待ち受けているのかもしれない。それでも、私は決めたのだ。何よりも欲しいもののためならば、命さえ賭けてみせると。
教会の敷地内で、鐘塔は一番のお気に入りの場所だった。空が近くて海が見えて、ここでなら歌を口ずさんでいても誰にも聞こえないから、よくここで故郷の歌を歌っていた。歌は母が好きで、よく教えてくれた。一番初めに教えもらったのは、一族に代々伝わる、魔女へ捧げる歌だった。
気配を感じて振り返ると、そこにはいつの間にか楊がいた。迎えに来てくれたのは素直に嬉しい。微笑むと、楊はその場に立ち尽くして僅かに目を瞠る。それから決まり悪そうな顔をしてゆっくりとこちらに近づいてきた。この男が、わざわざ、たかが女一人を迎えに来る。その事実がどれほどの意味を持つのか、私はもうよく分かっている。それなのに、欲深い私はもうそれだけでは足りないのだ。視線を外して遠く眺めると、隣にやってきたがそちらを見ることはしない。
「……………………すまん」
驚くべきことに、謝罪の言葉が飛び出してきた。いつもの悪びれることの無い口だけの悪かったとは違う、なんだか反省したような声音だ。出会ってから、この男も随分変わったように思う。
「冗談なのは、分かっているのよ。でも、なんだか悲しくなってしまって…………自分でも、らしくないと思うのだけど」
この男に出会ってから、私の人生は掻き回されてばかりだ。どうしてこの男を好きになってしまったのか今でもよく考えるが、やはり理屈では説明できない。私の全てがこの男を求めている。
「でも、私の命も、心までも奪っておいて、今更あんなことを言うのはやっぱり、酷いと思うわ。ええ、傷ついた。私の気持ちをなんだと思っているのかしら」
「………自分の頭に銃を突きつけて、震えを止められる女だぞ、お前は。…………あんな言葉で落ち込むとは思わんだろう」
「そうね、私も自分で驚いたわ」
「………………悪かった」
「……ふふ。いいわ、許してあげる」
隣を見ると、楊は居心地悪そうな顔をしている。更に笑うと軽く睨まれた。そんな彼の手をとって、握りしめる。
「迎えに来てくれてありがとう。大好きよ、昴」
目を見て本心を伝えると、彼は一瞬言葉を失い、それから笑みを浮かべた。ああ、ほら、優しい目をしている。あなたは愛が分からないというけれど、私はあなたからそれを確かに受け取っている。あなたがそれに気づく日は、果たして来るのだろうか。
教会からの帰り道、夕闇の迫るヴェレーノの通りで、ローガンは再び現れた。私が立ち止まったのを見て、楊も察したようだ。
「奴か」
「……ええ」
男の足取りはふらついていたが、その目は私をじっと見ている。そこには確かに狂気が宿っていた。あまり見ていたいものではないが、目を逸らしては自分が次にどうすればいいのか分からなくなる。それを見返していると、視線を遮るように楊が私の目の前に立った。
「その目、気に入らんな。何か言いたいことがあるなら言ってみろ」
いつになく冷たい声でそう言い放つと、男は身を震わせる。それは怯えではなく、怒りと嘆きによるものだった。
「聖堂で、光に包まれながら使命を授かったお前は神々しかった。まるで天使のようだった。その無垢なる魂を神の元へ送ることは、私の誇りであり幸福だった。……それなのに、それなのにお前は、逃げ出した!今ではもう、お前は身も心も汚れてしまっている……。何故だ!何故、あの時のまま、清らかな魂のまま死ななかった!そうすればお前は永遠に清廉潔白なままでいられたのに!どうしてあの時のまま、神の御許へ行かなかった!」
誰も彼も、好き勝手なことを言う。勝手に枠に当てはめておいて、それから逸脱すれば親の仇のように責め立てる。だが、そんな言葉が私の心に届くはずがない。清らかで、無垢な魂など最初から幻に過ぎないのだ。確かに、私は国を出て変わってしまった。でも、変容した私を、奇特な女だと言って傍に置いている男が目の前にいる。それだけで、私はこれまでの人生を悪くなかったと思えるのだ。
「想像していた以上に耳障りだったな……。いいか、この女は、俺のものだ。死に時も、命の使い道も、全て俺が決める。お前如きにくれてやるものか」
それは身勝手な科白だが、私にはそれが何よりも嬉しいものだった。
終わりは呆気ないものだった。今にも事切れそうな男は、地に伏したまま私に手を伸ばすが、その手を楊の双鈎が貫いた。目に光が失われていくのを見て、楊に駆け寄る。体を確かめるとどれも深い傷ではなさそうなので安心した。
「薬でもやっているのかと思えば、なんてことはない、ただの狂人だったか」
「……」
「『どうして神の御許へ行かなかった』か。まったく、くだらんな」
楊がくだらないと斬り捨てたそれは、ずっと私の心の中に聞こえ続けてきた声だ。それに対する答えを持たないまま、これまで生きてきた。
「当時、私はそれに答えることが出来なかったけれど、今なら、答えられる気がする。私が今生きているのは、あなたがいるから。結果論だけどね。あなたに会うために、私は生きてきたんだわ」
まるで陳腐な夢物語だ。でも、そう思うことにした。私はもう、救われなくたってかまわない。
「自分の運命は、自分で決める。私の運命は、あなたよ」
あの夜、私は危険な男に出会った。その男は私の人生を狂わせて、そして、私に運命を選ばせた。あなた以外の誰にも、こんな気持ちにさせられることはない。私の特別。楊は可笑しそうに笑った。
「運命を自分で決めるか。俺の女は随分と強欲らしい」
「あら、あなたの隣に立つならそのくらいが丁度いいんじゃないかしら」
信仰より、救いより、大事なものがある。世界が滅びたって構わないから、この人の傍で、最期の眠りにつきたい。それは願わくば、千と一夜よりも長い夜を超えた先の、夜明けの中であってほしいと思う。
ローガンに暗殺の指示をしていたという裏が取れたことにより、強硬手段を取った排除思想の一派は他の勢力から猛抗議を受けらしい。情勢が傾いたとを見て教国側もそれに倣い、一族を教国で保護するとの声明を出した。加えて魔女の力を利用しようとしてる派閥を痛烈に批判した。教国と敵対したい訳では無い国教会側は穏便に事を進めたがり、魔女の力を再び利用しようと画策していた連中は沈黙を選んだという。
「我はそこの女を連れて来い、と依頼されていたのだがね、やはり取り下げられた。あの組織は馬鹿の一つ覚えのように同じことを繰り返す。まあ、貸しが増えればいろいろとやりやすくもなるから、これはこれでいい」
その情報を教えてくれたのは袁だった。脅しまがいの招待状を受け取り袁の拠点へやってくることになったのだが、楊はずっと不機嫌さを隠さないままでいた。
「そんなことを知らせにわざわざ呼んだのか。用が済んだのならさっさと英国に帰ればいいだろう。いつまでここにいるつもりだ」
袁はすぐにはそれに答えず、何故か私を見た。無遠慮な視線に晒されて、また手を出されては叶わないと身構える。
「……一人の人間をああも狂わせるとは、何がそうさせるのだろうね。お前も、珍しく執着しているようだ」
「……何が言いたい」
「我がその女を引き渡せと言っていたら、お前はどうしていたのかと思ってね」
楊は眉を寄せて袁を睨み付けた。
「決まっている。これは俺の物だ。くれてやるはずがない」
「……」
袁は冷めた顔をして、何か考えるように目を滑らせる。そんな態度に苛立ったのか楊は更に続けた。
「そもそも依頼が取り下げられたのなら、この問答に意味などない。もしも、などというくだらないものに興味がある人間でもないだろう」
「そんなに我に帰って欲しいのかい?いつも危険な方を選ぶお前にしては、随分用心深くなったものだ」
「……なんだと」
「つまらなくなったね、楊。その女のせいかな。たかが女ごときで腑抜けるとは、情けないものだ。これでは、何のために拾ったのか分かったものではない」
ぼやくように言うと袁は立ち上がった。感情というものがまるで見られない空虚な瞳が私を映す。何の温度もない無機質な目。いつの間にかその手にはサーベルが握られていた。
「人を狂わす女、か。末の妹よりも姉の方が余程魔女らしい。そうは思わないか、楊?」
私のことも、一族のこともよく知りもしない人間が、好き勝手なことを言う。袁の目は既に私を見ていなかった。同席させておいて、話を振ることも、口を開くこともさせない。この男には、私に対する興味は一欠けらもないのだ。その手に持つ物で、いつでも私を貫ける。
楊は嘲るように口の端を持ち上げた。椅子を蹴倒すように立ち上がると、座っていた私の腕を引いて後ろへ追いやる。
「聖女などより、余程面白いだろう。……腑抜けたかどうか、確かめてみるか?」
袁はもう何もかもどうでもいいというように息を吐いた。
「……獣が人の真似をしている内に、自分を人間だとでも思いこんだか。……もう、いい。お前はもう駄目だ。仕舞にするとしよう」