1927〜
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「それで、国教会からの例の依頼、どうするんです」
「今は様子見だね。ブラックウェルに関することだと教国からの圧力を受けやすいようだから、また依頼を取り下げてくるかもしれない」
「はあ」
「内部分裂もしているようだしね。三つの派閥が争ってる。そのせいで父親と双子の姉妹は姿を眩ませた。後は、ブルローネにいる女だけど。こちらはこちらで不可解だ」
「不可解?何がですか」
「楊のことだからすぐに飽きるものかと思えば、今も手元に置いているらしい。何がそんなに気に入ったのか……」
あれが執着するなど考えられないが、近頃の態度を見るに大人しく言うことを聞くこともしないだろう。
「一度、確かめに行った方がいいかもしれないね」
1926年に起きたとある事件により、ブルローネマフィアには教国から3年の猶予期間が与えられた。その間ヴィスコンティはシカゴ進出のための足場固めを進め、ファルツォーネは情勢を見ながら出方を伺い、そして老鼠は本国や他の六鳳会の勢力図を鑑みて、暫くはこのブルローネに留まることになっていた。
「六鳳会というのは、本当に色々な所に散らばっているのね」
楊が挙げて言った国の名を頭の中で反芻する。
「そのうちここを離れる可能性もあるってことよね」
「そうなるな」
「……」
この街で暮らすようになって、随分と日が経つ。第二の家族とも呼べる人達がいる所だ。遠くない内にその日が来るかもしれないと思うと、少し感傷的な気分になった。
「言わなくても分かっているだろうが、連れていかない選択肢はない」
それを見抜いてか、楊は釘を刺すように言った。
「分かってるわよ。あなたのいる場所が、私の居場所だもの。それがどこだろうとついて行くだけだわ」
例え行き先が地獄だろうと、私は迷わない。膝の上に抱かれたままもたれ掛かると、楊は猫でも可愛がるように私の顎を撫でる。見上げると機嫌良さそうに薄らと笑みを浮かべている。この人がいさえすれば、どこだって、何だっていい。私の命も、心すらも、もうこの人のものなのだ。
あの国を遠く離れ、長い年月を経て、私は随分と変わってしまった。厳格で優しい父、繊細で穏やかな母、清掃の行き届いた屋敷、整備された庭、綺麗な洋服、美味しい食事、午後のティータイム、施される教育、そして、守るべき新しい命。穏やかで優しい日々が、神託により覆されたあの日、私たち家族は脈々と受け継がれてきた使命を果たすこととなった。思えば随分遠くまで来たものだ。あの国には、沢山のものを置いてきてしまった。今更戻ったとしても取り戻せるはずはなく、取り戻したいとも思わない。私は、今の私でいることを選び続けた。
その男はなんの前触れもなく突然現れた。同じ部屋にいる私には欠片も興味がないようで、男が現れた途端に機嫌を悪くした楊を相手に怯むことなく会話を続けている。嫌な予感がしていつでも動けるように身構えていると、手が伸びてくる、というのを認識しないまま、避けなければという信号が頭から下った。反射的に一歩下がると同時に目先を男の手が迫ってくる。体が対応しきれず倒れ込んでいき、咄嗟に受身を取って距離を取ると、男は愉しくもなさそうなのに口元に笑みを浮かべたままでいた。不気味で危険な男だ。今までとは比べ物にならない恐怖に全身が逆立つ。
「なるほど。幸運の女神に愛された女、なんて、馬鹿らしいと思っていたが、ただ運が良い、というわけではなさそうだね。反応速度がいい。子供の頃に我が拾っていたら、楊ぐらいにはなっていたかもしれないね。だから、傍に置いているのかい?」
「……俺の女に手をかけようなどと、貴様は本当に俺の神経を逆撫ですることしかしないな」
「ガキが素直に話を聞いていれば、我が何かする必要もなかった」
楊はちらとこちらに視線をやる。それに頷いて部屋をでた。楊は男を袁と呼んだ。なら、あれが、いつか殺す相手ということだ。嫌な予感がして頭を振る。楊は強いが、彼も人間だ。死ぬ時は死ぬ。もしも、私よりも先に彼が死んでしまったら。あの男に殺されてしまったら。そんなことになったらと思うと、血の気が引いていくようだった。
話が終わった頃を見計らって部屋に戻ると、楊は寝台に座り難しい顔をして黙り込んでいた。どんな話をしていたのか気になり、どう聞くか考えていると目がかち合う。
「……来い」
言われた通りに隣に座り、次の言葉を待つ。
「袁が言うには、国教会で内部分裂が起きているらしい」
「内部分裂?」
「お前の家はその騒動の渦中にいるようだ。今は親子共々どこかへと匿われている」
昨年、私たちの一族は長きにわたる使命を果たし、魔女の魂の解放に成功した。それで全ては終わりだったはずなのだが、まだ続きがあるとでもいうのだろうか。やっと、終わったはずだったのに。
「袁は、他には何て」
「近々また国教会から依頼を受ける可能性がある、と言っていた。だが、おそらくは」
楊はそこで言葉を止め、こちらをじっと見つめてきた。
「何かしらの依頼は既に受けているだろう。でなければあの男が自らここにやってくるなど有り得んからな」
「それなのに、何もしなかった」
正確には首を掴まれそうになったが、それ以外は何もない。一体何を考えているのか、得体の知れなさに形容しがたい忌避感を覚えた。
「……正直、関わり合いになりたくない人だわ。怖気が走るというか」
「お前のその感覚は正しい。あれには関わるな。その内、俺が必ず殺す」
殺気の篭ったその言葉に感じたのは、不安と、そして、恐らくは嫉妬とも言うべきものだった。それ程までに強い感情が向けられているのが自分ではないことに、どうしてこんなにも胸が騒ぐのだろう。この男に出会ってから、私は自分がいかに欲深い人間だったのかまざまざと思い知らされるようになった。それでも、この男がこうして身を寄せるのは私だけなのだろう。そう思えば僅かに心は満たされて、肩にもたれ掛かる。私はこの男は愛しているが、その気持ちは、純粋無垢なものとは決して言えないのかもしれない。私はこの男のものなのに、この男は私のものにはならない。それはなんだか、とても悔しいことに思えた。
昨年、妹と共にいた国教会の青年・アベルが老鼠を訪ねてきたのはその数日後だった。彼は袁が言っていた内部分裂の詳細を教えてくれ、家族は今安全な所に匿われていると保障してくれた。
「ご連絡するのが遅くなり、申し訳ありません」
「いいえ。教えてくれてありがとう。それにしても、ややこしいことになっているわね」
国教会は今、三つの派閥に分かれているという。一つは国力増強のために魔女の力をどうにかして取り戻せないか画策し、一つは魔女の復活を断固阻止するため血筋を絶やすことを主張し、一つは使命を果たした一族に敬意を表し他の派閥から私達を守ろうとしてくれている。
「まだ特段目立った動きはありませんが、用心に越したことはないかと。Mr.楊が傍にいるのであれば心配は不要かも知れませんが、お気をつけください」
「ええ、あなたも」
「ありがとうございます。私はこれから教国にいる仲間と合流し、今後のことを相談する予定です」
教国は、この件についてはどう考えているのだろう。一瞬顔を曇らせたことに気づいたのか、彼もまた言いづらそうに僅かに眉を寄せた。
「教国内部でも、判断が分かれているようです」
「……そう」
これまでの動きから、教国は魔女の復活を望んでいない。そもそも英国のものになる訳だから、そんな危険なことを寛容するはずもない。ということは、殺すか、保護するかの二択で割れているということだろう。用済みの一族に手を貸してくれるかが問題になってくる。
「……ご安心ください。例えどのような苦難が振りかかろうと、ルーナ達のことは私が必ずお守りします」
青年の瞳には信念と覚悟が窺えた。何より、妹が選んだ人だ。どうなるかは分からないが、彼のことを信頼し任せるしかない。
「どうか、よろしくお願いします」
その後暫くの間は何も起こらなかったが、嵐の前の静けさのようで気は休まらないでいた。そんな私を見兼ねてかランとフェイが外出に誘ってくれた。子どもに気を遣わせてしまうのも情けない話で、じっとしていても実にならない考え事しか出来ないと思い出かけることにした。
久しぶりに教会を訪れ、親しい人達の顔を見ることが出来た。それだけでもいい気分転換になり、誘ってくれた二人には改めてお礼をしないと、と思った矢先、それは私の目の前に現れた。楽しい一時は一瞬で、それが壊されるのも瞬きの間のこと。不幸はいつだって幸福の後に訪れる。
「アリア、どうしたノ?」
「あの男、知ってる人?」
「……ちょっとした因縁がある相手よ」
私が携行していた銃に手を伸ばすのを見て、ランとフェイも警戒態勢に入る。初めて会ったのは、もう20年も前になるだろうか。国から逃げた私を追ってきた、処刑人だ。不思議なことに最後に見たままの姿で現れたため、幻覚でも見てるような気分になる。
「偶然の再開って訳じゃないでしょう、何しに来たの」
英語で語りかけると、男は何も答えず、ただ剣を抜いた。
「!アリア、下がって!」
二人が私を庇うように前に出る。邪魔にならないように言う通りにして、何とか情報を引き出そうと話を続けた。
「また私を殺しに来た、ということ?私達は使命を果たしたはず。それなのに国教会は何を考えているの」
男は亡霊のようにその場に佇み、ようやく重たい口を開いた。
「……国教会など、もうどうでもいい。私はただ、かつて果たせなかった使命を果たす。それが私の、唯一の救いなのだ」
「……私を殺すことで、一体どんな救いを見出しているのかしら。それになんの意味があるというの」
「意味ならある。そのために私はこれまで生きてきたのだ」
何を言っても届くことは無いのだろう。この男は私を殺す。それなら、私のすることは一つだ。ただ逃げるだけしか出来なかったあの頃とは、もう違う。自分の身を守る手段を私持っている。銃を取り出して、男に向けて構えた。
「あなたが私を殺すというのなら、私も、あなたを殺すわ」
男はそれを見ると目を見開き、身を震わせ、そして、その場に崩れ落ちて慟哭した。その獣のような叫びから感じたのは深い嘆きだった。男がいつ襲いかかってもいいように動きを注視していると、男は頭を抑えながらふらりと立ち上がった。
「……お前は、汚れた。瞳がそれ程までに濁るとは。あの無垢な魂はもう、失われてしまったのか……」
ぶつぶつと何事かを呟いて、男はその場を走り去っていった。視界から消えたのを確認してから、ランとフェイはこちらを心配そうに振り返る。
「あの人、なんか危ない人だったネ」
「様子がおかしかったヨ。薬でもやってるのカナ」
狂人である事は確かかもしれない。国教会などどうでもいい、と言っていたが、あれは単独行動なのだろうか。
「……二人とも、庇ってくれてありがとう」
「ワタシ達、まだ何にもしてないヨ」
「剣まで抜いておいて逃げるなんテ、何しに来たんだろうネ」
本当に、何をしに来たのだろう。何をあんなに動揺することがあるのだろうか。疑問は残るが、事が動き出したのだけは分かった。
かつて私に生きろと言って逃がしてくれた叔父は、私を生かすために死んだ。丁度、今の私と同じ位の年齢だったはずだ。背中を押してくれたあの大きな手。あの人を殺した男が、今になって私を殺しにやってくる。ブラックウェルの宿命は終わりを告げたというのに。
手の中にある、黒く、重たい銃を見つめる。人を殺す道具だ。実際に使ったのは一度、そいつは頭を撃ち抜かれても死ななかったが、殺す気で撃ったのは確かだ。だから、私は人を撃てる。仇を打てる。
「……何があった」
その声に我に返ると、楊が部屋に戻っていた。私が銃を握りしめているのを見て、眉を寄せる。
「昔、私を殺しに来た人間に会ったわ」
「国教会の手の者か」
「命令を受けてかは分からないけれど、また殺しに来たことは確か」
果たせなかった使命を果たす。それが救いなのだとあの男は言った。
「お前を逃がすために、叔父が殺されたのだったな。仇討ちでもする気か?」
「……探し出してまで殺したいとは思わない。けど、私を殺したいというのなら、私はまだ、死ぬ訳にはいかないから。私を殺すというのなら、私が殺すわ」
静かに決意を固めていると、楊は愉しそうに口元に笑みを浮かべながら隣に座り、私から銃をとりあげた。
「……昴?」
「お前がこれを使う必要はない。俺の女の命を狙うなら、それは俺の獲物だ。横取りしてくれるな」
そう言って銃を隅に置くと、彼は私の顎を掴み、貪るように口付けをした。彼はいつも突然で、どこでどう切り替わるのかたまによく分からなくなる。けれど、何かがお気に召したのだろう。そのうち寝台に押し倒されて、金色の瞳が爛々と輝くのを見た。私はまだ、死ぬ訳にはいかない。少なくとも、この男が私を手放さないうちは。
「今は様子見だね。ブラックウェルに関することだと教国からの圧力を受けやすいようだから、また依頼を取り下げてくるかもしれない」
「はあ」
「内部分裂もしているようだしね。三つの派閥が争ってる。そのせいで父親と双子の姉妹は姿を眩ませた。後は、ブルローネにいる女だけど。こちらはこちらで不可解だ」
「不可解?何がですか」
「楊のことだからすぐに飽きるものかと思えば、今も手元に置いているらしい。何がそんなに気に入ったのか……」
あれが執着するなど考えられないが、近頃の態度を見るに大人しく言うことを聞くこともしないだろう。
「一度、確かめに行った方がいいかもしれないね」
1926年に起きたとある事件により、ブルローネマフィアには教国から3年の猶予期間が与えられた。その間ヴィスコンティはシカゴ進出のための足場固めを進め、ファルツォーネは情勢を見ながら出方を伺い、そして老鼠は本国や他の六鳳会の勢力図を鑑みて、暫くはこのブルローネに留まることになっていた。
「六鳳会というのは、本当に色々な所に散らばっているのね」
楊が挙げて言った国の名を頭の中で反芻する。
「そのうちここを離れる可能性もあるってことよね」
「そうなるな」
「……」
この街で暮らすようになって、随分と日が経つ。第二の家族とも呼べる人達がいる所だ。遠くない内にその日が来るかもしれないと思うと、少し感傷的な気分になった。
「言わなくても分かっているだろうが、連れていかない選択肢はない」
それを見抜いてか、楊は釘を刺すように言った。
「分かってるわよ。あなたのいる場所が、私の居場所だもの。それがどこだろうとついて行くだけだわ」
例え行き先が地獄だろうと、私は迷わない。膝の上に抱かれたままもたれ掛かると、楊は猫でも可愛がるように私の顎を撫でる。見上げると機嫌良さそうに薄らと笑みを浮かべている。この人がいさえすれば、どこだって、何だっていい。私の命も、心すらも、もうこの人のものなのだ。
あの国を遠く離れ、長い年月を経て、私は随分と変わってしまった。厳格で優しい父、繊細で穏やかな母、清掃の行き届いた屋敷、整備された庭、綺麗な洋服、美味しい食事、午後のティータイム、施される教育、そして、守るべき新しい命。穏やかで優しい日々が、神託により覆されたあの日、私たち家族は脈々と受け継がれてきた使命を果たすこととなった。思えば随分遠くまで来たものだ。あの国には、沢山のものを置いてきてしまった。今更戻ったとしても取り戻せるはずはなく、取り戻したいとも思わない。私は、今の私でいることを選び続けた。
その男はなんの前触れもなく突然現れた。同じ部屋にいる私には欠片も興味がないようで、男が現れた途端に機嫌を悪くした楊を相手に怯むことなく会話を続けている。嫌な予感がしていつでも動けるように身構えていると、手が伸びてくる、というのを認識しないまま、避けなければという信号が頭から下った。反射的に一歩下がると同時に目先を男の手が迫ってくる。体が対応しきれず倒れ込んでいき、咄嗟に受身を取って距離を取ると、男は愉しくもなさそうなのに口元に笑みを浮かべたままでいた。不気味で危険な男だ。今までとは比べ物にならない恐怖に全身が逆立つ。
「なるほど。幸運の女神に愛された女、なんて、馬鹿らしいと思っていたが、ただ運が良い、というわけではなさそうだね。反応速度がいい。子供の頃に我が拾っていたら、楊ぐらいにはなっていたかもしれないね。だから、傍に置いているのかい?」
「……俺の女に手をかけようなどと、貴様は本当に俺の神経を逆撫ですることしかしないな」
「ガキが素直に話を聞いていれば、我が何かする必要もなかった」
楊はちらとこちらに視線をやる。それに頷いて部屋をでた。楊は男を袁と呼んだ。なら、あれが、いつか殺す相手ということだ。嫌な予感がして頭を振る。楊は強いが、彼も人間だ。死ぬ時は死ぬ。もしも、私よりも先に彼が死んでしまったら。あの男に殺されてしまったら。そんなことになったらと思うと、血の気が引いていくようだった。
話が終わった頃を見計らって部屋に戻ると、楊は寝台に座り難しい顔をして黙り込んでいた。どんな話をしていたのか気になり、どう聞くか考えていると目がかち合う。
「……来い」
言われた通りに隣に座り、次の言葉を待つ。
「袁が言うには、国教会で内部分裂が起きているらしい」
「内部分裂?」
「お前の家はその騒動の渦中にいるようだ。今は親子共々どこかへと匿われている」
昨年、私たちの一族は長きにわたる使命を果たし、魔女の魂の解放に成功した。それで全ては終わりだったはずなのだが、まだ続きがあるとでもいうのだろうか。やっと、終わったはずだったのに。
「袁は、他には何て」
「近々また国教会から依頼を受ける可能性がある、と言っていた。だが、おそらくは」
楊はそこで言葉を止め、こちらをじっと見つめてきた。
「何かしらの依頼は既に受けているだろう。でなければあの男が自らここにやってくるなど有り得んからな」
「それなのに、何もしなかった」
正確には首を掴まれそうになったが、それ以外は何もない。一体何を考えているのか、得体の知れなさに形容しがたい忌避感を覚えた。
「……正直、関わり合いになりたくない人だわ。怖気が走るというか」
「お前のその感覚は正しい。あれには関わるな。その内、俺が必ず殺す」
殺気の篭ったその言葉に感じたのは、不安と、そして、恐らくは嫉妬とも言うべきものだった。それ程までに強い感情が向けられているのが自分ではないことに、どうしてこんなにも胸が騒ぐのだろう。この男に出会ってから、私は自分がいかに欲深い人間だったのかまざまざと思い知らされるようになった。それでも、この男がこうして身を寄せるのは私だけなのだろう。そう思えば僅かに心は満たされて、肩にもたれ掛かる。私はこの男は愛しているが、その気持ちは、純粋無垢なものとは決して言えないのかもしれない。私はこの男のものなのに、この男は私のものにはならない。それはなんだか、とても悔しいことに思えた。
昨年、妹と共にいた国教会の青年・アベルが老鼠を訪ねてきたのはその数日後だった。彼は袁が言っていた内部分裂の詳細を教えてくれ、家族は今安全な所に匿われていると保障してくれた。
「ご連絡するのが遅くなり、申し訳ありません」
「いいえ。教えてくれてありがとう。それにしても、ややこしいことになっているわね」
国教会は今、三つの派閥に分かれているという。一つは国力増強のために魔女の力をどうにかして取り戻せないか画策し、一つは魔女の復活を断固阻止するため血筋を絶やすことを主張し、一つは使命を果たした一族に敬意を表し他の派閥から私達を守ろうとしてくれている。
「まだ特段目立った動きはありませんが、用心に越したことはないかと。Mr.楊が傍にいるのであれば心配は不要かも知れませんが、お気をつけください」
「ええ、あなたも」
「ありがとうございます。私はこれから教国にいる仲間と合流し、今後のことを相談する予定です」
教国は、この件についてはどう考えているのだろう。一瞬顔を曇らせたことに気づいたのか、彼もまた言いづらそうに僅かに眉を寄せた。
「教国内部でも、判断が分かれているようです」
「……そう」
これまでの動きから、教国は魔女の復活を望んでいない。そもそも英国のものになる訳だから、そんな危険なことを寛容するはずもない。ということは、殺すか、保護するかの二択で割れているということだろう。用済みの一族に手を貸してくれるかが問題になってくる。
「……ご安心ください。例えどのような苦難が振りかかろうと、ルーナ達のことは私が必ずお守りします」
青年の瞳には信念と覚悟が窺えた。何より、妹が選んだ人だ。どうなるかは分からないが、彼のことを信頼し任せるしかない。
「どうか、よろしくお願いします」
その後暫くの間は何も起こらなかったが、嵐の前の静けさのようで気は休まらないでいた。そんな私を見兼ねてかランとフェイが外出に誘ってくれた。子どもに気を遣わせてしまうのも情けない話で、じっとしていても実にならない考え事しか出来ないと思い出かけることにした。
久しぶりに教会を訪れ、親しい人達の顔を見ることが出来た。それだけでもいい気分転換になり、誘ってくれた二人には改めてお礼をしないと、と思った矢先、それは私の目の前に現れた。楽しい一時は一瞬で、それが壊されるのも瞬きの間のこと。不幸はいつだって幸福の後に訪れる。
「アリア、どうしたノ?」
「あの男、知ってる人?」
「……ちょっとした因縁がある相手よ」
私が携行していた銃に手を伸ばすのを見て、ランとフェイも警戒態勢に入る。初めて会ったのは、もう20年も前になるだろうか。国から逃げた私を追ってきた、処刑人だ。不思議なことに最後に見たままの姿で現れたため、幻覚でも見てるような気分になる。
「偶然の再開って訳じゃないでしょう、何しに来たの」
英語で語りかけると、男は何も答えず、ただ剣を抜いた。
「!アリア、下がって!」
二人が私を庇うように前に出る。邪魔にならないように言う通りにして、何とか情報を引き出そうと話を続けた。
「また私を殺しに来た、ということ?私達は使命を果たしたはず。それなのに国教会は何を考えているの」
男は亡霊のようにその場に佇み、ようやく重たい口を開いた。
「……国教会など、もうどうでもいい。私はただ、かつて果たせなかった使命を果たす。それが私の、唯一の救いなのだ」
「……私を殺すことで、一体どんな救いを見出しているのかしら。それになんの意味があるというの」
「意味ならある。そのために私はこれまで生きてきたのだ」
何を言っても届くことは無いのだろう。この男は私を殺す。それなら、私のすることは一つだ。ただ逃げるだけしか出来なかったあの頃とは、もう違う。自分の身を守る手段を私持っている。銃を取り出して、男に向けて構えた。
「あなたが私を殺すというのなら、私も、あなたを殺すわ」
男はそれを見ると目を見開き、身を震わせ、そして、その場に崩れ落ちて慟哭した。その獣のような叫びから感じたのは深い嘆きだった。男がいつ襲いかかってもいいように動きを注視していると、男は頭を抑えながらふらりと立ち上がった。
「……お前は、汚れた。瞳がそれ程までに濁るとは。あの無垢な魂はもう、失われてしまったのか……」
ぶつぶつと何事かを呟いて、男はその場を走り去っていった。視界から消えたのを確認してから、ランとフェイはこちらを心配そうに振り返る。
「あの人、なんか危ない人だったネ」
「様子がおかしかったヨ。薬でもやってるのカナ」
狂人である事は確かかもしれない。国教会などどうでもいい、と言っていたが、あれは単独行動なのだろうか。
「……二人とも、庇ってくれてありがとう」
「ワタシ達、まだ何にもしてないヨ」
「剣まで抜いておいて逃げるなんテ、何しに来たんだろうネ」
本当に、何をしに来たのだろう。何をあんなに動揺することがあるのだろうか。疑問は残るが、事が動き出したのだけは分かった。
かつて私に生きろと言って逃がしてくれた叔父は、私を生かすために死んだ。丁度、今の私と同じ位の年齢だったはずだ。背中を押してくれたあの大きな手。あの人を殺した男が、今になって私を殺しにやってくる。ブラックウェルの宿命は終わりを告げたというのに。
手の中にある、黒く、重たい銃を見つめる。人を殺す道具だ。実際に使ったのは一度、そいつは頭を撃ち抜かれても死ななかったが、殺す気で撃ったのは確かだ。だから、私は人を撃てる。仇を打てる。
「……何があった」
その声に我に返ると、楊が部屋に戻っていた。私が銃を握りしめているのを見て、眉を寄せる。
「昔、私を殺しに来た人間に会ったわ」
「国教会の手の者か」
「命令を受けてかは分からないけれど、また殺しに来たことは確か」
果たせなかった使命を果たす。それが救いなのだとあの男は言った。
「お前を逃がすために、叔父が殺されたのだったな。仇討ちでもする気か?」
「……探し出してまで殺したいとは思わない。けど、私を殺したいというのなら、私はまだ、死ぬ訳にはいかないから。私を殺すというのなら、私が殺すわ」
静かに決意を固めていると、楊は愉しそうに口元に笑みを浮かべながら隣に座り、私から銃をとりあげた。
「……昴?」
「お前がこれを使う必要はない。俺の女の命を狙うなら、それは俺の獲物だ。横取りしてくれるな」
そう言って銃を隅に置くと、彼は私の顎を掴み、貪るように口付けをした。彼はいつも突然で、どこでどう切り替わるのかたまによく分からなくなる。けれど、何かがお気に召したのだろう。そのうち寝台に押し倒されて、金色の瞳が爛々と輝くのを見た。私はまだ、死ぬ訳にはいかない。少なくとも、この男が私を手放さないうちは。