1926
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目が覚めると刺された筈の箇所に痛みはなく、服を捲り上げてみると包帯が巻かれた様子もなく傷口が存在していないようだった。そういえば、朧気な意識の中で、懐かしい温もりを感じていたような気がする。だからきっと、助けてくれたのだろう。そのまま起き上がろうとすると、頭がくらくらして再び体が沈み込んだ。傷は治っても本調子とまではいかないらしい。
「何をしている」
声の方を見ると、楊が部屋の奥からこちらに近づいてくるところだった。外はもう夜のようだ。彼は寝台の傍に膝をつき、私の顔をじっと覗き込んできた。真顔で見つめられて、なんだか、嬉しくなる。この目が私だけを映しているのは気分がいい。微笑むと、楊は僅かに目を瞠り、視線をゆっくりと横に逸らしてため息を吐いた。何故、ため息。
「死にかけておいて、そんな風に笑えるのはお前くらいのものだ」
何だか非難されているように聞こえるけれど、死にかけていた時に見た楊の表情を思い返せば、これはおそらく心配の裏返しなのだとは思う。そう思うことにする。手を伸ばすと、途中で力が入らなくなってシーツの上へ落ちる。私がしたいことを察してか、楊は手を握り、それを自分の頬を押し付けた。
「昴」
名で呼ぶと、応えるように瞼をゆっくりと瞬かせる。
「心配をかけて、ごめんなさい」
目を見つめて謝ると、楊は暫く無表情でいたが、薄く笑みを浮かべた。
「勝手なことをした仕置は、後にしてやろう。俺は優しいからな」
「……優しい人はそもそも仕置なんてしないと思うのだけど」
「お前には自分が誰のものなのか、よく教えてやる必要があるらしい。……いいから、まだ寝ていろ」
伸びてきた手が私の目を覆う。本当はまだ起きて話をしていたかったが、次第に体から力が抜けていってしまった。
翌日、ルーナが一人で訪ねてきた。話を詳しく聞くと、一時魔女が目覚めかけ、それを抑えるためにステラの魂が表に出てきたのだという。その時、不思議なことにステラと話をすることが出来たそうだ。
「私達、思ったの。このままだと魔女……ううん、シャロンはずっと、憎しみから解放されないままだわ。そうしてまた、同じことを繰り返す。だから、二人で決めたの。私達で全部終わらそうって」
そう言ったルーナは、とても落ち着いているようだった。よく考えて、そして覚悟したのだろう。
「どうするつもり?」
「とりあえず、シャロンの生まれ育った所に行ってみる。彼女のことを知らないことには、何も始まらないと思うから」
「……そう」
「そうって、止めないの?」
「全て知った上でそうすると決めたのでしょう。それに、私には口を出す資格なんてないわ」
話をろくに聞こうともせず、ただ拒絶した。何も知らない方がこの子のためだと思って、真実を話そうとはしなかった。
「レイラ……」
「あなたには、何も知らずにいてほしかった。でもそれは不誠実なことだったわ。本当にごめんなさい」
小さな頃の記憶しかないから、過保護になりすぎてしまった。この子は大きくなった。もう子どもではないのだ。
「謝らないで。私こそ、何も知らずに酷いことを言って、ごめんなさい」
窓越しに去りゆく妹達を見送ろうと、窓枠に身を預けた。魔女を解放するものとして命を狙われて、この街に流れ着いて、生きていくだけで精一杯だった。国に戻ることも、家族に再会することも一生ないだろうと思っていた。妹を犠牲にした事実を目の当たりにしたくなかったというのもある。それが、妹が会いに来て、もう一人の妹を救いに行くという。私が諦めてなかったことにしようとしていたことを、本人達が進んで変えようとしている。
「……行ったか」
「……ええ。行ったわ」
姿が見えなくなったことを確認して、窓から離れると、不意に体が浮いた。抱き上げた本人は目を合わせず呟くように言った。
「まだ顔色が悪い。寝ていろ」
そのまま寝台に連れられてゆっくりと下ろされる。楊は傍らに腰を掛けて、私の頬を手の甲で撫でた。目を細める私に、彼は一瞬眉を寄せて昨夜と同じようにため息をつく。多分何か言いたいことがあるのだろう。私が死にかけたから遠慮していたのかもしれない。遠慮なんて、この男からは程遠い言葉だけれど。じっと見つめられて、同じように見つめ返す。暫しの沈黙の後、楊は静かに口を開いた。
「……お前は、俺を愛しているだのと戯言を吐いたな。だが、俺には愛というものが何なのか、理解できん」
戯言と称されて、思わず笑ってしまった。言葉は、ただの手段のひとつにすぎない。理解できなくても、それは当然のようにそこにあるものだ。たとえ楊に自覚がなくても私はそれを受け取っていたように思う。そうなのだと思うことにしていた。何より、死に際にあんな顔を見せられては疑うべくもない。ただ、この男に自覚がないだけだ。勘違いだってなんだっていい。どちらにしても、私がこの男を愛しているのは紛れもない事実なのだから。
「いいわよ、それで。ただの決意表明みたいなものだから」
楊は少し気に入らなそうに月の色をした瞳を細める。もとよりこの男に普通など求めていない。普通の幸せなど望んでいないのだ。
「これだけは言っておく。お前の命は、俺のものだ。勝手に死ぬことは許さん」
去れば殺す、飽きれば殺す。ただそれだけの事だった。それでもよかった。望みはただ一つだけなのだ。
「あなたのそばに居るわ、ずっと。私の愛しい人」
愛の言葉を囁くと、楊は苦虫を噛み潰したような顔をした。そんな顔滅多にしないので、私はまたおかしくなって声を上げて笑った。
「欧州の人間は、よく恥ずかしげもなくそんなことを言える」
「特にこの国だとそうね。私も、祖国よりここで過ごした年月の方が長いから。それに、ようやく覚悟が出来たのよ」
「覚悟、だと?」
「私、破滅なんてしないわ。終わりの時まで、あなたの傍で、あなたを愛し続ける」
いつか飽きられて殺されるのだと思うのはもうやめにする。ただ、傍にいられるのならそれだけでいいのだ。ただそれだけのことで私は満たされる。それにきっと、この人はもう、私を殺せない。それはただの勘だけれど、私は自分の勘を信じてここまで生きてきた。楊は少し笑ったようだった。
「……破滅していく様を見てみたくもあったが、お前はそもそもそういう類の人間ではないな。それに、お前はそのままが一番面白い」
言うに事欠いて面白いとは何なのだと、抗議してみようかと思ったが、顔がゆっくり近づいて、触れるだけのキスをされた。離れたかとおもうと、もう一度。それが何度か繰り返され、疑問に思っていると、楊は意地の悪い笑みを浮かべた。
「物足りなさそうだが、我慢しろ。酸欠で倒れられてはかなわん」
「そんな顔してな…………してたの?」
「していたな。お前の望み通りにしたやりたいが、許せ」
どうしてこの男はいちいちわざとらしい言い方をするのだろう。私を慣れされたのは自分のくせして。
「そうむくれるな。調子が戻った時にはまた相手をしてやる。だから、もう眠れ」
「もう十分寝たからいいわよ」
「飯の時間になったら起こしてやる。それまでは動くな。いいな」
口答えは聞かないと言うような態度に異を唱えたくなるが、横たわっているうちにまた眠気がやってくる。必ず起こすように念を押すと、いいからさっさと寝ろと言われ大人しく目を閉じた。
眠りについた女の顔はまだ青白い。傷口は完全に塞がったものの、失われた血は戻らなかった。暫くは動き回るのは止めさせておいた方が良いだろう。
この女はいつも涼し気な顔をしておいて、その実苛烈な所がある。自分を犠牲にすることに何の躊躇いもない。ここまで生き延びてきたくせに、何故、死へとひた走るのか。いっそのこと部屋に閉じ込めてしまえれば楽だが、じっとしているたまでもないし、抗議でもされたらうるさくてかなわない。身動ぎもせず、死んだように眠っている女の頬に触れ、額にかかった前髪を払ってやる。
(愛、などと、俺には理解できん。だが)
「俺が死ぬ時には、必ずお前を殺してやる。だからその時まで、誰にも殺されてくれるなよ」
それから1ヶ月後、一通の手紙が届いた。差出人はルーナ・ブラックウェル。そこには、異端の魔女と言われた少女・シャロンの鎮魂に成功したとの知らせがあった。立ち会っていた国教会と教国の人間もそれを認めたとのことで、長きに渡った使命はこれで果たされたのだった。国を出た時には、こんな結末になろうとは欠片も思わなかった。
そして暫く後、ルーナはまたこのブルローネの地を踏んだ。ステラの体も共にあったが、意識はないようだった。シャロンの魂を鎮めるにあたり、いろいろなことがあったのだとルーナは語った。ひと月前よりも大人びた顔をするようになったものだ。
それから私は、ルーナの中に封じ込めていたステラの魂を解放し、体に戻した。この儀式を行う日は、一生来ないのだと思っていた。双子の妹たちが抱きしめあうこの光景をまた見ることが出来るなんて、母にも、見せてあげたかった。眺めていると、二人は私の腕を引いて抱きしめてくれた。不意に涙が零れ落ちて、それを見た二人も泣いていた。
「え?すぐに帰らないの?」
「ええ!折角イタリアに来たんですもの!観光してから帰るわ。折角だし、縁のあるアマルフィにも行きたいじゃない?」
「次はフランス観光して、英国に戻ったらロンドンに行ってから帰るつもり。だって、こんな機会滅多にないもの!」
お父様には連絡してあるから、と口を揃えるので、父の心労を思うと窘めようかとも思ったが、楽しそうな顔をしている妹を止めることなんてできるはずもない。
「そう。まあ、護衛役はついているようだから心配ないわね」
国教会の青年二人が微笑ましげに妹たちを見つめている。彼らには随分失礼な態度を取ってしまったので、あとで謝らなければならない。もしかすると義弟になるかもしれないのだから。
「レイラは、帰らないの?」
そう聞かれて、楊の顔が頭に浮かぶ。
「……ええ、帰らない。傍にいたい人がいるから。お父様には元気でやっているから心配しないようにと伝えて」
小さい頃別れたきりの父。もとより二度と会えないと分かって送り出してくれたのだ。きっと分かってくれるだろう。生きていると知らせることができるだけで十分だ。
「本当にそれでいいの?」
「ええ」
妹達は顔を見合わせて微笑んだ。
「ふふ、お幸せに」
「私はまだちょっと不安だけど。そんな顔されたら止められないわ」
初対面時の最悪な邂逅を覚えているルーナは最初、私が脅されて一緒にいると思っていたらしい。無理もないし、はじめはそのようなものだった。
「あなた達こそ、お幸せに。それで、どっちがどっちなの?」
「「えっ!?」」
二人して顔を赤くしている。やはりそのつもりで接した方がよさそうだ。
「私の目を誤魔化せるわけないでしょう。だって私は、あなた達のお姉ちゃんなのよ」
妹たちを見送って、またしばらくが経ったある日、一本の電話がかかってきた。私はその時ついうたた寝をしていたのだが、ベルの音で起こされてしまった。電話をとった楊はこちらに背を向けていたが、ただならぬ雰囲気を醸し出しており、時折物騒な言葉を相手に投げかけていた。電話を切った後もいつになく不機嫌で殺気立っていて、相手が誰なのか、内容は何だったのか、興味はあるが正面切って聞くのはどうにも地雷を踏みそうな気がして聞くに聞けなかった。踏めば間違いなくろくなことにはならない。ただ、目が覚めた以上、また寝直すのもよくないだろうと身を起して様子を確かめると、眉間に深く皺を寄せているのが目に入った。相当気が立っている。
私が見ていることに気づくと表情を消し、指先で来いと合図される。仕方がなく寝台から降りて椅子に座る楊の元へ行き膝に乗った。中途半端に起こされたので正直に言うと頭はまだぼんやりとしている。大人しく身を預けていると、そのまま寝てしまいそうだ。
「また、寝るのか」
「眠いのは眠いけど、流石に今寝ると夕方まで寝てしまうから、寝ない」
「なら、いい」
意識をはっきりさせるためにも、何か話をしていよう。そうすれば楊の気もまぎれるかもしれない。
「そういえば、今日は満月だそうよ」
「……そうか」
「前はよく、仕事帰りにクレタまで行って、浜辺に降りて眺めたりしてたわ」
雲のない晴れた日には、ムーンロードを見ることが出来た。最近は身に行けていないから、久しぶりに見たくなってきた。
「では、今夜は散歩にでも行くか」
その言葉に一瞬で目が覚めた。顔を上げると、先程よりは機嫌が回復したらしい。猛獣使いにでもなったような気がして口元が緩んだ。
「……何だ」
「なんでもない」
調子に乗ればすぐに噛みつかれるだろう。中々にスリルがあって、これも賭け事に通ずるものがあるなと思った。
脚の腱を切られた女が、這ってこちらへ向かってくるのが見えた。痛みに顔を歪めていてるがその目に絶望はない。相も変わらず肝が据わっている。触れられる距離まで来ても腕が上がらないのが忌々しいが、代わりに女が手を伸ばし、指先が頬に触れた。
「昴」
その声を、気に入っていた。愉快な話をしてくれるに越したことはないが、その声をただ聞いているだけ、というのも悪くなかった。
「あなたに会えて、良かった。私、幸せよ」
痛みも苦しみもないというように、女は微笑む。国を終われ、命を狙われ、挙句の果てにはここで死ぬ。俺に会わなければ、穏やかな人生を送れたかもしれないのに。後悔は無いらしい。
「傍にいさせてくれて、ありがとう」
そう言って、唇が触れる。袁が背後に立ち、何事かいっていたが、女の声しか耳に入らなかった。女ごとサーベルで貫かれる。
「―――」
囁くと、女はやはり幸せそうに笑う。最期に目に焼き付くのがお前のその顔なら、そう悪いものではない。
目を覚ますと女の顔があった。首に手をやると温かく、脈がある。知らず止めていた息を吐いた。今度は動く腕で抱き寄せると身動ぎをしたが構わず続けると目を覚ましたようだった。この静けさの中に燻る炎を隠している灰色の瞳は見ていて飽きない。
「……どうしたの?」
「……さて、な」
勘のいい女はこちらをじっと見るがそれ以上探ろうとはしなかった。代わりに猫のように擦り寄ってくる。髪を梳いてやると、瞼が閉じる時間が長くなっていった。
「……レイラ」
「……なに?」
「お前はおそらく、ろくな死に方をしない」
女は目を開いて再びこちらをじっと見つめ、そして、微笑んだ。
「そんなの、とっくに知っているわ。それでもいいから、あなたの傍にいたいのよ」
こう答えることを、知っていたように思う。それでも尋ねたのは確かめたかったからか、言葉にして聞きたかったからか。そういえば、夢の中で俺は最後になんと言ったのだったか。
「……お前は、俺に何か望むことはないのか」
「どういう意味?」
「最期に俺に言わせたい言葉はあるか?」
女は眉を寄せて、そっと息をついた。
「別に、言葉なんてなくていいわよ。最期の瞬間に、あなたの目を見つめられるなら、言葉なんてなくていい」
俺を見つめる目は、今ここで死んでもいいと言っているようだった。カジノを辞める晩にも、こんな目をしていたことを思い出す。本当に物好きな女だ。言うべきことがあるならば、今思い出せなくともその時に思いつくだろう。それを聞いたこの女がどんな顔をするのか、楽しみにとっておくのも悪くない。
「何をしている」
声の方を見ると、楊が部屋の奥からこちらに近づいてくるところだった。外はもう夜のようだ。彼は寝台の傍に膝をつき、私の顔をじっと覗き込んできた。真顔で見つめられて、なんだか、嬉しくなる。この目が私だけを映しているのは気分がいい。微笑むと、楊は僅かに目を瞠り、視線をゆっくりと横に逸らしてため息を吐いた。何故、ため息。
「死にかけておいて、そんな風に笑えるのはお前くらいのものだ」
何だか非難されているように聞こえるけれど、死にかけていた時に見た楊の表情を思い返せば、これはおそらく心配の裏返しなのだとは思う。そう思うことにする。手を伸ばすと、途中で力が入らなくなってシーツの上へ落ちる。私がしたいことを察してか、楊は手を握り、それを自分の頬を押し付けた。
「昴」
名で呼ぶと、応えるように瞼をゆっくりと瞬かせる。
「心配をかけて、ごめんなさい」
目を見つめて謝ると、楊は暫く無表情でいたが、薄く笑みを浮かべた。
「勝手なことをした仕置は、後にしてやろう。俺は優しいからな」
「……優しい人はそもそも仕置なんてしないと思うのだけど」
「お前には自分が誰のものなのか、よく教えてやる必要があるらしい。……いいから、まだ寝ていろ」
伸びてきた手が私の目を覆う。本当はまだ起きて話をしていたかったが、次第に体から力が抜けていってしまった。
翌日、ルーナが一人で訪ねてきた。話を詳しく聞くと、一時魔女が目覚めかけ、それを抑えるためにステラの魂が表に出てきたのだという。その時、不思議なことにステラと話をすることが出来たそうだ。
「私達、思ったの。このままだと魔女……ううん、シャロンはずっと、憎しみから解放されないままだわ。そうしてまた、同じことを繰り返す。だから、二人で決めたの。私達で全部終わらそうって」
そう言ったルーナは、とても落ち着いているようだった。よく考えて、そして覚悟したのだろう。
「どうするつもり?」
「とりあえず、シャロンの生まれ育った所に行ってみる。彼女のことを知らないことには、何も始まらないと思うから」
「……そう」
「そうって、止めないの?」
「全て知った上でそうすると決めたのでしょう。それに、私には口を出す資格なんてないわ」
話をろくに聞こうともせず、ただ拒絶した。何も知らない方がこの子のためだと思って、真実を話そうとはしなかった。
「レイラ……」
「あなたには、何も知らずにいてほしかった。でもそれは不誠実なことだったわ。本当にごめんなさい」
小さな頃の記憶しかないから、過保護になりすぎてしまった。この子は大きくなった。もう子どもではないのだ。
「謝らないで。私こそ、何も知らずに酷いことを言って、ごめんなさい」
窓越しに去りゆく妹達を見送ろうと、窓枠に身を預けた。魔女を解放するものとして命を狙われて、この街に流れ着いて、生きていくだけで精一杯だった。国に戻ることも、家族に再会することも一生ないだろうと思っていた。妹を犠牲にした事実を目の当たりにしたくなかったというのもある。それが、妹が会いに来て、もう一人の妹を救いに行くという。私が諦めてなかったことにしようとしていたことを、本人達が進んで変えようとしている。
「……行ったか」
「……ええ。行ったわ」
姿が見えなくなったことを確認して、窓から離れると、不意に体が浮いた。抱き上げた本人は目を合わせず呟くように言った。
「まだ顔色が悪い。寝ていろ」
そのまま寝台に連れられてゆっくりと下ろされる。楊は傍らに腰を掛けて、私の頬を手の甲で撫でた。目を細める私に、彼は一瞬眉を寄せて昨夜と同じようにため息をつく。多分何か言いたいことがあるのだろう。私が死にかけたから遠慮していたのかもしれない。遠慮なんて、この男からは程遠い言葉だけれど。じっと見つめられて、同じように見つめ返す。暫しの沈黙の後、楊は静かに口を開いた。
「……お前は、俺を愛しているだのと戯言を吐いたな。だが、俺には愛というものが何なのか、理解できん」
戯言と称されて、思わず笑ってしまった。言葉は、ただの手段のひとつにすぎない。理解できなくても、それは当然のようにそこにあるものだ。たとえ楊に自覚がなくても私はそれを受け取っていたように思う。そうなのだと思うことにしていた。何より、死に際にあんな顔を見せられては疑うべくもない。ただ、この男に自覚がないだけだ。勘違いだってなんだっていい。どちらにしても、私がこの男を愛しているのは紛れもない事実なのだから。
「いいわよ、それで。ただの決意表明みたいなものだから」
楊は少し気に入らなそうに月の色をした瞳を細める。もとよりこの男に普通など求めていない。普通の幸せなど望んでいないのだ。
「これだけは言っておく。お前の命は、俺のものだ。勝手に死ぬことは許さん」
去れば殺す、飽きれば殺す。ただそれだけの事だった。それでもよかった。望みはただ一つだけなのだ。
「あなたのそばに居るわ、ずっと。私の愛しい人」
愛の言葉を囁くと、楊は苦虫を噛み潰したような顔をした。そんな顔滅多にしないので、私はまたおかしくなって声を上げて笑った。
「欧州の人間は、よく恥ずかしげもなくそんなことを言える」
「特にこの国だとそうね。私も、祖国よりここで過ごした年月の方が長いから。それに、ようやく覚悟が出来たのよ」
「覚悟、だと?」
「私、破滅なんてしないわ。終わりの時まで、あなたの傍で、あなたを愛し続ける」
いつか飽きられて殺されるのだと思うのはもうやめにする。ただ、傍にいられるのならそれだけでいいのだ。ただそれだけのことで私は満たされる。それにきっと、この人はもう、私を殺せない。それはただの勘だけれど、私は自分の勘を信じてここまで生きてきた。楊は少し笑ったようだった。
「……破滅していく様を見てみたくもあったが、お前はそもそもそういう類の人間ではないな。それに、お前はそのままが一番面白い」
言うに事欠いて面白いとは何なのだと、抗議してみようかと思ったが、顔がゆっくり近づいて、触れるだけのキスをされた。離れたかとおもうと、もう一度。それが何度か繰り返され、疑問に思っていると、楊は意地の悪い笑みを浮かべた。
「物足りなさそうだが、我慢しろ。酸欠で倒れられてはかなわん」
「そんな顔してな…………してたの?」
「していたな。お前の望み通りにしたやりたいが、許せ」
どうしてこの男はいちいちわざとらしい言い方をするのだろう。私を慣れされたのは自分のくせして。
「そうむくれるな。調子が戻った時にはまた相手をしてやる。だから、もう眠れ」
「もう十分寝たからいいわよ」
「飯の時間になったら起こしてやる。それまでは動くな。いいな」
口答えは聞かないと言うような態度に異を唱えたくなるが、横たわっているうちにまた眠気がやってくる。必ず起こすように念を押すと、いいからさっさと寝ろと言われ大人しく目を閉じた。
眠りについた女の顔はまだ青白い。傷口は完全に塞がったものの、失われた血は戻らなかった。暫くは動き回るのは止めさせておいた方が良いだろう。
この女はいつも涼し気な顔をしておいて、その実苛烈な所がある。自分を犠牲にすることに何の躊躇いもない。ここまで生き延びてきたくせに、何故、死へとひた走るのか。いっそのこと部屋に閉じ込めてしまえれば楽だが、じっとしているたまでもないし、抗議でもされたらうるさくてかなわない。身動ぎもせず、死んだように眠っている女の頬に触れ、額にかかった前髪を払ってやる。
(愛、などと、俺には理解できん。だが)
「俺が死ぬ時には、必ずお前を殺してやる。だからその時まで、誰にも殺されてくれるなよ」
それから1ヶ月後、一通の手紙が届いた。差出人はルーナ・ブラックウェル。そこには、異端の魔女と言われた少女・シャロンの鎮魂に成功したとの知らせがあった。立ち会っていた国教会と教国の人間もそれを認めたとのことで、長きに渡った使命はこれで果たされたのだった。国を出た時には、こんな結末になろうとは欠片も思わなかった。
そして暫く後、ルーナはまたこのブルローネの地を踏んだ。ステラの体も共にあったが、意識はないようだった。シャロンの魂を鎮めるにあたり、いろいろなことがあったのだとルーナは語った。ひと月前よりも大人びた顔をするようになったものだ。
それから私は、ルーナの中に封じ込めていたステラの魂を解放し、体に戻した。この儀式を行う日は、一生来ないのだと思っていた。双子の妹たちが抱きしめあうこの光景をまた見ることが出来るなんて、母にも、見せてあげたかった。眺めていると、二人は私の腕を引いて抱きしめてくれた。不意に涙が零れ落ちて、それを見た二人も泣いていた。
「え?すぐに帰らないの?」
「ええ!折角イタリアに来たんですもの!観光してから帰るわ。折角だし、縁のあるアマルフィにも行きたいじゃない?」
「次はフランス観光して、英国に戻ったらロンドンに行ってから帰るつもり。だって、こんな機会滅多にないもの!」
お父様には連絡してあるから、と口を揃えるので、父の心労を思うと窘めようかとも思ったが、楽しそうな顔をしている妹を止めることなんてできるはずもない。
「そう。まあ、護衛役はついているようだから心配ないわね」
国教会の青年二人が微笑ましげに妹たちを見つめている。彼らには随分失礼な態度を取ってしまったので、あとで謝らなければならない。もしかすると義弟になるかもしれないのだから。
「レイラは、帰らないの?」
そう聞かれて、楊の顔が頭に浮かぶ。
「……ええ、帰らない。傍にいたい人がいるから。お父様には元気でやっているから心配しないようにと伝えて」
小さい頃別れたきりの父。もとより二度と会えないと分かって送り出してくれたのだ。きっと分かってくれるだろう。生きていると知らせることができるだけで十分だ。
「本当にそれでいいの?」
「ええ」
妹達は顔を見合わせて微笑んだ。
「ふふ、お幸せに」
「私はまだちょっと不安だけど。そんな顔されたら止められないわ」
初対面時の最悪な邂逅を覚えているルーナは最初、私が脅されて一緒にいると思っていたらしい。無理もないし、はじめはそのようなものだった。
「あなた達こそ、お幸せに。それで、どっちがどっちなの?」
「「えっ!?」」
二人して顔を赤くしている。やはりそのつもりで接した方がよさそうだ。
「私の目を誤魔化せるわけないでしょう。だって私は、あなた達のお姉ちゃんなのよ」
妹たちを見送って、またしばらくが経ったある日、一本の電話がかかってきた。私はその時ついうたた寝をしていたのだが、ベルの音で起こされてしまった。電話をとった楊はこちらに背を向けていたが、ただならぬ雰囲気を醸し出しており、時折物騒な言葉を相手に投げかけていた。電話を切った後もいつになく不機嫌で殺気立っていて、相手が誰なのか、内容は何だったのか、興味はあるが正面切って聞くのはどうにも地雷を踏みそうな気がして聞くに聞けなかった。踏めば間違いなくろくなことにはならない。ただ、目が覚めた以上、また寝直すのもよくないだろうと身を起して様子を確かめると、眉間に深く皺を寄せているのが目に入った。相当気が立っている。
私が見ていることに気づくと表情を消し、指先で来いと合図される。仕方がなく寝台から降りて椅子に座る楊の元へ行き膝に乗った。中途半端に起こされたので正直に言うと頭はまだぼんやりとしている。大人しく身を預けていると、そのまま寝てしまいそうだ。
「また、寝るのか」
「眠いのは眠いけど、流石に今寝ると夕方まで寝てしまうから、寝ない」
「なら、いい」
意識をはっきりさせるためにも、何か話をしていよう。そうすれば楊の気もまぎれるかもしれない。
「そういえば、今日は満月だそうよ」
「……そうか」
「前はよく、仕事帰りにクレタまで行って、浜辺に降りて眺めたりしてたわ」
雲のない晴れた日には、ムーンロードを見ることが出来た。最近は身に行けていないから、久しぶりに見たくなってきた。
「では、今夜は散歩にでも行くか」
その言葉に一瞬で目が覚めた。顔を上げると、先程よりは機嫌が回復したらしい。猛獣使いにでもなったような気がして口元が緩んだ。
「……何だ」
「なんでもない」
調子に乗ればすぐに噛みつかれるだろう。中々にスリルがあって、これも賭け事に通ずるものがあるなと思った。
脚の腱を切られた女が、這ってこちらへ向かってくるのが見えた。痛みに顔を歪めていてるがその目に絶望はない。相も変わらず肝が据わっている。触れられる距離まで来ても腕が上がらないのが忌々しいが、代わりに女が手を伸ばし、指先が頬に触れた。
「昴」
その声を、気に入っていた。愉快な話をしてくれるに越したことはないが、その声をただ聞いているだけ、というのも悪くなかった。
「あなたに会えて、良かった。私、幸せよ」
痛みも苦しみもないというように、女は微笑む。国を終われ、命を狙われ、挙句の果てにはここで死ぬ。俺に会わなければ、穏やかな人生を送れたかもしれないのに。後悔は無いらしい。
「傍にいさせてくれて、ありがとう」
そう言って、唇が触れる。袁が背後に立ち、何事かいっていたが、女の声しか耳に入らなかった。女ごとサーベルで貫かれる。
「―――」
囁くと、女はやはり幸せそうに笑う。最期に目に焼き付くのがお前のその顔なら、そう悪いものではない。
目を覚ますと女の顔があった。首に手をやると温かく、脈がある。知らず止めていた息を吐いた。今度は動く腕で抱き寄せると身動ぎをしたが構わず続けると目を覚ましたようだった。この静けさの中に燻る炎を隠している灰色の瞳は見ていて飽きない。
「……どうしたの?」
「……さて、な」
勘のいい女はこちらをじっと見るがそれ以上探ろうとはしなかった。代わりに猫のように擦り寄ってくる。髪を梳いてやると、瞼が閉じる時間が長くなっていった。
「……レイラ」
「……なに?」
「お前はおそらく、ろくな死に方をしない」
女は目を開いて再びこちらをじっと見つめ、そして、微笑んだ。
「そんなの、とっくに知っているわ。それでもいいから、あなたの傍にいたいのよ」
こう答えることを、知っていたように思う。それでも尋ねたのは確かめたかったからか、言葉にして聞きたかったからか。そういえば、夢の中で俺は最後になんと言ったのだったか。
「……お前は、俺に何か望むことはないのか」
「どういう意味?」
「最期に俺に言わせたい言葉はあるか?」
女は眉を寄せて、そっと息をついた。
「別に、言葉なんてなくていいわよ。最期の瞬間に、あなたの目を見つめられるなら、言葉なんてなくていい」
俺を見つめる目は、今ここで死んでもいいと言っているようだった。カジノを辞める晩にも、こんな目をしていたことを思い出す。本当に物好きな女だ。言うべきことがあるならば、今思い出せなくともその時に思いつくだろう。それを聞いたこの女がどんな顔をするのか、楽しみにとっておくのも悪くない。