1925
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「遅い」
夜にまた訪れると、いつかのようにまた文句を言われた。
「何をしている。早く来い」
溜息をつきそうになるのを堪えて歩み寄り、寝台の端に腰をかけていた楊の隣に座ろうとするとぐいと腰を引き寄せられ、気づけば彼の膝の上に載せられていた。
「……何するのよ」
「何、とはおかしなことを聞く。お前、俺の女になっただろう」
「…………俺の、女?」
耳慣れない単語に思考が止まっていると、楊は至近距離で私を見つめ、目を細めた。
「ああ。俺がお前を欲し、お前は俺を受け入れた。つまりは、そういうことだ」
「……つまり、私の今の立場は……マフィアの情婦……」
頭を抱える。一夜のみの気まぐれかと思っていたが、語り部から情婦に切り替わることになってしまったらしい。
「ほう、何か不満があるようだな。何が気に食わない」
「……女心というものは複雑なの」
「なるほど。秋の空とも言うそうだが、お前は俺を好いている、と言ったはずだな」
「……言ったわ」
悔しいが発言を取り消すことができない以上認めざるを得ない。
「だと言うのに他の男と2人で話し込むとは、あまり俺を弄んでくれるな」
「誰か着いてくると思ったら、やっぱりあなたの部下だったの」
「最近、治安が悪いのでな。お前に何かありでもしたらと思い、ついていかせた。お前は随分、男に絡まれる。焼いてしまいそうだ」
そう言って、唇に噛み付いてきた。そのまま貪られるように口付けが深まる。この男はきっと、花束なんぞ送ってこない。愛の言葉も囁かない。でも、そんなものは別に欲しくなかった。
「……今まで、たくさん、花を貰ったわ。求婚されることもあった。でも、誰にも心を動かされなかった」
それが、この男に見つめられるだけで煩いくらい鼓動が跳ね上がる。
「それなのに、どうして、よりにもよってあなたなのよ」
悔しくて悔しくてたまらない。誰のものにもなりたくなかったのに、気がつけばとうに奪われていたなんて。楊は私をじっと見つめ、また口付ける。酸素が足りなくて、体温が上がっていく。ああ、もういっそ壊れてしまいたい。唇が離れていき、やっとまともに息が吸えるようになる。
「……お前、それは煽っているのか?」
「馬鹿なこと言わないで。こっちはもうずっと頭がぐちゃぐちゃなのよ」
楊は喉を鳴らして笑う。抗議しようとすると、いつの間にかまた寝台に組み敷かれていた。
「レイラ」
名を呼ばれて、動きが止まる。今ではもう、この男しか私をその名前では呼ばない。黙り込むと楊は満足気な顔をした。
「お前はもう、俺の女だ」
そうだな、と言い聞かせるように言われて、何も言えなくなる。仕方なく頷くと、もう一度息を奪われた。このまま、溺れてしまいそう。怖いけれど、引き返せないことはもう、自分でもよく分かっていた。
教会で鍵の乙女とやらの話を聞きに行った帰り、あの女が妹のように思っているらしい女が後を追ってきて、先程の問答の続きをし出した。教会の女というのは、誰も彼も恐れ知らずなのだろうか。
「あなたは一人で生きてきたのね。でも、いつか楊の支えになれる相手がーーー大切な人が、あなたの前に現れるかも」
「…………」
「アリアは?」
何故か思い浮かんでいた女の名を上げられて、眉をあげる。
「……何だと?」
「彼女ならきっと、あなたの支えになってくれると思うわ」
「何故、そう思う」
「誤解されがちだけど、彼女はとても愛情深い人なのよ。楊のことも、ちゃんと受け入れてくれるはずだわ」
妹のためならば命を簡単に投げ打つことを愛情深いと言うのなら、そうなのだろう。容易く銃口を自らの頭に突きつけ、震えを抑え笑って見せた女。おかしな女だ。だからこそ手元に置くことにした。いつ飽きが来るかと思っていたが、未だそれが来ることはなかった。
住処の屋上で夕陽に染まる街並みを眺めていると、不意に背後から気配を感じた。振り返るとそこにはやはり楊が立っていた。わざわざ家に来るのも珍しい。
「シスターに話は聞けたの?」
「お前は、神を信じているか?」
こちらの問に答えないままでの唐突な問いかけに面食らうが、楊は意味の無い問答を好まない。質問の意図を尋ねても仕方がな胃だろう。
「神様がいようがいまいが、どちらでもいいわ」
「……ほう?」
「人生は選択の連続であるって言った人がいるわ。私もそう思う。私が今まで選んできた全てが、今の私を作っている。私の喜びも苦しみも、怒りも悲しみも、全て私のもので、私がどうにかしていくことだから、神様は関係ない」
こんなことを言えば、父はどんな顔をするだろう。もはや顔向けすることもできないけれど、これが本心だ。
「まあ、あなたを好きになるとは思わなかったけれど。仮に神様がいるとしたら、止めておけと言われるかもしれないわね。……でも、私は」
そこで言葉を止めて、楊を見る。黄昏の光の中で見る彼は、この世のものとは思えない。まるで魔物のようでもある。それでも確かに同じ人間で、だからこそ惹かれてやまない。
「あなたを好きでいることを選んだ」
もう戻れない。私は自分で自分の世界をひっくり返してしまった。千の夜を越えられなくとも、千と一夜目で殺されようとも、私は夜毎自分の命と彼のそばに居る時間を秤にかけては命の価値を軽くする。どうせ逃げられはしないのだ。
楊は何も言わずただじっと私を見つめ、私も静かにそれを見返した。やがて彼はゆっくりと距離を詰めると、私を抱き寄せて首筋に手を這わせた。
「お前はもう、俺の女だ。勝手にどこかへ消えるようなら、この手で殺す」
いつになく凪いだ瞳で語るその言葉に嘘偽りは無い。答えを間違えれば簡単に首をへし折られる。楊は迷わないだろう。だから、その宣告は私にとっては何よりも愛の言葉に等しかった。
「いいわよ。代わりに、あなたが私に飽きたその時には、きっと私を殺してちょうだいね」
微笑みながらそう言うと、楊は一瞬目を瞠り、それから満足げに目を細め、恐ろしいほど美しく微笑んだ。
「言われるまでもない。その時には必ず、殺してやる」
その言葉に、私は心底安堵した。それと同時に深く口付けられる。誓いのキスというには内容が物騒だけれど、小さな頃思い浮かべていた幸せとは程遠いけれど、この時、私は確かに幸せだと思えた。
「それで、いつになったらカジノを辞める」
「……」
「部屋も引き払うといい。荷物なら運ばせる」
「……」
「どうした?何か、文句でもあるというのか?」
唐突な話に黙り込んでいるとそう聞いてきたが、そのくせ文句など許さないという態度が透けて見える。だが、言っていることはそうおかしいものではない。
「……そうね。カジノからは、もう手を引いた方が良さそうだものね」
なにせいよいよきな臭くなっているし、嫌な予感がしてならない。それに支配人の採用で職に着いていたわけだから、彼が失脚すれば私にカジノでの未来はないだろう。
「それで、その、一緒に住む、ということでいいの?」
「お前は、俺の女になったのだろう。違ったか?」
否定させるためだけの問いかけに、言葉が詰まる。私の反応を楽しむような視線に晒されて居心地が悪い。
「……違わない」
「ならば、俺の手元にいるのが当然のはずだな?」
家にいるよりもあちらにいる時間の方が長いのは確かだ。けれど、いざ住むとなるとなんだか、嫁入りのような気がして気恥しいような気がする。実際にはそんな甘いものではないとわかってはいるのだが。
「少なくとも、別に暮らす意味は無いのかもしれない」
「ああ、そうだろう。元よりお前に拒否権などない。ただ時期ぐらい決めさせてやろうと言うのだ。俺は優しいだろう」
優しい人はそもそも急かしたりしない。わざわざ指摘するのも面倒なので口にはしないことにした。
「それはどうもありがとう。……準備が出来次第、移ることにするわ」
「俺は気が長い方ではない。待たせるようなら、その時はどうしてくれようか」
ろくな事にならないのは明白なため、早急に話をつけなくてはならなくなってしまった。本当に、どうしてこんな男を好きなってしまったのだろう。そうは思うが、でも、この男でなくてはだめなのだ。
最後の仕事を終えた晩、楊が迎えに来ているのを見て私は足を止めた。彼が立っているのは街灯から離れた薄闇の中。アルカの大通りはまだ明るい。私はそれに背を向けて静かに歩き出す。
「遅い」
勝手に待っていたくせに、文句をつけられて思わず笑ってしまった。
「知らせてくれれば、もう少し早く切り上げたわ」
「……昼に人をやったろう。手ぶらで帰ってきたが、荷物はそれだけか」
「ええ、これだけ。あまり物を持っていないの」
旅行鞄一つに物を詰め込んで、オーナーに挨拶をして家を出た。教会から出ても、物は増えなかった。カジノに借りを返した後も増やそうとしなかった。必要最低限度のものだけで、あとは消耗品ばかり。何かを欲しがるというのがあまりなくて、だからきっと、こんなにも望んだのはこの男だけだ。
「心配させてしまったかしら」
「……なんのことだ」
僅かに目を逸らすから、逃げたかどうか確かめに来たのだとわかった。
「どこにも行かないわ。あなたのそばにいるって、決めたの」
賭け事よりも余程危険で恐ろしい男を好きになった。きっと平穏な幸せを手に入れることは出来ない。でも、それは私の欲しい人生ではなかった。我ながらおかしくなって笑ってしまうと、楊はどこか呆れたように息をつき、手をこちらへ伸ばす。
「レイラ」
名を呼ばれ、何の迷いもなくその手を取った。この瞬間に殺されても構わないとさえ思ったけれど、そうなることはなかった。帰路はもう断った。後はもうなるようになるだけだ。
燃え盛るカジノをぼんやりと眺める。随分長い間ここにいたが、この数ヶ月で私を取り巻く環境は随分変わってしまった。燃え盛る火の中から、集団が出てくるのが見える。炎よりも血の色に近い赤い髪に、満月のような色をした目の男。数ヶ月前の夜、私に命を賭けさせた男。今や私はその男の情婦となっているのだから、人生何が起こるか本当に分からないものだ。母国を離れ、遠い異国の土地で、愛した男がよりにもよってあんな男などと。
「危険な目に会う前に辞めておいて良かっただろう」
考えごとをしているうちに、いつの間にか隣に来ていた楊を見上げる。
「……何だ」
「あなたに出会ってから、私の人生ひっくり返されてばっかりだわ」
「俺に会わずともカジノは燃えていたのではないか?俺の女になれて良かったな」
「マフィアの情婦にならなくても、自分で稼げる」
「だが、お前はそれを選ばなかった」
「ええ。代わりに、あなたの傍にいることを選んだ」
「奇特な女だ」
「その奇特な女をものにしたあなただって奇特だわ」
「それは言えているかもしれん」
言葉の応酬を繰り返した後、楊はカジノに背を向けて歩き出した。それを見ていると、こちらを振り返り、手を出したので、私は彼を追ってその手を取った。
「後悔しているか」
「いいえ。自分で決めたことだから、後悔なんてしていられない」
「なら、いい」
楊は僅かに笑みを浮かべた。この男が何をもって私を自分の物としたのかは、よく分からない。ただの気まぐれか、暇つぶしの延長か。どちらでも構わない。私もこの男が欲しくなった、ただそれだけだ。後悔なんてどうだっていい。いつか飽きられて殺されるその日まで、傍にいると決めたのだ。
「……お前は、物をねだらんな」
ここに来てからというもの、服やら装飾品やらを楊が気まぐれに与えるから、物が随分増えてしまった。それなのにこれ以上何をねだれというのだろう。
「十分事足りているから」
「欲しいものはないのか」
欲しいものなんて、もう既に手にしている。膝の上に抱き抱えられている以上、私の方が彼の所有物に見えるだろうが、勝手にそう思うことにしていた。けれど、強いて言うのなら。
「……あなたの、本当の名前が知りたい」
楊は目を瞠ると、薄く笑みを浮かべた。私がこの男について知ることは驚く程少ない。そんな男をよく心の内側にまで入り込ませたものだと、自分のことが分からなくなるが、これはもう理屈でないのだろう。
楊は片手で私の頭を口元に寄せて、耳元でそうっと囁く。この世でたった一つしかない秘密の宝物を手に入れることができた気がして、私は心の底から嬉しくなって微笑んだ。そのまま楊を見つめていると、彼は少し呆れたような表情をしていた。
「こんなもので満足か」
「ええ、とても。とても嬉しい」
たかが名前如きと、あなたは思うかもしれない。けれどあなたが私を本当の名前で呼ぶから。今までずっと存在を偽り続けてきた私をレイラと呼ぶから。そう呼ばれる度にずっと居心地悪い思いをしていたのに、いつしか名前で呼ばれるのを心待ちにするようになってしまった。その声で名を呼ばれると、不思議と心が満たされていくような、そんな気がする。だから私も、あなたを本当の名前で呼びたくなったのだ。
クリスマスに教会のミサに行くなんてどういう風の吹き回しなのだろう。冗談かと思っていたがどうやら本気らしく出かける準備をさせられていた。
「……本当に行くの?」
「ああ。お前も早く支度しろ」
「…………留守番していていいかしら」
往生際の悪いことを言っている自覚はあるが諦めきれずにいると、楊は愉しげな笑みを浮かべた。
「別にいいが、教会の者達はお前が言い渋っていることをさぞ親切に教えてくれるだろうな。共に行けないのは残念ではあるが、それはそれで愉しめそうだ」
「…………行くわよ。行けばいいのでしょう」
教会に居た時間は短くないし、何より来た当初はスラム上がりだったのでいろいろと荒れていた。こちらも思い出したい記憶ではないし聞かれたい話でもない。
「そうか、ではまたの機会にお前の口から聞くとしよう」
「……教会にいた頃の話なんて、面白くもなんともないわよ」
「俺の知らないことがあるのは気に食わん。何度も言わせるな」
相変わらず横暴な男だ。自分は昔の事など語らないくせに、私にだけそれを強いる。ため息をついて、急かされる前に支度を整えることにした。
教会に立ち寄るのが少なくなったのは、カジノで働き始めてからだ。教会出身の娘が女がカジノでディーラーをしているとなると体裁が悪く、シスターは何も言わなかったというのに足を運びづらくなったのだ。だが、久々に皆の顔が見れたのは良い機会だった。
「飢えることのない、平穏な日々の中で育ててくれた事、とても感謝しているわ。でも、独り立ちして生きていこうと思ったら借金を抱えてカジノ勤めでしょう。顔を見せづらくなってしまって、しかも今度は老鼠の首領の女だなんて、ますます行きづらくなったわ」
部屋に帰ってきてからそんなことを言うと、楊は僅かに眉を寄せた。
「……行きたいのなら行けばいいだろう。教会の連中はお前が現れて大層喜んでいたようだが」
「……」
「何だ」
「連れて行ってくれて、ありがとう。自分では行きづらかったから、そこは感謝しているわ」
「……目に見えて嫌そうな顔をするのが面白かったからな」
楊は礼など不要と言う態度で目を逸らした。実際私の反応を楽しんでいただけだから構わないのだろう。
「しかし、教会にいてもお転婆は治らなかったと見える」
「お転婆?」
「初めて会った時のお前は中々に愉快だった。何せ構成員の銃を蹴飛ばして手中に収めるくらいだからな」
「……あれは、撃たれると思ったから、軌道をずらそうとしたらつい。そのせいで悪質な賭けに乗らされることになったんだから、失敗したわ」
「だがお前は、引き金を引いた。躊躇なく」
楊は煙管を置いて、前触れなくキスをした。
「……急に、何」
「迷いのない目が妙に気に入った。この女なら、しばらく俺を退屈させないだろうと、そう思った」
満月のような瞳が爛々と、獲物を狩る獣の輝きを見せる。
「今では、お前との夜が、俺を何よりも満足させる」
そんなことを言われるとは思いもしなかったので、私は驚いて目を見開いた。呆然としている間に寝台へ押し倒されて、また口付けをされる。深く、深く、どこまでも溺れてしまいそうだ。
「……今夜は冷える。お前が温めてくれるだろう?」
ふとした瞬間に酷く優しい目をするのは、どうしてだろう。自覚しているのだろうか。それとも、私の願望がそう見せているせいなのか。そんな目をされると、心臓が痛くて痛くて仕方がないのだ。この人のせいで死ぬところだったのに、この人がいないと私はもう生きられない。
「…………凍死されても困るから、いいわ」
願わくば、千と一夜の後に訪れる夜明けを隣で見てみたい。そう思いながら、与えられる熱に身を委ねた。
夜にまた訪れると、いつかのようにまた文句を言われた。
「何をしている。早く来い」
溜息をつきそうになるのを堪えて歩み寄り、寝台の端に腰をかけていた楊の隣に座ろうとするとぐいと腰を引き寄せられ、気づけば彼の膝の上に載せられていた。
「……何するのよ」
「何、とはおかしなことを聞く。お前、俺の女になっただろう」
「…………俺の、女?」
耳慣れない単語に思考が止まっていると、楊は至近距離で私を見つめ、目を細めた。
「ああ。俺がお前を欲し、お前は俺を受け入れた。つまりは、そういうことだ」
「……つまり、私の今の立場は……マフィアの情婦……」
頭を抱える。一夜のみの気まぐれかと思っていたが、語り部から情婦に切り替わることになってしまったらしい。
「ほう、何か不満があるようだな。何が気に食わない」
「……女心というものは複雑なの」
「なるほど。秋の空とも言うそうだが、お前は俺を好いている、と言ったはずだな」
「……言ったわ」
悔しいが発言を取り消すことができない以上認めざるを得ない。
「だと言うのに他の男と2人で話し込むとは、あまり俺を弄んでくれるな」
「誰か着いてくると思ったら、やっぱりあなたの部下だったの」
「最近、治安が悪いのでな。お前に何かありでもしたらと思い、ついていかせた。お前は随分、男に絡まれる。焼いてしまいそうだ」
そう言って、唇に噛み付いてきた。そのまま貪られるように口付けが深まる。この男はきっと、花束なんぞ送ってこない。愛の言葉も囁かない。でも、そんなものは別に欲しくなかった。
「……今まで、たくさん、花を貰ったわ。求婚されることもあった。でも、誰にも心を動かされなかった」
それが、この男に見つめられるだけで煩いくらい鼓動が跳ね上がる。
「それなのに、どうして、よりにもよってあなたなのよ」
悔しくて悔しくてたまらない。誰のものにもなりたくなかったのに、気がつけばとうに奪われていたなんて。楊は私をじっと見つめ、また口付ける。酸素が足りなくて、体温が上がっていく。ああ、もういっそ壊れてしまいたい。唇が離れていき、やっとまともに息が吸えるようになる。
「……お前、それは煽っているのか?」
「馬鹿なこと言わないで。こっちはもうずっと頭がぐちゃぐちゃなのよ」
楊は喉を鳴らして笑う。抗議しようとすると、いつの間にかまた寝台に組み敷かれていた。
「レイラ」
名を呼ばれて、動きが止まる。今ではもう、この男しか私をその名前では呼ばない。黙り込むと楊は満足気な顔をした。
「お前はもう、俺の女だ」
そうだな、と言い聞かせるように言われて、何も言えなくなる。仕方なく頷くと、もう一度息を奪われた。このまま、溺れてしまいそう。怖いけれど、引き返せないことはもう、自分でもよく分かっていた。
教会で鍵の乙女とやらの話を聞きに行った帰り、あの女が妹のように思っているらしい女が後を追ってきて、先程の問答の続きをし出した。教会の女というのは、誰も彼も恐れ知らずなのだろうか。
「あなたは一人で生きてきたのね。でも、いつか楊の支えになれる相手がーーー大切な人が、あなたの前に現れるかも」
「…………」
「アリアは?」
何故か思い浮かんでいた女の名を上げられて、眉をあげる。
「……何だと?」
「彼女ならきっと、あなたの支えになってくれると思うわ」
「何故、そう思う」
「誤解されがちだけど、彼女はとても愛情深い人なのよ。楊のことも、ちゃんと受け入れてくれるはずだわ」
妹のためならば命を簡単に投げ打つことを愛情深いと言うのなら、そうなのだろう。容易く銃口を自らの頭に突きつけ、震えを抑え笑って見せた女。おかしな女だ。だからこそ手元に置くことにした。いつ飽きが来るかと思っていたが、未だそれが来ることはなかった。
住処の屋上で夕陽に染まる街並みを眺めていると、不意に背後から気配を感じた。振り返るとそこにはやはり楊が立っていた。わざわざ家に来るのも珍しい。
「シスターに話は聞けたの?」
「お前は、神を信じているか?」
こちらの問に答えないままでの唐突な問いかけに面食らうが、楊は意味の無い問答を好まない。質問の意図を尋ねても仕方がな胃だろう。
「神様がいようがいまいが、どちらでもいいわ」
「……ほう?」
「人生は選択の連続であるって言った人がいるわ。私もそう思う。私が今まで選んできた全てが、今の私を作っている。私の喜びも苦しみも、怒りも悲しみも、全て私のもので、私がどうにかしていくことだから、神様は関係ない」
こんなことを言えば、父はどんな顔をするだろう。もはや顔向けすることもできないけれど、これが本心だ。
「まあ、あなたを好きになるとは思わなかったけれど。仮に神様がいるとしたら、止めておけと言われるかもしれないわね。……でも、私は」
そこで言葉を止めて、楊を見る。黄昏の光の中で見る彼は、この世のものとは思えない。まるで魔物のようでもある。それでも確かに同じ人間で、だからこそ惹かれてやまない。
「あなたを好きでいることを選んだ」
もう戻れない。私は自分で自分の世界をひっくり返してしまった。千の夜を越えられなくとも、千と一夜目で殺されようとも、私は夜毎自分の命と彼のそばに居る時間を秤にかけては命の価値を軽くする。どうせ逃げられはしないのだ。
楊は何も言わずただじっと私を見つめ、私も静かにそれを見返した。やがて彼はゆっくりと距離を詰めると、私を抱き寄せて首筋に手を這わせた。
「お前はもう、俺の女だ。勝手にどこかへ消えるようなら、この手で殺す」
いつになく凪いだ瞳で語るその言葉に嘘偽りは無い。答えを間違えれば簡単に首をへし折られる。楊は迷わないだろう。だから、その宣告は私にとっては何よりも愛の言葉に等しかった。
「いいわよ。代わりに、あなたが私に飽きたその時には、きっと私を殺してちょうだいね」
微笑みながらそう言うと、楊は一瞬目を瞠り、それから満足げに目を細め、恐ろしいほど美しく微笑んだ。
「言われるまでもない。その時には必ず、殺してやる」
その言葉に、私は心底安堵した。それと同時に深く口付けられる。誓いのキスというには内容が物騒だけれど、小さな頃思い浮かべていた幸せとは程遠いけれど、この時、私は確かに幸せだと思えた。
「それで、いつになったらカジノを辞める」
「……」
「部屋も引き払うといい。荷物なら運ばせる」
「……」
「どうした?何か、文句でもあるというのか?」
唐突な話に黙り込んでいるとそう聞いてきたが、そのくせ文句など許さないという態度が透けて見える。だが、言っていることはそうおかしいものではない。
「……そうね。カジノからは、もう手を引いた方が良さそうだものね」
なにせいよいよきな臭くなっているし、嫌な予感がしてならない。それに支配人の採用で職に着いていたわけだから、彼が失脚すれば私にカジノでの未来はないだろう。
「それで、その、一緒に住む、ということでいいの?」
「お前は、俺の女になったのだろう。違ったか?」
否定させるためだけの問いかけに、言葉が詰まる。私の反応を楽しむような視線に晒されて居心地が悪い。
「……違わない」
「ならば、俺の手元にいるのが当然のはずだな?」
家にいるよりもあちらにいる時間の方が長いのは確かだ。けれど、いざ住むとなるとなんだか、嫁入りのような気がして気恥しいような気がする。実際にはそんな甘いものではないとわかってはいるのだが。
「少なくとも、別に暮らす意味は無いのかもしれない」
「ああ、そうだろう。元よりお前に拒否権などない。ただ時期ぐらい決めさせてやろうと言うのだ。俺は優しいだろう」
優しい人はそもそも急かしたりしない。わざわざ指摘するのも面倒なので口にはしないことにした。
「それはどうもありがとう。……準備が出来次第、移ることにするわ」
「俺は気が長い方ではない。待たせるようなら、その時はどうしてくれようか」
ろくな事にならないのは明白なため、早急に話をつけなくてはならなくなってしまった。本当に、どうしてこんな男を好きなってしまったのだろう。そうは思うが、でも、この男でなくてはだめなのだ。
最後の仕事を終えた晩、楊が迎えに来ているのを見て私は足を止めた。彼が立っているのは街灯から離れた薄闇の中。アルカの大通りはまだ明るい。私はそれに背を向けて静かに歩き出す。
「遅い」
勝手に待っていたくせに、文句をつけられて思わず笑ってしまった。
「知らせてくれれば、もう少し早く切り上げたわ」
「……昼に人をやったろう。手ぶらで帰ってきたが、荷物はそれだけか」
「ええ、これだけ。あまり物を持っていないの」
旅行鞄一つに物を詰め込んで、オーナーに挨拶をして家を出た。教会から出ても、物は増えなかった。カジノに借りを返した後も増やそうとしなかった。必要最低限度のものだけで、あとは消耗品ばかり。何かを欲しがるというのがあまりなくて、だからきっと、こんなにも望んだのはこの男だけだ。
「心配させてしまったかしら」
「……なんのことだ」
僅かに目を逸らすから、逃げたかどうか確かめに来たのだとわかった。
「どこにも行かないわ。あなたのそばにいるって、決めたの」
賭け事よりも余程危険で恐ろしい男を好きになった。きっと平穏な幸せを手に入れることは出来ない。でも、それは私の欲しい人生ではなかった。我ながらおかしくなって笑ってしまうと、楊はどこか呆れたように息をつき、手をこちらへ伸ばす。
「レイラ」
名を呼ばれ、何の迷いもなくその手を取った。この瞬間に殺されても構わないとさえ思ったけれど、そうなることはなかった。帰路はもう断った。後はもうなるようになるだけだ。
燃え盛るカジノをぼんやりと眺める。随分長い間ここにいたが、この数ヶ月で私を取り巻く環境は随分変わってしまった。燃え盛る火の中から、集団が出てくるのが見える。炎よりも血の色に近い赤い髪に、満月のような色をした目の男。数ヶ月前の夜、私に命を賭けさせた男。今や私はその男の情婦となっているのだから、人生何が起こるか本当に分からないものだ。母国を離れ、遠い異国の土地で、愛した男がよりにもよってあんな男などと。
「危険な目に会う前に辞めておいて良かっただろう」
考えごとをしているうちに、いつの間にか隣に来ていた楊を見上げる。
「……何だ」
「あなたに出会ってから、私の人生ひっくり返されてばっかりだわ」
「俺に会わずともカジノは燃えていたのではないか?俺の女になれて良かったな」
「マフィアの情婦にならなくても、自分で稼げる」
「だが、お前はそれを選ばなかった」
「ええ。代わりに、あなたの傍にいることを選んだ」
「奇特な女だ」
「その奇特な女をものにしたあなただって奇特だわ」
「それは言えているかもしれん」
言葉の応酬を繰り返した後、楊はカジノに背を向けて歩き出した。それを見ていると、こちらを振り返り、手を出したので、私は彼を追ってその手を取った。
「後悔しているか」
「いいえ。自分で決めたことだから、後悔なんてしていられない」
「なら、いい」
楊は僅かに笑みを浮かべた。この男が何をもって私を自分の物としたのかは、よく分からない。ただの気まぐれか、暇つぶしの延長か。どちらでも構わない。私もこの男が欲しくなった、ただそれだけだ。後悔なんてどうだっていい。いつか飽きられて殺されるその日まで、傍にいると決めたのだ。
「……お前は、物をねだらんな」
ここに来てからというもの、服やら装飾品やらを楊が気まぐれに与えるから、物が随分増えてしまった。それなのにこれ以上何をねだれというのだろう。
「十分事足りているから」
「欲しいものはないのか」
欲しいものなんて、もう既に手にしている。膝の上に抱き抱えられている以上、私の方が彼の所有物に見えるだろうが、勝手にそう思うことにしていた。けれど、強いて言うのなら。
「……あなたの、本当の名前が知りたい」
楊は目を瞠ると、薄く笑みを浮かべた。私がこの男について知ることは驚く程少ない。そんな男をよく心の内側にまで入り込ませたものだと、自分のことが分からなくなるが、これはもう理屈でないのだろう。
楊は片手で私の頭を口元に寄せて、耳元でそうっと囁く。この世でたった一つしかない秘密の宝物を手に入れることができた気がして、私は心の底から嬉しくなって微笑んだ。そのまま楊を見つめていると、彼は少し呆れたような表情をしていた。
「こんなもので満足か」
「ええ、とても。とても嬉しい」
たかが名前如きと、あなたは思うかもしれない。けれどあなたが私を本当の名前で呼ぶから。今までずっと存在を偽り続けてきた私をレイラと呼ぶから。そう呼ばれる度にずっと居心地悪い思いをしていたのに、いつしか名前で呼ばれるのを心待ちにするようになってしまった。その声で名を呼ばれると、不思議と心が満たされていくような、そんな気がする。だから私も、あなたを本当の名前で呼びたくなったのだ。
クリスマスに教会のミサに行くなんてどういう風の吹き回しなのだろう。冗談かと思っていたがどうやら本気らしく出かける準備をさせられていた。
「……本当に行くの?」
「ああ。お前も早く支度しろ」
「…………留守番していていいかしら」
往生際の悪いことを言っている自覚はあるが諦めきれずにいると、楊は愉しげな笑みを浮かべた。
「別にいいが、教会の者達はお前が言い渋っていることをさぞ親切に教えてくれるだろうな。共に行けないのは残念ではあるが、それはそれで愉しめそうだ」
「…………行くわよ。行けばいいのでしょう」
教会に居た時間は短くないし、何より来た当初はスラム上がりだったのでいろいろと荒れていた。こちらも思い出したい記憶ではないし聞かれたい話でもない。
「そうか、ではまたの機会にお前の口から聞くとしよう」
「……教会にいた頃の話なんて、面白くもなんともないわよ」
「俺の知らないことがあるのは気に食わん。何度も言わせるな」
相変わらず横暴な男だ。自分は昔の事など語らないくせに、私にだけそれを強いる。ため息をついて、急かされる前に支度を整えることにした。
教会に立ち寄るのが少なくなったのは、カジノで働き始めてからだ。教会出身の娘が女がカジノでディーラーをしているとなると体裁が悪く、シスターは何も言わなかったというのに足を運びづらくなったのだ。だが、久々に皆の顔が見れたのは良い機会だった。
「飢えることのない、平穏な日々の中で育ててくれた事、とても感謝しているわ。でも、独り立ちして生きていこうと思ったら借金を抱えてカジノ勤めでしょう。顔を見せづらくなってしまって、しかも今度は老鼠の首領の女だなんて、ますます行きづらくなったわ」
部屋に帰ってきてからそんなことを言うと、楊は僅かに眉を寄せた。
「……行きたいのなら行けばいいだろう。教会の連中はお前が現れて大層喜んでいたようだが」
「……」
「何だ」
「連れて行ってくれて、ありがとう。自分では行きづらかったから、そこは感謝しているわ」
「……目に見えて嫌そうな顔をするのが面白かったからな」
楊は礼など不要と言う態度で目を逸らした。実際私の反応を楽しんでいただけだから構わないのだろう。
「しかし、教会にいてもお転婆は治らなかったと見える」
「お転婆?」
「初めて会った時のお前は中々に愉快だった。何せ構成員の銃を蹴飛ばして手中に収めるくらいだからな」
「……あれは、撃たれると思ったから、軌道をずらそうとしたらつい。そのせいで悪質な賭けに乗らされることになったんだから、失敗したわ」
「だがお前は、引き金を引いた。躊躇なく」
楊は煙管を置いて、前触れなくキスをした。
「……急に、何」
「迷いのない目が妙に気に入った。この女なら、しばらく俺を退屈させないだろうと、そう思った」
満月のような瞳が爛々と、獲物を狩る獣の輝きを見せる。
「今では、お前との夜が、俺を何よりも満足させる」
そんなことを言われるとは思いもしなかったので、私は驚いて目を見開いた。呆然としている間に寝台へ押し倒されて、また口付けをされる。深く、深く、どこまでも溺れてしまいそうだ。
「……今夜は冷える。お前が温めてくれるだろう?」
ふとした瞬間に酷く優しい目をするのは、どうしてだろう。自覚しているのだろうか。それとも、私の願望がそう見せているせいなのか。そんな目をされると、心臓が痛くて痛くて仕方がないのだ。この人のせいで死ぬところだったのに、この人がいないと私はもう生きられない。
「…………凍死されても困るから、いいわ」
願わくば、千と一夜の後に訪れる夜明けを隣で見てみたい。そう思いながら、与えられる熱に身を委ねた。