和谷夢短編集
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
◇結婚しなくていいから◇
とある日の夕暮れ時、部屋は蒸し暑かった。
「どうだった?結婚式。」
衣装棚の前できつく締めたネクタイを緩めていると、後ろから葵に声をかけられた。
聞き慣れた耳触りの良い声は、明るい。
「あぁ……。うん、よかった。」
対して俺は、振り返らずに沈んだ声で返事をした。
すると、そっか。と大人しい声で葵は相槌を打った。
その場は静寂に包まれ、気まずくなる。
同居している葵とはもう、5年も付き合っている。そろそろ結婚を視野に入れていた。
けれども、友人の結婚式に参加して、不安になってしまった。
囲碁のプロ棋士という収入が安定しない職業についていて、今後やっていけるのだろうか、と。
囲碁と葵を天秤にかけてしまう、そんな自分が嫌だ。
気分が落ち込む。それはもう、どこまでも深い暗闇へと、落ちていきそうなほど。いっそ、落ちて今は一人になりたい。
「あのさ、和谷くん。」
葵が柔らかい声で呼ぶ。
やっと振り向いて顔を見ると、明るい笑顔を浮かべていた。
「私と結婚しなくて良いからね。ただ、和谷君と一緒にいさせてくれれば、私はそれでいいから。」
俺がなんで落ち込んでいたのか、察しがついていたらしい。その笑顔とは不釣り合いな事を言い放った。
情けない。大切な人にそんなことを言わせてしまうなんて。
「そんなこと、軽々しく言うなよ!」
だから反射でつい、当たってしまった。
アイツが軽々しくそんなことを言ったわけじゃないって分かってた。
分かってたのに、やってしまったと後悔したのは、葵が大きな音を立てて玄関のドアを閉めた後だった。
出て行った葵とは引き換えに、外から雨のにおいと、夏がくる一歩手前の生暖かく湿った空気が入ってきた。
アイツ、傘持ってったんだろうか。
玄関の傘立てを見てみると、傘は2つのまま。
電話をしようと思ったが、きっと出てくれないだろう。
そうなると探すアテはない。でもジッとしてられなくて葵を探しに行こうとスニーカーに片足を突っ込んだその時、携帯の通知音が鳴った。
それは彼女からのメールで、とてもシンプルな内容だった。
『しばらく実家に帰ります。 返信ご無用』
端的で他人行儀な敬語。いつもはついている絵文字も、もちろんついていない。
葵の俺に対する今の気持ちが十分に伝わった。
携帯を持っている腕がダラんと下がる。
スニーカーから足を出して、部屋に戻る。
一人になったと自覚した途端、急激に寂しさが込み上げてくる。
世界で一人きりになったかのような寂しさが。
自分からそうなってほしいと望んだくせに。
雨が勢いを増して窓を叩く音が、部屋中に響いてるように聞こえた。
○●○
数日後、棋院で森下師匠の研究会があった。
相変わらず葵とはすれ違ったままだった。
みんなの前では努めて明るくしていたが、森下師匠には見抜かれていたようで。
夕方、研究会が終わって森下師匠が一杯付き合えと俺だけ誘った。みんなも側にいたけど、冴木さんが気を回してくれて、じゃあ俺らはこれで。と、さりげなく師匠と俺を二人きりにしてくれた。
開店したばかりで人もまばらな居酒屋で、カウンター席に座った。大学生くらいの青年がご注文は?と聞いてきたので、とりあえず生ビールを2つ注文する。
するとすぐにその青年が威勢よく注文を繰り返した。
まだピークタイムじゃないから、秒で生ビールがやってきた。
師匠とジョッキを合わせてカンっと乾いた音を立てる。口をつけてジョッキを傾けると、ビールが乾いた喉を潤していく。ひとしきり飲んで、プハッと口を離すと、お互いにジョッキをテーブル置いた。
「お前、彼女と喧嘩してるだろ。」
すると師匠の開口一番に核心を突かれた。
男……いや、人生の先輩の勘ってやつ?
森下師匠はやっぱりすげーな。尊敬しながら、はい、と相槌を打つ。
「老婆心ながら言っておくが、こっちが折れるのも時には必要だぞ。」
「ですよね。」
ありがたいお言葉をもらって、控えめに笑顔を作って答えた。
今回は先に啖呵を切った俺が明らかに悪い。俺から謝るべきだってのは分かっている。
でも謝るだけで解決できる問題じゃない。
そうだ。森下師匠は結婚する時、不安に思わなかったのかな。
「師匠、実は俺……この間友達の結婚式に参加して不安になったんです。
このまま彼女と結婚して平気なのか。自分からこの世界に飛び込んどいて言うのもなんだけど、収入安定しないし。師匠は結婚する時、迷わなかったんですか?」
気づいたら、師匠に不安を吐き出したと共に疑問を投げていた。
「迷わなかった。」
真面目な顔をして師匠ははっきりと言い切った。と思いきや、だがな、と繋いで言った。
「付き合っている頃に別れを切り出した。今のお前と同じ理由でな。」
「そうだったんすね。」
さっきとは打って変わり、師匠は目尻を下げて表情をやわらげる。だからつい、こっちも気が抜けて口調が崩れてしまった。
そんなことは気にせず、師匠は奥さんとのことを話続けた。
「あの頃は自分一人養うのもやっとで当然、まともにデートなんかできなくてよお。そんなんじゃ、幸せにできないと思ったから別れを切り出したんだ。したら、アイツなんて言ったと思う?」
顎に手をあてて、名探偵気取りで考えてみるが、全く分からない。
「“あなたといる時の私は、幸せに見えませんでしたか?”って。アイツは涙ぐんでそう言ったんだ。」
待ちかねた師匠は答えを教えてくれた。
「その言葉で顔に冷水ぶっかけられたみてーに、目が覚めたよ。思い返してみたら、確かにアイツは俺と居てずっと楽しそうに笑ってた。
だからもう、結婚する時に迷いは無かった。」
師匠の表情はまだ柔らかい。
俺も葵のことを思い返してみる。
喧嘩したことも何度かあったけど、笑っている葵の方が記憶に多く残っていた。森下師匠の奥さんと同じで葵も俺といて幸せだったのかと思うと、少しは気持ちが軽くなる。
「……アイツ、結婚しなくていいって言ったんです。俺の側に居られればそれだけでいいって。」
でも、葵のあの言葉が頭の中でずっと引っかかっていた。俺を励ますにしても、自分の人生を犠牲にするような言い方しなくたって……。
何か、他にも言い方はあったはずだ。例えば、えーと……。
視線を宙に彷徨わせて考えていたら、師匠が口を開いた。
「お前も鈍いヤツだな、和谷。そりゃ純粋に……いや、やっぱり自分で気づけ。」
けれども、途中で言うのを辞めてしまった。
そうだ。今俺が考えなきゃいけないのは、葵の言葉の裏に隠れた気持ちだ。俺自信が気づかなきゃ意味ないよな。
落ち着いてもう一度、葵の言葉を思い出してみる。
『結婚しなくてもいいから一緒にいたい』
結婚しなくても……。
それって、どんな状況でも俺と一緒に居たいっていう風に言い換えられるんじゃないだろうか。
だとしたら、葵にとって俺が不安に思ってることは、どうだっていいってことか?
まだ憶測でしかないけど、なんだ、簡単なことだったんじゃないか。
励ましじゃなくて、葵はとっくに覚悟を決めていたんだ。
何を不安になってたんだよ、俺は。
「師匠、俺……。」
「あぁ、今すぐにでも会いに行ってこい。」
財布を取り出そうとしたら、師匠の手がそれを制した。それと同時に師匠が口を開く。
「また老婆心ながらに言っとくが、守るものができたら人は自然と強くなれるもんだぞ。」
そう言った森下師匠が一段と大きく見えた。
森下師匠の「老婆心ながらに」は、あと何回聞けるだろうか。師匠が生きている限り何回でも聞きたいと思う。
森下師匠に勢いよくお辞儀をしながらお礼を言って、すぐに居酒屋を出た。空は夜に向かって薄暗くなっていた。
俺はとある場所へ寄ってから、葵と会うことにした。待ち合わせ場所は、同居している家の最寄駅にある喫茶店。
今すぐ俺の気持ちを伝えたい一心で、ムードを考える余裕は無かった。
先に着いていた葵は、コーヒーを飲みながら窓際の席に座っていた。
「久しぶり」
たった数日しか経ってないのに、なんだこの挨拶。
「久しぶり、和谷君。」
一方で葵はなんの違和感も感じることなく、オウム返しで挨拶をした。
葵の目の前に座ると、店員が注文を聞きにきたので、葵と同じくコーヒーを頼んだ。
視線を店員の顔から葵に戻す。葵は浮かない表情で窓の外を眺めていた。
5分もしない内にコーヒーはやって来た。
その間はお互い視線も合わせられなければ、特に話すこともなく静かで、5分ですらとても長く感じた。
気を落ち着ける為に、コーヒーを一口飲んでから話し始めた。
「俺さ、友達の結婚式参加して、お前を幸せにできるか不安になったんだ。特に収入が不安定だしさ。」
洗いざらい話すことにした。
【結婚しなくていいから一緒に居たい】と言わせてしまったのを情けなく思ったことも。
「自分の人生を捧げてまで、俺と一緒に居たいと言ってくれるヤツはお前しかいないって気づいたんだ。
だから俺は、葵と結婚したい。」
嘘偽り無く言い切った。すかさず婚姻届を彼女の目の前に出す。【夫になる人】の欄だけ記入済みの婚姻届。喫茶店へ行く前に役所に寄って書いた。言葉だけじゃ、俺の本気度を伝えるのには弱いと思って。
葵は婚姻届を見たが、すぐにその視線は俺に向けられる。
やっと瞳が合った。しかし葵は眉を下げ、目はすぐに伏し目がちになり、キュッと口を結んでいた。
何か言いたそうに見えたから待っていると、葵が口を開いた。
「ごめん。」
葵は俯いて、ポツリと呟く。
そうだよな。指輪すっ飛ばしていきなりこんな紙出されても、まだ気持ちがついていかないよな。
急がなくていいから。と、言おうとしたその時。葵が涙ぐんだ声で言った。
「結婚したくないなんて、嘘ついてた。和谷くんにも、自分自身にも。気づかせてくれてありがとう、和谷くん。」
そう言いながら、顔を上げた葵は目を三日月のように細めて微笑んでいた。
「っ……」
嬉しすぎて、なんて言葉にしたらいいか、どんな表情をすればいいか分からない。俺、今変な顔してねーかな。
身体中に駆け巡るこの嬉しい感情を葵にぶつけたくなった。
人目を憚らず今すぐ葵を抱きしめたい。が、なんとか机の下で拳を握って堪える。
すると葵が聞いてきた。
「ね、和谷くん。ボールペン持ってない?」
ズボンのポケットやバックの中身を漁るが残念ながら出てこなかった。
「悪い、持ってない。」
肝心な時に俺ってヤツは……。
葵がクスッと小さく笑う。カッコがつかなくて恥ずかしかったけど、葵が笑ってるので良しとしよう。
店員にボールペンを借りた葵は、すぐに【妻になる人】の欄を埋めた。あとは証人の欄だけが空白だ。それはすぐにでもお互いの親に書いてもらえばいい。
「じゃあ、そろそろ帰ろうぜ。俺たちの家に」
「うん、そうだね。」
わざわざ〝俺たちの家〟なんて強調する必要はなかったけど。あえてしたのは帰る場所がこれからもずっと一緒であることを再認識したかったからだ。
喫茶店を出てすぐに彼女の手を取り、ギュッと握る。
家まであと10分もかからないというのに。
そして葵もまたそれに応えるようにギュッと握り返してくれる。その手のぬくもりを感じて思った。
大丈夫。俺はもう、迷わない。
とある日の夕暮れ時、部屋は蒸し暑かった。
「どうだった?結婚式。」
衣装棚の前できつく締めたネクタイを緩めていると、後ろから葵に声をかけられた。
聞き慣れた耳触りの良い声は、明るい。
「あぁ……。うん、よかった。」
対して俺は、振り返らずに沈んだ声で返事をした。
すると、そっか。と大人しい声で葵は相槌を打った。
その場は静寂に包まれ、気まずくなる。
同居している葵とはもう、5年も付き合っている。そろそろ結婚を視野に入れていた。
けれども、友人の結婚式に参加して、不安になってしまった。
囲碁のプロ棋士という収入が安定しない職業についていて、今後やっていけるのだろうか、と。
囲碁と葵を天秤にかけてしまう、そんな自分が嫌だ。
気分が落ち込む。それはもう、どこまでも深い暗闇へと、落ちていきそうなほど。いっそ、落ちて今は一人になりたい。
「あのさ、和谷くん。」
葵が柔らかい声で呼ぶ。
やっと振り向いて顔を見ると、明るい笑顔を浮かべていた。
「私と結婚しなくて良いからね。ただ、和谷君と一緒にいさせてくれれば、私はそれでいいから。」
俺がなんで落ち込んでいたのか、察しがついていたらしい。その笑顔とは不釣り合いな事を言い放った。
情けない。大切な人にそんなことを言わせてしまうなんて。
「そんなこと、軽々しく言うなよ!」
だから反射でつい、当たってしまった。
アイツが軽々しくそんなことを言ったわけじゃないって分かってた。
分かってたのに、やってしまったと後悔したのは、葵が大きな音を立てて玄関のドアを閉めた後だった。
出て行った葵とは引き換えに、外から雨のにおいと、夏がくる一歩手前の生暖かく湿った空気が入ってきた。
アイツ、傘持ってったんだろうか。
玄関の傘立てを見てみると、傘は2つのまま。
電話をしようと思ったが、きっと出てくれないだろう。
そうなると探すアテはない。でもジッとしてられなくて葵を探しに行こうとスニーカーに片足を突っ込んだその時、携帯の通知音が鳴った。
それは彼女からのメールで、とてもシンプルな内容だった。
『しばらく実家に帰ります。 返信ご無用』
端的で他人行儀な敬語。いつもはついている絵文字も、もちろんついていない。
葵の俺に対する今の気持ちが十分に伝わった。
携帯を持っている腕がダラんと下がる。
スニーカーから足を出して、部屋に戻る。
一人になったと自覚した途端、急激に寂しさが込み上げてくる。
世界で一人きりになったかのような寂しさが。
自分からそうなってほしいと望んだくせに。
雨が勢いを増して窓を叩く音が、部屋中に響いてるように聞こえた。
○●○
数日後、棋院で森下師匠の研究会があった。
相変わらず葵とはすれ違ったままだった。
みんなの前では努めて明るくしていたが、森下師匠には見抜かれていたようで。
夕方、研究会が終わって森下師匠が一杯付き合えと俺だけ誘った。みんなも側にいたけど、冴木さんが気を回してくれて、じゃあ俺らはこれで。と、さりげなく師匠と俺を二人きりにしてくれた。
開店したばかりで人もまばらな居酒屋で、カウンター席に座った。大学生くらいの青年がご注文は?と聞いてきたので、とりあえず生ビールを2つ注文する。
するとすぐにその青年が威勢よく注文を繰り返した。
まだピークタイムじゃないから、秒で生ビールがやってきた。
師匠とジョッキを合わせてカンっと乾いた音を立てる。口をつけてジョッキを傾けると、ビールが乾いた喉を潤していく。ひとしきり飲んで、プハッと口を離すと、お互いにジョッキをテーブル置いた。
「お前、彼女と喧嘩してるだろ。」
すると師匠の開口一番に核心を突かれた。
男……いや、人生の先輩の勘ってやつ?
森下師匠はやっぱりすげーな。尊敬しながら、はい、と相槌を打つ。
「老婆心ながら言っておくが、こっちが折れるのも時には必要だぞ。」
「ですよね。」
ありがたいお言葉をもらって、控えめに笑顔を作って答えた。
今回は先に啖呵を切った俺が明らかに悪い。俺から謝るべきだってのは分かっている。
でも謝るだけで解決できる問題じゃない。
そうだ。森下師匠は結婚する時、不安に思わなかったのかな。
「師匠、実は俺……この間友達の結婚式に参加して不安になったんです。
このまま彼女と結婚して平気なのか。自分からこの世界に飛び込んどいて言うのもなんだけど、収入安定しないし。師匠は結婚する時、迷わなかったんですか?」
気づいたら、師匠に不安を吐き出したと共に疑問を投げていた。
「迷わなかった。」
真面目な顔をして師匠ははっきりと言い切った。と思いきや、だがな、と繋いで言った。
「付き合っている頃に別れを切り出した。今のお前と同じ理由でな。」
「そうだったんすね。」
さっきとは打って変わり、師匠は目尻を下げて表情をやわらげる。だからつい、こっちも気が抜けて口調が崩れてしまった。
そんなことは気にせず、師匠は奥さんとのことを話続けた。
「あの頃は自分一人養うのもやっとで当然、まともにデートなんかできなくてよお。そんなんじゃ、幸せにできないと思ったから別れを切り出したんだ。したら、アイツなんて言ったと思う?」
顎に手をあてて、名探偵気取りで考えてみるが、全く分からない。
「“あなたといる時の私は、幸せに見えませんでしたか?”って。アイツは涙ぐんでそう言ったんだ。」
待ちかねた師匠は答えを教えてくれた。
「その言葉で顔に冷水ぶっかけられたみてーに、目が覚めたよ。思い返してみたら、確かにアイツは俺と居てずっと楽しそうに笑ってた。
だからもう、結婚する時に迷いは無かった。」
師匠の表情はまだ柔らかい。
俺も葵のことを思い返してみる。
喧嘩したことも何度かあったけど、笑っている葵の方が記憶に多く残っていた。森下師匠の奥さんと同じで葵も俺といて幸せだったのかと思うと、少しは気持ちが軽くなる。
「……アイツ、結婚しなくていいって言ったんです。俺の側に居られればそれだけでいいって。」
でも、葵のあの言葉が頭の中でずっと引っかかっていた。俺を励ますにしても、自分の人生を犠牲にするような言い方しなくたって……。
何か、他にも言い方はあったはずだ。例えば、えーと……。
視線を宙に彷徨わせて考えていたら、師匠が口を開いた。
「お前も鈍いヤツだな、和谷。そりゃ純粋に……いや、やっぱり自分で気づけ。」
けれども、途中で言うのを辞めてしまった。
そうだ。今俺が考えなきゃいけないのは、葵の言葉の裏に隠れた気持ちだ。俺自信が気づかなきゃ意味ないよな。
落ち着いてもう一度、葵の言葉を思い出してみる。
『結婚しなくてもいいから一緒にいたい』
結婚しなくても……。
それって、どんな状況でも俺と一緒に居たいっていう風に言い換えられるんじゃないだろうか。
だとしたら、葵にとって俺が不安に思ってることは、どうだっていいってことか?
まだ憶測でしかないけど、なんだ、簡単なことだったんじゃないか。
励ましじゃなくて、葵はとっくに覚悟を決めていたんだ。
何を不安になってたんだよ、俺は。
「師匠、俺……。」
「あぁ、今すぐにでも会いに行ってこい。」
財布を取り出そうとしたら、師匠の手がそれを制した。それと同時に師匠が口を開く。
「また老婆心ながらに言っとくが、守るものができたら人は自然と強くなれるもんだぞ。」
そう言った森下師匠が一段と大きく見えた。
森下師匠の「老婆心ながらに」は、あと何回聞けるだろうか。師匠が生きている限り何回でも聞きたいと思う。
森下師匠に勢いよくお辞儀をしながらお礼を言って、すぐに居酒屋を出た。空は夜に向かって薄暗くなっていた。
俺はとある場所へ寄ってから、葵と会うことにした。待ち合わせ場所は、同居している家の最寄駅にある喫茶店。
今すぐ俺の気持ちを伝えたい一心で、ムードを考える余裕は無かった。
先に着いていた葵は、コーヒーを飲みながら窓際の席に座っていた。
「久しぶり」
たった数日しか経ってないのに、なんだこの挨拶。
「久しぶり、和谷君。」
一方で葵はなんの違和感も感じることなく、オウム返しで挨拶をした。
葵の目の前に座ると、店員が注文を聞きにきたので、葵と同じくコーヒーを頼んだ。
視線を店員の顔から葵に戻す。葵は浮かない表情で窓の外を眺めていた。
5分もしない内にコーヒーはやって来た。
その間はお互い視線も合わせられなければ、特に話すこともなく静かで、5分ですらとても長く感じた。
気を落ち着ける為に、コーヒーを一口飲んでから話し始めた。
「俺さ、友達の結婚式参加して、お前を幸せにできるか不安になったんだ。特に収入が不安定だしさ。」
洗いざらい話すことにした。
【結婚しなくていいから一緒に居たい】と言わせてしまったのを情けなく思ったことも。
「自分の人生を捧げてまで、俺と一緒に居たいと言ってくれるヤツはお前しかいないって気づいたんだ。
だから俺は、葵と結婚したい。」
嘘偽り無く言い切った。すかさず婚姻届を彼女の目の前に出す。【夫になる人】の欄だけ記入済みの婚姻届。喫茶店へ行く前に役所に寄って書いた。言葉だけじゃ、俺の本気度を伝えるのには弱いと思って。
葵は婚姻届を見たが、すぐにその視線は俺に向けられる。
やっと瞳が合った。しかし葵は眉を下げ、目はすぐに伏し目がちになり、キュッと口を結んでいた。
何か言いたそうに見えたから待っていると、葵が口を開いた。
「ごめん。」
葵は俯いて、ポツリと呟く。
そうだよな。指輪すっ飛ばしていきなりこんな紙出されても、まだ気持ちがついていかないよな。
急がなくていいから。と、言おうとしたその時。葵が涙ぐんだ声で言った。
「結婚したくないなんて、嘘ついてた。和谷くんにも、自分自身にも。気づかせてくれてありがとう、和谷くん。」
そう言いながら、顔を上げた葵は目を三日月のように細めて微笑んでいた。
「っ……」
嬉しすぎて、なんて言葉にしたらいいか、どんな表情をすればいいか分からない。俺、今変な顔してねーかな。
身体中に駆け巡るこの嬉しい感情を葵にぶつけたくなった。
人目を憚らず今すぐ葵を抱きしめたい。が、なんとか机の下で拳を握って堪える。
すると葵が聞いてきた。
「ね、和谷くん。ボールペン持ってない?」
ズボンのポケットやバックの中身を漁るが残念ながら出てこなかった。
「悪い、持ってない。」
肝心な時に俺ってヤツは……。
葵がクスッと小さく笑う。カッコがつかなくて恥ずかしかったけど、葵が笑ってるので良しとしよう。
店員にボールペンを借りた葵は、すぐに【妻になる人】の欄を埋めた。あとは証人の欄だけが空白だ。それはすぐにでもお互いの親に書いてもらえばいい。
「じゃあ、そろそろ帰ろうぜ。俺たちの家に」
「うん、そうだね。」
わざわざ〝俺たちの家〟なんて強調する必要はなかったけど。あえてしたのは帰る場所がこれからもずっと一緒であることを再認識したかったからだ。
喫茶店を出てすぐに彼女の手を取り、ギュッと握る。
家まであと10分もかからないというのに。
そして葵もまたそれに応えるようにギュッと握り返してくれる。その手のぬくもりを感じて思った。
大丈夫。俺はもう、迷わない。
1/47ページ