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緒方夢短編

◇緒方さんだから◇

2泊3日の地方の仕事で、1日目の夜。
明日も朝早いのにやり場のない苛立ちのせいで眠れなくて、自販機のディスプレイだけが明かりを灯してる、深夜のエレベーターの待合室に居た。上等なソファーに座り、ただ一点を見つめて茫然と。

「まだ起きていたのか」

誰のせいで寝れないと思ってんだ。この人相手に実際にできるわけがないけど捌き倒したくなる。

「相槌の一つも返さないとは、いい度胸だな」

この人は同じ門下の先輩で、失礼な態度をとるべきではないと分かっているけどこの二言目も無視。今日以外でも思えばこの人の心無い一言で碁打ちとして、プロ棋士としての生存意欲を喪失しそうになったのは数知れず。
でも今日の心無い一言は、碁のことじゃなかった。

そもそも、この2泊3日は運悪く碁会で不仲で有名の桑原先生と緒方さんに挟まれての仕事だった。普段の緒方さんだけでも苦手だというのにその人の天敵が居て機嫌が悪いとか胃が砕け散るかと思った。
桑原先生はさほど気にしてないようで、仕事が始まる前から私の今日の服装や髪型を褒めてくれて、反応に困っているところに

『じじいの戯言に自惚れてないで、鏡見て出直してこい。』

緒方さんの不機嫌の飛び火。
今日1日この一言で感情振り回されていた。この言葉を言われたのが緒方さんだったから最悪なことにそれは、苛立ちだけで治らなくて

「──っ、隣……座んないでください」

生温い涙が次々と溢れ出る。
しかも聞く耳持たずに緒方さんは座って、すかさず手を伸ばしてくる。思わず力んで目を瞑ると、頭に手のひらの感覚。

「……悪かった。」

出た。ごく稀の緒方さん。
門下の中で私にだけとにかく当たりが強く、碁の事ではことあるごとに、プロになった今でも酷い言われよう。

「お前を褒めてるのがじじいじゃなければ、違う言葉を選べたはずだ。」

それでも、ごく稀なこういう優しい言葉で酷い言われようは帳消し。私が散々言われても頑張れるのは、悔しいけど、このごく稀の緒方さんが見たいからだと実感させられる。
特別甘い言葉じゃなくても、緒方さんに言われるというのが重要で。

「……鏡見て出直してこいって言葉、そのままの意味ですよね」
「いや、じじいの距離が近かったから、離れろと言いたかった。」
「おめでとうございます。不器用過ぎて伝わらない選手権第1位です」

加えて言葉の意味を解いてしまえば、秒で笑顔に変わるのだった。
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