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緒方夢短編

◇狡猾な男、緒方精次◇

「ウィスキー」

居酒屋の席に着いた途端にアルコール度数の高い酒を頼み、タバコを口に咥える緒方精次に私は密かに腹を立てていた。
こっちは1ヶ月も待ったというのに、はっきりとした素振りを見せない。
いくらルックスもよくて、複数タイトル保持者で将来有望で文句なしの彼でも許せん。

酒の力を借りて、「好きだ」なんて。

いや明確には好きと言われたわけではない。

そもそも碁会所でただバイトしてた私とプロ棋士の彼とこうして今2人きりで飲みに行ける仲になったのには一応流れがある。数年前大学生になると同時に私の上京がてら母が心配して、親戚の市河晴美さんに何かあったらよろしく頼んでいた。最初にやっていたバイトの環境がブラックすぎて辞めて、しばらく仕送りとわずかな貯金切り崩してやってきたけど、さすがにそれではやっていけなくなっていたところに晴美姉さんが自分が働いている碁会所を紹介してくれて、働かせてもらえることに。
囲碁のことはからっきしだったけど、私に碁を教えるのを純粋に楽しみに来るおじさんも少なくなかった。たまにこれみよがしにという感じで教えてくる人もいたけど。それで気分が良くなるのならいくらでも付き合おう精神で働いていた。この時点で緒方さんとは全然接点なかったのにある日突然、お店に一本の電話が入って、晴美姉さんが顔の前で両手を合わせて言った。

「悪いんだけど、緒方先生の介抱しに行ってもらえる?」

最初緒方先生って?と聞き返すほど顔と名前が一致してなかったけど、白いスーツのと言われたら思い出すくらいには認知していた。思えばそこからだ。緒方さん、車で行く癖に飲んじゃって、私が介抱要員に任命され急速に距離が縮まったのは。
免許は持ってても上京してからは全く運転したことなくて彼のあの高そうな愛車を傷一つつけずに運転できるか保障は出来なかったけど、こうなったのも彼の責任ということで覚悟を決めて迎えに。
そしていつの間にかプロ棋士の飲みに誘われるようになり、お店に入ると必ず彼はお前の分もここから出せ。と私に財布を託すまでの信頼関係に。後日返そうとしても、いらないの一点張り。さらには周りに緒方先生の御用達とまで言われるようになる。
そんなことないです。なんて笑ってごまかしてきたけど、心の中ではそれ、付き人か何かの間違いでしょ。とずっと思ってきた。
とりあえず数年後に社会人になってからの今日まで、彼の愛車に傷一つつけず事故も起こさずに任務を遂行してきたわけだけど、つい2週間前。
いつも通り私の携帯に直接芦原さんから連絡が入り、迎えに行って運転している最中に

『おい、どうだ。俺と付き合ってみても損はないぞ。』

そう言われてしまえば手元が狂い、傷をつけるどころじゃなく事故寸前。
なんて狡猾な男。損はない発言も結局、この男だからこそ許せてしまうし、なによりアルコールに侵食されての状態なら、私があとで問い詰めても酔ってたから覚えてないの一言であしらえる。

だから、本気にしてなかったはずなのに、この1ヶ月ぱったりとプロ棋士の飲み会ではなくサシ飲みで誘われるようになった。
かと言って直接的な言葉はもらってないけど、1杯目から強いお酒で飛ばしてろくに話もさせてもらえず困惑させられる一方で。今日という今日はいい加減このまま引き下がれなくなった。
お待たせしましたの声とともにやってきたウイスキーを彼の手に渡らないように私が遮ってぶんどる。
一瞬、固まっていたけどすぐに何のつもりだ。声は低く目でも睨まれる。

「緒方さんこそ、この1ヶ月何のつもりですか。これってお遊びじゃなくて居酒屋“デート”って認識でいいんですか。」
「……お前はまだ気づかないのか。興味がないのはもちろん女の酒代、飯代を全額奢るわけがないだろう。」

その言葉を聞いて思わず笑ってしまうのと同時に気付いた。あぁ、この人「好き」って言うのが恥ずかしいのか。
これがノーマルの彼の限界なんだ。そう勝手に解釈してしまうと納得してしまい、これ以上はっきりとした言葉を引き出す気にはなれず、ウィスキーを彼の手元へ戻す。
鈍い彼女でどうもすみません。と笑いながら。
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