走らずともメロス
メロスは怒らなかった。かの傍若無人の王にも、妹を騙した男にも。メロスは村の外れに住む羊飼いだ。父、母、親類も無く、十六になる妹と暮らしていた。ある日、街で妹に声をかける優男がいた。妹もいたく気に入った様でメロスはよかれと思い二人を見守った。しかし数日後、妹がボロ雑巾の様になって帰って来たのだ。妹はメロスの顔を見るなり騙されたと呟き部屋に籠ってしまった。しかしメロスは優男を殴りに行くこともなく、怒りも悲しみもしなかった。また次の日、小さい頃から世話になっている果物屋が無くなっていた。なにやら王家に献上した果物が王の気にさわったらしい。店主は三軒隣の空き地で芸術作品になっていた。首の断面がとても綺麗だった。説明の立て札を読もうとしたが罵詈雑言しか書かれていない。それでもメロスは怒りも悲しみもしなかった。メロスはこの世の理不尽を知っていた。怒ることの無意味さを知っていた。たかが羊飼いに何ができると言うのだ。相手は一国の王、お偉い貴族の一人息子だ。普通の羊飼いに何ができると言うのだ。せいぜい自分も芸術作品になってお仕舞いだ。このメロスの態度に意気地無しと罵倒を飛ばしにくる輩もいた。果物屋の馴染みの中には怒りも悲しみもしないメロスに業を煮やし触発され、王のもとへ向かう輩もいた。次にその輩を見たのは買い出しに行った時だった。干し肉屋の向かいで木箱の中に入っていた。あいにく芸術作品を飾る台は日が経ち干からびていた果物屋の店主と共に強風で飛んでいったらしい。それを見つめるメロスは怒りも悲しみも哀れみの感情も持たず、メロスに怒りをぶつけ無謀にも権力に立ち向かう人間を止めることもしなかった。そうしてメロスは、何人もの正義感溢れる勇者を殺した。
ある日、王がメロスの元にやって来た。メロスは羊の放牧中だった。「反乱者達はみな貴様の名を口に出す。さては貴様が反乱者達の親玉だな」挨拶も建前も、おまけに頭のネジも吹っ飛ばして王は言った。メロスは仕事の手を休めずに答えた。「いいえ、違います。私は何もしておりません」メロスは近くの石に腰かけ、懐からおやつを出し食べだした。「ならばなぜ反乱者は皆、貴様の名を口にする?」王もまた横に座りメロスのおやつを無断で食べ始めた。メロスは今まで見てきたものを全て話した。かいつまんで話すのは頭の良いものでしかできない所業だ。勿論メロスは学も何もない。つまむのはおやつで十分である。「ふむ、貴様が何もしないことが隠れた反乱者共に火をつけたということか」メロスにとってそのような事はどうでも良いことであったため、とりあえず肯定しておけば良いだろうと考えもせず答えた。「そのようでございます」王はメロスの袖で手を拭うとおもむろに立ち上がった。おやつはメロスが話している内にほとんど王の胃の中へ消えた。「メロスよ、貴様はそのままであれ」「と、申しますと?」「貴様は今まで通り暮らせば良いのだ。なんなら金を出しても良いぞ。月に金貨1枚。貴様の行動に触発された反乱者が現れたら1人につき銀貨5枚増やそう」「はぁ」「では頼んだぞ」返事も聞かずに王は去っていった。ちなみにここまで王の側には誰もいなかった。王家周辺は人手不足らしいと噂には聞いていたが、1番大事なものを守らないとは学の無いメロスにも理解できる。召集の命令でも出せば良いのに、と喉まで出かかった言葉はおやつの干し果物で飲み込んだ。この干し果物は果物屋の遺品であり死因である。押しかけてきた王が話を聞くことよりも食べることを優先するほどの味であるのに、店主を処刑した時の王は何が気に入らなかったのだろう。野火のような王の襲来に疲弊しているメロスは、考えることもしない。
後日、本当に金は送られて来た。隣村の葬式の回数から見る限り、ほんの気持ち程度に猫ババされていたが。おそらく王の下っ端の下っ端の下っ端の下っ端の下っ端の下っ端くらいの兵士が配達係だ。この国では王の価値は金貨以下らしい。好きに使えとの伝言だったが、あいにくメロスは自給自足できている。妹も三食おやつ付きで養える。金を貰っても使い道がわからない。メロスはおやつを食べながら悩んだが、二つ目を三十回噛んだところで考えるのをやめた。元から足りてない脳はいくら酷使しても意味がないのだ。ご近所さんの結婚式の引出物で貰った用途がわからない大きさの壺に詰め、離れた小屋にある干し草の山に封印することにした。
月日は流れ、この間生まれたばかりの赤ん坊が一丁前に初恋なんかしだす頃、とうとうと言うよりやっとこさ王が倒されたとの話が流れてきた。やったのはとある貴族のお坊ちゃんだとかなんとか。まあメロスには欠片も関係ないけれど。結局王から貰った金にはひとつも手を出してはいなかった。手を出すどころか忘れていた。3年ほど音沙汰がなかったためである。増えて二つになった壺は干し草の山で眠ったままだ。
話は変わって、メロスには親友というものなんかがいたりする。十年ほど連絡もしてないので過去形で表記すべきだが。名をセリヌンティウスと言う。幼い頃はメロスの家の三軒隣の向かいに住み、メロスにちょっかいをかけたりかけられたりしていた。しかしある満月の晩に自分は彫刻家になるのだと言い出しそのままふらりといなくなった。たまに流れてくる風の噂曰く彫刻家というより曲がりくねった感性を持つ芸術家として名を馳せているらしい。そんな彼は今、亡き王の城に革命軍の幹部としてガサ入れをしていた。
王の住みかは外見だけは立派である。城壁は傷一つない。しかし門をくぐると色褪せ窓も曇ったままの本体とご対面する事になる。これでも成り立っていたのは先代がろくに他国との交流もせず引きこもっていたからだ。もちろん庶民が城に入る機会など隕石が落ちて五芒星に大地を焦がすくらいの確率しかない。つまりはほぼ0。そんな事が起きたとしても皆死んでいる。外見を気にする必要がまったくなかったのだ。その姿を見て育った亡き王がこの状態が普通だと判断するのも仕方のない事である。
セリヌンティウスは亡き王の書斎にて、自分の目を疑っていた。机の上に乱雑に置かれ、埃を被った報告書。そこに懐かしき親友の名を見つけたからだ。さらに言えばその親友は庶民感覚で言えば大金にあたる、貧乏人は見たこともないほどの額を毎月王に貰っていた様だ。沢山の人々を見殺しに追加の銀貨まで貰っている。セリヌンティウスはこれが本当に親友の物かを疑った。あの脳味噌を半分も動かしていないようなとぼけた人間が、こんな狡猾に動けるものだろうか?しかし、報告書は確かに親友の名と家を指し示している。この事実が他の幹部の者に見つかれば、メロスは間違いなく口を開く前に殺されるだろう。セリヌンティウスは親友に事情を聞くため、馬を走らせた。
メロスは夕飯を食べていた。引きこもったままの妹のリクエスト「質素だけれど栄養満点のメニュー」を考える事に脳味噌を使いすぎたメロスはかなり疲弊していた。仕事が残っているが今日は諦めて寝てしまおうかと頭の片隅に浮かべ、立派な睡魔が忍び寄ってきた時、メロスの家の扉は慈悲もなく吹き飛ばされた。吹き飛ばしたのは馬の前足。そしてその上には懐かしき旧友によく似た顔があった。「メロスっ!!」これまた旧友によく似た声で叫んだ男は馬から降りてこちらに向かってくる。メロスは半分も回っていない脳みそから言葉を垂れ流した。「やあやあ私の旧友によく似ているお方。どこの家と間違えたか知らないが、人の家の扉を蹴飛ばすとはどうかしているのではないかい?」滴り落ちる言葉を吹き飛ばすように男は言葉を放つ。「間違えてなどいないし、どうかしているわけでもない。緊急事態だからな。ふざけるのも大概にしたらどうだ、メロス」旧友に似た男ではなく旧友そのものだったようだ。ならば気を遣う必要もないだろう。「冗談の通じない人間がよく芸術家を名乗れるな、セリヌンティウス。眠いから明日にしてくれ」「間違えるな、私は彫刻家だ!!」「わかったわかった。私は寝るからお前は帰れ」メロスはただ眠かった。「緊急事態だと言ったのが聞こえなかったのか?」疎遠だったとは言え友人の生命の危機を見逃せるような人間ではないのがセリヌンティウスである。例え当の友人がうつけであろうとも。「お前の緊急事態など知らない。私の脳味噌も緊急事態だ、帰れ」あまりの眠たさに声は大きくなり、奥で引きこもっている妹が出て来てもおかしくないほどの言い争いに発展した。その最中だった。扉があった空間から槍が飛び出して来たのは。
ぼとり、と落ちた腕。悲鳴をあげたのは彫刻家を自称するお人好しの方だった。メロスはなだれ込んでくる人の波に逆らえず、踏まれて形を変えていく旧友の腕を拾うこともできない。人の波が静まり、メロスの家が容量を越えそうな事に文句をいうように軋みだした時、人の波が分かれ一人の男が現れた。
「故郷の友を庇ったか、セリヌンティウスよ。しかしどんな理由であろうとも我々は王の残党を見逃すことはできない。命を奪わなかったのは情けだ。せいぜい感謝するのだな。」見たことがあるような男だった。男は踏まれてぐずぐずになった腕を蹴り、痛みで踞っているセリヌンティウスに返した。そのゴミを見る視線はメロスにも注がれた「貴様が王の手の者だな。私は、革命軍を率いている、アリベラード家の人間だ。礼儀としては名乗るべきだが、数えきれないほどの人間を殺した奴に名乗りたくはない。家名だけでご勘弁願いたい。」
メロスは旧友は金切り声をあげ、家は軋み、知らないような貴族に覚えの無い罪を着せられているこの状況から逃げ出す方法を考えたが、まだ眠気が残り頭が回らなかった。
「どうした。もう殺される覚悟は済ませていたのか?」
「そ「それはすまない。せっかくの覚悟だが、我々はお前の話を聞かなければならない。我々はかの王とは違う道を歩むのだから。」言った側から人の話を聞かないではないか。この態度からメロスは王が押しかけてきた日の事をぼんやりと思い出した。覚えの無い罪ではなく押し付けられた罪であった。「申し訳ないが、私は王の手の者ではない」「そんな冗談が通じる状況だと思うか?さすがかの王は手の者まで思考がトんでいるな」王がトんでいたのはわかるが、さすがのメロスでも心外だった。「失礼な。自他共に認めるうつけではあるが、あの王と並べられるほどではない。」貴族の男は顔を歪めた。「ほう。『あの王』を知っているか。ただの羊飼いが王の人柄を知っている訳がない。面識はあったようだな。」言質を取られたと気付いた時には革命軍の男共に動きを封じられた。「連れていけ。」メロスは抵抗しようと試みた。しかし相手はついこの間まで戦場にいた兵士である。手を抜いた生活を送る羊飼いが叶うはずもなかった。永遠に眠れるならそれも悪くはないと諦め抵抗をやめたその時、事態は一変する。
「何事ですか?」
引きこもっていた妹が部屋から出てきたのだ。息を飲む音が聞こえた。不思議に思い見回すと、真っ青を通り越した顔をした貴族のお坊ちゃんが目に入った。
お坊ちゃんはおそるおそる口を開いた。
「メロス、一つ聞きたい」
「何だ」
「あの女性とはどういう関係だ?」
「兄妹だが」
お坊ちゃんは一つ呼吸をし、部下に言い放った。
「その人を離せ!今後手荒く扱うことは許さない」
男は武器を全て捨て、妹の元に向かった。そしてひざまづき頭を垂れた。
「お久しぶりです。覚えておいででしょうか?いや、きっと思い出したくもないでしょう。貴女を騙し、手酷い事をした男の事など」
メロスは思い出した。革命軍のお坊ちゃんはかつてメロスの妹を騙した男であることを。
「貴女を捨てた後、私は更正する機会を頂きました。思い返せば返すほど、貴女にしてしまった事の重体さを思い知ります。ずっと貴女を探していました。どうか私に責任を取らせて頂けないでしょうか?」
責任を取る。世間で言えば結婚である。しかし、今回はこの男を同じ目に合わせる、もしくは怒り任せに命を奪う事も当てはまるだろう。そしてこの男もどんな事をされようとも文句は言えない。しかしこの女はメロスの妹である。妹もまたなかなかのうつけで、トんでいたのだ。
返事や痛みがやってこないことに不信感を抱いた男は、おそるおそる顔あげ言葉を失った。泣いているのだ。女は泣いていた。そこまでは正常だ。女の顔は喜びに歪んでいたのだ。女は涙を拭い、至上の笑みを浮かべると、その心を言の葉に乗せた。
「喜んで」
妹は騙されたと言い傷つきながらも、この貴族様の事を諦められなかったのだ。今までなにもなかった人生に色を与えてくれたのだ、と。
「本当に良いのですか?」男は想定外の出来事に戸惑いを隠せずにいた。
「今の貴方なら信じられます」
女は男の手を取った。
かの王が倒れて約半年。新たな国が出来つつあった。見た目だけの城壁や城を全て取り壊された。新たな王は役場に席を置き、民のために駆けずり回っている。
快晴の暖かな日に、新たな王の結婚式はささやかに行われた。メロスは新婦の唯一の親族として出席し、着飾った妹を眺めていた。
金のつまった壺を新たな道を歩み始める国に渡すこと、腕を無くし職を失ったセリヌンティウスの面倒を見ること。この2つを条件にメロスは無罪となった。王妃が犯罪者の妹では寝覚めが悪かったのだろう。向こうの家からは煙たがられているものだと思っていたが、まさか結婚式に呼ばれるとは。さすがのメロスでも義理の弟の神経を疑わずにはいられない。せっかくの宴だからとセリヌンティウスを誘ったが、妹の代わりをするように引きこもり、部屋から出てこなかった。
婚姻関係を結ぶための儀式を全て見届けると、太陽は姿を隠し始めていた。家にこもっている空腹であろう友人を助けに行かねばならない。メロスは挨拶をするためゆっくりと歩き出した。
親族に囲まれた王と王妃はなにやら楽しげな会話を振り撒いている。
「本当に私で良かったのですか?」
数年前とはうって変わって善良に成り果てた王は王妃に問いかけた。もう妹とは呼べない女はひどくとろけた顔で答えた。
「ええ。だって貴方は私を救ってくれた勇者様ですもの」
勇者はひどく赤面した。メロスはそれをただじっと見ていた。
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