7年目の願望
(※10代目が少しヤンデレ気味)
最初に会ったのは、小学生のとき。入学当初から生来のどんくささを存分に発揮していたその子は、
まだ舌足らずな幼さを残す子供には本名そのままの発音がしづらかったのだろう、小さな新入生たちの間で“ツナ”と呼ばれていた。
ツナと同じクラスだった私は、その年頃の女の子にしばしば見受けられる妙なおせっかいでツナの世話を焼いた。
そばにいればいるほど、ツナの要領の悪さは目についたが、
兄弟のいなかった私はお姉さんにでもなったつもりで、「##NAME1##ちゃん、」と後からついて来る存在に、愛想を尽かすことはなかった。
その一方で、あまりに素直なツナに、入学以来緊張でなりを潜めていた私の元来の、高慢で高飛車な性格が表へ出てくるようになった。
そしてある時、当時はそうなるとは思いもしなかった、けれど後から思えば取り返しのつかない、愚かなことをした。
「ツナはいつもないてばっかね。べんきょうもうんどうもできないし、ダメなやつ。
ダメダメなツナで、ダメツナかしら」
ツナに新しい、しかも自分だけが呼ぶあだ名をつけたくて言い出した。
きっと、幼い独占欲の現れでもあった。
そうして、ツナを、「へんなあだ名つけないでよ」とか、「もうしかたないなあ…」というふうに、喜ばせたくて、笑わせたくて。
自分の心をほわっと温めてくれる、ツナのほころぶような笑顔を見たかった。
(ただし、彼に笑ってほしかったと自覚したのはだいぶ大きくなってからだ。
当時は、誰でもない私がツナを泣かせるのが楽しくて、また泣いた顔が好きだと思っていた。
でも、実際に好きだったのは、涙を流すツナにぶっきらぼうにハンカチを渡す私に対し、最後にはへにゃりと笑う顔だった。)
とは言え、ツナの要領の悪さを知っていたのは私だけではない。
どこから漏れ出したのか、周りの子供たちが悪乗りし、私の勝手な思いから生み出した「ダメツナ」のあだ名は広まっていく。
そしてそれは、彼をどんどん苦しめていった。
「あっ、もしかして、なにもない廊下で今コケてるあいつがダメツナ?」
「そーそー、あいつダメダメなんだよ。
こないだの体育で顔面にサッカーボールくらったらしいぜ。しかも自分で蹴ったやつ!」
「それに、女子よりも走るのおそいのよ。
ダメツナとは二人三脚ぜったいやりたくないって、みんないってるわよ」
「よーダメツナー!こないだのテストも0点だったんだって?お前0点以外とったことあんのかよー!」
ツナにとっては忌々しい、自分を苦しめる“ダメツナ”というあだ名の火付け役となった私を、彼は恨んでいることだろう。
ダメツナと呼ばれるたびに自分自身でもそう思い込み、ますます殻に閉じこもっていくツナ。
それに呼応して、私の中のツナへの申し訳なさも募っていく。
それでも変なプライドが邪魔をして、表には出せなかった。
ただ、今までのようにそばへ寄っていって、周囲から見れば相当きつい言葉をツナにかけては、その表情をかみしめていた。
しかし、ダメツナのあだ名がだいぶ浸透したころには、ツナのほうが私に対して徐々によそよそしくなっていった。
私たちは小学校の高学年になっていた。
男の子よりも一足早く心の成長期を迎えたことで、傲慢だった私でもそれに気づいた。
不名誉なあだ名を広めた張本人である自分が傍にいることは、彼にとっては苦痛なのかもしれないと感じるようになった。
小学校最後の一年間は、しきりにツナのほうを気にしつつも、遂に前のように軽々しく話しかけにいくことはできなかった。
年頃の少年少女にある異性への照れくささではなかった。
それでも視線を送らずにいられなかったのは、ツナの笑った顔を見たいという気持ちがなお強かったからだろうか。
月日が経過し、中学一年生のとき。私とツナが出会ってからちょうど七年後のことだ。
学校区の近かった私とツナは、そろって並盛中学校に進んだ。
そして、入学して間もない頃に、私の父の転勤が決まった。
赴任したばかりの前任者が疾病によってしばらく療養せざるを得なくなり、代わりに父が赴くことになったのだ。
任期は数年単位。入学してから日も浅くまだ馴染める時期だろう、ということで、一家で父親の赴任先に引っ越すこととなった。
小学校時代の友人はいるものの、進学したばかりで面識のない人のほうが多いこの時期。
わざわざ送別会のようなものを開いてもらいたいとは思わず、ごく少数の仲良くしていた友人にだけ連絡した。
そして、ただその日までをいつも通り過ごして、大型連休明けからは転校した中学校に通うことになっていた。
ツナは並盛中学校に入学してから、マドンナと謳われる穏やかな少女に惹かれているようだった。
相変わらずツナの様子を観察していた私には、手に取るようにわかった。
そして、小学校の頃よりもツナは私から遠ざかろうとしていたことにも。
数少ないながらも同じ小学校出身の者たちにより、また彼自身の生来のどんくささも相まって、再びあの不名誉なあだ名がじわじわと浸透し始めているようだった。
彼はまた苦しむことになるのだろうか。火付け役となった自分自身が本当に恨めしい。
広まってほしいわけではなかった。自分だけが呼ぶ彼の呼称(デザインネーション)がほしかっただけだった。
でも、私のこんな勝手な思いなど、彼は知る由もないし、知ったことではない。
直接の被害をこうむっている彼からすれば、なんてことをしてくれたのか、という一点だろう。
…諸悪の根源である私がいなくなれば、彼の心は少しは晴れるだろうか。憎たらしい、恨めしい奴がいなくなって清々したと、笑うだろうか。
私が彼の目の前から消えることで、彼が笑ってくれればいい。笑ってほしい。
私はあなたの笑顔が好きなのだから。
それから更に七年の月日が流れた。
その間に並盛に戻ることは結局ないまま、私は成人した。
もちろん成人式は住民票のある赴任先のものに出席したが、次の日は並盛で開かれるという小中学校合同の同窓会に行くことにしていた。
この機を逃せばもう一生会うことがない人もいるだろう。
…そして卑怯な私は、SNSの出席者名簿に彼の名前が載っていなかったことをしっかり確認していた。これが私を後押しした。
この日を迎えるまでには、様々な経験をした。
学業面では塾通いに、二度の受験。生活面では、友達と泊りがけの旅行へ出かけたし、周囲に倣って自分の容姿にそれなりに気を遣うようにした。
自分の顔に合う化粧も覚えたし、大学に入ってからは社会勉強を兼ねてアルバイトもした。
そちらの方面では、なんだかいい雰囲気になった高校の先輩はいた。こんな私を好きだと言ってくれる、大学の同級生もいた。
それでも私は、あと一歩を踏み出すことができなかった。
友達と談笑していたとき、先輩と少しだけ甘ったるい雰囲気の中で部活の仕事をしていたとき、同級生から熱を感じられる眼差しを向けられたとき。
私の脳裏を、幼い少年の涙を湛えた面差しがよぎる。
駆け巡る過去の日々に、自分の罪深さと、未だ絶えぬ彼への愛おしさを、身に染みて実感する。
私の記憶の中の笑顔の彼はどんどんぼやけていった。強く残るのは涙にぬれた悲愴の表情だ。
この事実が、会って、そしてあの綻んだ顔をもう一度見たい、刻み込みたいという願望と、
彼の小学校生活のみならずもしかすると中学生活までもを台無しにしたのだという罪を、常に私に突き付けてくる。
会いたいけど、会いたくない。
彼はもう、顔も見たくないかもしれないだろうに、身勝手な私はいつも相反する感情に苛(さいな)まれている。
だから、卑怯な私は彼のいないその場に、寸分でも彼のかけらを求めて、赴かんとした。
それだけのつもりだった、はずなのに。
「##NAME1##は、外国の大学に留学…いや、編入するんだったよね。
どこの国だっけ。いつ行くのかな」
遅れてやってくる予定だったといって、中学当時に有名だった面子と途中から現れたその人は、
出席回答はしていなかったのになどといったことを思わせる間もなく、有無を言わせず私をつかまえた。
挨拶もままならないまま投げかけられた質問は、聞かれているはずなのに、確認事項のようなトーンだ。
それにあらがえぬ力を感じて、私の口はすなおに言葉をつむぐ。
「…イタリアに、行くの。来年度の夏から」
芸術の街で、もっと自分の技巧を磨こうと考えていた。
…いや、これは半分は建前なのだ。
日本の、並盛から遠く離れた地においても私はツナを忘れられなかった。
「あなたのことが忘れられなかったの」といった、そんな甘ったるくかわいらしいものではない。
私自身が引き起こし、私自身が勝手にさいなまれ、いとおしみ続けた彼の存在は常に私の中にあった。
時折思考の深淵に沈む娘を見かねた母が、心機一転に新しい環境に身を置いてみたら、とアドバイスしてくれた。
私の意思・希望を尊重してくれる優しい両親。中学の時の引っ越しだって、私がいやなら父は単身赴任でいいのだと言ってくれていたのだ。
彼らの優しさに甘えて、私は海外の地へ飛ぶことにした。
私は並盛からも日本からも、…ツナの記憶や過去の自分の罪と葛藤からも背を向けて、“また”逃げようとしていた。
自分の願望からも、目をそむけて。
だって、願望の成就のために、どうしたらいいか分からない。
謝罪は加害者が自らの罪の意識を軽くしようとする、一方的な行為にすぎないのではないか。
「ふふ…イタリアね」
艶を感じさせる笑みを浮かべると、ウェイターから受け取ったグラスを傾ける。
年若いが、十分に大人の男の魅力を感じさせる動作だ。昔のツナからは考えられないような性質の。
それでも、心に突発的で邪な思いを抱かなかったのは、決して短くない期間、彼への複雑な思いを持ち続けていたからであろうか。
「少しさ、オレの話聞いてくれる?」
「……いいよ」
少し怖かった。何の話をされるのかはわかりきっていたからだ。
でも、それ以上に彼の思いを聞いてみたかった。なじられても、それ相応のことをしたのであるし。
「ありがとう」と小さく言ってホールの隅へと移動する彼に、私も追随し、歩を進めた。
目立つ彼とでも、人目につかない位置にこれば周囲の煩わしさはだいぶ軽減されるだろう。
私の前を歩いていた背中が振り返る。
先ほどよりも近づいた距離の、記憶にある昔よりもいくぶん高くなった位置から落とされる視線に、覚悟を以て向き直る。
「ダメツナって呼ばれるの、すごく屈辱的だった。
中学でもいつの間にか学年中に知れ渡ってて、呼ばれるたびに、オレは本当にだめなやつなんだって、自分を責めて、それでまただめなことを繰り返す。
後は負のスパイラルだったよ」
ああ、やっぱり、彼は苦しんでいたのだ。私が根源となって生み出した呼び名が、彼を彼自身にすら追い詰めさせていた。
ツナの顔を見ていられなくて、うつむいて足元の絨毯を見つめる。
ふと、視界に入る彼の靴が上等なものであることに気が付いた。
彼はその後何を思って、今のこの雰囲気を持つに至ったのだろう。
罪の意識がとまらなかった。さっきした、いや、ずっと前からしていた覚悟なんて、何の役にも立たなかった。
謝ったって、過ぎ去った時間を巻き戻すことはできない。
しかし、続く彼の言葉は、私にとってすごく衝撃的なもので。
「…でも、嫌いじゃない。厭うわけがない。
だって、君がオレにくれたものだから」
「…っ!」
幼い日のまだ高い彼の声と、変声期をとうに過ぎた大人の男の声が、同じ優しさをはらんでいた。
どこまでも身勝手な私は、思わず顔を跳ね上げた。この声のツナはいつも、あの私の大好きなまぶしい笑顔をたたえていた。
この期に及んで私は、自分の願望の成就をこいねがったのだ。
…ただし、それは本当に、本当に愚かで甘えた考えだった。
「…だけど君はそれだけを残して、いなくなってしまったね」
瞳にほの暗い光を宿し、形だけの笑みを浮かべたツナはしかし、まっすぐ私を射抜いてくる。
君は、オレを置いていったね。
オレはいらなくなったの?
それとも、オレから逃げたかった?
君がオレに話しかけてくれたの、すごくうれしかった。
オレに構う君までが煙たがれることを恐れて突き放して、けどその一方で君が孤立したらどんなに満たされるだろうという昏い願望を持たずにはいられなかった。
ツナの口から、信じられないような言葉が続いていく。
そんな表情をさせたかったわけじゃない。そんな笑顔を望んだわけじゃない。
私はただ、あなたに笑ってほしかった、だけだったのに。
「でも今度は、君からオレの元へ来てくれる」
まなじりが細められ、義務的に吊り上っていた口端が自然にゆるみ…恍惚とした笑みが浮かぶ。
「##NAME1##が来るの、待ってるから。早く来てね。楽しみにしてる」
きっと、長年胸の内にとどめられてきた私の願望がかなうことは、もうありはしないだろう。
あなたをこんな風にゆがめてしまったことに、自分の罪深さを実感する。
…それでも、吐露された彼の昏い願望に喜んでいるのだから、私自身、相当歪んでいる。
夏が来るのが、待ち遠しくなった。
===============
7周年ありがとうございます!
他の小話が結構甘酸っぱい感じだったり、ほわわんとしていたりするので、
今作は趣向を変えて、少々ヤンデレ気味な10代目とのお話にしました。おかげで地の文が大量です。
結末部「もうありはしないだろう」に続く薄い銀色で書いてある部分は、三文ほどで大したことはありませんが、ぬるい共依存的な終わり方になっています。
そちらがお好みの方は反転してご覧になってください。
再会の要素を含みますが、主テーマは“願望”なので、「7年目の願望」でお送りしています。
・願望…願い望むこと。また、その願い。
15/07/31 春樹
最初に会ったのは、小学生のとき。入学当初から生来のどんくささを存分に発揮していたその子は、
まだ舌足らずな幼さを残す子供には本名そのままの発音がしづらかったのだろう、小さな新入生たちの間で“ツナ”と呼ばれていた。
ツナと同じクラスだった私は、その年頃の女の子にしばしば見受けられる妙なおせっかいでツナの世話を焼いた。
そばにいればいるほど、ツナの要領の悪さは目についたが、
兄弟のいなかった私はお姉さんにでもなったつもりで、「##NAME1##ちゃん、」と後からついて来る存在に、愛想を尽かすことはなかった。
その一方で、あまりに素直なツナに、入学以来緊張でなりを潜めていた私の元来の、高慢で高飛車な性格が表へ出てくるようになった。
そしてある時、当時はそうなるとは思いもしなかった、けれど後から思えば取り返しのつかない、愚かなことをした。
「ツナはいつもないてばっかね。べんきょうもうんどうもできないし、ダメなやつ。
ダメダメなツナで、ダメツナかしら」
ツナに新しい、しかも自分だけが呼ぶあだ名をつけたくて言い出した。
きっと、幼い独占欲の現れでもあった。
そうして、ツナを、「へんなあだ名つけないでよ」とか、「もうしかたないなあ…」というふうに、喜ばせたくて、笑わせたくて。
自分の心をほわっと温めてくれる、ツナのほころぶような笑顔を見たかった。
(ただし、彼に笑ってほしかったと自覚したのはだいぶ大きくなってからだ。
当時は、誰でもない私がツナを泣かせるのが楽しくて、また泣いた顔が好きだと思っていた。
でも、実際に好きだったのは、涙を流すツナにぶっきらぼうにハンカチを渡す私に対し、最後にはへにゃりと笑う顔だった。)
とは言え、ツナの要領の悪さを知っていたのは私だけではない。
どこから漏れ出したのか、周りの子供たちが悪乗りし、私の勝手な思いから生み出した「ダメツナ」のあだ名は広まっていく。
そしてそれは、彼をどんどん苦しめていった。
「あっ、もしかして、なにもない廊下で今コケてるあいつがダメツナ?」
「そーそー、あいつダメダメなんだよ。
こないだの体育で顔面にサッカーボールくらったらしいぜ。しかも自分で蹴ったやつ!」
「それに、女子よりも走るのおそいのよ。
ダメツナとは二人三脚ぜったいやりたくないって、みんないってるわよ」
「よーダメツナー!こないだのテストも0点だったんだって?お前0点以外とったことあんのかよー!」
ツナにとっては忌々しい、自分を苦しめる“ダメツナ”というあだ名の火付け役となった私を、彼は恨んでいることだろう。
ダメツナと呼ばれるたびに自分自身でもそう思い込み、ますます殻に閉じこもっていくツナ。
それに呼応して、私の中のツナへの申し訳なさも募っていく。
それでも変なプライドが邪魔をして、表には出せなかった。
ただ、今までのようにそばへ寄っていって、周囲から見れば相当きつい言葉をツナにかけては、その表情をかみしめていた。
しかし、ダメツナのあだ名がだいぶ浸透したころには、ツナのほうが私に対して徐々によそよそしくなっていった。
私たちは小学校の高学年になっていた。
男の子よりも一足早く心の成長期を迎えたことで、傲慢だった私でもそれに気づいた。
不名誉なあだ名を広めた張本人である自分が傍にいることは、彼にとっては苦痛なのかもしれないと感じるようになった。
小学校最後の一年間は、しきりにツナのほうを気にしつつも、遂に前のように軽々しく話しかけにいくことはできなかった。
年頃の少年少女にある異性への照れくささではなかった。
それでも視線を送らずにいられなかったのは、ツナの笑った顔を見たいという気持ちがなお強かったからだろうか。
月日が経過し、中学一年生のとき。私とツナが出会ってからちょうど七年後のことだ。
学校区の近かった私とツナは、そろって並盛中学校に進んだ。
そして、入学して間もない頃に、私の父の転勤が決まった。
赴任したばかりの前任者が疾病によってしばらく療養せざるを得なくなり、代わりに父が赴くことになったのだ。
任期は数年単位。入学してから日も浅くまだ馴染める時期だろう、ということで、一家で父親の赴任先に引っ越すこととなった。
小学校時代の友人はいるものの、進学したばかりで面識のない人のほうが多いこの時期。
わざわざ送別会のようなものを開いてもらいたいとは思わず、ごく少数の仲良くしていた友人にだけ連絡した。
そして、ただその日までをいつも通り過ごして、大型連休明けからは転校した中学校に通うことになっていた。
ツナは並盛中学校に入学してから、マドンナと謳われる穏やかな少女に惹かれているようだった。
相変わらずツナの様子を観察していた私には、手に取るようにわかった。
そして、小学校の頃よりもツナは私から遠ざかろうとしていたことにも。
数少ないながらも同じ小学校出身の者たちにより、また彼自身の生来のどんくささも相まって、再びあの不名誉なあだ名がじわじわと浸透し始めているようだった。
彼はまた苦しむことになるのだろうか。火付け役となった自分自身が本当に恨めしい。
広まってほしいわけではなかった。自分だけが呼ぶ彼の呼称(デザインネーション)がほしかっただけだった。
でも、私のこんな勝手な思いなど、彼は知る由もないし、知ったことではない。
直接の被害をこうむっている彼からすれば、なんてことをしてくれたのか、という一点だろう。
…諸悪の根源である私がいなくなれば、彼の心は少しは晴れるだろうか。憎たらしい、恨めしい奴がいなくなって清々したと、笑うだろうか。
私が彼の目の前から消えることで、彼が笑ってくれればいい。笑ってほしい。
私はあなたの笑顔が好きなのだから。
それから更に七年の月日が流れた。
その間に並盛に戻ることは結局ないまま、私は成人した。
もちろん成人式は住民票のある赴任先のものに出席したが、次の日は並盛で開かれるという小中学校合同の同窓会に行くことにしていた。
この機を逃せばもう一生会うことがない人もいるだろう。
…そして卑怯な私は、SNSの出席者名簿に彼の名前が載っていなかったことをしっかり確認していた。これが私を後押しした。
この日を迎えるまでには、様々な経験をした。
学業面では塾通いに、二度の受験。生活面では、友達と泊りがけの旅行へ出かけたし、周囲に倣って自分の容姿にそれなりに気を遣うようにした。
自分の顔に合う化粧も覚えたし、大学に入ってからは社会勉強を兼ねてアルバイトもした。
そちらの方面では、なんだかいい雰囲気になった高校の先輩はいた。こんな私を好きだと言ってくれる、大学の同級生もいた。
それでも私は、あと一歩を踏み出すことができなかった。
友達と談笑していたとき、先輩と少しだけ甘ったるい雰囲気の中で部活の仕事をしていたとき、同級生から熱を感じられる眼差しを向けられたとき。
私の脳裏を、幼い少年の涙を湛えた面差しがよぎる。
駆け巡る過去の日々に、自分の罪深さと、未だ絶えぬ彼への愛おしさを、身に染みて実感する。
私の記憶の中の笑顔の彼はどんどんぼやけていった。強く残るのは涙にぬれた悲愴の表情だ。
この事実が、会って、そしてあの綻んだ顔をもう一度見たい、刻み込みたいという願望と、
彼の小学校生活のみならずもしかすると中学生活までもを台無しにしたのだという罪を、常に私に突き付けてくる。
会いたいけど、会いたくない。
彼はもう、顔も見たくないかもしれないだろうに、身勝手な私はいつも相反する感情に苛(さいな)まれている。
だから、卑怯な私は彼のいないその場に、寸分でも彼のかけらを求めて、赴かんとした。
それだけのつもりだった、はずなのに。
「##NAME1##は、外国の大学に留学…いや、編入するんだったよね。
どこの国だっけ。いつ行くのかな」
遅れてやってくる予定だったといって、中学当時に有名だった面子と途中から現れたその人は、
出席回答はしていなかったのになどといったことを思わせる間もなく、有無を言わせず私をつかまえた。
挨拶もままならないまま投げかけられた質問は、聞かれているはずなのに、確認事項のようなトーンだ。
それにあらがえぬ力を感じて、私の口はすなおに言葉をつむぐ。
「…イタリアに、行くの。来年度の夏から」
芸術の街で、もっと自分の技巧を磨こうと考えていた。
…いや、これは半分は建前なのだ。
日本の、並盛から遠く離れた地においても私はツナを忘れられなかった。
「あなたのことが忘れられなかったの」といった、そんな甘ったるくかわいらしいものではない。
私自身が引き起こし、私自身が勝手にさいなまれ、いとおしみ続けた彼の存在は常に私の中にあった。
時折思考の深淵に沈む娘を見かねた母が、心機一転に新しい環境に身を置いてみたら、とアドバイスしてくれた。
私の意思・希望を尊重してくれる優しい両親。中学の時の引っ越しだって、私がいやなら父は単身赴任でいいのだと言ってくれていたのだ。
彼らの優しさに甘えて、私は海外の地へ飛ぶことにした。
私は並盛からも日本からも、…ツナの記憶や過去の自分の罪と葛藤からも背を向けて、“また”逃げようとしていた。
自分の願望からも、目をそむけて。
だって、願望の成就のために、どうしたらいいか分からない。
謝罪は加害者が自らの罪の意識を軽くしようとする、一方的な行為にすぎないのではないか。
「ふふ…イタリアね」
艶を感じさせる笑みを浮かべると、ウェイターから受け取ったグラスを傾ける。
年若いが、十分に大人の男の魅力を感じさせる動作だ。昔のツナからは考えられないような性質の。
それでも、心に突発的で邪な思いを抱かなかったのは、決して短くない期間、彼への複雑な思いを持ち続けていたからであろうか。
「少しさ、オレの話聞いてくれる?」
「……いいよ」
少し怖かった。何の話をされるのかはわかりきっていたからだ。
でも、それ以上に彼の思いを聞いてみたかった。なじられても、それ相応のことをしたのであるし。
「ありがとう」と小さく言ってホールの隅へと移動する彼に、私も追随し、歩を進めた。
目立つ彼とでも、人目につかない位置にこれば周囲の煩わしさはだいぶ軽減されるだろう。
私の前を歩いていた背中が振り返る。
先ほどよりも近づいた距離の、記憶にある昔よりもいくぶん高くなった位置から落とされる視線に、覚悟を以て向き直る。
「ダメツナって呼ばれるの、すごく屈辱的だった。
中学でもいつの間にか学年中に知れ渡ってて、呼ばれるたびに、オレは本当にだめなやつなんだって、自分を責めて、それでまただめなことを繰り返す。
後は負のスパイラルだったよ」
ああ、やっぱり、彼は苦しんでいたのだ。私が根源となって生み出した呼び名が、彼を彼自身にすら追い詰めさせていた。
ツナの顔を見ていられなくて、うつむいて足元の絨毯を見つめる。
ふと、視界に入る彼の靴が上等なものであることに気が付いた。
彼はその後何を思って、今のこの雰囲気を持つに至ったのだろう。
罪の意識がとまらなかった。さっきした、いや、ずっと前からしていた覚悟なんて、何の役にも立たなかった。
謝ったって、過ぎ去った時間を巻き戻すことはできない。
しかし、続く彼の言葉は、私にとってすごく衝撃的なもので。
「…でも、嫌いじゃない。厭うわけがない。
だって、君がオレにくれたものだから」
「…っ!」
幼い日のまだ高い彼の声と、変声期をとうに過ぎた大人の男の声が、同じ優しさをはらんでいた。
どこまでも身勝手な私は、思わず顔を跳ね上げた。この声のツナはいつも、あの私の大好きなまぶしい笑顔をたたえていた。
この期に及んで私は、自分の願望の成就をこいねがったのだ。
…ただし、それは本当に、本当に愚かで甘えた考えだった。
「…だけど君はそれだけを残して、いなくなってしまったね」
瞳にほの暗い光を宿し、形だけの笑みを浮かべたツナはしかし、まっすぐ私を射抜いてくる。
君は、オレを置いていったね。
オレはいらなくなったの?
それとも、オレから逃げたかった?
君がオレに話しかけてくれたの、すごくうれしかった。
オレに構う君までが煙たがれることを恐れて突き放して、けどその一方で君が孤立したらどんなに満たされるだろうという昏い願望を持たずにはいられなかった。
ツナの口から、信じられないような言葉が続いていく。
そんな表情をさせたかったわけじゃない。そんな笑顔を望んだわけじゃない。
私はただ、あなたに笑ってほしかった、だけだったのに。
「でも今度は、君からオレの元へ来てくれる」
まなじりが細められ、義務的に吊り上っていた口端が自然にゆるみ…恍惚とした笑みが浮かぶ。
「##NAME1##が来るの、待ってるから。早く来てね。楽しみにしてる」
きっと、長年胸の内にとどめられてきた私の願望がかなうことは、もうありはしないだろう。
あなたをこんな風にゆがめてしまったことに、自分の罪深さを実感する。
…それでも、吐露された彼の昏い願望に喜んでいるのだから、私自身、相当歪んでいる。
夏が来るのが、待ち遠しくなった。
===============
7周年ありがとうございます!
他の小話が結構甘酸っぱい感じだったり、ほわわんとしていたりするので、
今作は趣向を変えて、少々ヤンデレ気味な10代目とのお話にしました。おかげで地の文が大量です。
結末部「もうありはしないだろう」に続く薄い銀色で書いてある部分は、三文ほどで大したことはありませんが、ぬるい共依存的な終わり方になっています。
そちらがお好みの方は反転してご覧になってください。
再会の要素を含みますが、主テーマは“願望”なので、「7年目の願望」でお送りしています。
・願望…願い望むこと。また、その願い。
15/07/31 春樹
1/1ページ