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「君が迷えば、困るのは君だけではありません」
男は静かに言った。感情の起伏をまるで感じさせない、底冷えのする声。剣城は俯いたまま拳を強く握り締める。
「……分かっています」
返ってきた声はかすれていた。ひどく力のない、弱々しい声。その響きに、奏音の胸がきゅっと痛んだ。
(違う……いつもの京ちゃんじゃない)
誰にも屈せず、どんな相手にも真っ向から立ち向かう剣城。その面影は今、どこにも見当たらなかった。男はゆっくりと一歩、剣城との距離を詰める。
「約束は忘れていませんよね?」
穏やかな口調。だが、その一言には逆らうことを許さない圧力が込められていた。
「君が従えば、お兄さんの未来は守られる」
その瞬間、奏音の思考が止まる。
(……お兄さん?)
心臓が大きく跳ねた。ほんの数十分前まで笑い合っていた優一の穏やかな笑顔が脳裏をよぎる。
「……まさか、優一さんのこと?」
思わず漏れた声が、静かな路地に響いた。
剣城と男が同時に振り返る。
「奏音……!」
剣城の表情が凍りついた。驚きと焦り、そして隠していたものを見られてしまった動揺。すべてがその瞳に浮かんでいる。
一方、男は微動だにしなかった。ゆっくりと帽子のつばへ指を添え、奏音へ視線を向ける。その瞳には、人を見る温度など微塵もない。品定めをするような冷たい視線だった。
「おや」
男は小さく口角を上げた。
「これはこれは……神童奏音さん」
名前を呼ばれた瞬間、奏音の背筋に冷たいものが走る。どうして、この男が自分を知っているのか。その答えを考えるより早く、男は静かに続けた。
「ライセンス保持者であるあなたが、このような場所で何のご用ですか?」
ライセンス保持者――フィフスセクター第五条に基づく中央審査を突破した、数少ない女子選手。当然、その存在はフィフスセクターにも把握されている。
男は、それを承知のうえで奏音へ話しかけていた。それでも奏音は一歩も引かなかった。真っ直ぐ剣城を見つめる。
「京ちゃんに……何をしてるんですか」
声は震えていた。怒りと悲しみ。そして、ようやくつながり始めた真実への戸惑い。
「何もしていませんよ」
あまりにもあっさりと返された言葉。その軽さが、かえって不気味だった。
「嘘です!」
即座に言い返した。その瞳に迷いはない。
「京ちゃんは、自分の意思でそんな苦しそうな顔をする人じゃありません!」
奏音の言葉は、夕暮れに染まる静かな路地へ真っ直ぐ響いた。
その瞬間、剣城の肩がぴくりと震える。だが、その反応を待つことなく男が静かに口を開いた。
「……なるほど」
帽子のつばへそっと触れ、わずかに笑みを浮かべる。
「さすがはライセンス保持者」
その笑みは賞賛ではない。獲物を値踏みする捕食者の笑みだった。
「観察力は実に優秀ですね」
「質問に答えてください」
奏音は一歩踏み出す。
「京ちゃんを……どうしてそこまで縛るんですか」
「縛る、とは人聞きが悪い」
そして淡々と言い放つ。
「私たちは、契約を守っていただいているだけですよ」
「……契約?」
奏音の声は、かすかに震えていた。
契約――本来なら、互いの意思で交わす約束のはずだ。けれど、目の前の剣城からは、そんな自由も意思も感じられない。見えない何かに縛られ、追い詰められているようにしか見えなかった。
――その瞬間だった。
「やめてください……!」
押し殺したような声が路地に響く。剣城が弾かれたように顔を上げる。その瞳には焦りが滲み、強く握り締めた拳は小刻みに震えていた。懇願するような、かすれた声。奏音は息を呑む。
「黒木さん、それ以上は――」
言い終えるより早く、黒木は静かに首を横へ振った。
「今さら隠す必要がありますか?」
穏やかな声音。しかし、その一言には相手の意思を押し潰す冷たさがあった。黒木は剣城を一瞥すると、薄く口元を緩める。
「神童さんにも、知る権利はあるでしょう」
「……っ!」
剣城は歯を食いしばり、何も言えない。奏音はその横顔を見つめる。今にも崩れてしまいそうなほど張り詰めた表情。
(京ちゃんが……怯えてる)
その事実に、奏音は言葉を失った。けれど、黒木はそんな奏音の動揺など意に介さず、剣城を一瞥する。そして、まるで昔話でも語るかのような穏やかな口調で、静かに口を開いた。
「昔――剣城兄弟は、よく二人でサッカーをしていました」
夕暮れの風が、静かに路地を吹き抜ける。遠くで車が走る音だけが、やけに大きく聞こえた。
「ある日、蹴り上げたボールが木の枝へ引っ掛かりました。弟さんは木へ登り、ボールを取ろうとした」
奏音は自然と剣城へ視線を向けた。 彼は俯いたまま、何も言わない。黒木の言葉を止めることもできず、ただ黙ってその続きを受け入れている。その沈黙が、かえって剣城の苦しみを物語っていた。
「しかし――足を滑らせ、木から落ちそうになった」
奏音の指先が、わずかに震えた。嫌な予感が、現実へと変わっていく。
「その弟さんを助けようとしたのが、お兄さんです」
剣城は目を閉じた。まるで、その先だけは聞きたくないとでもいうように。黒木の声だけが、静かな夕暮れに響く。
「お兄さんは落下してきた弟さんを受け止めました」
その一言に、奏音は目を見開いた。
優一が、剣城を助けた。あの人は、弟を守ったのだ。何よりも大切な存在だったから。
黒木はわずかに目を細める。そして、残酷なほど淡々と続きを告げた。
「その事故により、お兄さんは脊髄を損傷し、下半身不随となりました」
「そんな……」
奏音は立っていることすら苦しくなった。優一の穏やかな笑顔が脳裏に浮かび、その裏にあった現実の重さに胸が押し潰されそうになる。
その隣では――剣城が、何も言わずに唇を強く噛み締めていた。
「事故のあと、お兄さんの治療には多額の費用が必要となりました。そこで手を差し伸べたのが、私たちフィフスセクターです」
黒木はごく自然にそう言った。まるで慈善活動でも語るかのような口ぶりだった。
「私たちは必要な援助を行いました」
黒木はゆっくりと剣城へ視線を向ける。
「その代わりに――」
その一瞬、路地の空気がさらに冷えた気がした。奏音は息を止める。
「剣城京介君には、フィフスセクターのシードとして、その才能を我々のために使っていただくことになったのです」
言葉は静かだった。だが、その内容はあまりにも重かった。奏音は思わず剣城を見る。否定してほしかった。「違う」と言ってほしかった。けれど――剣城は何も言わない。その沈黙こそが、何より雄弁な答えだった。
「君が従い続ける限り、お兄さんへの援助は継続されます」
黒木は穏やかな笑みを浮かべたまま続ける。
「しかし――もし君が背けば……その援助がどうなるかは、説明するまでもありませんね」
冷たい一言だった。奏音の指先が震える。胸の中で散らばっていた欠片が、一つ、また一つと繋がっていく。
どうして剣城は仲間を拒み続けたのか。どうしてサッカーを楽しむことを否定したのか。どうして自分にまで、あんな冷たい言葉を向け続けたのか。そのすべてが、一つの答えへと収束していく。
(……全部)
視界が滲んだ。
(全部、優一さんを守るためだったんだ)
優一の未来を守るため。治療を続けるため。兄からサッカーを奪わないため。そのたった一つの願いのために、剣城は自分の心を押し殺し続けてきた。
頭を強く殴られたような衝撃に、足元が揺らぐ。剣城は苦しんでいる。それは、ずっと分かっていたつもりだった。けれど――剣城は強いから。どんなことにも一人で立ち向かえる人だから。そんな曖昧な思い込みに、いつの間にか甘えていた。
違った。彼はずっと、一人きりだった。 幼い頃から自分を責め続け、誰にも本当の苦しみを打ち明けることなく、すべてを一人で背負ってきたのだ。
黒木は満足そうに小さく頷く。
「これで事情はご理解いただけたでしょう。では私はこれで失礼します」
剣城へ視線を向ける。
「剣城君」
その呼びかけに、剣城はゆっくりと顔を上げた。
「どうか――選択を誤らないように」
静かな忠告。しかし、それは逃げ道のない命令だった。黒木は踵を返す。夕陽に伸びた黒い影が、路地の奥へ静かに溶けていく。やがて、その姿は建物の陰へ消えた。
あとに残されたのは、重苦しい静寂だけだった。遠くを走る車の音。木々を揺らす風。それらは確かに聞こえているはずなのに、奏音には何も耳へ入ってこなかった。ただ、目の前に立つ幼馴染だけを見つめていた。その場に立ち尽くす剣城の姿は、ひどく小さく見えた。
何か言わなければ。そう思うのに、言葉が出てこなかった。どんな言葉をかけても、今の剣城には届かない気がした。彼がこれまで、どれほど重いものを背負ってきたのか――それを知ってしまった今、軽々しい慰めなど口にできなかった。
(私……)
今日まで、自分は何を見てきたのだろう。剣城が冷たい言葉を口にするたび、「また意地を張ってる」と笑ってしまった。何も分かっていなかった。分かったつもりでいただけだった。
気づけば、一筋の涙が頬を伝っていた。
それを拭おうとした指先が、わずかに震える。唇を噛みしめ、なんとか堪えようとする。けれど、胸の奥から込み上げてくるものを抑えることはできなかった。
その様子を見た剣城が、ゆっくりと顔を上げる。赤く滲んだ瞳が奏音を映した。
「……どうして」
掠れた声だった。
「どうして、お前が泣くんだよ……」
その言葉に、奏音ははっとする。慌てて頬を拭い、無理に笑おうとした。
「あっ……ご、ごめん……!」
けれど、うまく笑えない。
「私より……ずっと苦しかったのは……京ちゃんの方なのに……」
声が震える。
「京ちゃんの気持ちを考えたら……」
そこで言葉が途切れた。
「どうしても……我慢できなくて……」
俯いた奏音の肩が、小さく震える。剣城は何も言わず、ただその姿を見つめていた。
慰める言葉も。突き放す言葉も。何ひとつ浮かばない。ただ、自分のために涙を流す幼馴染の姿だけが、胸に焼き付いていた。
奏音は昔から変わらない。自分の痛みより、誰かの痛みに涙を流す。
(……変わってない)
心の中で小さく呟く。再会してから、何度突き放しても。冷たい言葉を浴びせ続けても。奏音は、自分ではなくその奥にある苦しみを見つめ続けていた。
「……ばか」
ぽつりと漏れた声は、驚くほど優しかった。
「そんな顔、するなよ」
奏音は涙に濡れた瞳をゆっくりと上げる。夕焼けに照らされた剣城の表情には、フィフスセクターのシードとしての冷たさはもうなかった。
そこにいたのは、幼い頃、奏音を不器用に励ましてくれた――昔の〝京ちゃん〟の面影だった。
奏音は涙を拭いながら、小さく笑った。剣城もまた、ほんのわずかに肩の力を抜く。
夕焼け色に染まる路地を、二人の間を吹き抜けた風が静かに駆けていく。その風は、ほんの少しだけ優しかった。
男は静かに言った。感情の起伏をまるで感じさせない、底冷えのする声。剣城は俯いたまま拳を強く握り締める。
「……分かっています」
返ってきた声はかすれていた。ひどく力のない、弱々しい声。その響きに、奏音の胸がきゅっと痛んだ。
(違う……いつもの京ちゃんじゃない)
誰にも屈せず、どんな相手にも真っ向から立ち向かう剣城。その面影は今、どこにも見当たらなかった。男はゆっくりと一歩、剣城との距離を詰める。
「約束は忘れていませんよね?」
穏やかな口調。だが、その一言には逆らうことを許さない圧力が込められていた。
「君が従えば、お兄さんの未来は守られる」
その瞬間、奏音の思考が止まる。
(……お兄さん?)
心臓が大きく跳ねた。ほんの数十分前まで笑い合っていた優一の穏やかな笑顔が脳裏をよぎる。
「……まさか、優一さんのこと?」
思わず漏れた声が、静かな路地に響いた。
剣城と男が同時に振り返る。
「奏音……!」
剣城の表情が凍りついた。驚きと焦り、そして隠していたものを見られてしまった動揺。すべてがその瞳に浮かんでいる。
一方、男は微動だにしなかった。ゆっくりと帽子のつばへ指を添え、奏音へ視線を向ける。その瞳には、人を見る温度など微塵もない。品定めをするような冷たい視線だった。
「おや」
男は小さく口角を上げた。
「これはこれは……神童奏音さん」
名前を呼ばれた瞬間、奏音の背筋に冷たいものが走る。どうして、この男が自分を知っているのか。その答えを考えるより早く、男は静かに続けた。
「ライセンス保持者であるあなたが、このような場所で何のご用ですか?」
ライセンス保持者――フィフスセクター第五条に基づく中央審査を突破した、数少ない女子選手。当然、その存在はフィフスセクターにも把握されている。
男は、それを承知のうえで奏音へ話しかけていた。それでも奏音は一歩も引かなかった。真っ直ぐ剣城を見つめる。
「京ちゃんに……何をしてるんですか」
声は震えていた。怒りと悲しみ。そして、ようやくつながり始めた真実への戸惑い。
「何もしていませんよ」
あまりにもあっさりと返された言葉。その軽さが、かえって不気味だった。
「嘘です!」
即座に言い返した。その瞳に迷いはない。
「京ちゃんは、自分の意思でそんな苦しそうな顔をする人じゃありません!」
奏音の言葉は、夕暮れに染まる静かな路地へ真っ直ぐ響いた。
その瞬間、剣城の肩がぴくりと震える。だが、その反応を待つことなく男が静かに口を開いた。
「……なるほど」
帽子のつばへそっと触れ、わずかに笑みを浮かべる。
「さすがはライセンス保持者」
その笑みは賞賛ではない。獲物を値踏みする捕食者の笑みだった。
「観察力は実に優秀ですね」
「質問に答えてください」
奏音は一歩踏み出す。
「京ちゃんを……どうしてそこまで縛るんですか」
「縛る、とは人聞きが悪い」
そして淡々と言い放つ。
「私たちは、契約を守っていただいているだけですよ」
「……契約?」
奏音の声は、かすかに震えていた。
契約――本来なら、互いの意思で交わす約束のはずだ。けれど、目の前の剣城からは、そんな自由も意思も感じられない。見えない何かに縛られ、追い詰められているようにしか見えなかった。
――その瞬間だった。
「やめてください……!」
押し殺したような声が路地に響く。剣城が弾かれたように顔を上げる。その瞳には焦りが滲み、強く握り締めた拳は小刻みに震えていた。懇願するような、かすれた声。奏音は息を呑む。
「黒木さん、それ以上は――」
言い終えるより早く、黒木は静かに首を横へ振った。
「今さら隠す必要がありますか?」
穏やかな声音。しかし、その一言には相手の意思を押し潰す冷たさがあった。黒木は剣城を一瞥すると、薄く口元を緩める。
「神童さんにも、知る権利はあるでしょう」
「……っ!」
剣城は歯を食いしばり、何も言えない。奏音はその横顔を見つめる。今にも崩れてしまいそうなほど張り詰めた表情。
(京ちゃんが……怯えてる)
その事実に、奏音は言葉を失った。けれど、黒木はそんな奏音の動揺など意に介さず、剣城を一瞥する。そして、まるで昔話でも語るかのような穏やかな口調で、静かに口を開いた。
「昔――剣城兄弟は、よく二人でサッカーをしていました」
夕暮れの風が、静かに路地を吹き抜ける。遠くで車が走る音だけが、やけに大きく聞こえた。
「ある日、蹴り上げたボールが木の枝へ引っ掛かりました。弟さんは木へ登り、ボールを取ろうとした」
奏音は自然と剣城へ視線を向けた。 彼は俯いたまま、何も言わない。黒木の言葉を止めることもできず、ただ黙ってその続きを受け入れている。その沈黙が、かえって剣城の苦しみを物語っていた。
「しかし――足を滑らせ、木から落ちそうになった」
奏音の指先が、わずかに震えた。嫌な予感が、現実へと変わっていく。
「その弟さんを助けようとしたのが、お兄さんです」
剣城は目を閉じた。まるで、その先だけは聞きたくないとでもいうように。黒木の声だけが、静かな夕暮れに響く。
「お兄さんは落下してきた弟さんを受け止めました」
その一言に、奏音は目を見開いた。
優一が、剣城を助けた。あの人は、弟を守ったのだ。何よりも大切な存在だったから。
黒木はわずかに目を細める。そして、残酷なほど淡々と続きを告げた。
「その事故により、お兄さんは脊髄を損傷し、下半身不随となりました」
「そんな……」
奏音は立っていることすら苦しくなった。優一の穏やかな笑顔が脳裏に浮かび、その裏にあった現実の重さに胸が押し潰されそうになる。
その隣では――剣城が、何も言わずに唇を強く噛み締めていた。
「事故のあと、お兄さんの治療には多額の費用が必要となりました。そこで手を差し伸べたのが、私たちフィフスセクターです」
黒木はごく自然にそう言った。まるで慈善活動でも語るかのような口ぶりだった。
「私たちは必要な援助を行いました」
黒木はゆっくりと剣城へ視線を向ける。
「その代わりに――」
その一瞬、路地の空気がさらに冷えた気がした。奏音は息を止める。
「剣城京介君には、フィフスセクターのシードとして、その才能を我々のために使っていただくことになったのです」
言葉は静かだった。だが、その内容はあまりにも重かった。奏音は思わず剣城を見る。否定してほしかった。「違う」と言ってほしかった。けれど――剣城は何も言わない。その沈黙こそが、何より雄弁な答えだった。
「君が従い続ける限り、お兄さんへの援助は継続されます」
黒木は穏やかな笑みを浮かべたまま続ける。
「しかし――もし君が背けば……その援助がどうなるかは、説明するまでもありませんね」
冷たい一言だった。奏音の指先が震える。胸の中で散らばっていた欠片が、一つ、また一つと繋がっていく。
どうして剣城は仲間を拒み続けたのか。どうしてサッカーを楽しむことを否定したのか。どうして自分にまで、あんな冷たい言葉を向け続けたのか。そのすべてが、一つの答えへと収束していく。
(……全部)
視界が滲んだ。
(全部、優一さんを守るためだったんだ)
優一の未来を守るため。治療を続けるため。兄からサッカーを奪わないため。そのたった一つの願いのために、剣城は自分の心を押し殺し続けてきた。
頭を強く殴られたような衝撃に、足元が揺らぐ。剣城は苦しんでいる。それは、ずっと分かっていたつもりだった。けれど――剣城は強いから。どんなことにも一人で立ち向かえる人だから。そんな曖昧な思い込みに、いつの間にか甘えていた。
違った。彼はずっと、一人きりだった。 幼い頃から自分を責め続け、誰にも本当の苦しみを打ち明けることなく、すべてを一人で背負ってきたのだ。
黒木は満足そうに小さく頷く。
「これで事情はご理解いただけたでしょう。では私はこれで失礼します」
剣城へ視線を向ける。
「剣城君」
その呼びかけに、剣城はゆっくりと顔を上げた。
「どうか――選択を誤らないように」
静かな忠告。しかし、それは逃げ道のない命令だった。黒木は踵を返す。夕陽に伸びた黒い影が、路地の奥へ静かに溶けていく。やがて、その姿は建物の陰へ消えた。
あとに残されたのは、重苦しい静寂だけだった。遠くを走る車の音。木々を揺らす風。それらは確かに聞こえているはずなのに、奏音には何も耳へ入ってこなかった。ただ、目の前に立つ幼馴染だけを見つめていた。その場に立ち尽くす剣城の姿は、ひどく小さく見えた。
何か言わなければ。そう思うのに、言葉が出てこなかった。どんな言葉をかけても、今の剣城には届かない気がした。彼がこれまで、どれほど重いものを背負ってきたのか――それを知ってしまった今、軽々しい慰めなど口にできなかった。
(私……)
今日まで、自分は何を見てきたのだろう。剣城が冷たい言葉を口にするたび、「また意地を張ってる」と笑ってしまった。何も分かっていなかった。分かったつもりでいただけだった。
気づけば、一筋の涙が頬を伝っていた。
それを拭おうとした指先が、わずかに震える。唇を噛みしめ、なんとか堪えようとする。けれど、胸の奥から込み上げてくるものを抑えることはできなかった。
その様子を見た剣城が、ゆっくりと顔を上げる。赤く滲んだ瞳が奏音を映した。
「……どうして」
掠れた声だった。
「どうして、お前が泣くんだよ……」
その言葉に、奏音ははっとする。慌てて頬を拭い、無理に笑おうとした。
「あっ……ご、ごめん……!」
けれど、うまく笑えない。
「私より……ずっと苦しかったのは……京ちゃんの方なのに……」
声が震える。
「京ちゃんの気持ちを考えたら……」
そこで言葉が途切れた。
「どうしても……我慢できなくて……」
俯いた奏音の肩が、小さく震える。剣城は何も言わず、ただその姿を見つめていた。
慰める言葉も。突き放す言葉も。何ひとつ浮かばない。ただ、自分のために涙を流す幼馴染の姿だけが、胸に焼き付いていた。
奏音は昔から変わらない。自分の痛みより、誰かの痛みに涙を流す。
(……変わってない)
心の中で小さく呟く。再会してから、何度突き放しても。冷たい言葉を浴びせ続けても。奏音は、自分ではなくその奥にある苦しみを見つめ続けていた。
「……ばか」
ぽつりと漏れた声は、驚くほど優しかった。
「そんな顔、するなよ」
奏音は涙に濡れた瞳をゆっくりと上げる。夕焼けに照らされた剣城の表情には、フィフスセクターのシードとしての冷たさはもうなかった。
そこにいたのは、幼い頃、奏音を不器用に励ましてくれた――昔の〝京ちゃん〟の面影だった。
奏音は涙を拭いながら、小さく笑った。剣城もまた、ほんのわずかに肩の力を抜く。
夕焼け色に染まる路地を、二人の間を吹き抜けた風が静かに駆けていく。その風は、ほんの少しだけ優しかった。