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夕焼けが街を茜色に染め始める頃。雷門中サッカー部の練習も、ようやく終わりを迎えようとしていた。
帝国学園戦を見据え、最後まで挑み続けた必殺タクティクス――アルティメットサンダー。何度もパスをつなぎ、息を合わせた。それでも、仲間たちの力を宿した最後の一撃だけは、誰にも決め切ることができなかった。
グラウンドには悔しげなため息が漏れる。円堂は腕を組んだまま、そんな部員たちを見渡した。
「今日はここまでだ」
穏やかな声が響く。
「焦る必要はない。完成は、明日の試合で見せればいい!」
その力強い言葉に、部員たちは小さくうなずいた。
「はい!」
練習はそこで終了となり、それぞれが荷物をまとめ始める。その表情には疲労がにじんでいたが、瞳の奥の闘志は少しも揺らいではいなかった。
奏音もタオルで汗を拭い、茜色に染まるグラウンドを静かに振り返る。明日はいよいよ、帝国学園との準決勝。
「よしっ!」
夕焼けに染まるピッチを見つめ、奏音は小さく拳を握る。
「今日は優一さんのところに行こう!」
そう呟くと、スクールバッグを肩に掛けた。
茜色の空の下、軽やかな足取りで校門をくぐる。その胸には、病院で待つ優一への想いと、どこか剣城にも会えるかもしれないという、ほんの小さな期待が芽生えていた。
***
稲妻総合病院へ着く頃には、夕日は少しずつ傾き始め、窓ガラスを茜色に染めていた。
受付へ軽く会釈をすると、奏音は病室へ向かう。優一に会える――そう思うだけで、自然と足取りも軽くなる。病室の前で立ち止まり、控えめにドアをノックした。
「優一さん、入ります」
「どうぞ」
穏やかな返事が返ってくる。そっと扉を開けると、窓際のベッドでは、優一が上半身をゆるやかに起こし、一冊の文庫本を手に、夕陽の柔らかな光を浴びながら静かにページをめくっていた。ふとページから顔を上げた優一は、扉の前に立つ奏音の姿を見つけると、ほっとしたように目を細め、穏やかに微笑んだ。
「あ…… 奏音ちゃん」
「お邪魔しまーす!」
弾むような声が、静かな病室へ明るく響いた。
「来てくれたんだね」
「はい、お見舞いに来ました!」
奏音はそう言ってバッグから小さな紙袋を取り出す。
「帰りにお菓子屋さんへ寄ったんです。よかったら召し上がってください!」
「ありがとう。気を遣わせちゃったね」
「そんなことないですよ!」
満面の笑みで答える奏音に、優一は安心したように目を細めた。
「今日は学校帰り?」
「はい! 部活帰りなんです!」
「部活?」
優一は少し驚いたように首をかしげる。
「奏音ちゃんも部活に入ったの?」
「あっ」
奏音は照れくさそうに笑う。
「そういえば、お話ししてませんでしたね」
胸の前で指先を合わせると、嬉しさを隠しきれない様子で続けた。
「私……雷門中のサッカー部に入ったんです!」
一瞬、病室の空気が止まった。
「……え?」
優一の目がゆっくりと見開かれる。
「雷門って……京介と同じ学校?」
「はい!」
奏音は元気よく頷いた。その返事を聞いた優一は、しばらく何も言わなかった。
同じユニフォームを着て、同じグラウンドを駆け回る弟と奏音の姿を、静かに思い描いているのだろう。やがて、その口元に穏やかな笑みが浮かんだ。
「そうだったんだ……」
その笑顔は、どこか嬉しそうで、少しだけ安心したようにも見えた。
「京介は、何も教えてくれなかったな」
思わず漏れたその一言に、奏音は目を丸くする。
「えっ、そうだったんですか?」
そして、にこっと笑って言った。
「それなら、私が今日お話しできてよかったです!」
その屈託のない笑顔に、優一もつられるように優しく笑みを返した。
「でも、どうしてサッカー部に入ったの?」
優一の素朴な問いかけに、奏音は少しだけ姿勢を正した。胸の前でそっと両手を握り、まっすぐに優一を見つめる。迷いはなかった。
「拓にぃの力になりたかったんです」
その一言には、飾り気のない真っ直ぐな想いが込められていた。
「お兄さんの力になりたかったんだね」
優一は穏やかに微笑む。
奏音は小さくうなずいた。
「拓にぃはキャプテンだから、いつもチームのみんなのことを考えていて……」
自然と頬が緩む。その表情は、大好きな兄の背中を思い浮かべているようだった。
「だから私も、少しでも支えられたらいいなって」
少し照れくさそうに笑ってから、続ける。
「もちろん、サッカーも大好きなんです。でも、一番の理由はそれでした」
優一は静かにうなずいた。
「……そうか」
穏やかな笑みが浮かぶ。
「奏音ちゃんのお兄さんは、幸せ者だね」
「え?」
「そんなふうに想ってくれる妹がいるんだから」
その言葉に、奏音は照れたように頭をかく。
「えへへ……そうだったら嬉しいです」
優一はそんな奏音を静かに見つめた。
――兄を支えたい。
その真っ直ぐな想いは、どこか幼い頃の剣城を思い出させる。誰よりも兄を大切に思い、誰かのためなら迷わず前へ進める優しさ。だからこそ、優一の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「奏音ちゃん」
「はい?」
「京介のこと、これからもよろしくね」
その言葉に、奏音は一瞬きょとんと目を瞬かせる。だが、その意味を理解すると、ぱっと花が咲くような笑顔になって大きくうなずいた。
「はい!」
その返事は力強く、迷いがなかった。
「京ちゃんと一緒に、頑張ります!」
その言葉を聞いた優一は、安心したように目を細め、静かに微笑んだ。
「ありがとう。京介も、学校で頼れる仲間がいて安心したよ」
その何気ない一言に奏音の胸が小さくざわついた。笑顔のまま頷こうとした表情が、一瞬だけ固まる。
(……あれれ?)
優一の声には、少しの迷いもなかった。弟は学校へ通い、仲間と笑い合い、大好きなサッカーをしている。そんな何気ない日々を、疑うことなく信じている声だった。
優一は窓の外へ目を向け、夕焼けに染まる空を懐かしそうに見つめる。
「京介は昔からサッカーが大好きだったから」
柔らかな笑みを浮かべたまま、静かに続けた。
「今もきっと、仲間と一緒に楽しんでいるんだろうね」
その言葉を聞いた瞬間、奏音の胸にあった小さな違和感が、一つの確信へと変わる。
(優一さん……京ちゃんがフィフスセクターのシードだって、知らないんだ)
胸が小さくざわめく。
優一は入院していて、試合を見に行くこともできない。剣城も、そのことを自分から話してはいないのだろう。
(優一さんを心配させたくなかったのかな……)
理由は分からない。けれど、それもまた剣城なりの優しさなのかもしれなかった。
「奏音ちゃん?」
優一が不思議そうに首をかしげる。
「どうかした?」
「あっ……い、いえ!」
奏音は慌てて笑顔を作り、ぶんぶんと首を振った。
「何でもありません!」
「そう?」
優一は少しだけ首をかしげたものの、それ以上尋ねることはなかった。
奏音は膝の上で、そっと拳を握る。
(このことは……私から話すことじゃない)
兄弟の間にある想いへ、自分が踏み込むべきではない。そう自分に言い聞かせながら、奏音は静かに唇を結んだ。
「京介、学校では元気にしてる?」
優一の何気ない問いかけに、奏音は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……はい」
嘘ではない。元気と言えば元気だ。でも、本当にそれだけなのだろうか。優一は何も知らない。剣城がフィフスセクターの命令に縛られ、仲間を傷つけ、自分の心まで押し殺していることを。
「京介は昔から不器用だから、思っていることを素直に言えなくてね」
その一言が、奏音の胸に積もっていた想いへ火をつけた。
「そうなんです……!」
思わず声が大きくなる。優一は少し驚いたように目を丸くした。
「京ちゃん、本当に全然素直じゃないんです!」
「あはは、やっぱりそうか」
優一は思わず笑みをこぼした。
「もう、笑い事じゃないですよ!」
奏音は勢いよく立ち上がった。
「私が学校で迷子になったときは助けてくれたのに、『勘違いするな』って言うんです! 先生に頼まれて重い荷物を運んでいたときも、何も言わずに半分持ってくれたのに、『たまたま通りかかっただけだ』って!」
一度話し始めると、もう止まらない。
「学校帰りに急に雨が降ってきたときだって、傘を貸してくれたんです! 『ありがとう』って言ったら、『俺はもう一本ある』なんて言って、すぐどこかへ行っちゃいましたし!」
奏音は両手をぶんぶん振りながら訴える。
「昔はもっと素直だったのに……!」
その勢いのまま、言葉があふれ出す。
「ちゃんとありがとうって言いたいのに、いつも逃げちゃうんです! 絶対絶対本当は違うことを考えてるのに、何も言ってくれなくて! もう、本当に意地っ張りで、頑固で、不器用で……!」
そこまで言って、奏音ははっと我に返った。
「あ……」
しん、と病室が静まり返る。
(しまった……!)
年上の優一を相手に、こんなに感情的になってしまった。
「す、すみません……」
しゅんと肩を落とし、小さく頭を下げる。
ところが優一は怒るどころか、肩を震わせながら笑いをこらえていた。
「優一さん……?」
「いや、ごめん」
口元を押さえながら笑みを浮かべる。
「奏音ちゃんの話を聞いていたら、なんだか京介の様子が目に浮かんできて」
そして、少しいたずらっぽく笑う。
「それって京介……最近流行りのツンデレ男子なんじゃないかな?」
ぽかん、と奏音は固まった。
「……ツンデレ、ですか?」
優一は真面目な顔で頷いた。
「本当は優しいのに、素直になるのが恥ずかしくて、つい強がってしまう……そんなタイプのことだよ」
「い、いやいや!」
奏音は慌てて両手をぶんぶん振る。
「京ちゃんはそんな可愛い系じゃありません! むしろツンツンです! ツンツン男子です!」
一瞬、病室が静まり返る。
そして――
「……ぷっ」
優一の肩が小さく震えた。
「あははははっ!」
堪えきれなくなったように、お腹を抱えて笑い出す。
「ツンツン男子って……! そんな分類、初めて聞いたよ!」
「だって本当なんです!」
勢いよく言い返した奏音だったが、不意に動きが止まる。
「……あれ?」
腕を組み、うーんと考え込む。
「確かに……困ったときは助けてくれるし……」
「うん」
「でも、本人は絶対認めませんし……」
「うん」
「…………」
しばらく考え込んだあと、奏音ははっと顔を上げた。
「……意外と……当てはまるかもしれません」
その瞬間だった。幼い頃、優しく手を引いてくれた剣城。そして今、「勘違いするな」とそっぽを向きながらも、結局は助けてくれる剣城。二つの姿が、奏音の中で一本の線として繋がった。
(京ちゃんが……ツンデレ……?)
思い返せば、「勘違いするな」は本気で突き放す言葉ではなかった。素直になれない剣城が、照れ隠しに張る小さな意地。
そう考えた途端――
「っ……!」
肩が震える。
「ふ、ふふっ……!」
笑ってはいけない。そう思うほど、おかしさがじわじわと込み上げてくる。
「ぷっ……あははははっ!」
ついに堪えきれず、奏音はお腹を抱えて笑い出した。
「だ、駄目です……っ! あははっ! 京ちゃんがツンデレ男子なんて……!」
涙が滲むほど笑う奏音を見て、優一もまた楽しそうに笑った。
「あはは。京介が聞いたら、『違う』って即否定しそうだね」
「絶対言います! 『勘違いするな』って!」
二人の笑い声は、病室にいつまでも響いていた。ひとしきり笑い終えると、病室には心地よい静けさが戻ってきた。優一は目元に浮かんだ涙を指先で拭い、小さく息をついた。
「……久しぶりに、こんなに笑ったよ」
「えへへぇ~♪」
奏音も照れくさそうに笑う。
「ありがとう。元気をもらえた」
優一は穏やかな表情のまま、窓の外へ目を向ける。
「入院していると、学校の話を聞く機会も少なくてね」
そう呟いてから、奏音へ視線を戻した。
「奏音ちゃん」
「はい」
「良かったら、また来てくれないか?」
奏音はきょとんと首を傾げる。
「学校での京介のこととか、聞きたいんだ」
その言葉には、弟を想う兄の優しさがにじんでいた。何気ない学校生活でも、友達とのことでも、サッカーのことでも離れているからこそ、知りたい。そんな気持ちが伝わってくる。奏音は嬉しそうに頬を緩め、こくりと頷いた。
「はい!」
そして、いつもの明るい笑顔で答える。
「私も優一さんとお話ししたいこと、まだまだたくさんあるので、また遊びにきますね!」
「ありがとう」
優一は心から嬉しそうに微笑んだ。
「楽しみに待ってるよ」
「はい!」
奏音も笑顔で返事をする。病室を出る時間が近づき、奏音はスクールバッグを肩に掛けた。
「それじゃあ、今日は失礼します。また来ますね」
奏音はいつものように明るく微笑んだ。
「うん。気をつけて帰るんだよ」
優一も穏やかな笑みを浮かべる。その優しい声には、年の離れた妹を見送る兄のような温かさが滲んでいた。
「はい! 優一さんも、お身体を大事になさってください」
ぺこりと深く頭を下げると、奏音は病室をあとにした。
静かに扉が閉まる。病室には再び静寂が戻った。けれど、それは先ほどまでの静けさとはどこか違っていた。笑い声の余韻が、まだ部屋のどこかに残っているような気がする。
「……本当に、明るい子だな」
優一は小さく呟き、自然と笑みをこぼした。
部屋へ入った瞬間に空気を明るくし、何気ない会話で笑わせ、帰ったあとまで温かな気持ちを残していく。そんな不思議な力を持った女の子だった。
(京介……)
心の中で、そっと弟の名を呼ぶ。病院の外でどんな毎日を過ごしているのか、自分は知らない。それでも今日、奏音の話を聞いて安心できた。
不器用で、素直になれなくて、それでも誰かを放っておけない。そんな剣城らしい姿が目に浮かぶ。
(いい仲間に出会えたんだな)
優一は穏やかに目を細めた。
***
病院を出た奏音は、夕暮れの街をゆっくりと歩いていた。病院の窓から見えていた夕焼けを、今度は同じ空の下から見上げる。
(優一さん……本当に京ちゃんのことを大切に思ってるんだ)
病室で交わした会話が、何度も胸の中によみがえる。弟を信じる優しい笑顔。学校での様子を知りたがる穏やかな声。何も疑うことなく、剣城を信じ続ける兄の姿。だからこそ、胸の奥には小さな痛みが残っていた。
剣城が抱えている秘密を、自分は知ってしまった。けれど、その秘密を優一へ伝えることはできない。あれは兄弟の問題であり、剣城自身が向き合うべきものだから。
それでも今日、優一が笑ってくれた。あんなにも楽しそうに笑う姿を見ることができただけで、お見舞いに来てよかったと心から思えた。
(また会いに来よう)
今度も、優一さんが笑ってくれるような学校の話をたくさん持ってこよう。
そんなことを考えながら、一歩踏み出した――その時だった。
「……分かっています」
不意に、静かな路地の奥から低い声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。
「……京ちゃん?」
思わず足が止まる。胸が小さく高鳴り、奏音はゆっくりと声のした方へ顔を向けた。夕陽の届きにくい細い路地。その奥には、二つの人影が向かい合って立っていた。
一人は、紫紺の学ランをまとい、青い髪を夕風に揺らす少年――剣城京介。
そして、その向かいに立つのは、黒いハットに黒いスーツを身にまとった一人の男。
夕焼けの中にいるはずなのに、その男だけは光を拒むように深い影をまとい、どこか異質な存在感を放っていた。
奏音は思わず息を呑む。胸の奥で、不吉な予感が静かに広がっていく。
(あの人……まさか)
黒ずくめの男から目が離せない。
(フィフスセクターの人……!?)
帝国学園戦を見据え、最後まで挑み続けた必殺タクティクス――アルティメットサンダー。何度もパスをつなぎ、息を合わせた。それでも、仲間たちの力を宿した最後の一撃だけは、誰にも決め切ることができなかった。
グラウンドには悔しげなため息が漏れる。円堂は腕を組んだまま、そんな部員たちを見渡した。
「今日はここまでだ」
穏やかな声が響く。
「焦る必要はない。完成は、明日の試合で見せればいい!」
その力強い言葉に、部員たちは小さくうなずいた。
「はい!」
練習はそこで終了となり、それぞれが荷物をまとめ始める。その表情には疲労がにじんでいたが、瞳の奥の闘志は少しも揺らいではいなかった。
奏音もタオルで汗を拭い、茜色に染まるグラウンドを静かに振り返る。明日はいよいよ、帝国学園との準決勝。
「よしっ!」
夕焼けに染まるピッチを見つめ、奏音は小さく拳を握る。
「今日は優一さんのところに行こう!」
そう呟くと、スクールバッグを肩に掛けた。
茜色の空の下、軽やかな足取りで校門をくぐる。その胸には、病院で待つ優一への想いと、どこか剣城にも会えるかもしれないという、ほんの小さな期待が芽生えていた。
***
稲妻総合病院へ着く頃には、夕日は少しずつ傾き始め、窓ガラスを茜色に染めていた。
受付へ軽く会釈をすると、奏音は病室へ向かう。優一に会える――そう思うだけで、自然と足取りも軽くなる。病室の前で立ち止まり、控えめにドアをノックした。
「優一さん、入ります」
「どうぞ」
穏やかな返事が返ってくる。そっと扉を開けると、窓際のベッドでは、優一が上半身をゆるやかに起こし、一冊の文庫本を手に、夕陽の柔らかな光を浴びながら静かにページをめくっていた。ふとページから顔を上げた優一は、扉の前に立つ奏音の姿を見つけると、ほっとしたように目を細め、穏やかに微笑んだ。
「あ…… 奏音ちゃん」
「お邪魔しまーす!」
弾むような声が、静かな病室へ明るく響いた。
「来てくれたんだね」
「はい、お見舞いに来ました!」
奏音はそう言ってバッグから小さな紙袋を取り出す。
「帰りにお菓子屋さんへ寄ったんです。よかったら召し上がってください!」
「ありがとう。気を遣わせちゃったね」
「そんなことないですよ!」
満面の笑みで答える奏音に、優一は安心したように目を細めた。
「今日は学校帰り?」
「はい! 部活帰りなんです!」
「部活?」
優一は少し驚いたように首をかしげる。
「奏音ちゃんも部活に入ったの?」
「あっ」
奏音は照れくさそうに笑う。
「そういえば、お話ししてませんでしたね」
胸の前で指先を合わせると、嬉しさを隠しきれない様子で続けた。
「私……雷門中のサッカー部に入ったんです!」
一瞬、病室の空気が止まった。
「……え?」
優一の目がゆっくりと見開かれる。
「雷門って……京介と同じ学校?」
「はい!」
奏音は元気よく頷いた。その返事を聞いた優一は、しばらく何も言わなかった。
同じユニフォームを着て、同じグラウンドを駆け回る弟と奏音の姿を、静かに思い描いているのだろう。やがて、その口元に穏やかな笑みが浮かんだ。
「そうだったんだ……」
その笑顔は、どこか嬉しそうで、少しだけ安心したようにも見えた。
「京介は、何も教えてくれなかったな」
思わず漏れたその一言に、奏音は目を丸くする。
「えっ、そうだったんですか?」
そして、にこっと笑って言った。
「それなら、私が今日お話しできてよかったです!」
その屈託のない笑顔に、優一もつられるように優しく笑みを返した。
「でも、どうしてサッカー部に入ったの?」
優一の素朴な問いかけに、奏音は少しだけ姿勢を正した。胸の前でそっと両手を握り、まっすぐに優一を見つめる。迷いはなかった。
「拓にぃの力になりたかったんです」
その一言には、飾り気のない真っ直ぐな想いが込められていた。
「お兄さんの力になりたかったんだね」
優一は穏やかに微笑む。
奏音は小さくうなずいた。
「拓にぃはキャプテンだから、いつもチームのみんなのことを考えていて……」
自然と頬が緩む。その表情は、大好きな兄の背中を思い浮かべているようだった。
「だから私も、少しでも支えられたらいいなって」
少し照れくさそうに笑ってから、続ける。
「もちろん、サッカーも大好きなんです。でも、一番の理由はそれでした」
優一は静かにうなずいた。
「……そうか」
穏やかな笑みが浮かぶ。
「奏音ちゃんのお兄さんは、幸せ者だね」
「え?」
「そんなふうに想ってくれる妹がいるんだから」
その言葉に、奏音は照れたように頭をかく。
「えへへ……そうだったら嬉しいです」
優一はそんな奏音を静かに見つめた。
――兄を支えたい。
その真っ直ぐな想いは、どこか幼い頃の剣城を思い出させる。誰よりも兄を大切に思い、誰かのためなら迷わず前へ進める優しさ。だからこそ、優一の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「奏音ちゃん」
「はい?」
「京介のこと、これからもよろしくね」
その言葉に、奏音は一瞬きょとんと目を瞬かせる。だが、その意味を理解すると、ぱっと花が咲くような笑顔になって大きくうなずいた。
「はい!」
その返事は力強く、迷いがなかった。
「京ちゃんと一緒に、頑張ります!」
その言葉を聞いた優一は、安心したように目を細め、静かに微笑んだ。
「ありがとう。京介も、学校で頼れる仲間がいて安心したよ」
その何気ない一言に奏音の胸が小さくざわついた。笑顔のまま頷こうとした表情が、一瞬だけ固まる。
(……あれれ?)
優一の声には、少しの迷いもなかった。弟は学校へ通い、仲間と笑い合い、大好きなサッカーをしている。そんな何気ない日々を、疑うことなく信じている声だった。
優一は窓の外へ目を向け、夕焼けに染まる空を懐かしそうに見つめる。
「京介は昔からサッカーが大好きだったから」
柔らかな笑みを浮かべたまま、静かに続けた。
「今もきっと、仲間と一緒に楽しんでいるんだろうね」
その言葉を聞いた瞬間、奏音の胸にあった小さな違和感が、一つの確信へと変わる。
(優一さん……京ちゃんがフィフスセクターのシードだって、知らないんだ)
胸が小さくざわめく。
優一は入院していて、試合を見に行くこともできない。剣城も、そのことを自分から話してはいないのだろう。
(優一さんを心配させたくなかったのかな……)
理由は分からない。けれど、それもまた剣城なりの優しさなのかもしれなかった。
「奏音ちゃん?」
優一が不思議そうに首をかしげる。
「どうかした?」
「あっ……い、いえ!」
奏音は慌てて笑顔を作り、ぶんぶんと首を振った。
「何でもありません!」
「そう?」
優一は少しだけ首をかしげたものの、それ以上尋ねることはなかった。
奏音は膝の上で、そっと拳を握る。
(このことは……私から話すことじゃない)
兄弟の間にある想いへ、自分が踏み込むべきではない。そう自分に言い聞かせながら、奏音は静かに唇を結んだ。
「京介、学校では元気にしてる?」
優一の何気ない問いかけに、奏音は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……はい」
嘘ではない。元気と言えば元気だ。でも、本当にそれだけなのだろうか。優一は何も知らない。剣城がフィフスセクターの命令に縛られ、仲間を傷つけ、自分の心まで押し殺していることを。
「京介は昔から不器用だから、思っていることを素直に言えなくてね」
その一言が、奏音の胸に積もっていた想いへ火をつけた。
「そうなんです……!」
思わず声が大きくなる。優一は少し驚いたように目を丸くした。
「京ちゃん、本当に全然素直じゃないんです!」
「あはは、やっぱりそうか」
優一は思わず笑みをこぼした。
「もう、笑い事じゃないですよ!」
奏音は勢いよく立ち上がった。
「私が学校で迷子になったときは助けてくれたのに、『勘違いするな』って言うんです! 先生に頼まれて重い荷物を運んでいたときも、何も言わずに半分持ってくれたのに、『たまたま通りかかっただけだ』って!」
一度話し始めると、もう止まらない。
「学校帰りに急に雨が降ってきたときだって、傘を貸してくれたんです! 『ありがとう』って言ったら、『俺はもう一本ある』なんて言って、すぐどこかへ行っちゃいましたし!」
奏音は両手をぶんぶん振りながら訴える。
「昔はもっと素直だったのに……!」
その勢いのまま、言葉があふれ出す。
「ちゃんとありがとうって言いたいのに、いつも逃げちゃうんです! 絶対絶対本当は違うことを考えてるのに、何も言ってくれなくて! もう、本当に意地っ張りで、頑固で、不器用で……!」
そこまで言って、奏音ははっと我に返った。
「あ……」
しん、と病室が静まり返る。
(しまった……!)
年上の優一を相手に、こんなに感情的になってしまった。
「す、すみません……」
しゅんと肩を落とし、小さく頭を下げる。
ところが優一は怒るどころか、肩を震わせながら笑いをこらえていた。
「優一さん……?」
「いや、ごめん」
口元を押さえながら笑みを浮かべる。
「奏音ちゃんの話を聞いていたら、なんだか京介の様子が目に浮かんできて」
そして、少しいたずらっぽく笑う。
「それって京介……最近流行りのツンデレ男子なんじゃないかな?」
ぽかん、と奏音は固まった。
「……ツンデレ、ですか?」
優一は真面目な顔で頷いた。
「本当は優しいのに、素直になるのが恥ずかしくて、つい強がってしまう……そんなタイプのことだよ」
「い、いやいや!」
奏音は慌てて両手をぶんぶん振る。
「京ちゃんはそんな可愛い系じゃありません! むしろツンツンです! ツンツン男子です!」
一瞬、病室が静まり返る。
そして――
「……ぷっ」
優一の肩が小さく震えた。
「あははははっ!」
堪えきれなくなったように、お腹を抱えて笑い出す。
「ツンツン男子って……! そんな分類、初めて聞いたよ!」
「だって本当なんです!」
勢いよく言い返した奏音だったが、不意に動きが止まる。
「……あれ?」
腕を組み、うーんと考え込む。
「確かに……困ったときは助けてくれるし……」
「うん」
「でも、本人は絶対認めませんし……」
「うん」
「…………」
しばらく考え込んだあと、奏音ははっと顔を上げた。
「……意外と……当てはまるかもしれません」
その瞬間だった。幼い頃、優しく手を引いてくれた剣城。そして今、「勘違いするな」とそっぽを向きながらも、結局は助けてくれる剣城。二つの姿が、奏音の中で一本の線として繋がった。
(京ちゃんが……ツンデレ……?)
思い返せば、「勘違いするな」は本気で突き放す言葉ではなかった。素直になれない剣城が、照れ隠しに張る小さな意地。
そう考えた途端――
「っ……!」
肩が震える。
「ふ、ふふっ……!」
笑ってはいけない。そう思うほど、おかしさがじわじわと込み上げてくる。
「ぷっ……あははははっ!」
ついに堪えきれず、奏音はお腹を抱えて笑い出した。
「だ、駄目です……っ! あははっ! 京ちゃんがツンデレ男子なんて……!」
涙が滲むほど笑う奏音を見て、優一もまた楽しそうに笑った。
「あはは。京介が聞いたら、『違う』って即否定しそうだね」
「絶対言います! 『勘違いするな』って!」
二人の笑い声は、病室にいつまでも響いていた。ひとしきり笑い終えると、病室には心地よい静けさが戻ってきた。優一は目元に浮かんだ涙を指先で拭い、小さく息をついた。
「……久しぶりに、こんなに笑ったよ」
「えへへぇ~♪」
奏音も照れくさそうに笑う。
「ありがとう。元気をもらえた」
優一は穏やかな表情のまま、窓の外へ目を向ける。
「入院していると、学校の話を聞く機会も少なくてね」
そう呟いてから、奏音へ視線を戻した。
「奏音ちゃん」
「はい」
「良かったら、また来てくれないか?」
奏音はきょとんと首を傾げる。
「学校での京介のこととか、聞きたいんだ」
その言葉には、弟を想う兄の優しさがにじんでいた。何気ない学校生活でも、友達とのことでも、サッカーのことでも離れているからこそ、知りたい。そんな気持ちが伝わってくる。奏音は嬉しそうに頬を緩め、こくりと頷いた。
「はい!」
そして、いつもの明るい笑顔で答える。
「私も優一さんとお話ししたいこと、まだまだたくさんあるので、また遊びにきますね!」
「ありがとう」
優一は心から嬉しそうに微笑んだ。
「楽しみに待ってるよ」
「はい!」
奏音も笑顔で返事をする。病室を出る時間が近づき、奏音はスクールバッグを肩に掛けた。
「それじゃあ、今日は失礼します。また来ますね」
奏音はいつものように明るく微笑んだ。
「うん。気をつけて帰るんだよ」
優一も穏やかな笑みを浮かべる。その優しい声には、年の離れた妹を見送る兄のような温かさが滲んでいた。
「はい! 優一さんも、お身体を大事になさってください」
ぺこりと深く頭を下げると、奏音は病室をあとにした。
静かに扉が閉まる。病室には再び静寂が戻った。けれど、それは先ほどまでの静けさとはどこか違っていた。笑い声の余韻が、まだ部屋のどこかに残っているような気がする。
「……本当に、明るい子だな」
優一は小さく呟き、自然と笑みをこぼした。
部屋へ入った瞬間に空気を明るくし、何気ない会話で笑わせ、帰ったあとまで温かな気持ちを残していく。そんな不思議な力を持った女の子だった。
(京介……)
心の中で、そっと弟の名を呼ぶ。病院の外でどんな毎日を過ごしているのか、自分は知らない。それでも今日、奏音の話を聞いて安心できた。
不器用で、素直になれなくて、それでも誰かを放っておけない。そんな剣城らしい姿が目に浮かぶ。
(いい仲間に出会えたんだな)
優一は穏やかに目を細めた。
***
病院を出た奏音は、夕暮れの街をゆっくりと歩いていた。病院の窓から見えていた夕焼けを、今度は同じ空の下から見上げる。
(優一さん……本当に京ちゃんのことを大切に思ってるんだ)
病室で交わした会話が、何度も胸の中によみがえる。弟を信じる優しい笑顔。学校での様子を知りたがる穏やかな声。何も疑うことなく、剣城を信じ続ける兄の姿。だからこそ、胸の奥には小さな痛みが残っていた。
剣城が抱えている秘密を、自分は知ってしまった。けれど、その秘密を優一へ伝えることはできない。あれは兄弟の問題であり、剣城自身が向き合うべきものだから。
それでも今日、優一が笑ってくれた。あんなにも楽しそうに笑う姿を見ることができただけで、お見舞いに来てよかったと心から思えた。
(また会いに来よう)
今度も、優一さんが笑ってくれるような学校の話をたくさん持ってこよう。
そんなことを考えながら、一歩踏み出した――その時だった。
「……分かっています」
不意に、静かな路地の奥から低い声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。
「……京ちゃん?」
思わず足が止まる。胸が小さく高鳴り、奏音はゆっくりと声のした方へ顔を向けた。夕陽の届きにくい細い路地。その奥には、二つの人影が向かい合って立っていた。
一人は、紫紺の学ランをまとい、青い髪を夕風に揺らす少年――剣城京介。
そして、その向かいに立つのは、黒いハットに黒いスーツを身にまとった一人の男。
夕焼けの中にいるはずなのに、その男だけは光を拒むように深い影をまとい、どこか異質な存在感を放っていた。
奏音は思わず息を呑む。胸の奥で、不吉な予感が静かに広がっていく。
(あの人……まさか)
黒ずくめの男から目が離せない。
(フィフスセクターの人……!?)