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休日の雷門サッカー部。それぞれが思い思いの時間を過ごすその日、奏音が向かったのは学校でも自宅でもない場所だった。
都内にある稲妻総合病院。白い壁が続く長い廊下には、看護師たちの規則正しい足音が静かに響く。消毒液のほのかな香りが漂い、窓から差し込む柔らかな春の日差しだけが、どこか張りつめた空気を優しく和らげていた。
普段なら穏やかな静けさに包まれている病院の一角も、今日は少しだけ違う。談話スペースには小さな電子ピアノや譜面台が並び、楽器を抱えた雷門中音楽部の部員たちが慌ただしく準備を進めていた。
今日は、入院中の子どもたちへ向けたボランティア演奏会。本来この場に立つはずだった部員が風邪で欠席してしまい、その代役として奏音が声を掛けられたのだった。
「……よし」
小さく息をつき、奏音は電子ピアノの前へ腰を下ろす。緊張をほどくようにゆっくりと息を吐き出すと、白く細い指先を鍵盤へそっと添えた。何度も触れてきた鍵盤は、まるで「おかえり」と迎えてくれるように手になじむ。顔を上げると、演奏を心待ちにしている子どもたちと目が合った。
椅子に腰掛けた子、車椅子に座る子、小さなぬいぐるみを抱きしめたままこちらを見つめる子。年齢も性格も違う子どもたちが、それぞれ期待に満ちた瞳を演奏者たちへ向けている。そのまっすぐな視線を受け、奏音は自然と微笑んだ。指揮者が静かにタクトを掲げる。その動きに合わせるように、音楽部員たちの表情がふっと引き締まった。
フルートを持つ生徒は唇へ楽器を添え、クラリネットの指先は黒いキイへそっと触れる。サックスは金色のベルをわずかに持ち上げ、トランペット担当は静かに息を整えた。後方では打楽器担当がマレットを握り、優しくリズムを刻む準備を整えている。そして奏音も、小型の電子ピアノの前で背筋をすっと伸ばした。白く細い指先を鍵盤へそっと預ける。大きく息を吸い込み、心を静める。
(一音一音に、想いを乗せて……みんなに笑顔を届けよう)
そんな願いを胸に抱きながら、最初の一音を紡いだ。澄みきったピアノの音色が静かに響く。それを追いかけるようにフルートが春風のような旋律を重ね、クラリネットの柔らかな響きが優しく寄り添う。温かな金管の和音が空間を包み込み、小さな打楽器のリズムが心地よく鼓動を刻んでいく。
誰か一人が主役ではない。それぞれの音が重なり合い、一つの音楽となって談話室いっぱいへ広がっていく。
演奏が始まったのは、有名なアニメ映画の主題歌だった。親しみやすく、どこか懐かしい旋律。耳にした子どもたちの表情が、みるみる柔らかくほどけていく。
「あ、この曲知ってる!」
小さな声が聞こえ、隣の子も嬉しそうに頷く。身体でリズムを取る子。自然と口ずさみ始める子。手拍子をする子。それぞれが思い思いの形で音楽を楽しみ始めていた。
病院という場所を少しだけ忘れさせてくれるような、穏やかで温かな時間が流れていた。
(よかった)
子どもたちの表情がみるみる柔らかくほどけていく。その光景を見つめているだけで、奏音の胸の奥がじんわりと温かくなった。誰かが音楽を楽しんでくれる。その時間に寄り添えることが、奏音は昔から好きだった。
だからピアノを弾く。音楽留学をしていた頃も、サッカー部へ入った今も、その想いは変わらない。音楽で誰かの心が少しでも軽くなるなら。そのひとときを届けられるなら、それだけで鍵盤へ向かう意味があると思えた。
指先が軽やかに踊るたび、ピアノの音は楽団の響きを優しく支えていく。その響きは、仲間へパスをつないでいく奏音のサッカーにも、どこかよく似ていた。
やがて最後の和音が響き終わる。余韻だけが室内を優しく包み込み、静かな沈黙が数秒続いた。
「はい、みんなー! 音楽部のお兄さん、お姉さんたちに拍手ー!」
看護師の明るい声に我へ返った子どもたちが、一斉に小さな手を叩く。
「はーい!」
ぱちぱち、と談話室いっぱいに拍手が広がった。照れくさそうに笑う部員たちは立ち上がり、子どもたちへ向かって深々と一礼する。
その笑顔につられるように、奏音も自然と微笑んでいた。
***
「奏音ちゃん、お疲れさま! 本当に助かったよ。今日はありがとう!」
演奏会を終え、部員たちは楽器を片付け始めていた。奏音も電子ピアノの電源を切り、大きな黒いケースへ丁寧にしまい込む。
「こちらこそ! クラシックの緊張感も好きだけど、こういう映画音楽って、お客さんとの距離が近く感じられて楽しいよね」
「うんうん! みんなすごく楽しそうだったし! たまにはこういう演奏会もいいなあって思ったよ」
「ね。演奏してるこっちまで元気をもらえちゃう」
そう言って笑い合いながら、奏音はケースを抱え上げる。その時だった。
「……もしかして、奏音ちゃん?」
不意に背後から届いた、どこか聞き覚えのある穏やかな声。奏音は足を止め、ゆっくりと振り返る。視線の先には、一人の少年が車椅子に腰掛けていた。その隣には、どこか気まずそうな表情を浮かべた剣城。奏音は目を丸くする。
「京ちゃん……?」
そして車椅子の少年へ視線を移した瞬間、その顔に見覚えがあることへ気付いた。
青色の髪。剣城とよく似た、けれど少し柔らかな雰囲気を持つ顔立ち。口元に浮かぶ小さな笑いぼくろ。柔らかな笑顔だけは、昔と少しも変わっていなかった。
「えっ……ええっ!? 優一さん!?」
思わず声が弾む。幼い頃から知っている、剣城京介の兄。そして、奏音にとっても昔から優しいお兄さんのような存在だった。
優一は、懐かしい人へ再会した喜びを隠さないように、穏やかに微笑んだ。
「久しぶり、奏音ちゃん」
その優しい表情を見た瞬間、胸の奥に懐かしさがじんわりと広がっていく。
「お久しぶりです……!」
思わず駆け寄った奏音を見て、優一は目を細めた。
「本当に……大きくなったね」
「えへへ、留学してる間にぐんぐん伸びちゃって」
少し照れたように笑う奏音に、優一は懐かしそうに頷く。
「最後に会った時は、京介の後ろをちょこちょこ追いかけていたのに」
「もうそんな昔になりますね」
二人で小さく笑い合う。
「……聴いてくださってたんですね!」
奏音が嬉しそうに尋ねると、優一はゆっくりと頷いた。
「ああ。最初から最後まで聴かせてもらったよ。すごく素敵な演奏だった」
優一は穏やかに微笑みながら、自分の膝へそっと視線を落とした。
「実はね、さっきまで運動ルームでリハビリをしていたんだ」
「リハビリですか……」
「うん。今日は歩く練習の日でね。少しでも前へ進もうと夢中になっていたら、終わる頃にはすっかり疲れ切ってしまって」
そう言って苦笑する。
「病室へ戻ろうと思っていた時に、談話室から音楽が聞こえてきたんだ」
優一は演奏会場へ視線を向ける。
「せっかくだから少しだけ聴いていこうと思ったら……気付けば最後まで聴き入っていたよ」
その表情は、どこか晴れやかだった。
「リハビリで重たくなっていた気持ちまで軽くなった。不思議と前を向ける音だったよ」
その言葉に、奏音は目を丸くする。
「本当ですか……?」
「ああ。本当に」
迷いのない返事だった。
「また頑張って歩いてみようって、そんな気持ちになれたよ」
その一言が、奏音の胸へまっすぐ届く。誰かを笑顔にしたい。誰かの背中をそっと押せる音楽を届けたい。幼い頃から抱き続けてきた願いが、今、目の前で誰かの言葉として返ってきた。
「……ありがとうございます」
奏音は自然と笑みを浮かべた。
「そう言ってもらえるのが、一番嬉しいです」
ただ、心からそう願っているからこそ自然に口をついて出た言葉。そんな奏音らしさに触れ、優一はどこか眩しそうに微笑んだ。
「うん。きっと、その気持ちが音にも表れているんだろうね」
その優しいやり取りを見つめながら――剣城だけは、一度も笑わなかった。俯き加減の横顔はどこか硬く、琥珀色の瞳には言葉にならない感情が揺れている。その姿に、奏音は小さく首を傾げた。
(あれ……?)
胸の奥へ、小さな違和感が落ちる。
幼い頃、優一の隣にいる剣城は、いつだって嬉しそうに笑っていた。その笑顔を知っているからこそ、苦しげな横顔が胸から離れなかった。その疑問を口にする前に。
「奏音ちゃん、悪いけど楽器運ぶの手伝ってくれるー?」
音楽部員の声が談話室に響く。
「あっ、はい! 今行きます!」
奏音は慌てて振り返り、大きく返事をした。
それからもう一度、優一へ向き直る。
「すみません。また今度、ゆっくりお話しさせてください!」
「ああ。俺は三一五号室にいるから、いつでもおいで」
「はい!」
奏音は満面の笑みで頷き、大きく手を振る。優一も穏やかに手を振り返した。その隣で剣城は静かに車椅子を押し、何も言わないまま廊下の向こうへ歩いていく。
遠ざかっていく二人の背中を見送りながら、奏音はしばらくその場に立ち尽くしていた。
***
音楽部の部員たちと別れ、奏音は一人、夕暮れの帰り道を歩いていた。茜色に染まり始めた空を見上げると、春風がふわりと頬を撫でていく。
演奏を終えたばかりだからだろうか。鍵盤を弾いていた感覚が、まだ指先に残っている気がした。無意識に手を開いては閉じる。その温かな余韻とは裏腹に、胸の奥には小さな引っ掛かりが残っていた。
「京ちゃん……あんな顔をするなんて」
ぽつりと漏れた声は、夕暮れの風に溶けていく。優一は、昔と変わらない穏やかな笑顔を浮かべていた。リハビリを頑張り、演奏を聴いて「元気をもらえた」と笑ってくれた。それなのに、隣にいた剣城だけは一度も笑わなかった。
「私……何も知らなかったんだね」
足が止まる。留学していた時間の中で、剣城は何を抱え、何を背負ってきたのだろう。幼い頃、いつも前を向いてボールを追いかけていたあの背中が、今は苦しそうに俯いている。その理由さえ、自分は何も知らない。
奏音は胸の前でそっと拳を握った。今日、演奏を聴いた子どもたちは笑ってくれた。優一も笑ってくれた。それは本当に嬉しかった。でも――
「今度は、私が京ちゃんの力になりたい」
静かな決意が胸の奥に灯る。誰かを笑顔にしたい。その想いは、音楽でもサッカーでも変わらない。だからこそ今度は、大切な友達の心にも寄り添いたい。
夕焼け色の空をまっすぐ見上げながら、奏音は小さく頷いた。あの優しかった笑顔を、もう一度取り戻せるように。
***
病室には、穏やかな静寂が流れていた。窓の外では夕日がゆっくりと街並みへ沈み始め、茜色の光が病室の床を長く染めている。
さっきまで談話室から聞こえていた子どもたちの笑い声も、もう遠い。今は時計の針が時を刻む音だけが、小さく部屋へ響いていた。
「……奏音ちゃん、変わってなかったな」
窓の外を眺めたまま、優一がぽつりと呟く。その声には、どこか懐かしさが滲んでいた。ベッドの傍らに立つ剣城は、小さく目を伏せる。
「……ああ」
短い返事。それだけだった。けれど、その一言の奥には、再会の喜びも、戸惑いも、言葉にできないほど複雑な感情も押し込められているようだった。
優一はそんな弟の横顔を見つめ、ふっと穏やかに笑う。
「本当は嬉しかったんだろう?」
「……別に」
間髪入れず返ってきた、ぶっきらぼうな答え。昔から変わらないその照れ隠しに、優一は小さく肩を揺らした。
「京介は昔から分かりやすいよな」
優一は優しく続ける。
「奏音ちゃんに会えて、本当はすごく嬉しかったくせに」
その瞬間、剣城の指先がぴくりと震えた。
やがて右手は静かに握られ、拳となる。
「……あいつは、何も知らない」
吐き出すような声だった。優一は責めることなく、その言葉を静かに受け止める。
「そう思ってるんだな」
一拍置いて、穏やかに続けた。
「でも、奏音ちゃんは……きっと気づいていると思うぞ」
剣城がゆっくりと顔を上げる。
琥珀色の瞳が、小さく揺れた。
「何も言わなくても、人の気持ちを見ようとする子だから」
優一の脳裏に、さっきの演奏がよみがえる。春の日差しの中で、優しく鍵盤へ向かっていた奏音の姿。子どもたちの笑顔を見つめて、嬉しそうに微笑んでいた横顔。
「あの演奏もそうだった」
優一は静かに微笑む。
「ただ音を並べていたわけじゃない。聴いている人がどんな気持ちになるのか、一人ひとりを思い浮かべながら弾いていた」
少しだけ視線を剣城へ向ける。
「だからきっと……京介のことも――」
「……分かるわけない」
その言葉を遮るように、剣城が低く呟いた。
冷静さを装った声だった。けれど、その奥には押し殺しきれない感情が滲んでいる。
「何も知らないくせに」
病室の空気が、静かに張りつめた。夕日だけが、二人の影を長く床へ落としている。
「俺が何をしたのか」
握り締めた拳へ力が入る。
「兄さんが……どうしてこんな身体になったのか」
言葉が震えた。今まで胸の奥へ閉じ込め続けてきた後悔が、少しずつ溢れ出していく。
「全部……俺のせいなんだ」
俯いたまま、掠れた声で続ける。
「兄さんを巻き込んだのも、兄さんからサッカーを奪ったのも、全部……俺なんだ」
苦しげに息を吐く。
「だから俺は……」
拳を握り締めたまま、唇を噛む。
「もう、サッカーなんて……」
その先の言葉は、声にならなかった。沈黙が病室を包む。
優一は静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。そして穏やかな声で言う。
「京介」
弟は答えない。
「お前は、昔から優しすぎる」
ゆっくりと顔を向ける。
「何でも自分一人で背負い込んで、全部自分のせいだと思ってしまう」
剣城の肩が小さく震えた。
「でもな」
優一は真っ直ぐ弟を見つめる。
「俺は、お前を恨んだことなんて、一度もない」
「……っ」
剣城の瞳が大きく揺れる。
返事はない。否定も肯定もできず、剣城はただ立ち尽くしていた。優一はそんな弟を見つめ、静かに微笑む。
「俺が一番好きだった京介は、サッカーを心から楽しんでいたお前なんだ」
無邪気にボールを追いかけ。勝って笑って。負けて悔しがって。何度転んでも、また立ち上がっていた。そんな弟の姿が、優一は今でも忘れられなかった。
「……兄さん」
掠れた声が漏れる。
優一はゆっくりと頷いた。
「だから、自分がサッカーを好きだという気持ちだけは、どうか否定しないでくれ」
夕日の光が病室を優しく照らす。
静かな病室に、その言葉だけがいつまでも温かな余韻となって残っていた。
都内にある稲妻総合病院。白い壁が続く長い廊下には、看護師たちの規則正しい足音が静かに響く。消毒液のほのかな香りが漂い、窓から差し込む柔らかな春の日差しだけが、どこか張りつめた空気を優しく和らげていた。
普段なら穏やかな静けさに包まれている病院の一角も、今日は少しだけ違う。談話スペースには小さな電子ピアノや譜面台が並び、楽器を抱えた雷門中音楽部の部員たちが慌ただしく準備を進めていた。
今日は、入院中の子どもたちへ向けたボランティア演奏会。本来この場に立つはずだった部員が風邪で欠席してしまい、その代役として奏音が声を掛けられたのだった。
「……よし」
小さく息をつき、奏音は電子ピアノの前へ腰を下ろす。緊張をほどくようにゆっくりと息を吐き出すと、白く細い指先を鍵盤へそっと添えた。何度も触れてきた鍵盤は、まるで「おかえり」と迎えてくれるように手になじむ。顔を上げると、演奏を心待ちにしている子どもたちと目が合った。
椅子に腰掛けた子、車椅子に座る子、小さなぬいぐるみを抱きしめたままこちらを見つめる子。年齢も性格も違う子どもたちが、それぞれ期待に満ちた瞳を演奏者たちへ向けている。そのまっすぐな視線を受け、奏音は自然と微笑んだ。指揮者が静かにタクトを掲げる。その動きに合わせるように、音楽部員たちの表情がふっと引き締まった。
フルートを持つ生徒は唇へ楽器を添え、クラリネットの指先は黒いキイへそっと触れる。サックスは金色のベルをわずかに持ち上げ、トランペット担当は静かに息を整えた。後方では打楽器担当がマレットを握り、優しくリズムを刻む準備を整えている。そして奏音も、小型の電子ピアノの前で背筋をすっと伸ばした。白く細い指先を鍵盤へそっと預ける。大きく息を吸い込み、心を静める。
(一音一音に、想いを乗せて……みんなに笑顔を届けよう)
そんな願いを胸に抱きながら、最初の一音を紡いだ。澄みきったピアノの音色が静かに響く。それを追いかけるようにフルートが春風のような旋律を重ね、クラリネットの柔らかな響きが優しく寄り添う。温かな金管の和音が空間を包み込み、小さな打楽器のリズムが心地よく鼓動を刻んでいく。
誰か一人が主役ではない。それぞれの音が重なり合い、一つの音楽となって談話室いっぱいへ広がっていく。
演奏が始まったのは、有名なアニメ映画の主題歌だった。親しみやすく、どこか懐かしい旋律。耳にした子どもたちの表情が、みるみる柔らかくほどけていく。
「あ、この曲知ってる!」
小さな声が聞こえ、隣の子も嬉しそうに頷く。身体でリズムを取る子。自然と口ずさみ始める子。手拍子をする子。それぞれが思い思いの形で音楽を楽しみ始めていた。
病院という場所を少しだけ忘れさせてくれるような、穏やかで温かな時間が流れていた。
(よかった)
子どもたちの表情がみるみる柔らかくほどけていく。その光景を見つめているだけで、奏音の胸の奥がじんわりと温かくなった。誰かが音楽を楽しんでくれる。その時間に寄り添えることが、奏音は昔から好きだった。
だからピアノを弾く。音楽留学をしていた頃も、サッカー部へ入った今も、その想いは変わらない。音楽で誰かの心が少しでも軽くなるなら。そのひとときを届けられるなら、それだけで鍵盤へ向かう意味があると思えた。
指先が軽やかに踊るたび、ピアノの音は楽団の響きを優しく支えていく。その響きは、仲間へパスをつないでいく奏音のサッカーにも、どこかよく似ていた。
やがて最後の和音が響き終わる。余韻だけが室内を優しく包み込み、静かな沈黙が数秒続いた。
「はい、みんなー! 音楽部のお兄さん、お姉さんたちに拍手ー!」
看護師の明るい声に我へ返った子どもたちが、一斉に小さな手を叩く。
「はーい!」
ぱちぱち、と談話室いっぱいに拍手が広がった。照れくさそうに笑う部員たちは立ち上がり、子どもたちへ向かって深々と一礼する。
その笑顔につられるように、奏音も自然と微笑んでいた。
***
「奏音ちゃん、お疲れさま! 本当に助かったよ。今日はありがとう!」
演奏会を終え、部員たちは楽器を片付け始めていた。奏音も電子ピアノの電源を切り、大きな黒いケースへ丁寧にしまい込む。
「こちらこそ! クラシックの緊張感も好きだけど、こういう映画音楽って、お客さんとの距離が近く感じられて楽しいよね」
「うんうん! みんなすごく楽しそうだったし! たまにはこういう演奏会もいいなあって思ったよ」
「ね。演奏してるこっちまで元気をもらえちゃう」
そう言って笑い合いながら、奏音はケースを抱え上げる。その時だった。
「……もしかして、奏音ちゃん?」
不意に背後から届いた、どこか聞き覚えのある穏やかな声。奏音は足を止め、ゆっくりと振り返る。視線の先には、一人の少年が車椅子に腰掛けていた。その隣には、どこか気まずそうな表情を浮かべた剣城。奏音は目を丸くする。
「京ちゃん……?」
そして車椅子の少年へ視線を移した瞬間、その顔に見覚えがあることへ気付いた。
青色の髪。剣城とよく似た、けれど少し柔らかな雰囲気を持つ顔立ち。口元に浮かぶ小さな笑いぼくろ。柔らかな笑顔だけは、昔と少しも変わっていなかった。
「えっ……ええっ!? 優一さん!?」
思わず声が弾む。幼い頃から知っている、剣城京介の兄。そして、奏音にとっても昔から優しいお兄さんのような存在だった。
優一は、懐かしい人へ再会した喜びを隠さないように、穏やかに微笑んだ。
「久しぶり、奏音ちゃん」
その優しい表情を見た瞬間、胸の奥に懐かしさがじんわりと広がっていく。
「お久しぶりです……!」
思わず駆け寄った奏音を見て、優一は目を細めた。
「本当に……大きくなったね」
「えへへ、留学してる間にぐんぐん伸びちゃって」
少し照れたように笑う奏音に、優一は懐かしそうに頷く。
「最後に会った時は、京介の後ろをちょこちょこ追いかけていたのに」
「もうそんな昔になりますね」
二人で小さく笑い合う。
「……聴いてくださってたんですね!」
奏音が嬉しそうに尋ねると、優一はゆっくりと頷いた。
「ああ。最初から最後まで聴かせてもらったよ。すごく素敵な演奏だった」
優一は穏やかに微笑みながら、自分の膝へそっと視線を落とした。
「実はね、さっきまで運動ルームでリハビリをしていたんだ」
「リハビリですか……」
「うん。今日は歩く練習の日でね。少しでも前へ進もうと夢中になっていたら、終わる頃にはすっかり疲れ切ってしまって」
そう言って苦笑する。
「病室へ戻ろうと思っていた時に、談話室から音楽が聞こえてきたんだ」
優一は演奏会場へ視線を向ける。
「せっかくだから少しだけ聴いていこうと思ったら……気付けば最後まで聴き入っていたよ」
その表情は、どこか晴れやかだった。
「リハビリで重たくなっていた気持ちまで軽くなった。不思議と前を向ける音だったよ」
その言葉に、奏音は目を丸くする。
「本当ですか……?」
「ああ。本当に」
迷いのない返事だった。
「また頑張って歩いてみようって、そんな気持ちになれたよ」
その一言が、奏音の胸へまっすぐ届く。誰かを笑顔にしたい。誰かの背中をそっと押せる音楽を届けたい。幼い頃から抱き続けてきた願いが、今、目の前で誰かの言葉として返ってきた。
「……ありがとうございます」
奏音は自然と笑みを浮かべた。
「そう言ってもらえるのが、一番嬉しいです」
ただ、心からそう願っているからこそ自然に口をついて出た言葉。そんな奏音らしさに触れ、優一はどこか眩しそうに微笑んだ。
「うん。きっと、その気持ちが音にも表れているんだろうね」
その優しいやり取りを見つめながら――剣城だけは、一度も笑わなかった。俯き加減の横顔はどこか硬く、琥珀色の瞳には言葉にならない感情が揺れている。その姿に、奏音は小さく首を傾げた。
(あれ……?)
胸の奥へ、小さな違和感が落ちる。
幼い頃、優一の隣にいる剣城は、いつだって嬉しそうに笑っていた。その笑顔を知っているからこそ、苦しげな横顔が胸から離れなかった。その疑問を口にする前に。
「奏音ちゃん、悪いけど楽器運ぶの手伝ってくれるー?」
音楽部員の声が談話室に響く。
「あっ、はい! 今行きます!」
奏音は慌てて振り返り、大きく返事をした。
それからもう一度、優一へ向き直る。
「すみません。また今度、ゆっくりお話しさせてください!」
「ああ。俺は三一五号室にいるから、いつでもおいで」
「はい!」
奏音は満面の笑みで頷き、大きく手を振る。優一も穏やかに手を振り返した。その隣で剣城は静かに車椅子を押し、何も言わないまま廊下の向こうへ歩いていく。
遠ざかっていく二人の背中を見送りながら、奏音はしばらくその場に立ち尽くしていた。
***
音楽部の部員たちと別れ、奏音は一人、夕暮れの帰り道を歩いていた。茜色に染まり始めた空を見上げると、春風がふわりと頬を撫でていく。
演奏を終えたばかりだからだろうか。鍵盤を弾いていた感覚が、まだ指先に残っている気がした。無意識に手を開いては閉じる。その温かな余韻とは裏腹に、胸の奥には小さな引っ掛かりが残っていた。
「京ちゃん……あんな顔をするなんて」
ぽつりと漏れた声は、夕暮れの風に溶けていく。優一は、昔と変わらない穏やかな笑顔を浮かべていた。リハビリを頑張り、演奏を聴いて「元気をもらえた」と笑ってくれた。それなのに、隣にいた剣城だけは一度も笑わなかった。
「私……何も知らなかったんだね」
足が止まる。留学していた時間の中で、剣城は何を抱え、何を背負ってきたのだろう。幼い頃、いつも前を向いてボールを追いかけていたあの背中が、今は苦しそうに俯いている。その理由さえ、自分は何も知らない。
奏音は胸の前でそっと拳を握った。今日、演奏を聴いた子どもたちは笑ってくれた。優一も笑ってくれた。それは本当に嬉しかった。でも――
「今度は、私が京ちゃんの力になりたい」
静かな決意が胸の奥に灯る。誰かを笑顔にしたい。その想いは、音楽でもサッカーでも変わらない。だからこそ今度は、大切な友達の心にも寄り添いたい。
夕焼け色の空をまっすぐ見上げながら、奏音は小さく頷いた。あの優しかった笑顔を、もう一度取り戻せるように。
***
病室には、穏やかな静寂が流れていた。窓の外では夕日がゆっくりと街並みへ沈み始め、茜色の光が病室の床を長く染めている。
さっきまで談話室から聞こえていた子どもたちの笑い声も、もう遠い。今は時計の針が時を刻む音だけが、小さく部屋へ響いていた。
「……奏音ちゃん、変わってなかったな」
窓の外を眺めたまま、優一がぽつりと呟く。その声には、どこか懐かしさが滲んでいた。ベッドの傍らに立つ剣城は、小さく目を伏せる。
「……ああ」
短い返事。それだけだった。けれど、その一言の奥には、再会の喜びも、戸惑いも、言葉にできないほど複雑な感情も押し込められているようだった。
優一はそんな弟の横顔を見つめ、ふっと穏やかに笑う。
「本当は嬉しかったんだろう?」
「……別に」
間髪入れず返ってきた、ぶっきらぼうな答え。昔から変わらないその照れ隠しに、優一は小さく肩を揺らした。
「京介は昔から分かりやすいよな」
優一は優しく続ける。
「奏音ちゃんに会えて、本当はすごく嬉しかったくせに」
その瞬間、剣城の指先がぴくりと震えた。
やがて右手は静かに握られ、拳となる。
「……あいつは、何も知らない」
吐き出すような声だった。優一は責めることなく、その言葉を静かに受け止める。
「そう思ってるんだな」
一拍置いて、穏やかに続けた。
「でも、奏音ちゃんは……きっと気づいていると思うぞ」
剣城がゆっくりと顔を上げる。
琥珀色の瞳が、小さく揺れた。
「何も言わなくても、人の気持ちを見ようとする子だから」
優一の脳裏に、さっきの演奏がよみがえる。春の日差しの中で、優しく鍵盤へ向かっていた奏音の姿。子どもたちの笑顔を見つめて、嬉しそうに微笑んでいた横顔。
「あの演奏もそうだった」
優一は静かに微笑む。
「ただ音を並べていたわけじゃない。聴いている人がどんな気持ちになるのか、一人ひとりを思い浮かべながら弾いていた」
少しだけ視線を剣城へ向ける。
「だからきっと……京介のことも――」
「……分かるわけない」
その言葉を遮るように、剣城が低く呟いた。
冷静さを装った声だった。けれど、その奥には押し殺しきれない感情が滲んでいる。
「何も知らないくせに」
病室の空気が、静かに張りつめた。夕日だけが、二人の影を長く床へ落としている。
「俺が何をしたのか」
握り締めた拳へ力が入る。
「兄さんが……どうしてこんな身体になったのか」
言葉が震えた。今まで胸の奥へ閉じ込め続けてきた後悔が、少しずつ溢れ出していく。
「全部……俺のせいなんだ」
俯いたまま、掠れた声で続ける。
「兄さんを巻き込んだのも、兄さんからサッカーを奪ったのも、全部……俺なんだ」
苦しげに息を吐く。
「だから俺は……」
拳を握り締めたまま、唇を噛む。
「もう、サッカーなんて……」
その先の言葉は、声にならなかった。沈黙が病室を包む。
優一は静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。そして穏やかな声で言う。
「京介」
弟は答えない。
「お前は、昔から優しすぎる」
ゆっくりと顔を向ける。
「何でも自分一人で背負い込んで、全部自分のせいだと思ってしまう」
剣城の肩が小さく震えた。
「でもな」
優一は真っ直ぐ弟を見つめる。
「俺は、お前を恨んだことなんて、一度もない」
「……っ」
剣城の瞳が大きく揺れる。
返事はない。否定も肯定もできず、剣城はただ立ち尽くしていた。優一はそんな弟を見つめ、静かに微笑む。
「俺が一番好きだった京介は、サッカーを心から楽しんでいたお前なんだ」
無邪気にボールを追いかけ。勝って笑って。負けて悔しがって。何度転んでも、また立ち上がっていた。そんな弟の姿が、優一は今でも忘れられなかった。
「……兄さん」
掠れた声が漏れる。
優一はゆっくりと頷いた。
「だから、自分がサッカーを好きだという気持ちだけは、どうか否定しないでくれ」
夕日の光が病室を優しく照らす。
静かな病室に、その言葉だけがいつまでも温かな余韻となって残っていた。