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放課後。雷門中のグラウンドには、春の柔らかな陽射しが降り注いでいた。
昨日までの迷いや不安が嘘のように、サッカー部の空気は変わっている。万能坂戦を越えたことで、部員たちの表情には確かな覚悟が宿っていた。
勝ちたい。ただ、それだけではない。このチームで、最後まで戦い抜きたい。そのためには、ひたすらに練習を積み重ねるしかない。円堂監督の言葉は、確かにみんなの心へ届いていた。
その頃。奏音はサッカー棟の中で、少しだけ落ち着かない様子で立っていた。目の前には、顧問の音無春奈。
今日から――いや。今日、この瞬間から自分も雷門サッカー部の一員になる。その事実を改めて噛み締めると、胸の奥が不思議なくらい温かくなった。
「じゃあ、神童さんのユニフォームを持ってくるわね」
春奈がそう言って、入部届を手に取る。その背中を見送りながら、奏音はそっと息を吐いた。
嬉しい。楽しみ。でも少しだけ怖い。本当に自分が、この場所に立っていいのだろうか。それでも、一歩踏み出すと決めたのだ。
「あ、あの……音無先生!」
「ん?」
振り返った春奈に、奏音は少しだけ頬を赤らめながら尋ねる。
「十七番って……まだ残ってますか?」
「十七番?」
春奈は少し考えるように瞬きをしたあと、ふっと笑った。
「ええ、まだあるわよ」
「本当ですか!」
思わず声が弾む。
「やっぱりサッカーをやる女の子なら、憧れる番号よね」
「はいっ」
その言葉に、奏音は小さく頷いた。
しばらくして。
「お待たせ」
春奈が持ってきたのは、雷門の黄色いユニフォーム。胸元には、大きなイナズマのマーク。それを見た瞬間、奏音は言葉を失った。
ずっとテレビ越しに見ていた雷門のユニフォーム。兄が袖を通していた憧れの一着が、今は自分の手の中にある。そっと布地に触れると、その感触が夢ではないことを教えてくれた。
「音無先生……ありがとうございます!」
奏音はユニフォームを大切そうに抱きしめる。
「私、頑張ります!」
「ええ。期待してるわ」
春奈が微笑む。奏音は深く頭を下げると、軽やかな足取りで更衣室へ向かった。
その背中を見送りながら、春奈はどこか懐かしそうに目を細める。まるで昔の雷門の誰かを見ているような。そんな気持ちになった。
***
名門・雷門中の黄色いユニフォーム。袖を通した瞬間、奏音の胸は高鳴った。鏡に映る自分の姿を見て、まだ少しだけ信じられない。
(私、本当に雷門でサッカーするんだ)
そう思った瞬間。突然、シャッター音が響いた。振り向いた先には、一人の少女。柔らかな髪を三つ編みにまとめ、ピンク色のカメラを手にした少女が、楽しそうに微笑んでいる。
「えっ」
奏音が目を丸くすると、少女は楽しそうに笑う。
「ふふっ。やっぱり神サマそっくり」
「神サマ?」
首を傾げる奏音に、少女はくすりと笑った。
「私、山菜茜。マネージャーだよ。よろしくね、奏音ちゃん」
「あっ、よろしく!茜ちゃん!」
奏音が笑顔で返すと、その明るさに茜も自然と頬を緩めた。
「本当に双子なんだね。表情とか、ふとした仕草が似てる」
「えへへ。よく言われるんだ」
奏音は少し照れながら笑った。茜が微笑む。その言葉が、奏音には少し嬉しかった。自分が大切に思っている兄との繋がり。それを認めてもらえた気がしたから。
「おおう、威勢がいいね」
茜とのやり取りを微笑ましそうに見ていた少女が、腕を組みながら一歩前へ出る。赤い髪がふわりと揺れ、その勝気な瞳には芯の強さが宿っていた。
「あたしは瀬戸水鳥。よろしくな」
「私は空野葵です!」
続いて名乗った少女は、ぱっと花が咲くような明るい笑顔を浮かべる。短い髪が揺れるたび、その表情から伝わってくるのは親しみやすさと真っ直ぐな優しさだった。
「神童先輩……じゃなくて」
葵は少し考えてから笑う。
「お兄さんがいるから、奏音先輩って呼んでもいいですか?」
「もちろん! よろしくね、葵ちゃん、水鳥ちゃん!」
新しい仲間。新しい場所。男の子ばかりだったサッカー部の中で、同性の仲間がいることが奏音には心強かった。
監督の円堂に呼ばれ、一通り自己紹介を終えたあと。
「神童妹、ポジションは?」
円堂の問いかけに、奏音は迷うことなく答える。
「FWです!」
その瞬間。
「……FW?」
少し低い声が、横から聞こえた。振り向くと、倉間が腕を組み、じっと奏音を見ている。
「入った初日から、ずいぶん自信あるんだな」
「え?」
奏音はぱちりと瞬きをした。
「いや、別に悪いって言ってるわけじゃない。ただ……FWはそんな簡単なポジションじゃないぞ」
「うん、分かってるよ」
奏音はすぐに頷いた。
「だから、やりたいんだ」
予想していなかった返事に、倉間は一瞬黙る。
「ゴールを決めるだけじゃなくて……FWって、みんなが繋いでくれたものを最後に受け取る場所だと思うの」
「またそういう綺麗なこと言うな」
倉間は少し呆れたように言った。
「サッカーは、そんなに甘くないぞ」
「うん」
奏音は素直に頷く。
「でも、簡単じゃないからこそ、楽しいんじゃないかな?」
倉間は言葉を失った。ただの理想論じゃない。目の前の少女は、本当にそう信じている。その表情は、サッカーが好きな人間の顔だった。
「……まあ、いいけど」
倉間は視線を逸らす。
「今の雷門にFWが増えるのは、悪いことじゃない」
「じゃあ、一緒に頑張ろうね!」
「勝手に決めるな」
「え?」
「俺は、お前に合わせるつもりはないから……俺が一番点を取る」
その宣言に、奏音は目を丸くした。
「じゃあ、私も負けないよ! 一緒にいっぱい点を取ろう!」
あまりにも真っ直ぐな返事。倉間は小さくため息をついた。
「……本当に変な奴」
そう言いながらも。その表情には、ほんの少しだけ楽しそうな色が浮かんでいた。新しいライバル。それが悪くないと思えてしまう自分に、倉間はまだ気づいていなかった。
そしてアップが始まる。久しぶりに触れるボール。足元に伝わる感覚。胸の奥が、少しずつ熱くなっていく。楽しい。だけど、緊張もする。そんな不思議な感覚だった。
「少し肩に力が入っているな」
聞き慣れた声。振り返ると、そこには拓人がいた。
「拓にぃ……」
奏音は少しだけ視線を落とし、自分の身につけた雷門のユニフォームの袖をそっとつまんだ。嬉しい気持ちの奥には、ほんの少しだけ不安もあった。
「……ちゃんと似合ってるかな?」
小さな声で尋ねる。
拓人は一瞬だけ奏音を見ると、いつもの落ち着いた表情のまま答えた。
「似合ってると思う」
あまりにも迷いのない返事だった。
「……本当に?」
「ああ」
拓人は前を向きながら続ける。
「奏音は昔から、自分が決めたことには真っ直ぐだっただろ」
「拓にぃ……」
「だから雷門のユニフォームも、すぐに馴染むと思う」
兄の隣で、同じユニフォームを着て戦える。
その当たり前のようで、ずっと願っていた時間が――今、始まろうとしていた。
「えへへ……ありがとう、拓にぃ」
奏音は照れたように笑う。そして両手で頬を軽く叩いた。もう大丈夫、ここに立つと決めたのだから。
「私も、本気で勝ちに行くサッカーが一番楽しい。だから、このチームで精一杯戦うね」
拓人は静かに頷いた。
「奏音には、期待している」
「え?」
「お前は、人の気持ちに気付くのが上手い」
拓人の声は穏やかだった。
「俺が見逃してしまうものも、お前なら拾えると思う」
その言葉に奏音の胸が温かくなる。
「うん!」
力強く頷く。
「拓にぃの期待に応えられるように、いっぱいいっぱい頑張る! 今度は、悔しい涙じゃなくて……嬉しい涙を流そうね」
拓人の瞳に、信頼が宿る。妹としてではなく。一人の選手として奏音を見てくれている。それが何より嬉しかった。
(私にも、できることがある)
グラウンドへ向かう足取りは軽かった。けれどその途中で、奏音はふと立ち止まる。見慣れた青い髪を探して視線を巡らせる。けれど、どこにもその姿はなかった。胸の奥が少しだけ寂しくなる。それでも奏音は小さく息を吸った。
「まずは練習に集中しよう」
今は、自分にできることを精一杯やろう。
奏音は前を向いて歩き出した。
***
この日の練習は、実戦を意識した五対五のミニゲーム形式で行われることになった。
フィールドに立つメンバーの中に、剣城の姿はない。そしてもう一人――万能坂戦で負傷した霧野も、今日はグラウンドの外から仲間たちを見守っていた。いつもの雷門とは少し違う布陣。けれど、だからこそ今できることがある。拓人は一度、仲間たちを見渡す。
「限られた状況でも、やれることはある。今の自分たちにできる最高のプレーをしよう」
その言葉に、全員が頷いた。
攻撃側は、キャプテンの拓人を中心に、浜野、倉間、そして新しく雷門の一員となった奏音。そこへ天馬を加えた五人。対する守備側は、三国をゴールに置き、車田、天城、速水、信助がディフェンス陣が立ちはだかる。
「いくぞ!」
拓人の声が響く。その瞬間、空気が変わった。試合が始まる。ボールが動く。人が動く。一つの球を中心に、十人の思考が交差していく。拓人が浜野へ。浜野から奏音へ。足元に届いたボールを、奏音は優しく受け止めた。足から伝わる感触。
ボールの重さ。芝生の匂い。仲間の位置。相手の動き。全てが、ひとつの旋律のように頭の中へ流れ込んでくる。
(聞こえる……)
音が。
奏音の瞳が輝いた。
速水が来る。右。一歩。左。もう一歩。まるで見えない楽譜をなぞるように奏音の足は止まらない。
フィールドの全員が動いている。天城はカバーへ。車田は次の展開を警戒。拓人と浜野は中央へ寄る。天馬はパスコースを探す。倉間はサイドを駆け上がる。一つのボールが、一つのプレーが、全員を繋いでいく。その光景を見て奏音の胸が高鳴った。
(私……今、サッカーをしてる)
その実感が、遅れて押し寄せてくる。嬉しい。楽しい。身体の奥から力が湧いてくる。
奏音は微笑んだ。そして一歩、踏み出す。速水が奏音の前へ立ちはだかる。素早い判断。迷いのない足運び。けれど―― 奏音は焦らなかった。
相手の動き。味方の位置。ボールの鼓動。すべてが、ひとつの音として感じられる。まるで頭の中に、見えない楽譜が広がっていくようだった。
(次の一歩は……右)
奏音が小さく踏み込む。速水も反応する。
けれどその瞬間、奏音の周囲に淡い光が舞い上がった。
「え……?」
速水が息を呑む。フィールドに現れたのは――五線譜。光を帯びた五本の線が、奏音を中心に優しく広がっていく。まるで空に描かれた楽譜のように。その上を、色とりどりの音符が跳ねる。そして一本のリボンのような光が、奏音の足元から伸びた。
「レガートメロディー……!」
奏音が踏み出す。光の五線譜が、彼女の動きに合わせるようにフィールドを滑らかに走り始めた。速水がボールへ足を伸ばす。しかし――届かない。奏音は、まるで旋律を奏でるように身体を揺らした。
右へ。左へ。流れるようなステップ。途切れることのない動き。光のリボンが相手の足元を包み込むように舞い、速水の動きをわずかに遅らせる。奏音の動きは、相手の動きすらも自分の旋律の中へ引き込んでいた。まるで一緒に踊っているみたいに。
「すごい……」
葵が思わず呟く。
「まるで……音を聞いて、相手の動きを感じ取っているみたいですね……」
「ああ」
霧野はフィールドの奏音から目を離さず、静かに頷いた。
「奏音は、相手の動きを見ているだけじゃない。足音や呼吸、ボールの響きまで感じ取って、自分のリズムへ変えているんだ。だからプレーが途切れない。最後は自然と、自分のペースへ引き込んでしまう」
その言葉どおり、奏音が最後の一歩を踏み出す。五線譜の光が大きく広がる。そして、最後の音符が跳ねるように速水の横を鮮やかに抜き去った。
「神童妹先輩、あんな必殺技が……!」
天馬が目を輝かせる。
奏音はそのまま前へ進む。そして。待っていた倉間へ、正確なパスを送った。
「ナイスパス!」
倉間は少し口元を上げる。
「なかなかやるじゃねぇか」
「ありがとう!拓にぃの妹として、まだまだ負けてられないからね!」
「……別に褒めたわけじゃねぇ」
倉間は顔を逸らす。
「認めただけだ」
そのやり取りに、奏音は小さく笑った。
仲間と繋がる。一緒に戦う。その感覚が嬉しかった。しかしディフェンス陣も負けてはいない。倉間のシュートは天城に阻まれる。
大きな身体。けれど、その動きは鋭い。跳ね返ったボールへ天馬が向かう。
「何て迫力だ…」
しかし車田の迫力に、一瞬足が止まる。
「先輩たち……すごい」
信助が拳を握る。
「僕も頑張らないと!」
その姿を見ながら奏音は再び走り出した。まだ終わっていない。ボールはまた動く、誰かの想いを乗せて次の音へ、次の旋律へ。
春の午後。青い空の下、雷門のグラウンドに新しい音色が響き始めた。
今日、この日。
神童奏音のサッカーが始まった。
昨日までの迷いや不安が嘘のように、サッカー部の空気は変わっている。万能坂戦を越えたことで、部員たちの表情には確かな覚悟が宿っていた。
勝ちたい。ただ、それだけではない。このチームで、最後まで戦い抜きたい。そのためには、ひたすらに練習を積み重ねるしかない。円堂監督の言葉は、確かにみんなの心へ届いていた。
その頃。奏音はサッカー棟の中で、少しだけ落ち着かない様子で立っていた。目の前には、顧問の音無春奈。
今日から――いや。今日、この瞬間から自分も雷門サッカー部の一員になる。その事実を改めて噛み締めると、胸の奥が不思議なくらい温かくなった。
「じゃあ、神童さんのユニフォームを持ってくるわね」
春奈がそう言って、入部届を手に取る。その背中を見送りながら、奏音はそっと息を吐いた。
嬉しい。楽しみ。でも少しだけ怖い。本当に自分が、この場所に立っていいのだろうか。それでも、一歩踏み出すと決めたのだ。
「あ、あの……音無先生!」
「ん?」
振り返った春奈に、奏音は少しだけ頬を赤らめながら尋ねる。
「十七番って……まだ残ってますか?」
「十七番?」
春奈は少し考えるように瞬きをしたあと、ふっと笑った。
「ええ、まだあるわよ」
「本当ですか!」
思わず声が弾む。
「やっぱりサッカーをやる女の子なら、憧れる番号よね」
「はいっ」
その言葉に、奏音は小さく頷いた。
しばらくして。
「お待たせ」
春奈が持ってきたのは、雷門の黄色いユニフォーム。胸元には、大きなイナズマのマーク。それを見た瞬間、奏音は言葉を失った。
ずっとテレビ越しに見ていた雷門のユニフォーム。兄が袖を通していた憧れの一着が、今は自分の手の中にある。そっと布地に触れると、その感触が夢ではないことを教えてくれた。
「音無先生……ありがとうございます!」
奏音はユニフォームを大切そうに抱きしめる。
「私、頑張ります!」
「ええ。期待してるわ」
春奈が微笑む。奏音は深く頭を下げると、軽やかな足取りで更衣室へ向かった。
その背中を見送りながら、春奈はどこか懐かしそうに目を細める。まるで昔の雷門の誰かを見ているような。そんな気持ちになった。
***
名門・雷門中の黄色いユニフォーム。袖を通した瞬間、奏音の胸は高鳴った。鏡に映る自分の姿を見て、まだ少しだけ信じられない。
(私、本当に雷門でサッカーするんだ)
そう思った瞬間。突然、シャッター音が響いた。振り向いた先には、一人の少女。柔らかな髪を三つ編みにまとめ、ピンク色のカメラを手にした少女が、楽しそうに微笑んでいる。
「えっ」
奏音が目を丸くすると、少女は楽しそうに笑う。
「ふふっ。やっぱり神サマそっくり」
「神サマ?」
首を傾げる奏音に、少女はくすりと笑った。
「私、山菜茜。マネージャーだよ。よろしくね、奏音ちゃん」
「あっ、よろしく!茜ちゃん!」
奏音が笑顔で返すと、その明るさに茜も自然と頬を緩めた。
「本当に双子なんだね。表情とか、ふとした仕草が似てる」
「えへへ。よく言われるんだ」
奏音は少し照れながら笑った。茜が微笑む。その言葉が、奏音には少し嬉しかった。自分が大切に思っている兄との繋がり。それを認めてもらえた気がしたから。
「おおう、威勢がいいね」
茜とのやり取りを微笑ましそうに見ていた少女が、腕を組みながら一歩前へ出る。赤い髪がふわりと揺れ、その勝気な瞳には芯の強さが宿っていた。
「あたしは瀬戸水鳥。よろしくな」
「私は空野葵です!」
続いて名乗った少女は、ぱっと花が咲くような明るい笑顔を浮かべる。短い髪が揺れるたび、その表情から伝わってくるのは親しみやすさと真っ直ぐな優しさだった。
「神童先輩……じゃなくて」
葵は少し考えてから笑う。
「お兄さんがいるから、奏音先輩って呼んでもいいですか?」
「もちろん! よろしくね、葵ちゃん、水鳥ちゃん!」
新しい仲間。新しい場所。男の子ばかりだったサッカー部の中で、同性の仲間がいることが奏音には心強かった。
監督の円堂に呼ばれ、一通り自己紹介を終えたあと。
「神童妹、ポジションは?」
円堂の問いかけに、奏音は迷うことなく答える。
「FWです!」
その瞬間。
「……FW?」
少し低い声が、横から聞こえた。振り向くと、倉間が腕を組み、じっと奏音を見ている。
「入った初日から、ずいぶん自信あるんだな」
「え?」
奏音はぱちりと瞬きをした。
「いや、別に悪いって言ってるわけじゃない。ただ……FWはそんな簡単なポジションじゃないぞ」
「うん、分かってるよ」
奏音はすぐに頷いた。
「だから、やりたいんだ」
予想していなかった返事に、倉間は一瞬黙る。
「ゴールを決めるだけじゃなくて……FWって、みんなが繋いでくれたものを最後に受け取る場所だと思うの」
「またそういう綺麗なこと言うな」
倉間は少し呆れたように言った。
「サッカーは、そんなに甘くないぞ」
「うん」
奏音は素直に頷く。
「でも、簡単じゃないからこそ、楽しいんじゃないかな?」
倉間は言葉を失った。ただの理想論じゃない。目の前の少女は、本当にそう信じている。その表情は、サッカーが好きな人間の顔だった。
「……まあ、いいけど」
倉間は視線を逸らす。
「今の雷門にFWが増えるのは、悪いことじゃない」
「じゃあ、一緒に頑張ろうね!」
「勝手に決めるな」
「え?」
「俺は、お前に合わせるつもりはないから……俺が一番点を取る」
その宣言に、奏音は目を丸くした。
「じゃあ、私も負けないよ! 一緒にいっぱい点を取ろう!」
あまりにも真っ直ぐな返事。倉間は小さくため息をついた。
「……本当に変な奴」
そう言いながらも。その表情には、ほんの少しだけ楽しそうな色が浮かんでいた。新しいライバル。それが悪くないと思えてしまう自分に、倉間はまだ気づいていなかった。
そしてアップが始まる。久しぶりに触れるボール。足元に伝わる感覚。胸の奥が、少しずつ熱くなっていく。楽しい。だけど、緊張もする。そんな不思議な感覚だった。
「少し肩に力が入っているな」
聞き慣れた声。振り返ると、そこには拓人がいた。
「拓にぃ……」
奏音は少しだけ視線を落とし、自分の身につけた雷門のユニフォームの袖をそっとつまんだ。嬉しい気持ちの奥には、ほんの少しだけ不安もあった。
「……ちゃんと似合ってるかな?」
小さな声で尋ねる。
拓人は一瞬だけ奏音を見ると、いつもの落ち着いた表情のまま答えた。
「似合ってると思う」
あまりにも迷いのない返事だった。
「……本当に?」
「ああ」
拓人は前を向きながら続ける。
「奏音は昔から、自分が決めたことには真っ直ぐだっただろ」
「拓にぃ……」
「だから雷門のユニフォームも、すぐに馴染むと思う」
兄の隣で、同じユニフォームを着て戦える。
その当たり前のようで、ずっと願っていた時間が――今、始まろうとしていた。
「えへへ……ありがとう、拓にぃ」
奏音は照れたように笑う。そして両手で頬を軽く叩いた。もう大丈夫、ここに立つと決めたのだから。
「私も、本気で勝ちに行くサッカーが一番楽しい。だから、このチームで精一杯戦うね」
拓人は静かに頷いた。
「奏音には、期待している」
「え?」
「お前は、人の気持ちに気付くのが上手い」
拓人の声は穏やかだった。
「俺が見逃してしまうものも、お前なら拾えると思う」
その言葉に奏音の胸が温かくなる。
「うん!」
力強く頷く。
「拓にぃの期待に応えられるように、いっぱいいっぱい頑張る! 今度は、悔しい涙じゃなくて……嬉しい涙を流そうね」
拓人の瞳に、信頼が宿る。妹としてではなく。一人の選手として奏音を見てくれている。それが何より嬉しかった。
(私にも、できることがある)
グラウンドへ向かう足取りは軽かった。けれどその途中で、奏音はふと立ち止まる。見慣れた青い髪を探して視線を巡らせる。けれど、どこにもその姿はなかった。胸の奥が少しだけ寂しくなる。それでも奏音は小さく息を吸った。
「まずは練習に集中しよう」
今は、自分にできることを精一杯やろう。
奏音は前を向いて歩き出した。
***
この日の練習は、実戦を意識した五対五のミニゲーム形式で行われることになった。
フィールドに立つメンバーの中に、剣城の姿はない。そしてもう一人――万能坂戦で負傷した霧野も、今日はグラウンドの外から仲間たちを見守っていた。いつもの雷門とは少し違う布陣。けれど、だからこそ今できることがある。拓人は一度、仲間たちを見渡す。
「限られた状況でも、やれることはある。今の自分たちにできる最高のプレーをしよう」
その言葉に、全員が頷いた。
攻撃側は、キャプテンの拓人を中心に、浜野、倉間、そして新しく雷門の一員となった奏音。そこへ天馬を加えた五人。対する守備側は、三国をゴールに置き、車田、天城、速水、信助がディフェンス陣が立ちはだかる。
「いくぞ!」
拓人の声が響く。その瞬間、空気が変わった。試合が始まる。ボールが動く。人が動く。一つの球を中心に、十人の思考が交差していく。拓人が浜野へ。浜野から奏音へ。足元に届いたボールを、奏音は優しく受け止めた。足から伝わる感触。
ボールの重さ。芝生の匂い。仲間の位置。相手の動き。全てが、ひとつの旋律のように頭の中へ流れ込んでくる。
(聞こえる……)
音が。
奏音の瞳が輝いた。
速水が来る。右。一歩。左。もう一歩。まるで見えない楽譜をなぞるように奏音の足は止まらない。
フィールドの全員が動いている。天城はカバーへ。車田は次の展開を警戒。拓人と浜野は中央へ寄る。天馬はパスコースを探す。倉間はサイドを駆け上がる。一つのボールが、一つのプレーが、全員を繋いでいく。その光景を見て奏音の胸が高鳴った。
(私……今、サッカーをしてる)
その実感が、遅れて押し寄せてくる。嬉しい。楽しい。身体の奥から力が湧いてくる。
奏音は微笑んだ。そして一歩、踏み出す。速水が奏音の前へ立ちはだかる。素早い判断。迷いのない足運び。けれど―― 奏音は焦らなかった。
相手の動き。味方の位置。ボールの鼓動。すべてが、ひとつの音として感じられる。まるで頭の中に、見えない楽譜が広がっていくようだった。
(次の一歩は……右)
奏音が小さく踏み込む。速水も反応する。
けれどその瞬間、奏音の周囲に淡い光が舞い上がった。
「え……?」
速水が息を呑む。フィールドに現れたのは――五線譜。光を帯びた五本の線が、奏音を中心に優しく広がっていく。まるで空に描かれた楽譜のように。その上を、色とりどりの音符が跳ねる。そして一本のリボンのような光が、奏音の足元から伸びた。
「レガートメロディー……!」
奏音が踏み出す。光の五線譜が、彼女の動きに合わせるようにフィールドを滑らかに走り始めた。速水がボールへ足を伸ばす。しかし――届かない。奏音は、まるで旋律を奏でるように身体を揺らした。
右へ。左へ。流れるようなステップ。途切れることのない動き。光のリボンが相手の足元を包み込むように舞い、速水の動きをわずかに遅らせる。奏音の動きは、相手の動きすらも自分の旋律の中へ引き込んでいた。まるで一緒に踊っているみたいに。
「すごい……」
葵が思わず呟く。
「まるで……音を聞いて、相手の動きを感じ取っているみたいですね……」
「ああ」
霧野はフィールドの奏音から目を離さず、静かに頷いた。
「奏音は、相手の動きを見ているだけじゃない。足音や呼吸、ボールの響きまで感じ取って、自分のリズムへ変えているんだ。だからプレーが途切れない。最後は自然と、自分のペースへ引き込んでしまう」
その言葉どおり、奏音が最後の一歩を踏み出す。五線譜の光が大きく広がる。そして、最後の音符が跳ねるように速水の横を鮮やかに抜き去った。
「神童妹先輩、あんな必殺技が……!」
天馬が目を輝かせる。
奏音はそのまま前へ進む。そして。待っていた倉間へ、正確なパスを送った。
「ナイスパス!」
倉間は少し口元を上げる。
「なかなかやるじゃねぇか」
「ありがとう!拓にぃの妹として、まだまだ負けてられないからね!」
「……別に褒めたわけじゃねぇ」
倉間は顔を逸らす。
「認めただけだ」
そのやり取りに、奏音は小さく笑った。
仲間と繋がる。一緒に戦う。その感覚が嬉しかった。しかしディフェンス陣も負けてはいない。倉間のシュートは天城に阻まれる。
大きな身体。けれど、その動きは鋭い。跳ね返ったボールへ天馬が向かう。
「何て迫力だ…」
しかし車田の迫力に、一瞬足が止まる。
「先輩たち……すごい」
信助が拳を握る。
「僕も頑張らないと!」
その姿を見ながら奏音は再び走り出した。まだ終わっていない。ボールはまた動く、誰かの想いを乗せて次の音へ、次の旋律へ。
春の午後。青い空の下、雷門のグラウンドに新しい音色が響き始めた。
今日、この日。
神童奏音のサッカーが始まった。