可能性のフェルマータ(GO27話)
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白銀の世界が、フィールドいっぱいに広がっていた。スノーランドスタジアムを吹き抜ける冷気が肌を刺す。
凍てついたピッチでは、選手たちの吐く息が淡く霞んでいた。その中央で、雷門は必死にゴールを守っていた。
三国の負傷によって、急遽ゴールマウスを任されたのは天馬だった。フィールドプレイヤーである彼がキーパーを務めるのは、海王戦に続いて二度目。それでも今は、最後尾に立ってゴールを守るしかない。
「絶対に、ゴールを割らせるな!」
拓人の声が飛ぶ。天馬ひとりに負担をかけまいと、雷門の選手たちは一斉に動いた。そのとき、白恋の攻撃がゴール前へ迫る。
信助のヘディングで浮いたボールに、白恋のエースストライカー・雪村が駆け込んできた。その前に、天馬が飛び出した。身体ごとボールへ向かい、両手でしっかりと抱え込む。雪村の足が止まった。
「信助、大丈夫?」
「へへっ、平気だよ!」
鼻の下を擦りながら、得意げに答える信助。天馬は笑って頷いた。
そのやり取りを、雪村は黙って見つめていた。天馬は自分のプレーを喜ぶより先に、仲間を気にかけている。
雪村は、無意識に拳を握った。胸の奥に生まれた言葉にならない感情を持て余したまま、試合は一進一退の展開を続けていく。
やがて、白恋の中盤にわずかな隙が生まれた。それを見逃さなかった拓人の目が、鋭く細められる。
――神のタクト。
拓人が腕を振る。その動きに呼応するように、フィールドへ光のラインが走った。まるで見えない五線譜が描かれていくように、雷門の選手たちを繋ぐ道筋が次々と浮かび上がる。
奏音は、拓人が描く光の道筋を見つめた。その軌跡を追ううちに、兄の意図が自然と伝わってくる。一歩踏み出した。
「……合わせるよ! 拓にぃ!」
両手を胸の前へ。そこから、静かに左右へ広げる。
――神のカノン。
指先が空間をなぞる。生まれた光の音符が、拓人の描いたラインを追うように配置されていく。先に示される旋律に、もうひとつの音が重なる。指揮と追奏がひとつになり、光の音符が鮮やかに輝いた。
「天馬!」
「はい!」
拓人の声に応じ、天馬がボールを蹴り出す。その先へ、拓人が駆け込んでいた。
「影山くん!」
「はい!」
奏音の声に応じ、拓人から影山へボールが渡る。神のカノンによって研ぎ澄まされた連携は、普段以上の精度で噛み合っていた。
「錦!」
拓人が呼ぶ。光のラインが錦へ伸びる。
「錦先輩!」
「このチャンス、逃さんぜよ!」
影山からボールを受け取った錦が、前へ飛び出す。
「アクロバットキープ!」
錦は鋭く身を翻し、迫る北厳をかわす。氷を蹴って前進した錦の視線の先には、パスを受ける準備を整えた拓人がいた。
奏音が描いた最後の音符が、拓人の足元へと光を繋ぐ。拓人がボールを受け取った。一瞬だけ、奏音と目が合う。言葉はない。それだけで、分かった。
音符の光が淡く輝き、拓人の身体へと溶け込む。その瞬間、拓人の瞳に強い光が宿った。
奏音は、ゆっくりと両手を下ろす。兄の背中を押すように、二人の旋律が静かにフィールドへ溶けていった。
「――奏者マエストロ!」
拓人の背後に化身が現れた。青白い髪を揺らし、四本の腕で指揮棒を掲げる。その堂々たる姿を目にした瞬間、奏音の胸の奥で、かすかな音が弾けた。
「……えっ?」
身体の内側に広がった淡い振動は、すぐに消えてしまう。何だったのか考える間もなく、目の前ではマエストロが指揮棒を振り上げていた。
「ハーモニクス!」
澄み切った音色が、張り詰めた空気を震わせた。放たれたボールが、白銀のフィールドを一直線に駆け抜ける。白咲が両手を伸ばすが、ボールはその手をすり抜け――ゴールネットを大きく揺らした。
次の瞬間、歓声がスタジアムを揺らした。雷門の選手たちが一斉に拳を突き上げる。逆転だ。仲間たちの喜ぶ姿を見て、奏音の胸にも熱いものが込み上げた。
「これが……雷門なのか……!?」
雪村の呟きに、白恋の選手たちは呆然と雷門を見つめていた。仲間を信じ、最後まで諦めずにボールを追う。そのひたむきな姿が、彼らの胸にも届いていた。
雪村が、ゆっくりとベンチへ視線を向ける。そこにいるのは、元白恋のコーチ・吹雪士郎。彼を見返すために、雪村はフィフスセクターのサッカーを受け入れた。だが、目の前にある雷門のサッカーを見ていると、その決意が揺らいでいく。
奏音は、雪村の横顔を見つめた。その瞳に宿る光を見て、ほかの白恋の選手たちも同じ思いを抱いているのだと感じた。
誰かに決められたサッカーではなく、自分たちの意思でボールを追いたい――彼らの表情には、そんな願いが浮かんでいた。
「行くぞ!」
試合が再開される。ボールを受け取った雪村が、力強く駆け出した。
「絶対に逆転してやる!」
雪村の叫びが、凍てつく空気を突き破る。白恋の選手たちは力強く頷き、氷里へボールをつないだ。
「何をやっとる!? 石にボールを渡せ!」
ベンチから、フィフスセクターが送り込んだ監督・熊崎の怒声が飛ぶ。
「こっちだ!」
氷里は、前を走る石ではなく、横を駆ける留萌へボールを送った。その瞬間、熊崎が目を見開く。これまでの白恋では、考えられないプレーだった。
「お前たち! 言うことを聞け!」
続けて、シードでもある白恋のキャプテン・白咲が声を張り上げる。それでも選手たちは足を止めなかった。
「無駄だよ」
真狩が、はっきりと言った。
「もう、フィフスセクターには従わない」
白恋の選手たちは顔を見合わせた。誰も、その言葉を否定しない。その様子を見て、奏音の口元がほんの少し緩んだ。
白いボールが氷上を滑るようにつながっていく。一つひとつのパスに、諦めないという意思が宿っていた。
白恋中、渾身の総攻撃。ベンチ前では、吹雪がその姿を見つめていた。かつて自分が導いた後輩たちが、自らの意思で道を切り開いていく。その姿に、吹雪は拳を握り、誇らしげに目を細めた。
「今度こそ……ゴールを奪う!」
雪村は一気にゴール前へと駆け上がった。
「頑張れ、雪村!」
ベンチから響いた吹雪の声に、雪村ははっと顔を上げる。
「……先輩!」
その声援が、雪村の心に再び火を灯した。まだ終わりたくない。自分たちのサッカーを、ここで終わらせるわけにはいかない。
「はあああああっ!」
雪村の背後に、氷の槍を携えた女性の化身が姿を現した。雪風をまとったその姿は美しく、幻想的な威厳を漂わせている。
「――豪雪のサイア!」
雪村がボールを高く蹴り上げた。冷気が渦巻き、舞い上がった雪が白銀の柱となって天へ伸びる。
「アイシクルロード!」
極寒の力を帯びたシュートが放たれた。一直線に伸びる氷の道が、雷門のゴールへと迫る。
ゴール前に立つ奏音は、目の前に迫るその軌道を真っ直ぐに見据えた。
「みんなで繋いだ一点だもん! 絶対に守る!」
その瞬間、胸の奥で、どくん、と何かが大きく脈打った。
(……え? また、この感覚……!?)
凍てつく空気の中、身体の内側から温かな力が広がっていく。優しくも力強いその感覚に、奏音は息を呑んだ。
(マエストロが……反応している!?)
拓人の内に宿るマエストロが、静かに輝きを増していた。その響きに呼応するように、奏音の中で眠っていた〝音色〟も震え始める。兄の想いと妹の願いが、ひとつの旋律を奏でていた。
(この感覚……前にも……)
脳裏をよぎったのは、月山国光戦。天馬が化身を発現させた、あの日にも、胸が高鳴った。
「……これは……!」
その瞬間、奏音の足元から黒いオーラが静かに立ち昇る。細い煙のようだったそれは、みるみる濃さを増し、風を巻き込みながら大きく膨れ上がっていく。赤いリボンが激しく揺れた。
「奏音っ!」
拓人が目を見開く。妹を包む力に呼応するように、マエストロの輪郭が淡く揺らめいた。天馬も、剣城も、思わず動きを止めた。
「この感じ……まさか!」
ベンチでは円堂が身を乗り出す。マネージャーたちも息を呑んだ。黒いオーラの奥、まだ姿は見えない。それでも確かに〝何か〟がいた。巨大で神秘的で、まるで舞台の幕が上がる瞬間を待つ演奏者のように。
(私にも……私にも、化身が――)
期待が胸いっぱいに広がる。あと少し、あと少しで届く――。
そのとき、誰かが音もなく手をかざした。
誰一人、その動きに気づかない。伸ばされた手の先で、目に見えない何かがかすかに揺らいだ。
(……あ、れ……?)
奏音を包んでいた黒いオーラへ、突然ノイズが走る。ぞわり、と悪寒が全身を駆け抜けた。まるで首筋へ冷たい刃を突きつけられたような圧迫感。
(な、に……!?)
鼓動が速まり、呼吸が浅くなる。せっかく集まり始めた力が、何かに引き裂かれるように霧散していく。
(だめ……! 消えないで……!)
化身を出さなければ。そう焦るほど、力をうまく保てなくなっていった。
「や……やだ、そんなぁっ!」
パァンッ! 乾いた破裂音が響き、奏音の身体が弾き飛ばされた。
「きゃあっ!」
氷上へ倒れ込んだ瞬間、黒いオーラは霧のようにほどけ、雪風の中へ消えていった。
「……っ」
剣城は、倒れた奏音から目を離せなかった。強く握り締めた拳が、かすかに震えている。
その背後に、騎士を思わせる影が一瞬揺らめいた。瞬きをする間もなく消えたが、剣城の額には汗が浮かび、苦しげな息が漏れる。
その異変を、拓人は見逃さなかった。
つい先ほどまで感じられた奏音との繋がりが、唐突に途絶えたような気がしたのだ。
(今のは……?)
拓人は剣城へ視線を向ける。しかし、剣城は何事もなかったかのように表情を引き締め、再びピッチへと目を向けていた。
離れた場所では、フィフスセクターの配下――黒木が静かにその光景を見つめていた。
帽子のつばの下で、口元だけがわずかにつり上がる。
「奏音先輩!」
狩屋の声に、奏音は顔を上げた。歯を食いしばって身体を起こそうとするが、膝に力が入らず、再びよろめいてしまう。それでも、試合はまだ終わっていない。
「ぐっ……マサキくん、シュートを止めて!」
「はい!」
狩屋は力強く返事をすると、迷いなく駆け出した。天馬の負担を少しでも軽くしようと、雪村のシュートコースへ身を躍らせる。
「ハンターズネット!」
幾重にも張り巡らされた網が、雪村の化身シュートを包み込む。止めきることはできなかったが、その勢いを確かに削いでいた。
「なんとかするんだ!」
天馬の背後に魔神ペガサスが現れ、雪村の化身シュートを正面から受け止めようとする。
次の瞬間、轟音とともにボールが弾き返された。それはゴールラインを割ることなく、サイドラインの外へと大きく逸れていった。
「なに!? 化身で蹴り返すなんて……!」
雪村が目を見開く。白恋中、最後の攻撃は――届かなかった。
そして試合終了を告げるホイッスルが、雪に包まれたスタジアムへ高らかに響き渡る。
三対二。雷門は最後までリードを守り抜き、激闘を制した。
「やったー! 守り切った!」
天馬が勢いよく右腕を突き上げる。
その瞬間、歓声を上げながら、雷門イレブンが一斉に天馬のもとへ駆け寄る。互いに肩を叩き合い、勝利の喜びを爆発させた。
「なんてやつらじゃ……!」
一方、白恋中のベンチでは、熊崎が敗戦を受け入れられず、地面に膝をついていた。
黒木は、取り乱す熊崎を一瞥した。もはや、彼の関心は試合の勝敗にはない。視線の先にいるのは、神童奏音ただ一人だった。あの瞬間、確かに空気が震えた。
「まさか再び目にするとは……化身の共鳴現象」
低く漏れた声には、驚きよりも歓喜が混じっていた。化身は、フィフスセクターでも特別な才能として扱われる力。女子選手でこれを扱える者は、ごくわずかしかいない。
そのうえ、兄妹の化身が互いに呼応するとなれば、なおさら珍しい。
この少女を手中に収めれば、フィフスセクターの新たな切り札となる。黒木は静かに懐から通信端末を取り出した。
「対象は――神童奏音。即座に確保してください」
冷徹な命令だけを残す。
『了解しました』
通信の向こうから返る無機質な返答。
「あなたの力は、我らが〝秩序〟のために使わせてもらいます」
帽子のつばを軽く下げる。口元には、薄く笑みが浮かんでいた。静かな足音だけを残し、黒木はスタジアムをあとにする。
その頃、白恋中の選手たちはピッチに座り込み、敗北の悔しさを滲ませながらも、不思議と晴れやかな表情を浮かべていた。
「吹雪先輩……これが、あなたの言っていたサッカーなんですね」
雪村が顔を上げる。その先には、ゆっくり歩み寄る吹雪の姿があった。吹雪は穏やかに微笑み、右手を差し出す。
「サッカー、また一緒にやろうな。雪村」
「……吹雪先輩!」
力強く重なる二人の手。そこにはもう、迷いも後悔もなかった。
その少し離れた場所。雷門ベンチの近くで、奏音は俯いていた。仲間たちの歓声も、今は遠くに聞こえる。
(あと少しだったのに……)
胸へそっと手を当てる。あの温かな光。身体中を満たした力。化身は確かに応えようとしてくれた。それなのに――。
「……出せなかった」
ぽつりと漏れた声が、ひどく弱々しく響いた。
(拓にぃの力になりたかったのに……!)
悔しさをこらえるように、拳を握り締めた。
「奏音」
優しい声が降ってくる。顔を上げると、拓人が静かに立っていた。
「……ごめん、拓にぃ」
「何を謝る」
「化身、出せなかった……」
拓人は静かに首を振る。
「俺が、一度失敗したくらいでお前に失望すると思うか」
その言葉に、奏音は目を丸くした。拓人はそっと妹の頭へ手を置く。雪で少し冷えた髪を、優しく撫でながら微笑んだ。
「焦る必要はない。化身は無理に引き出すものじゃない。お前が自分だけの音色を見つけた時、必ず応えてくれる」
「……でも」
「今日、お前は確かに前へ進んだ」
拓人の言葉が、胸にじんわりと染みた。失敗を責めることなく、ただ奏音の可能性を信じてくれている。その揺るぎない信頼が、何より心強かった。
「だから、胸を張れ」
奏音はゆっくりとうなずく。
「……うん」
大きく息を吸い込む。冷たい空気が肺いっぱいに広がり、張り詰めていた気持ちが少しずつほどけていく。
「次はぜーったいに成功させるから!」
拓人は小さく笑った。
「ああ」
それだけで十分だった。その短い返事には、妹なら必ず乗り越えられるという揺るぎない信頼が込められていた。
奏音は氷に覆われたピッチをもう一度見つめる。
(次こそは……自分の力で化身を発現させるんだ!)
胸の奥で、小さな光が静かに揺れた。まだ形にならない自分だけの音色を探すため、奏音は兄と肩を並べ、前へと歩き出した。
凍てついたピッチでは、選手たちの吐く息が淡く霞んでいた。その中央で、雷門は必死にゴールを守っていた。
三国の負傷によって、急遽ゴールマウスを任されたのは天馬だった。フィールドプレイヤーである彼がキーパーを務めるのは、海王戦に続いて二度目。それでも今は、最後尾に立ってゴールを守るしかない。
「絶対に、ゴールを割らせるな!」
拓人の声が飛ぶ。天馬ひとりに負担をかけまいと、雷門の選手たちは一斉に動いた。そのとき、白恋の攻撃がゴール前へ迫る。
信助のヘディングで浮いたボールに、白恋のエースストライカー・雪村が駆け込んできた。その前に、天馬が飛び出した。身体ごとボールへ向かい、両手でしっかりと抱え込む。雪村の足が止まった。
「信助、大丈夫?」
「へへっ、平気だよ!」
鼻の下を擦りながら、得意げに答える信助。天馬は笑って頷いた。
そのやり取りを、雪村は黙って見つめていた。天馬は自分のプレーを喜ぶより先に、仲間を気にかけている。
雪村は、無意識に拳を握った。胸の奥に生まれた言葉にならない感情を持て余したまま、試合は一進一退の展開を続けていく。
やがて、白恋の中盤にわずかな隙が生まれた。それを見逃さなかった拓人の目が、鋭く細められる。
――神のタクト。
拓人が腕を振る。その動きに呼応するように、フィールドへ光のラインが走った。まるで見えない五線譜が描かれていくように、雷門の選手たちを繋ぐ道筋が次々と浮かび上がる。
奏音は、拓人が描く光の道筋を見つめた。その軌跡を追ううちに、兄の意図が自然と伝わってくる。一歩踏み出した。
「……合わせるよ! 拓にぃ!」
両手を胸の前へ。そこから、静かに左右へ広げる。
――神のカノン。
指先が空間をなぞる。生まれた光の音符が、拓人の描いたラインを追うように配置されていく。先に示される旋律に、もうひとつの音が重なる。指揮と追奏がひとつになり、光の音符が鮮やかに輝いた。
「天馬!」
「はい!」
拓人の声に応じ、天馬がボールを蹴り出す。その先へ、拓人が駆け込んでいた。
「影山くん!」
「はい!」
奏音の声に応じ、拓人から影山へボールが渡る。神のカノンによって研ぎ澄まされた連携は、普段以上の精度で噛み合っていた。
「錦!」
拓人が呼ぶ。光のラインが錦へ伸びる。
「錦先輩!」
「このチャンス、逃さんぜよ!」
影山からボールを受け取った錦が、前へ飛び出す。
「アクロバットキープ!」
錦は鋭く身を翻し、迫る北厳をかわす。氷を蹴って前進した錦の視線の先には、パスを受ける準備を整えた拓人がいた。
奏音が描いた最後の音符が、拓人の足元へと光を繋ぐ。拓人がボールを受け取った。一瞬だけ、奏音と目が合う。言葉はない。それだけで、分かった。
音符の光が淡く輝き、拓人の身体へと溶け込む。その瞬間、拓人の瞳に強い光が宿った。
奏音は、ゆっくりと両手を下ろす。兄の背中を押すように、二人の旋律が静かにフィールドへ溶けていった。
「――奏者マエストロ!」
拓人の背後に化身が現れた。青白い髪を揺らし、四本の腕で指揮棒を掲げる。その堂々たる姿を目にした瞬間、奏音の胸の奥で、かすかな音が弾けた。
「……えっ?」
身体の内側に広がった淡い振動は、すぐに消えてしまう。何だったのか考える間もなく、目の前ではマエストロが指揮棒を振り上げていた。
「ハーモニクス!」
澄み切った音色が、張り詰めた空気を震わせた。放たれたボールが、白銀のフィールドを一直線に駆け抜ける。白咲が両手を伸ばすが、ボールはその手をすり抜け――ゴールネットを大きく揺らした。
次の瞬間、歓声がスタジアムを揺らした。雷門の選手たちが一斉に拳を突き上げる。逆転だ。仲間たちの喜ぶ姿を見て、奏音の胸にも熱いものが込み上げた。
「これが……雷門なのか……!?」
雪村の呟きに、白恋の選手たちは呆然と雷門を見つめていた。仲間を信じ、最後まで諦めずにボールを追う。そのひたむきな姿が、彼らの胸にも届いていた。
雪村が、ゆっくりとベンチへ視線を向ける。そこにいるのは、元白恋のコーチ・吹雪士郎。彼を見返すために、雪村はフィフスセクターのサッカーを受け入れた。だが、目の前にある雷門のサッカーを見ていると、その決意が揺らいでいく。
奏音は、雪村の横顔を見つめた。その瞳に宿る光を見て、ほかの白恋の選手たちも同じ思いを抱いているのだと感じた。
誰かに決められたサッカーではなく、自分たちの意思でボールを追いたい――彼らの表情には、そんな願いが浮かんでいた。
「行くぞ!」
試合が再開される。ボールを受け取った雪村が、力強く駆け出した。
「絶対に逆転してやる!」
雪村の叫びが、凍てつく空気を突き破る。白恋の選手たちは力強く頷き、氷里へボールをつないだ。
「何をやっとる!? 石にボールを渡せ!」
ベンチから、フィフスセクターが送り込んだ監督・熊崎の怒声が飛ぶ。
「こっちだ!」
氷里は、前を走る石ではなく、横を駆ける留萌へボールを送った。その瞬間、熊崎が目を見開く。これまでの白恋では、考えられないプレーだった。
「お前たち! 言うことを聞け!」
続けて、シードでもある白恋のキャプテン・白咲が声を張り上げる。それでも選手たちは足を止めなかった。
「無駄だよ」
真狩が、はっきりと言った。
「もう、フィフスセクターには従わない」
白恋の選手たちは顔を見合わせた。誰も、その言葉を否定しない。その様子を見て、奏音の口元がほんの少し緩んだ。
白いボールが氷上を滑るようにつながっていく。一つひとつのパスに、諦めないという意思が宿っていた。
白恋中、渾身の総攻撃。ベンチ前では、吹雪がその姿を見つめていた。かつて自分が導いた後輩たちが、自らの意思で道を切り開いていく。その姿に、吹雪は拳を握り、誇らしげに目を細めた。
「今度こそ……ゴールを奪う!」
雪村は一気にゴール前へと駆け上がった。
「頑張れ、雪村!」
ベンチから響いた吹雪の声に、雪村ははっと顔を上げる。
「……先輩!」
その声援が、雪村の心に再び火を灯した。まだ終わりたくない。自分たちのサッカーを、ここで終わらせるわけにはいかない。
「はあああああっ!」
雪村の背後に、氷の槍を携えた女性の化身が姿を現した。雪風をまとったその姿は美しく、幻想的な威厳を漂わせている。
「――豪雪のサイア!」
雪村がボールを高く蹴り上げた。冷気が渦巻き、舞い上がった雪が白銀の柱となって天へ伸びる。
「アイシクルロード!」
極寒の力を帯びたシュートが放たれた。一直線に伸びる氷の道が、雷門のゴールへと迫る。
ゴール前に立つ奏音は、目の前に迫るその軌道を真っ直ぐに見据えた。
「みんなで繋いだ一点だもん! 絶対に守る!」
その瞬間、胸の奥で、どくん、と何かが大きく脈打った。
(……え? また、この感覚……!?)
凍てつく空気の中、身体の内側から温かな力が広がっていく。優しくも力強いその感覚に、奏音は息を呑んだ。
(マエストロが……反応している!?)
拓人の内に宿るマエストロが、静かに輝きを増していた。その響きに呼応するように、奏音の中で眠っていた〝音色〟も震え始める。兄の想いと妹の願いが、ひとつの旋律を奏でていた。
(この感覚……前にも……)
脳裏をよぎったのは、月山国光戦。天馬が化身を発現させた、あの日にも、胸が高鳴った。
「……これは……!」
その瞬間、奏音の足元から黒いオーラが静かに立ち昇る。細い煙のようだったそれは、みるみる濃さを増し、風を巻き込みながら大きく膨れ上がっていく。赤いリボンが激しく揺れた。
「奏音っ!」
拓人が目を見開く。妹を包む力に呼応するように、マエストロの輪郭が淡く揺らめいた。天馬も、剣城も、思わず動きを止めた。
「この感じ……まさか!」
ベンチでは円堂が身を乗り出す。マネージャーたちも息を呑んだ。黒いオーラの奥、まだ姿は見えない。それでも確かに〝何か〟がいた。巨大で神秘的で、まるで舞台の幕が上がる瞬間を待つ演奏者のように。
(私にも……私にも、化身が――)
期待が胸いっぱいに広がる。あと少し、あと少しで届く――。
そのとき、誰かが音もなく手をかざした。
誰一人、その動きに気づかない。伸ばされた手の先で、目に見えない何かがかすかに揺らいだ。
(……あ、れ……?)
奏音を包んでいた黒いオーラへ、突然ノイズが走る。ぞわり、と悪寒が全身を駆け抜けた。まるで首筋へ冷たい刃を突きつけられたような圧迫感。
(な、に……!?)
鼓動が速まり、呼吸が浅くなる。せっかく集まり始めた力が、何かに引き裂かれるように霧散していく。
(だめ……! 消えないで……!)
化身を出さなければ。そう焦るほど、力をうまく保てなくなっていった。
「や……やだ、そんなぁっ!」
パァンッ! 乾いた破裂音が響き、奏音の身体が弾き飛ばされた。
「きゃあっ!」
氷上へ倒れ込んだ瞬間、黒いオーラは霧のようにほどけ、雪風の中へ消えていった。
「……っ」
剣城は、倒れた奏音から目を離せなかった。強く握り締めた拳が、かすかに震えている。
その背後に、騎士を思わせる影が一瞬揺らめいた。瞬きをする間もなく消えたが、剣城の額には汗が浮かび、苦しげな息が漏れる。
その異変を、拓人は見逃さなかった。
つい先ほどまで感じられた奏音との繋がりが、唐突に途絶えたような気がしたのだ。
(今のは……?)
拓人は剣城へ視線を向ける。しかし、剣城は何事もなかったかのように表情を引き締め、再びピッチへと目を向けていた。
離れた場所では、フィフスセクターの配下――黒木が静かにその光景を見つめていた。
帽子のつばの下で、口元だけがわずかにつり上がる。
「奏音先輩!」
狩屋の声に、奏音は顔を上げた。歯を食いしばって身体を起こそうとするが、膝に力が入らず、再びよろめいてしまう。それでも、試合はまだ終わっていない。
「ぐっ……マサキくん、シュートを止めて!」
「はい!」
狩屋は力強く返事をすると、迷いなく駆け出した。天馬の負担を少しでも軽くしようと、雪村のシュートコースへ身を躍らせる。
「ハンターズネット!」
幾重にも張り巡らされた網が、雪村の化身シュートを包み込む。止めきることはできなかったが、その勢いを確かに削いでいた。
「なんとかするんだ!」
天馬の背後に魔神ペガサスが現れ、雪村の化身シュートを正面から受け止めようとする。
次の瞬間、轟音とともにボールが弾き返された。それはゴールラインを割ることなく、サイドラインの外へと大きく逸れていった。
「なに!? 化身で蹴り返すなんて……!」
雪村が目を見開く。白恋中、最後の攻撃は――届かなかった。
そして試合終了を告げるホイッスルが、雪に包まれたスタジアムへ高らかに響き渡る。
三対二。雷門は最後までリードを守り抜き、激闘を制した。
「やったー! 守り切った!」
天馬が勢いよく右腕を突き上げる。
その瞬間、歓声を上げながら、雷門イレブンが一斉に天馬のもとへ駆け寄る。互いに肩を叩き合い、勝利の喜びを爆発させた。
「なんてやつらじゃ……!」
一方、白恋中のベンチでは、熊崎が敗戦を受け入れられず、地面に膝をついていた。
黒木は、取り乱す熊崎を一瞥した。もはや、彼の関心は試合の勝敗にはない。視線の先にいるのは、神童奏音ただ一人だった。あの瞬間、確かに空気が震えた。
「まさか再び目にするとは……化身の共鳴現象」
低く漏れた声には、驚きよりも歓喜が混じっていた。化身は、フィフスセクターでも特別な才能として扱われる力。女子選手でこれを扱える者は、ごくわずかしかいない。
そのうえ、兄妹の化身が互いに呼応するとなれば、なおさら珍しい。
この少女を手中に収めれば、フィフスセクターの新たな切り札となる。黒木は静かに懐から通信端末を取り出した。
「対象は――神童奏音。即座に確保してください」
冷徹な命令だけを残す。
『了解しました』
通信の向こうから返る無機質な返答。
「あなたの力は、我らが〝秩序〟のために使わせてもらいます」
帽子のつばを軽く下げる。口元には、薄く笑みが浮かんでいた。静かな足音だけを残し、黒木はスタジアムをあとにする。
その頃、白恋中の選手たちはピッチに座り込み、敗北の悔しさを滲ませながらも、不思議と晴れやかな表情を浮かべていた。
「吹雪先輩……これが、あなたの言っていたサッカーなんですね」
雪村が顔を上げる。その先には、ゆっくり歩み寄る吹雪の姿があった。吹雪は穏やかに微笑み、右手を差し出す。
「サッカー、また一緒にやろうな。雪村」
「……吹雪先輩!」
力強く重なる二人の手。そこにはもう、迷いも後悔もなかった。
その少し離れた場所。雷門ベンチの近くで、奏音は俯いていた。仲間たちの歓声も、今は遠くに聞こえる。
(あと少しだったのに……)
胸へそっと手を当てる。あの温かな光。身体中を満たした力。化身は確かに応えようとしてくれた。それなのに――。
「……出せなかった」
ぽつりと漏れた声が、ひどく弱々しく響いた。
(拓にぃの力になりたかったのに……!)
悔しさをこらえるように、拳を握り締めた。
「奏音」
優しい声が降ってくる。顔を上げると、拓人が静かに立っていた。
「……ごめん、拓にぃ」
「何を謝る」
「化身、出せなかった……」
拓人は静かに首を振る。
「俺が、一度失敗したくらいでお前に失望すると思うか」
その言葉に、奏音は目を丸くした。拓人はそっと妹の頭へ手を置く。雪で少し冷えた髪を、優しく撫でながら微笑んだ。
「焦る必要はない。化身は無理に引き出すものじゃない。お前が自分だけの音色を見つけた時、必ず応えてくれる」
「……でも」
「今日、お前は確かに前へ進んだ」
拓人の言葉が、胸にじんわりと染みた。失敗を責めることなく、ただ奏音の可能性を信じてくれている。その揺るぎない信頼が、何より心強かった。
「だから、胸を張れ」
奏音はゆっくりとうなずく。
「……うん」
大きく息を吸い込む。冷たい空気が肺いっぱいに広がり、張り詰めていた気持ちが少しずつほどけていく。
「次はぜーったいに成功させるから!」
拓人は小さく笑った。
「ああ」
それだけで十分だった。その短い返事には、妹なら必ず乗り越えられるという揺るぎない信頼が込められていた。
奏音は氷に覆われたピッチをもう一度見つめる。
(次こそは……自分の力で化身を発現させるんだ!)
胸の奥で、小さな光が静かに揺れた。まだ形にならない自分だけの音色を探すため、奏音は兄と肩を並べ、前へと歩き出した。
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