交わるインテルメッツォ(GO25話)
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午後の陽射しが白いカーテン越しに差し込み、床に淡い光の帯を描いていた。ベッドの上で外を眺めていた優一は、扉が開く音に振り返り、訪れた相手を見て穏やかに微笑んだ。
「来たか、京介」
剣城は小さく頷き、ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
革命のこと、白恋戦へ向けて動き始めた新たな必殺タクティクスのこと。一つ話し始めると、次から次へと言葉があふれた。思っていた以上に、自分は兄に話したいことがあったらしい。
優一は、そんな弟を見つめていた。少し前までの剣城は、自分一人で抱え込み、自分一人で戦おうとしていた。
それが今では、仲間の話をしながら笑い、ときには呆れたように肩をすくめる。その変化が、優一には何よりもうれしかった。
「京介」
「……なんだ」
「お前、本当に変わったな」
剣城は怪訝そうに眉を寄せる。
「今のお前、雷門のみんなの話ばかりだな」
優一は少しだけ間を置くと、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「……特に、奏音ちゃんの話は多い」
「……っ!」
剣城の肩がぴくりと揺れた。
「な、何言ってるんだ、兄さん」
「今日だけでも、何度奏音ちゃんの名前を聞いたことか」
「……たまたまだ」
「本当か?」
優一はくすりと笑い、弟の反応を面白そうに眺める。
「無意識っていうのが、一番わかりやすいんだけどな」
その一言に、剣城は返す言葉を失う。優一は楽しそうに笑いながら、ぽつりと言った。
「それだけ気になる存在なんじゃないか?」
何気ないひと言のはずなのに、なぜか頭から離れなかった。
(気になる……?)
幼なじみだから。昔から知っている相手だから。そう思っていたはずなのに、彼女のことを考えると、心が揺れる。
「京介」
「……なんだ」
「奏音ちゃんとは……付き合っているわけじゃないんだろ?」
剣城は一瞬、目を伏せた。
「ああ。あいつとは、そういうんじゃない」
「そうか」
優一は穏やかに頷いた。
「なら、なおさら伝えた方がいい」
「……何を」
「お前の気持ちを」
「俺の……?」
自分に、そんな気持ちがあるのだろうか。そう考えた途端、脳裏に浮かんだのは、拓人の隣で笑う彼女の姿だった。その光景を思い浮かべた途端、自分でも理由の分からない落ち着かなさが、剣城の中に残っていた。
「そんな必要――」
「ある」
優一の声は、いつもと変わらず穏やかだった。けれど、その一言には揺るぎない確信があった。
「大切な人に、自分の想いを伝えられる時間は、いつまでもあるとは限らないからな」
その言葉が、剣城の胸へ深く沈んでいく。考えたこともなかった。奏音はいつも雷門にいて、拓人の隣で笑っている。その光景が当たり前になっていた。
その当たり前は永遠ではない。いつか彼女にも、拓人より大好きな誰かができる日が来るのかもしれない。その隣にいるのが、自分ではなかったら――想像しただけで、息が詰まりそうになった。
(……嫌だ)
あまりにも自然に浮かんだ感情に、剣城自身が驚く。優一は何も言わず、そんな弟をそっと見守っていた。
***
病院を出ると、夕暮れの風が熱を帯びた頬をかすめた。茜色に沈む街を、剣城は黙って歩く。頭の中では、兄の言葉だけが何度も響いていた。
雷門での日々は、少しずつ剣城の心を変えていた。仲間と笑い、勝利を喜び、全力でボールを追いかける。かつては考えられなかったほど、サッカーが楽しいと思えるようになっていた。そして、その日々にはいつも奏音がいた。
フィフスセクターを倒し、サッカーを取り戻す。それは今も変わらない目標だ。
けれど、革命が終われば、奏音は再び留学先へ戻る。
彼女が日本へ帰ってきたのは、拓人を支え、雷門の一員として革命を成し遂げるため。奏音自身、いつかは向こうへ戻るつもりでいると話していた。
そのときは、そういうものだと思った。奏音が帰国した理由も、いずれ戻ることも、理解していたはずだった。
なのに今は、彼女と過ごせる時間に限りがあることが、ひどく惜しく感じられる。
いつの間にか、足は幼い頃によく遊んだ公園へ向いていた。夕日に照らされたブランコと、色褪せたベンチ。懐かしい景色の向こうから、乾いたシュート音が聞こえてくる。
「……奏音」
思わず、その名が唇から零れた。公園の片隅では、奏音がフェンスをゴール代わりに、何度もシュートを打っていた。額に汗を滲ませ、肩で息をしながらも、ボールを追う足は止まらない。
失敗してもすぐにボールを拾い、再びゴールを狙う。その真剣な横顔に、剣城は目を奪われた。
(自主練か……)
白恋戦まで、もう時間はない。必殺タクティクスの練習だけでなく、自分自身の力も高めようとしているのだろう。奏音らしい、と剣城は思った。
声をかけるべきか、一瞬だけ迷う。だが、真剣な表情でボールを追う彼女の姿を見て、邪魔をする気にはなれなかった。
剣城は少し離れた場所へ立ち、そっと見守る。その時だった。
「……っ」
奏音の動きがぴたりと止まった。ボールが足元から離れ、芝の上をゆっくりと転がっていく。
「はぁ……っ、はぁ……」
荒い息を繰り返しながら、奏音は胸元を押さえた。疲労だけではない何かに耐えるように、その肩が小さく震えている。
(どうした……?)
直後、背筋を冷たいものが駆け抜ける。奏音の背後で、空気がゆらりと揺らいだ。熱気で景色が歪むように、空間そのものが波打ち始める。やがて、その歪みの奥から巨大な人影がゆっくりと輪郭を現そうとしていた。
「……!」
剣城の瞳が大きく見開かれる。見間違えるはずがない。シード候補生だった頃、何度も目にしてきた光景。極限まで精神を追い込み、眠っていた力が姿を現そうとする、あの瞬間だった。
(化身覚醒……!)
まだ完全な姿ではない。それでも、奏音の中で何かが目覚めようとしているのは明らかだった。その気配に呼応するように、剣城の身体にも熱が込み上げる。光の粒が風に舞い、背後へ集まり始めた。
(共鳴している……!)
奏音の化身に反応し、ランスロットまでもが姿を現そうとしていた。
(まずい……!)
奏音はまだ、自分の身に何が起きているのか理解していない。化身は強大な力だ、覚醒の瞬間は精神も肉体も限界まで消耗する。制御できなければ、本人へどれほどの負担がかかるか分からない。
何より――無理に覚醒すれば、心まで壊れてしまうこともある。それを、剣城は知っていた。だからこそ、迷う理由はなかった。地面を強く蹴る。
「奏音!」
「えっ……?」
突然名前を呼ばれ、奏音が驚いたように振り返る。その手首を、剣城は勢いよく掴んだ。
「わわっ!」
剣城は奏音の手首を掴み、咄嗟に自分のもとへ引き寄せた。そのまま数歩後ろへ下がる。直後、空気を満たしていた圧迫感がふっと消えた。
歪んでいた空間が元に戻り、浮かびかけていた巨大な影も夕暮れの中へ溶けていく。ランスロットの気配も、静かに遠のいていった。
(……間に合った)
剣城は胸を撫で下ろした。
一方の奏音は、何が起きたのか分からない様子で瞬きを繰り返していた。
「京ちゃん……? どうしたの?」
不思議そうに首を傾げた直後、奏音の身体からふっと力が抜けた。
「……あれ?」
奏音の身体がふらりと傾く。剣城は咄嗟にその身体を支えた。
「大丈夫か」
「う、うん……なんだろう。急に力が入らなくなっちゃって……」
息を整えながら、奏音は不思議そうに首を傾げた。剣城はその様子を見つめる。本人は、何が起きたのか気づいていない。今はまだ、伝えるべきではない。そう判断し、剣城は口を閉ざした。
「……自主練か?」
声が少しだけ硬くなる。何事もなかったように話題を変える。突然の問いかけに、奏音はきょとんと目を瞬かせたが、すぐに花が咲くような笑顔を浮かべた。
「うん! 必殺タクティクスも大事だけど、自分にもできることをやらなくちゃって思って!」
さっきまで苦しそうにしていたのが嘘のような、いつもの明るい声だった。
「円堂監督がね、新しい特訓メニューを考えてくれたの!」
奏音は嬉しそうにボールを抱き寄せる。
「『今の神童妹なら、もっと伸びる』って言ってくれて!」
その一言がどれほど嬉しかったのか、弾んだ声が何よりも物語っていた。
「だからね、私も応えたいんだ。もっと上手くなれるように、毎日頑張るって決めたの!」
無邪気に笑う奏音を見つめながら、剣城は拳を握る。
(……やはり)
奏音の中で、何かが目覚め始めている。もし、また同じことが起きたら――。
(……俺が見ていないと)
剣城は小さく息を吐いた。化身のことも、これからの戦いも、考えなければならないことは多い。けれど、目の前の奏音は、そんなことなど何も知らずに笑っていた。
「京ちゃん!」
弾む声に顔を上げると、奏音はすでにボールを足元へ置いていた。
「いくよ!」
軽くリフティングしたボールを、つま先で浮かせる。剣城は自然と腰を落とした。落下地点へ踏み込み、ボールへ足を伸ばす。だが次の瞬間、奏音は身体をひねり、軽やかな動きでボールをかわした。
「ふふーん、引っかかった!」
得意げに笑う奏音を見て、剣城も思わず口元を緩めた。
「……やるな」
夕焼け色に染まった公園を、二人の影が軽やかに駆ける。ボールを奪い合い、フェイントを仕掛け、ときには相手の動きを読み合う。
試合のためでも、革命のためでもない。ただ二人でサッカーを楽しむ。その時間が、剣城には不思議なほど心地よかった。
「やっぱり京ちゃん、守備うまいなぁ」
「お前もな」
「特訓の成果だよ」
奏音は嬉しそうに笑いながら、再びボールを運ぶ。剣城はその動きを追いながら、ふと気づく。何度失敗しても、また笑ってボールを追いかける。昔から、その姿は何一つ変わらない。
「ねぇ、京ちゃん」
「なんだ」
「こうして向かい合ってボールを追いかけてるとさ」
奏音はくるりとターンを決め、リズムを刻むようにボールを運ぶ。
「なんだかダンスを踊ってるみたいだね」
その言葉に、剣城は一瞬だけ目を細めた。
ダンス。言われてみれば、確かに似ているのかもしれない。相手の動きを感じ取り、次の一歩を読み合う。言葉を交わさなくても、ボール一つで互いの意思が伝わっていく。
剣城は少しだけ視線を逸らした。そして、気づけば口から言葉がこぼれていた。
「……俺とのダンスは、楽しいか?」
言った瞬間、自分でも驚く。こんなことを聞くなんて、自分らしくない。
「うん!」
奏音は迷うことなく頷いた。
「すっごく楽しい!」
茜色の光に照らされた笑顔が、まぶしいほど輝いていた。
「京ちゃんとサッカーしてるとね、不思議なの」
奏音はボールを抱き寄せながら、少し照れくさそうに笑う。
「時間があっという間に過ぎちゃうんだ」
「……そうか」
それだけ答えるのが精いっぱいだった。兄に指摘されたばかりの自分の気持ちが、彼女の何気ないひと言で揺さぶられる。こんなにも簡単に調子を狂わされるなんて、思ってもいなかった。
「ほら、ぼーっとしてると取っちゃうよ!」
奏音が悪戯っぽく笑いながらボールを蹴り出す。
「甘いな」
剣城もすぐに反応し、再びボールを追った。公園には、ボールを蹴る乾いた音と二人の笑い声が心地よく響いていた。
その頃、奏音もまた、小さな違和感を覚えていた。
(……あれれ?)
ボールを奪い合うたび、自然と目が合う。剣城は、いつも真っ直ぐ自分を見つめていた。その眼差しは真剣なのに、以前よりどこか柔らかく、優しい。
(なんでだろう……)
走っているから。たくさん動いたから。きっと、そのせい。そう言い聞かせても、胸の奥で跳ねる鼓動は、なかなか落ち着いてくれなかった。
「京ちゃん!」
名前を呼ぶと、剣城はすぐに顔を上げる。その瞬間、また目が合った。どちらからともなく笑みがこぼれる。
その理由を、二人ともまだ知らない。胸に芽生え始めた小さな想いは、夕暮れの風に背中を押されるように、少しずつ同じ未来へ歩き始めていた。
ひとしきりボールを蹴り合ったあと、二人は公園のベンチへ並んで腰を下ろした。火照った身体を夕風が優しく撫でていく。
奏音はペットボトルのお茶をひと口飲み、懐かしそうに公園を見渡した。
「懐かしいよね、この公園! よくここで京ちゃんとボールを蹴ってたなあ……」
「ああ。いつもここで遊んでたよな」
剣城も周囲へ目を向けた。幼い頃には何より広く感じた公園も、今ではどこか小さく見える。
「あそこだよね」
奏音がグラウンドの隅を指差す。
「京ちゃんと初めてサッカーした場所」
剣城は視線を和らげる。六年前、まだ小学生だった頃の記憶がゆっくりと蘇る。
「ねぇ」
奏音が首を傾げる。
「どうしてあの日、私に話しかけてくれたの?」
剣城は少しだけ黙り込んだ。夕焼け空を見上げ、息を吐く。
「あの日――」
穏やかな声とともに、記憶は遠い夏の日へと溶けていった。
「来たか、京介」
剣城は小さく頷き、ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
革命のこと、白恋戦へ向けて動き始めた新たな必殺タクティクスのこと。一つ話し始めると、次から次へと言葉があふれた。思っていた以上に、自分は兄に話したいことがあったらしい。
優一は、そんな弟を見つめていた。少し前までの剣城は、自分一人で抱え込み、自分一人で戦おうとしていた。
それが今では、仲間の話をしながら笑い、ときには呆れたように肩をすくめる。その変化が、優一には何よりもうれしかった。
「京介」
「……なんだ」
「お前、本当に変わったな」
剣城は怪訝そうに眉を寄せる。
「今のお前、雷門のみんなの話ばかりだな」
優一は少しだけ間を置くと、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「……特に、奏音ちゃんの話は多い」
「……っ!」
剣城の肩がぴくりと揺れた。
「な、何言ってるんだ、兄さん」
「今日だけでも、何度奏音ちゃんの名前を聞いたことか」
「……たまたまだ」
「本当か?」
優一はくすりと笑い、弟の反応を面白そうに眺める。
「無意識っていうのが、一番わかりやすいんだけどな」
その一言に、剣城は返す言葉を失う。優一は楽しそうに笑いながら、ぽつりと言った。
「それだけ気になる存在なんじゃないか?」
何気ないひと言のはずなのに、なぜか頭から離れなかった。
(気になる……?)
幼なじみだから。昔から知っている相手だから。そう思っていたはずなのに、彼女のことを考えると、心が揺れる。
「京介」
「……なんだ」
「奏音ちゃんとは……付き合っているわけじゃないんだろ?」
剣城は一瞬、目を伏せた。
「ああ。あいつとは、そういうんじゃない」
「そうか」
優一は穏やかに頷いた。
「なら、なおさら伝えた方がいい」
「……何を」
「お前の気持ちを」
「俺の……?」
自分に、そんな気持ちがあるのだろうか。そう考えた途端、脳裏に浮かんだのは、拓人の隣で笑う彼女の姿だった。その光景を思い浮かべた途端、自分でも理由の分からない落ち着かなさが、剣城の中に残っていた。
「そんな必要――」
「ある」
優一の声は、いつもと変わらず穏やかだった。けれど、その一言には揺るぎない確信があった。
「大切な人に、自分の想いを伝えられる時間は、いつまでもあるとは限らないからな」
その言葉が、剣城の胸へ深く沈んでいく。考えたこともなかった。奏音はいつも雷門にいて、拓人の隣で笑っている。その光景が当たり前になっていた。
その当たり前は永遠ではない。いつか彼女にも、拓人より大好きな誰かができる日が来るのかもしれない。その隣にいるのが、自分ではなかったら――想像しただけで、息が詰まりそうになった。
(……嫌だ)
あまりにも自然に浮かんだ感情に、剣城自身が驚く。優一は何も言わず、そんな弟をそっと見守っていた。
***
病院を出ると、夕暮れの風が熱を帯びた頬をかすめた。茜色に沈む街を、剣城は黙って歩く。頭の中では、兄の言葉だけが何度も響いていた。
雷門での日々は、少しずつ剣城の心を変えていた。仲間と笑い、勝利を喜び、全力でボールを追いかける。かつては考えられなかったほど、サッカーが楽しいと思えるようになっていた。そして、その日々にはいつも奏音がいた。
フィフスセクターを倒し、サッカーを取り戻す。それは今も変わらない目標だ。
けれど、革命が終われば、奏音は再び留学先へ戻る。
彼女が日本へ帰ってきたのは、拓人を支え、雷門の一員として革命を成し遂げるため。奏音自身、いつかは向こうへ戻るつもりでいると話していた。
そのときは、そういうものだと思った。奏音が帰国した理由も、いずれ戻ることも、理解していたはずだった。
なのに今は、彼女と過ごせる時間に限りがあることが、ひどく惜しく感じられる。
いつの間にか、足は幼い頃によく遊んだ公園へ向いていた。夕日に照らされたブランコと、色褪せたベンチ。懐かしい景色の向こうから、乾いたシュート音が聞こえてくる。
「……奏音」
思わず、その名が唇から零れた。公園の片隅では、奏音がフェンスをゴール代わりに、何度もシュートを打っていた。額に汗を滲ませ、肩で息をしながらも、ボールを追う足は止まらない。
失敗してもすぐにボールを拾い、再びゴールを狙う。その真剣な横顔に、剣城は目を奪われた。
(自主練か……)
白恋戦まで、もう時間はない。必殺タクティクスの練習だけでなく、自分自身の力も高めようとしているのだろう。奏音らしい、と剣城は思った。
声をかけるべきか、一瞬だけ迷う。だが、真剣な表情でボールを追う彼女の姿を見て、邪魔をする気にはなれなかった。
剣城は少し離れた場所へ立ち、そっと見守る。その時だった。
「……っ」
奏音の動きがぴたりと止まった。ボールが足元から離れ、芝の上をゆっくりと転がっていく。
「はぁ……っ、はぁ……」
荒い息を繰り返しながら、奏音は胸元を押さえた。疲労だけではない何かに耐えるように、その肩が小さく震えている。
(どうした……?)
直後、背筋を冷たいものが駆け抜ける。奏音の背後で、空気がゆらりと揺らいだ。熱気で景色が歪むように、空間そのものが波打ち始める。やがて、その歪みの奥から巨大な人影がゆっくりと輪郭を現そうとしていた。
「……!」
剣城の瞳が大きく見開かれる。見間違えるはずがない。シード候補生だった頃、何度も目にしてきた光景。極限まで精神を追い込み、眠っていた力が姿を現そうとする、あの瞬間だった。
(化身覚醒……!)
まだ完全な姿ではない。それでも、奏音の中で何かが目覚めようとしているのは明らかだった。その気配に呼応するように、剣城の身体にも熱が込み上げる。光の粒が風に舞い、背後へ集まり始めた。
(共鳴している……!)
奏音の化身に反応し、ランスロットまでもが姿を現そうとしていた。
(まずい……!)
奏音はまだ、自分の身に何が起きているのか理解していない。化身は強大な力だ、覚醒の瞬間は精神も肉体も限界まで消耗する。制御できなければ、本人へどれほどの負担がかかるか分からない。
何より――無理に覚醒すれば、心まで壊れてしまうこともある。それを、剣城は知っていた。だからこそ、迷う理由はなかった。地面を強く蹴る。
「奏音!」
「えっ……?」
突然名前を呼ばれ、奏音が驚いたように振り返る。その手首を、剣城は勢いよく掴んだ。
「わわっ!」
剣城は奏音の手首を掴み、咄嗟に自分のもとへ引き寄せた。そのまま数歩後ろへ下がる。直後、空気を満たしていた圧迫感がふっと消えた。
歪んでいた空間が元に戻り、浮かびかけていた巨大な影も夕暮れの中へ溶けていく。ランスロットの気配も、静かに遠のいていった。
(……間に合った)
剣城は胸を撫で下ろした。
一方の奏音は、何が起きたのか分からない様子で瞬きを繰り返していた。
「京ちゃん……? どうしたの?」
不思議そうに首を傾げた直後、奏音の身体からふっと力が抜けた。
「……あれ?」
奏音の身体がふらりと傾く。剣城は咄嗟にその身体を支えた。
「大丈夫か」
「う、うん……なんだろう。急に力が入らなくなっちゃって……」
息を整えながら、奏音は不思議そうに首を傾げた。剣城はその様子を見つめる。本人は、何が起きたのか気づいていない。今はまだ、伝えるべきではない。そう判断し、剣城は口を閉ざした。
「……自主練か?」
声が少しだけ硬くなる。何事もなかったように話題を変える。突然の問いかけに、奏音はきょとんと目を瞬かせたが、すぐに花が咲くような笑顔を浮かべた。
「うん! 必殺タクティクスも大事だけど、自分にもできることをやらなくちゃって思って!」
さっきまで苦しそうにしていたのが嘘のような、いつもの明るい声だった。
「円堂監督がね、新しい特訓メニューを考えてくれたの!」
奏音は嬉しそうにボールを抱き寄せる。
「『今の神童妹なら、もっと伸びる』って言ってくれて!」
その一言がどれほど嬉しかったのか、弾んだ声が何よりも物語っていた。
「だからね、私も応えたいんだ。もっと上手くなれるように、毎日頑張るって決めたの!」
無邪気に笑う奏音を見つめながら、剣城は拳を握る。
(……やはり)
奏音の中で、何かが目覚め始めている。もし、また同じことが起きたら――。
(……俺が見ていないと)
剣城は小さく息を吐いた。化身のことも、これからの戦いも、考えなければならないことは多い。けれど、目の前の奏音は、そんなことなど何も知らずに笑っていた。
「京ちゃん!」
弾む声に顔を上げると、奏音はすでにボールを足元へ置いていた。
「いくよ!」
軽くリフティングしたボールを、つま先で浮かせる。剣城は自然と腰を落とした。落下地点へ踏み込み、ボールへ足を伸ばす。だが次の瞬間、奏音は身体をひねり、軽やかな動きでボールをかわした。
「ふふーん、引っかかった!」
得意げに笑う奏音を見て、剣城も思わず口元を緩めた。
「……やるな」
夕焼け色に染まった公園を、二人の影が軽やかに駆ける。ボールを奪い合い、フェイントを仕掛け、ときには相手の動きを読み合う。
試合のためでも、革命のためでもない。ただ二人でサッカーを楽しむ。その時間が、剣城には不思議なほど心地よかった。
「やっぱり京ちゃん、守備うまいなぁ」
「お前もな」
「特訓の成果だよ」
奏音は嬉しそうに笑いながら、再びボールを運ぶ。剣城はその動きを追いながら、ふと気づく。何度失敗しても、また笑ってボールを追いかける。昔から、その姿は何一つ変わらない。
「ねぇ、京ちゃん」
「なんだ」
「こうして向かい合ってボールを追いかけてるとさ」
奏音はくるりとターンを決め、リズムを刻むようにボールを運ぶ。
「なんだかダンスを踊ってるみたいだね」
その言葉に、剣城は一瞬だけ目を細めた。
ダンス。言われてみれば、確かに似ているのかもしれない。相手の動きを感じ取り、次の一歩を読み合う。言葉を交わさなくても、ボール一つで互いの意思が伝わっていく。
剣城は少しだけ視線を逸らした。そして、気づけば口から言葉がこぼれていた。
「……俺とのダンスは、楽しいか?」
言った瞬間、自分でも驚く。こんなことを聞くなんて、自分らしくない。
「うん!」
奏音は迷うことなく頷いた。
「すっごく楽しい!」
茜色の光に照らされた笑顔が、まぶしいほど輝いていた。
「京ちゃんとサッカーしてるとね、不思議なの」
奏音はボールを抱き寄せながら、少し照れくさそうに笑う。
「時間があっという間に過ぎちゃうんだ」
「……そうか」
それだけ答えるのが精いっぱいだった。兄に指摘されたばかりの自分の気持ちが、彼女の何気ないひと言で揺さぶられる。こんなにも簡単に調子を狂わされるなんて、思ってもいなかった。
「ほら、ぼーっとしてると取っちゃうよ!」
奏音が悪戯っぽく笑いながらボールを蹴り出す。
「甘いな」
剣城もすぐに反応し、再びボールを追った。公園には、ボールを蹴る乾いた音と二人の笑い声が心地よく響いていた。
その頃、奏音もまた、小さな違和感を覚えていた。
(……あれれ?)
ボールを奪い合うたび、自然と目が合う。剣城は、いつも真っ直ぐ自分を見つめていた。その眼差しは真剣なのに、以前よりどこか柔らかく、優しい。
(なんでだろう……)
走っているから。たくさん動いたから。きっと、そのせい。そう言い聞かせても、胸の奥で跳ねる鼓動は、なかなか落ち着いてくれなかった。
「京ちゃん!」
名前を呼ぶと、剣城はすぐに顔を上げる。その瞬間、また目が合った。どちらからともなく笑みがこぼれる。
その理由を、二人ともまだ知らない。胸に芽生え始めた小さな想いは、夕暮れの風に背中を押されるように、少しずつ同じ未来へ歩き始めていた。
ひとしきりボールを蹴り合ったあと、二人は公園のベンチへ並んで腰を下ろした。火照った身体を夕風が優しく撫でていく。
奏音はペットボトルのお茶をひと口飲み、懐かしそうに公園を見渡した。
「懐かしいよね、この公園! よくここで京ちゃんとボールを蹴ってたなあ……」
「ああ。いつもここで遊んでたよな」
剣城も周囲へ目を向けた。幼い頃には何より広く感じた公園も、今ではどこか小さく見える。
「あそこだよね」
奏音がグラウンドの隅を指差す。
「京ちゃんと初めてサッカーした場所」
剣城は視線を和らげる。六年前、まだ小学生だった頃の記憶がゆっくりと蘇る。
「ねぇ」
奏音が首を傾げる。
「どうしてあの日、私に話しかけてくれたの?」
剣城は少しだけ黙り込んだ。夕焼け空を見上げ、息を吐く。
「あの日――」
穏やかな声とともに、記憶は遠い夏の日へと溶けていった。