素顔のスキエット(GO22話)
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雲ひとつない青空が広がる、穏やかな休日。柔らかな陽射しが窓から差し込み、神童家の自室を優しく照らしていた。
机に向かう奏音の前には、開きっぱなしの数学の問題集。その横には教科書とノートが広げられ、何度も書いては消した跡が残るシャープペンシルが転がっている。
「……うぅ」
小さく唸ると、そのまま額を机へこつんと預けた。
「うわ〜ん! もうダメだ〜! なんでここでxが出てくるの〜!」
昨日もここで手が止まり、今日もまた同じ問題の前で足踏みしている。神童家では幼い頃から、父と母に繰り返し言われてきた。
――サッカーを続けるなら、ピアノと勉強だけは疎かにしてはいけません。
帰国した今も、その約束だけは変わらない。
「拓にぃなら、こんなの三分で解いちゃうんだろうなぁ……」
双子の兄の姿を思い浮かべると、不思議と小さく笑みがこぼれた。悔しさよりも、「私も拓にぃみたいに頑張ろう」という気持ちが、自然と胸に湧いてくる。
その憧れは、昔からずっと変わらない。奏音はもう一度背筋を伸ばし、教科書を開き直した。例題を一つひとつ丁寧に追いかけ、式を書き写してみる。けれど、途中まで順調だったはずの数字は、いつの間にか頭の中でぐるぐると絡まり始める。
「……うぅ……だめだ」
小さく伸びをすると、凝り固まった肩がぽきりと鳴った。
「このままじゃ全然集中できないや」
奏音は本棚から愛用のトートバッグを取り出し、問題集やノート、筆記用具を丁寧に詰めていく。ふと部屋の隅に置かれたサッカーボールが目に入った。
「適度な運動も集中力につながるって言うし」
誰に言い訳するでもなく呟きながら、ボールもバッグへ入れる。
「よし、図書館に行こう!」
勉強なら家でもできる。それでも集中できない日は決まって図書館へ足を運ぶ。静かな空気、紙の匂い、本棚。そこにいるだけで不思議と気持ちが落ち着き、頭の中まで整理されていくような気がする。
奏音は昔から、本を開いて調べものをする時間が好きだった。分からないことをインターネットで検索するより、自分の手でページをめくり、必要な答えへたどり着く過程のほうが、ずっと楽しい。今日は数学の参考書を探すつもりだった。そのはずだった。
「あっ!」
気が付けば足は音楽コーナーで止まっていた。
(新しいピアノ曲、入ってないかな~)
楽譜を一冊ずつ手に取り、ゆっくりページをめくる。
(わぁ、この曲……)
思わず目が輝いた。
(留学してた時、先生がよく弾いてた曲だ)
懐かしさに頬が緩む。迷わずその一冊を借りる本の山へ加えた。そのまま今度はスポーツコーナーへ。
(サッカーの戦術本まであるんだ)
自然と表情が引き締まる。フォーメーションや攻撃パターンが図入りで解説されたページを食い入るように見つめた。
(へぇ……こんな崩し方もあるんだ)
ページをめくるたび、新しい発見がある。だから、この場所は奏音にとって宝箱のようだった。さらに歩いていると、今度は動物図鑑の棚が目に入る。猫の写真集だった。思わず手に取り、ぱらぱらとページをめくる。丸くなって眠る猫。無邪気に遊ぶ子猫。その愛らしい姿に、自然と頬が緩んだ。
(……リュートにちょっと似てるかも)
拓人が大切にしている黒猫を思い浮かべ、くすっと笑う。夢中になって眺めているうちに、十分ほどがあっという間に過ぎていた。
(……あれっ?)
ふと我に返る。
(私、何しに来たんだっけ)
思わず苦笑しながら猫の図鑑を棚へ戻す。その時だった。
「……あ」
後ろから、小さな声が聞こえた。振り返ると、そこには見覚えのある少年が立っている。
「マサキくん?」
「奏音先輩……」
狩屋は驚いたように目を丸くした。だが、その表情はほんの一瞬で、いつもの柔らかな眼差しへと変わる。
「マサキくんも本読むんだね」
奏音が抱えられた参考書へ目を向けると、狩屋は少し照れくさそうに笑った。
「ええ、まあ」
その腕には数学や英語の参考書が何冊も抱えられている。
「勉強してたの?」
「はい」
狩屋は頭をかきながら答えた。
「うち、結構にぎやかなんです。小さい子もたくさんいるんで、集中したい時はよく図書館に来るんですよ」
「そうなんだ」
奏音は素直に頷いた。詳しい家庭の事情までは知らない。けれど、休日まで図書館へ通って勉強する姿に、自然と感心する。
(勉強熱心なんだな)
そんな印象が胸に残った。
「奏音先輩も勉強ですか?」
「うん!」
勢いよく頷く。
「数学が全然分かんなくて!」
狩屋は思わず目を瞬かせた。
「……意外です」
「え?」
「神童先輩の妹ですし、勉強も得意なんだと思ってました」
「それ、よく言われるんだけどね」
奏音は照れくさそうに笑う。
「勉強は拓にぃの方がずっとすごいの。だから私も、少しでも近づけるように頑張ってるんだ。……でも、数字だけはなかなか仲良くなれなくて」
困ったように肩をすくめる。狩屋は少し考えるように首を傾げた。
「……でも、ピアノも数字だらけじゃないですか。拍子とかテンポとか、リズムも数えて弾くでしょう?」
奏音は思いがけない言葉に、言葉を失った。数秒の沈黙のあと、ようやく口を開く。
「……ほんとだ」
「気付いてなかったんですか」
「うん」
あまりにも素直な返事に、狩屋は吹き出しそうになる。二人は互いに声を潜めながら、顔を見合わせた。
「……っ」
慌てて二人は口元を押さえる。静かな館内では、その小さな笑い声さえ少し大きく聞こえた。
「ふふっ……」
「すみません」
その小さな笑い声は、本棚の静けさに溶け込むように消えていった。狩屋はふと奏音を見つめる。
(……不思議だ)
話しているだけで、肩の力が抜けていく。 愛想よく振る舞おうとか、相手の顔色を窺おうとか、そんなことを考える必要がない。ただ話しているだけなのに、自然と笑っている自分がいた。
そんな感覚を覚えたのは、いつ以来だろう。その変化が少しだけ照れくさくて、狩屋は視線をそっと逸らした。奏音は、そんな狩屋の横顔をふと見つめる。
(昨日、霧野くんと話したばかりだけど……)
この瞬間だけは、ごく普通の中学生に見えた。勉強に悩んで、冗談を言って笑う。そんな何気ない姿を見ていると、昨日まで感じていた違和感さえ、少し遠いものに思えた。
(やっぱり、もっと知りたい)
シードかもしれない後輩としてではなく、狩屋マサキという一人の少年として。
「奏音先輩」
狩屋が遠慮がちに口を開く。
「ん?」
「もしよかったら……」
少しだけ照れたように笑って続けた。
「勉強、一緒にしませんか?」
奏音の表情がぱっと明るくなる。
「うん、いいよ!」
その返事に、狩屋はほっと肩の力を抜いた。静かな図書館の一角。二人は窓際の席に並んで参考書を開く。静かな時間は思いのほか早く過ぎ、気づけば二時間ほどが経っていた。
「終わったぁ~!」
奏音は小さな声で伸びをし、凝り固まった肩をほぐした。
「集中しましたね」
「うん!」
時計を見ると、短かった陽も少しずつ傾き始めている。
「マサキくん」
「はい?」
「ちょっと休憩しない?」
狩屋も窓の外へ目を向け、小さく頷いた。
「そうですね」
借りる本を手続きし、二人は図書館を後にする。館内の静けさとは対照的に、外には穏やかな街の音が広がっていた。
「ふぅ~」
奏音は気持ちよさそうに深呼吸した。
「勉強した後の外って、気持ちいいね!」
「分かります」
狩屋も柔らかく笑う。並んで歩いているうちに、河川敷が見えてきた。広々とした芝生では、子どもたちが歓声を上げながらボールを追い掛けている。その光景を眺めていた奏音が、不意に立ち止まった。
「……ねぇ」
「はい?」
奏音はトートバッグの中からサッカーボールを取り出す。
「せっかくだし」
嬉しそうに笑った。
「少しだけ、ボール蹴って帰らない?」
狩屋は目を丸くする。
「ボール、持ってきてたんですか?」
「うん。勉強が終わったら、ちょっと蹴れたらいいなって思って」
狩屋は思わず笑みをこぼした。
「奏音先輩らしいですね」
「えへへぇ〜♪」
その無邪気な笑顔を見ているうちに、狩屋の表情からも、普段のような愛想のよさが少しずつ抜けていった。
「じゃあ」
狩屋は上着を脱ぎ、近くのベンチへ置いた。そして奏音へ向き直る。さっきまでの穏やかな空気とは違う。サッカー選手の瞳が、静かに熱を帯びる。
「今度は勉強じゃなくて」
口元に小さく笑みを浮かべる。
「サッカー、お願いします」
狩屋が上目遣いにこちらを見上げた。細められた瞳は、どこか猫を思わせる。奏音はボールを抱えたまま、嬉しそうに頷いた。
二人で芝生へ向かう。奏音がボールをそっと転がすと、狩屋が軽く足裏で止める。顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
最初はリフティング。インサイドキック。ワンツーパス。一定のリズムでボールが二人の間を行き交う。勉強で固くなっていた頭をほぐすように、心地よいテンポでボールを蹴り合う時間が流れていく。
「マサキくん、もっと本気で来ていいよ!」
「えっ?」
「まだ遠慮してるでしょ?」
狩屋は思わず言葉を詰まらせた。図星だった。相手は先輩、しかも女子だ。知らず知らずのうちに力を加減していた。奏音はそんな狩屋を見て、いたずらっぽく笑う。
「私、そんなに弱くないよ?」
その笑顔に、狩屋もふっと口元を緩めた。
「……後悔しても知りませんよ」
次の瞬間、空気が変わった。狩屋の重心がすっと低く落ちる。鋭く地面を蹴ったかと思えば、一気に間合いを詰めてきた。
(わ、速い……!)
奏音の心が躍る。さっきまで図書館で静かに問題集を開いていた少年とは、まるで別人だった。一歩、二歩、三歩。狩屋は獲物を追うようにボールへ食らいつく。
細かなフェイントにも惑わされない。一瞬体勢を崩しても、すぐに踏み直し、再び距離を詰めてくる。何度かわしても、すぐ背後に気配がある。
「……っ!」
奏音も自然と本気になる。細かくボールを動かし、テンポを変え、切り返す。それでも狩屋は離れない。
(すごい……! これが、マサキくんのサッカー)
身体の軸がぶれない。どんな体勢からでも素早く切り返し、こちらの動きを読んでは、ぎりぎりのところでボールへ食らいついてくる。その身のこなしには、ディフェンダーとしての確かな技術があった。
ボールを追いかけている時の彼は、生き生きとしている。ただ純粋に、サッカーを楽しんでいる少年の顔だった。奏音は、そんな狩屋のプレーに目を奪われていた。やがてボールが止まり、二人は肩で息をつく。
「はぁ……」
狩屋は額の汗を拭い、小さく笑った。
「やっぱり奏音先輩、強いですね」
「マサキくんも!」
奏音は息を整えながら笑う。
「何回抜いても追い付いてくるんだもん」
その笑顔を見返しながら、奏音はふと胸の奥が温かくなるのを感じた。部活では、どこか一歩引いていた狩屋。けれど今は違う。
(もったいないな)
もし霧野も、この姿を見たなら少しだけ、印象は変わるんじゃないだろうか。奏音は小さく微笑んだ。
「奏音先輩!」
その時、狩屋の声が飛んだ。
「ぼーっとしてたら抜きますよ!」
「えっ?」
気付いた時には、もう目の前まで迫られていた。
「あっ、しまった!」
慌ててボールを隠そうとする。しかし、一瞬遅かった。鮮やかな足さばきでボールを奪われる。
「あああぁ〜〜〜っ!」
悔しそうな声を上げる奏音に、狩屋はあどけない笑みを浮かべた。
「油断しましたね」
「もう! マサキくん、今のずるい!」
「サッカーにずるいはありませんよ」
得意げに笑う狩屋につられ、奏音も吹き出す。夕暮れの河川敷に、二人の笑い声が響く。乾いたボールの音が、風に乗ってどこまでも軽やかに広がっていった。
机に向かう奏音の前には、開きっぱなしの数学の問題集。その横には教科書とノートが広げられ、何度も書いては消した跡が残るシャープペンシルが転がっている。
「……うぅ」
小さく唸ると、そのまま額を机へこつんと預けた。
「うわ〜ん! もうダメだ〜! なんでここでxが出てくるの〜!」
昨日もここで手が止まり、今日もまた同じ問題の前で足踏みしている。神童家では幼い頃から、父と母に繰り返し言われてきた。
――サッカーを続けるなら、ピアノと勉強だけは疎かにしてはいけません。
帰国した今も、その約束だけは変わらない。
「拓にぃなら、こんなの三分で解いちゃうんだろうなぁ……」
双子の兄の姿を思い浮かべると、不思議と小さく笑みがこぼれた。悔しさよりも、「私も拓にぃみたいに頑張ろう」という気持ちが、自然と胸に湧いてくる。
その憧れは、昔からずっと変わらない。奏音はもう一度背筋を伸ばし、教科書を開き直した。例題を一つひとつ丁寧に追いかけ、式を書き写してみる。けれど、途中まで順調だったはずの数字は、いつの間にか頭の中でぐるぐると絡まり始める。
「……うぅ……だめだ」
小さく伸びをすると、凝り固まった肩がぽきりと鳴った。
「このままじゃ全然集中できないや」
奏音は本棚から愛用のトートバッグを取り出し、問題集やノート、筆記用具を丁寧に詰めていく。ふと部屋の隅に置かれたサッカーボールが目に入った。
「適度な運動も集中力につながるって言うし」
誰に言い訳するでもなく呟きながら、ボールもバッグへ入れる。
「よし、図書館に行こう!」
勉強なら家でもできる。それでも集中できない日は決まって図書館へ足を運ぶ。静かな空気、紙の匂い、本棚。そこにいるだけで不思議と気持ちが落ち着き、頭の中まで整理されていくような気がする。
奏音は昔から、本を開いて調べものをする時間が好きだった。分からないことをインターネットで検索するより、自分の手でページをめくり、必要な答えへたどり着く過程のほうが、ずっと楽しい。今日は数学の参考書を探すつもりだった。そのはずだった。
「あっ!」
気が付けば足は音楽コーナーで止まっていた。
(新しいピアノ曲、入ってないかな~)
楽譜を一冊ずつ手に取り、ゆっくりページをめくる。
(わぁ、この曲……)
思わず目が輝いた。
(留学してた時、先生がよく弾いてた曲だ)
懐かしさに頬が緩む。迷わずその一冊を借りる本の山へ加えた。そのまま今度はスポーツコーナーへ。
(サッカーの戦術本まであるんだ)
自然と表情が引き締まる。フォーメーションや攻撃パターンが図入りで解説されたページを食い入るように見つめた。
(へぇ……こんな崩し方もあるんだ)
ページをめくるたび、新しい発見がある。だから、この場所は奏音にとって宝箱のようだった。さらに歩いていると、今度は動物図鑑の棚が目に入る。猫の写真集だった。思わず手に取り、ぱらぱらとページをめくる。丸くなって眠る猫。無邪気に遊ぶ子猫。その愛らしい姿に、自然と頬が緩んだ。
(……リュートにちょっと似てるかも)
拓人が大切にしている黒猫を思い浮かべ、くすっと笑う。夢中になって眺めているうちに、十分ほどがあっという間に過ぎていた。
(……あれっ?)
ふと我に返る。
(私、何しに来たんだっけ)
思わず苦笑しながら猫の図鑑を棚へ戻す。その時だった。
「……あ」
後ろから、小さな声が聞こえた。振り返ると、そこには見覚えのある少年が立っている。
「マサキくん?」
「奏音先輩……」
狩屋は驚いたように目を丸くした。だが、その表情はほんの一瞬で、いつもの柔らかな眼差しへと変わる。
「マサキくんも本読むんだね」
奏音が抱えられた参考書へ目を向けると、狩屋は少し照れくさそうに笑った。
「ええ、まあ」
その腕には数学や英語の参考書が何冊も抱えられている。
「勉強してたの?」
「はい」
狩屋は頭をかきながら答えた。
「うち、結構にぎやかなんです。小さい子もたくさんいるんで、集中したい時はよく図書館に来るんですよ」
「そうなんだ」
奏音は素直に頷いた。詳しい家庭の事情までは知らない。けれど、休日まで図書館へ通って勉強する姿に、自然と感心する。
(勉強熱心なんだな)
そんな印象が胸に残った。
「奏音先輩も勉強ですか?」
「うん!」
勢いよく頷く。
「数学が全然分かんなくて!」
狩屋は思わず目を瞬かせた。
「……意外です」
「え?」
「神童先輩の妹ですし、勉強も得意なんだと思ってました」
「それ、よく言われるんだけどね」
奏音は照れくさそうに笑う。
「勉強は拓にぃの方がずっとすごいの。だから私も、少しでも近づけるように頑張ってるんだ。……でも、数字だけはなかなか仲良くなれなくて」
困ったように肩をすくめる。狩屋は少し考えるように首を傾げた。
「……でも、ピアノも数字だらけじゃないですか。拍子とかテンポとか、リズムも数えて弾くでしょう?」
奏音は思いがけない言葉に、言葉を失った。数秒の沈黙のあと、ようやく口を開く。
「……ほんとだ」
「気付いてなかったんですか」
「うん」
あまりにも素直な返事に、狩屋は吹き出しそうになる。二人は互いに声を潜めながら、顔を見合わせた。
「……っ」
慌てて二人は口元を押さえる。静かな館内では、その小さな笑い声さえ少し大きく聞こえた。
「ふふっ……」
「すみません」
その小さな笑い声は、本棚の静けさに溶け込むように消えていった。狩屋はふと奏音を見つめる。
(……不思議だ)
話しているだけで、肩の力が抜けていく。 愛想よく振る舞おうとか、相手の顔色を窺おうとか、そんなことを考える必要がない。ただ話しているだけなのに、自然と笑っている自分がいた。
そんな感覚を覚えたのは、いつ以来だろう。その変化が少しだけ照れくさくて、狩屋は視線をそっと逸らした。奏音は、そんな狩屋の横顔をふと見つめる。
(昨日、霧野くんと話したばかりだけど……)
この瞬間だけは、ごく普通の中学生に見えた。勉強に悩んで、冗談を言って笑う。そんな何気ない姿を見ていると、昨日まで感じていた違和感さえ、少し遠いものに思えた。
(やっぱり、もっと知りたい)
シードかもしれない後輩としてではなく、狩屋マサキという一人の少年として。
「奏音先輩」
狩屋が遠慮がちに口を開く。
「ん?」
「もしよかったら……」
少しだけ照れたように笑って続けた。
「勉強、一緒にしませんか?」
奏音の表情がぱっと明るくなる。
「うん、いいよ!」
その返事に、狩屋はほっと肩の力を抜いた。静かな図書館の一角。二人は窓際の席に並んで参考書を開く。静かな時間は思いのほか早く過ぎ、気づけば二時間ほどが経っていた。
「終わったぁ~!」
奏音は小さな声で伸びをし、凝り固まった肩をほぐした。
「集中しましたね」
「うん!」
時計を見ると、短かった陽も少しずつ傾き始めている。
「マサキくん」
「はい?」
「ちょっと休憩しない?」
狩屋も窓の外へ目を向け、小さく頷いた。
「そうですね」
借りる本を手続きし、二人は図書館を後にする。館内の静けさとは対照的に、外には穏やかな街の音が広がっていた。
「ふぅ~」
奏音は気持ちよさそうに深呼吸した。
「勉強した後の外って、気持ちいいね!」
「分かります」
狩屋も柔らかく笑う。並んで歩いているうちに、河川敷が見えてきた。広々とした芝生では、子どもたちが歓声を上げながらボールを追い掛けている。その光景を眺めていた奏音が、不意に立ち止まった。
「……ねぇ」
「はい?」
奏音はトートバッグの中からサッカーボールを取り出す。
「せっかくだし」
嬉しそうに笑った。
「少しだけ、ボール蹴って帰らない?」
狩屋は目を丸くする。
「ボール、持ってきてたんですか?」
「うん。勉強が終わったら、ちょっと蹴れたらいいなって思って」
狩屋は思わず笑みをこぼした。
「奏音先輩らしいですね」
「えへへぇ〜♪」
その無邪気な笑顔を見ているうちに、狩屋の表情からも、普段のような愛想のよさが少しずつ抜けていった。
「じゃあ」
狩屋は上着を脱ぎ、近くのベンチへ置いた。そして奏音へ向き直る。さっきまでの穏やかな空気とは違う。サッカー選手の瞳が、静かに熱を帯びる。
「今度は勉強じゃなくて」
口元に小さく笑みを浮かべる。
「サッカー、お願いします」
狩屋が上目遣いにこちらを見上げた。細められた瞳は、どこか猫を思わせる。奏音はボールを抱えたまま、嬉しそうに頷いた。
二人で芝生へ向かう。奏音がボールをそっと転がすと、狩屋が軽く足裏で止める。顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
最初はリフティング。インサイドキック。ワンツーパス。一定のリズムでボールが二人の間を行き交う。勉強で固くなっていた頭をほぐすように、心地よいテンポでボールを蹴り合う時間が流れていく。
「マサキくん、もっと本気で来ていいよ!」
「えっ?」
「まだ遠慮してるでしょ?」
狩屋は思わず言葉を詰まらせた。図星だった。相手は先輩、しかも女子だ。知らず知らずのうちに力を加減していた。奏音はそんな狩屋を見て、いたずらっぽく笑う。
「私、そんなに弱くないよ?」
その笑顔に、狩屋もふっと口元を緩めた。
「……後悔しても知りませんよ」
次の瞬間、空気が変わった。狩屋の重心がすっと低く落ちる。鋭く地面を蹴ったかと思えば、一気に間合いを詰めてきた。
(わ、速い……!)
奏音の心が躍る。さっきまで図書館で静かに問題集を開いていた少年とは、まるで別人だった。一歩、二歩、三歩。狩屋は獲物を追うようにボールへ食らいつく。
細かなフェイントにも惑わされない。一瞬体勢を崩しても、すぐに踏み直し、再び距離を詰めてくる。何度かわしても、すぐ背後に気配がある。
「……っ!」
奏音も自然と本気になる。細かくボールを動かし、テンポを変え、切り返す。それでも狩屋は離れない。
(すごい……! これが、マサキくんのサッカー)
身体の軸がぶれない。どんな体勢からでも素早く切り返し、こちらの動きを読んでは、ぎりぎりのところでボールへ食らいついてくる。その身のこなしには、ディフェンダーとしての確かな技術があった。
ボールを追いかけている時の彼は、生き生きとしている。ただ純粋に、サッカーを楽しんでいる少年の顔だった。奏音は、そんな狩屋のプレーに目を奪われていた。やがてボールが止まり、二人は肩で息をつく。
「はぁ……」
狩屋は額の汗を拭い、小さく笑った。
「やっぱり奏音先輩、強いですね」
「マサキくんも!」
奏音は息を整えながら笑う。
「何回抜いても追い付いてくるんだもん」
その笑顔を見返しながら、奏音はふと胸の奥が温かくなるのを感じた。部活では、どこか一歩引いていた狩屋。けれど今は違う。
(もったいないな)
もし霧野も、この姿を見たなら少しだけ、印象は変わるんじゃないだろうか。奏音は小さく微笑んだ。
「奏音先輩!」
その時、狩屋の声が飛んだ。
「ぼーっとしてたら抜きますよ!」
「えっ?」
気付いた時には、もう目の前まで迫られていた。
「あっ、しまった!」
慌ててボールを隠そうとする。しかし、一瞬遅かった。鮮やかな足さばきでボールを奪われる。
「あああぁ〜〜〜っ!」
悔しそうな声を上げる奏音に、狩屋はあどけない笑みを浮かべた。
「油断しましたね」
「もう! マサキくん、今のずるい!」
「サッカーにずるいはありませんよ」
得意げに笑う狩屋につられ、奏音も吹き出す。夕暮れの河川敷に、二人の笑い声が響く。乾いたボールの音が、風に乗ってどこまでも軽やかに広がっていった。