Play Sound
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
朝の光が神童家の屋敷を優しく包む。大きな窓の向こうでは、庭園の花々が朝露をまとってきらめいていた。静寂に満たされた屋敷の中で、ただひとつ。軽やかな足音だけが、廊下に響いていた。
「♪~」
小さな鼻歌。奏音はいつもより少しだけ早い歩調で廊下を進んでいた。
今日から――雷門中学校の生徒になる。
また、サッカーができる。
その事実が、胸の奥で何度も何度も旋律のように繰り返されていた。海外で過ごした時間も、音楽に向き合った日々も大切だった。けれどボールを追いかける楽しさだけは、どれだけ遠く離れても忘れることができなかった。扉の前で一度深呼吸をすると、奏音はダイニングルームの扉を開く。
「おっはよー、拓にぃ!」
「ああ、奏音。おはよう」
そこにはすでに、兄の神童拓人がいた。
朝食を前に、優雅に紅茶を口に運ぶ姿はいつも通り落ち着いている。けれど拓人は妹の顔を見るなり、わずかに目を細めた。
「……今日は随分と機嫌がいいな」
「えへへ」
奏音は誤魔化すように笑いながら席につく。
「だって今日から雷門だよ?」
その声には隠しきれない期待が滲んでいた。その様子を見ていたメイドたちも、思わず微笑んだ。
「本当に楽しみにされていたんですね」
「奏音様らしいですね」
その言葉に奏音が振り向くより早く。
「お待たせいたしました、奏音様」
ベテランメイドがワゴンを押して現れた。銀色の蓋がゆっくりと開かれる。その瞬間。
「……わぁ」
奏音の瞳が大きく輝いた。そこに並んでいたのは、小さな瓶に詰められた色とりどりのジャム。真紅のいちご。深い紫のブルーベリー。朝陽を閉じ込めたようなオレンジマーマレード。そして、黄金色に輝くはちみつりんご。まるで、小さな宝石箱だった。
「今年、温室で収穫された果実を使って作ったものです」
「本当に?」
奏音 は思わず身を乗り出す。
「はい。奏音様がお好きだと伺っておりましたので」
「すごいすご〜い!宝石みたい!」
ぱちぱち、と小さな拍手が響く。
「朝から大げさだな」
拓人は呆れたように言う。けれど、その声音には優しさが混じっていた。
「だって拓にぃ、見て! 光が当たるとキラキラしてる!」
拓人は紅茶を口に運びながら、ちらりと妹を見る。口には出さない。けれど、その表情が少しだけ柔らかくなっていた。
「じゃあ、まずはいちご!」
「……」
奏音は迷いなくトーストを手に取った。
そして、ぬり。ぬり。ぬり。
「奏音」
「ん?」
「それは塗っているというより……乗せているんじゃないか?」
パンの上には、もはや小さな丘のようないちごジャム。奏音は少し恥ずかしさを感じながら困ったように微笑む。
「久しぶりの神童家のジャムだから! 今日だけ、今日だけ!」
そう言って、一口。
「ん~……!」
幸せそうに目を細めた。
「おいしい……!」
その一言だけで、部屋の空気が柔らかくなる。
「果実の香りが最初に優しく響いて、あとから甘さがふわっと広がるの。まるで最初は小さな音から始まって、最後に素敵なハーモニーになる曲みたい!」
食べながら感想をこぼす奏音に、メイドたちは思わず笑った。
「奏音様、少しゆっくり召し上がってください」
メイドの声に、奏音ははっとする。
「あっ……!」
慌てて姿勢を正した。
「拓にぃの妹として、優雅にしないと……!」
けれど数秒後には、また嬉しそうに頬を緩めていた。その姿を見て、メイドたちは静かに笑う。
「次はブルーベリー!」
「まだ食べるのか」
「もちろん!」
その言葉に、メイドたちは顔を見合わせて微笑んだ。
「奏音様は、昔から変わりませんね」
「新しいジャムができるたび、真っ先に味見に来てくださるんですよ」
奏音は少し照れくさそうに笑う。
「だって、みんなが作ってくれたジャム、おいしいんだもん」
その一言だけで十分だった。
「ありがとうございます、奏音様」
「そのお言葉が何より励みになります」
嬉しそうに頭を下げるメイドたちを見て、拓人は小さく息をつく。
(……うちの使用人たちは、妹に甘すぎる)
そう思いながらも、楽しそうに笑う妹と、それを優しく見守る使用人たちの姿を見れば、悪い気はしなかった。
これもまた、神童家らしい朝の風景だった。
***
朝食を終え、玄関へ向かう。広い屋敷の廊下に、二人分の足音が並んで響いていた。
「拓にぃー!」
玄関で靴紐を結んでいた拓人が顔を上げる。
「…… 奏音」
「待ってくれてありがとう!」
「今日は転入初日だからな。奏音が迷子にならないようにしないと」
淡々とした返事。けれど、その視線は妹から離れない。そして。
「…… 奏音」
「ん?」
「リボンが曲がっている」
「え?」
奏音が慌てて制服を見る。けれど、自分では気づけない。
「じっとしてろ」
拓人はそう言って、妹のリボンを整えた。奏音が慌てて支度をするたび、拓人はこうして隣で直してくれた。折れた楽譜を伸ばして、悩むピアノの音を最後まで聞いて、言葉にしなくても、分かることがある。双子だから。
「はい。これで大丈夫だ」
「ありがとう、拓にぃ!」
満面の笑顔。その笑顔に、拓人は少しだけ目を細める。
「……相変わらずだな」
「拓にぃもね」
「俺が?」
「うん。優しいところ」
一瞬。拓人の言葉が止まった。照れを隠すように視線を逸らす。
「行くぞ。遅れる」
「はーい!」
二人は春の光の中へ歩き出した。
桜並木を抜けるたび、花びらが風に乗って舞い上がる。幼い頃から何度も歩いたはずの道なのに、今日だけは少し違って見えた。
「……ここが、雷門中かぁ」
目の前に現れたのは、春の光に包まれた雷門中学校。白い校舎と広いグラウンド、その中央には雷門の名を象徴する稲妻のエンブレムが掲げられている。芝の緑は春風に揺れ、その向こうにはサッカーゴールが静かに立っていた。
ふわりと桜の花びらが舞う。
「……日本の桜、久しぶり」
思わず声がこぼれる。海外で過ごした日々は、音楽に囲まれた刺激の連続だった。それでも、この景色だけはずっと心のどこかで恋しかった。
校門をくぐる生徒たちの笑い声。柔らかな春風。そして、舞い落ちる桜の花びら。そっと手を伸ばくと、一枚の花びらが手のひらに舞い降りた。
「やっぱり落ち着くなぁ……」
そう呟いて、奏音は小さく微笑む。
けれど、その笑顔は昨日の出来事を思い出して少しだけ揺れた。
「京ちゃん……」
あの日見た瞳。冷たくて、遠くて。昔知っていた少年とは違っていた。けれど一瞬だけ見えたものがあった。
昔と同じ、優しい色。幼い頃。一緒にボールを追いかけた少年。不器用で、それでも誰より優しかった幼馴染。奏音はそっと拳を握る。
(絶対、理由がある)
そう思えたのは、昔の剣城を知っているからだけじゃない。
あの一瞬だけ見えた瞳が、嘘をついているようには見えなかったから。その時。
「キャプテン! 神童妹先輩!」
明るい声が響いた。振り向けば、そこには元気いっぱいに駆けてくる少年。松風天馬だった。
「おはようございます!」
「おはよう、天馬くん」
奏音が笑うと、天馬も嬉しそうに笑った。
「神童妹先輩も今日から雷門なんですよね?」
「うん。よろしくね」
「はい!」
その返事の明るさに、奏音は自然と笑顔になる。すると天馬は少しだけ迷ってから。
「……あの」
「ん?」
「神童妹先輩って……剣城と知り合いだったんですよね?」
その名前を聞いた瞬間。奏音の表情が、ほんの少しだけ揺れた。でも。すぐに、いつもの優しい笑顔へ戻る。
「うん。小さい頃、一緒にサッカーしてたんだ」
「じゃあ……」
天馬は少しだけ目を輝かせた。
「やっぱり剣城は、サッカーが好きだったんですね!」
その言葉に奏音は一瞬だけ視線を落とした。
「……うん」
奏音は静かに頷く。
「京ちゃんね、負けず嫌いで、勝負になるとすぐ熱くなっちゃうの」
「……」
「でも、ボールを追いかけてる時は、本当に楽しそうで……見ているこっちまで嬉しくなるくらい、いい笑顔をする子だったんだ」
その声は優しい。けれど、どこか寂しさも混ざっていた。
天馬は黙って聞いていた。入学式の日。初めて見た剣城のプレー。圧倒的な技術。鋭い動き。それなのに。本人は言った。
『サッカーなんてくだらねぇもんは……必要ねぇ!』
その言葉と、あのプレー。二つがどうしても結びつかなかった。
「俺も……不思議なんです」
天馬がぽつりと呟く。
「剣城はサッカーが嫌いだって言うのに」
拳をぎゅっと握る。
「どうして、あんなに上手いんだろうって」
その問いに、奏音は少しだけ考えるように目を伏せた。そして。
「天馬くん」
「はい?」
「京ちゃんはね」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「大丈夫なふりをするのは、すごく上手なんだ」
「……剣城が?」
「うん。昔から」
天馬が瞬きをする。初めて聞いた〝剣城京介〟という人間らしい部分に戸惑った。
「でも……」
奏音は小さく笑った。
「嘘をつくのは、昔からあまり得意じゃないの」
「……」
「本当は優しいのに、素直じゃなくて」
その声には確信があった。
「自分で全部抱え込もうとするところがあるんだ」
その言葉に。隣を歩いていた拓人が、わずかに視線を動かした。まるで、誰か別の人間を重ねるように。
「だから……今の京ちゃんが何を考えてるのか、私にはまだ分からない」
一瞬。表情に影が落ちる。
「でも……」
すぐに顔を上げた。
「昔、一緒にサッカーしていた京ちゃんまで嘘だったなんて思えない」
天馬は目を見開く。疑うより先に、信じる。その姿はどこか、自分と似ている気がした。
「……神童妹先輩って、本当に剣城を信じてるんですね」
「うん。京ちゃんは、大切な友達だから」
その笑顔を見て、天馬は小さく笑った。
「なんか……俺と同じですね」
「え?」
「俺も、剣城のこと知りたいんです」
春風が二人の間を吹き抜ける。二人の胸にある願いは一つだった。もう一度、剣城京介の本当の気持ちを知りたい。
拓人はそんな二人を静かに見ていた。剣城京介。敵なのか。味方なのか。まだ答えは出ていない。けれど。
「……」
拓人は静かに息を吐いた。
(まあ……あいつについて考える人間が増えるのは、悪いことじゃないか)
万能坂中との試合。あの時、雷門が勝利できた理由。そのひとつに間違いなく剣城京介という存在があった。天馬へ向けられた卑劣なプレー。それを見た瞬間の剣城の表情。
あの瞬間だけは、剣城はフィフスセクターのシードではなかった。ただひとりのサッカー選手だった。
(……あいつなりの正義、なのかもしれないな)
拓人は校舎へ視線を向ける。剣城はサッカーを嫌いだと言った。雷門のサッカーを否定した。それでもあの瞬間だけは、誰よりも真っ直ぐ、ボールと向き合っていた。
(本当にサッカーを憎んでいる人間が、あんなふうにボールを見るだろうか)
拓人は校庭へ視線を向ける。これから始まる戦いは、決して優しいものではない。フィフスセクターは、さらに強い学校を送り込んでくるだろう。雷門が今まで戦ってきた相手とは比べ物にならないほどの強敵を。
革命を成し遂げるなら。綺麗事だけでは足りない。力が必要だった。絶対的な存在感を持つエースストライカー。どんな状況でもゴールを奪える切り札。今の雷門には――剣城京介が必要だった。
***
「……」
校舎へ続く道の影。ひとりの少年が立っていた。剣城京介。いつものように、誰にも興味がないような顔。けれどその足は、なぜか動かなかった。聞くつもりなどなかった。ただ通りかかっただけ。そう思っていた。なのに。
『京ちゃん』
その呼び方だけが胸に残る。忘れたはずの日々。捨てたはずの自分。
「……くだらねぇ。俺はもう、あの頃の俺じゃない」
フィフスセクターのシード。本気でサッカーを楽しむ奴らを否定する存在。そうでなければならない。なのに。
『昔の京ちゃんまで嘘だったなんて思えない』
その言葉だけが。どうしても消えなかった。拳を握る。強く自分に言い聞かせるように。
「……なんでだよ」
誰に向けた言葉なのか。自分でも分からない。
「なんで……そこまで信じられるんだよ」
普通なら。変わってしまった自分を見れば、離れるはずだ。怖がるはずだ。なのに。奏音は違った。昔の自分を知っているから。今の自分だけを見るのではなく。その奥にあるものを探そうとしている。
「……馬鹿だろ」
吐き捨てる。けれどその声には、いつもの冷たさはなかった。
春の風が吹く。桜の花びらが一枚、剣城の足元へ落ちた。
「♪~」
小さな鼻歌。奏音はいつもより少しだけ早い歩調で廊下を進んでいた。
今日から――雷門中学校の生徒になる。
また、サッカーができる。
その事実が、胸の奥で何度も何度も旋律のように繰り返されていた。海外で過ごした時間も、音楽に向き合った日々も大切だった。けれどボールを追いかける楽しさだけは、どれだけ遠く離れても忘れることができなかった。扉の前で一度深呼吸をすると、奏音はダイニングルームの扉を開く。
「おっはよー、拓にぃ!」
「ああ、奏音。おはよう」
そこにはすでに、兄の神童拓人がいた。
朝食を前に、優雅に紅茶を口に運ぶ姿はいつも通り落ち着いている。けれど拓人は妹の顔を見るなり、わずかに目を細めた。
「……今日は随分と機嫌がいいな」
「えへへ」
奏音は誤魔化すように笑いながら席につく。
「だって今日から雷門だよ?」
その声には隠しきれない期待が滲んでいた。その様子を見ていたメイドたちも、思わず微笑んだ。
「本当に楽しみにされていたんですね」
「奏音様らしいですね」
その言葉に奏音が振り向くより早く。
「お待たせいたしました、奏音様」
ベテランメイドがワゴンを押して現れた。銀色の蓋がゆっくりと開かれる。その瞬間。
「……わぁ」
奏音の瞳が大きく輝いた。そこに並んでいたのは、小さな瓶に詰められた色とりどりのジャム。真紅のいちご。深い紫のブルーベリー。朝陽を閉じ込めたようなオレンジマーマレード。そして、黄金色に輝くはちみつりんご。まるで、小さな宝石箱だった。
「今年、温室で収穫された果実を使って作ったものです」
「本当に?」
奏音 は思わず身を乗り出す。
「はい。奏音様がお好きだと伺っておりましたので」
「すごいすご〜い!宝石みたい!」
ぱちぱち、と小さな拍手が響く。
「朝から大げさだな」
拓人は呆れたように言う。けれど、その声音には優しさが混じっていた。
「だって拓にぃ、見て! 光が当たるとキラキラしてる!」
拓人は紅茶を口に運びながら、ちらりと妹を見る。口には出さない。けれど、その表情が少しだけ柔らかくなっていた。
「じゃあ、まずはいちご!」
「……」
奏音は迷いなくトーストを手に取った。
そして、ぬり。ぬり。ぬり。
「奏音」
「ん?」
「それは塗っているというより……乗せているんじゃないか?」
パンの上には、もはや小さな丘のようないちごジャム。奏音は少し恥ずかしさを感じながら困ったように微笑む。
「久しぶりの神童家のジャムだから! 今日だけ、今日だけ!」
そう言って、一口。
「ん~……!」
幸せそうに目を細めた。
「おいしい……!」
その一言だけで、部屋の空気が柔らかくなる。
「果実の香りが最初に優しく響いて、あとから甘さがふわっと広がるの。まるで最初は小さな音から始まって、最後に素敵なハーモニーになる曲みたい!」
食べながら感想をこぼす奏音に、メイドたちは思わず笑った。
「奏音様、少しゆっくり召し上がってください」
メイドの声に、奏音ははっとする。
「あっ……!」
慌てて姿勢を正した。
「拓にぃの妹として、優雅にしないと……!」
けれど数秒後には、また嬉しそうに頬を緩めていた。その姿を見て、メイドたちは静かに笑う。
「次はブルーベリー!」
「まだ食べるのか」
「もちろん!」
その言葉に、メイドたちは顔を見合わせて微笑んだ。
「奏音様は、昔から変わりませんね」
「新しいジャムができるたび、真っ先に味見に来てくださるんですよ」
奏音は少し照れくさそうに笑う。
「だって、みんなが作ってくれたジャム、おいしいんだもん」
その一言だけで十分だった。
「ありがとうございます、奏音様」
「そのお言葉が何より励みになります」
嬉しそうに頭を下げるメイドたちを見て、拓人は小さく息をつく。
(……うちの使用人たちは、妹に甘すぎる)
そう思いながらも、楽しそうに笑う妹と、それを優しく見守る使用人たちの姿を見れば、悪い気はしなかった。
これもまた、神童家らしい朝の風景だった。
***
朝食を終え、玄関へ向かう。広い屋敷の廊下に、二人分の足音が並んで響いていた。
「拓にぃー!」
玄関で靴紐を結んでいた拓人が顔を上げる。
「…… 奏音」
「待ってくれてありがとう!」
「今日は転入初日だからな。奏音が迷子にならないようにしないと」
淡々とした返事。けれど、その視線は妹から離れない。そして。
「…… 奏音」
「ん?」
「リボンが曲がっている」
「え?」
奏音が慌てて制服を見る。けれど、自分では気づけない。
「じっとしてろ」
拓人はそう言って、妹のリボンを整えた。奏音が慌てて支度をするたび、拓人はこうして隣で直してくれた。折れた楽譜を伸ばして、悩むピアノの音を最後まで聞いて、言葉にしなくても、分かることがある。双子だから。
「はい。これで大丈夫だ」
「ありがとう、拓にぃ!」
満面の笑顔。その笑顔に、拓人は少しだけ目を細める。
「……相変わらずだな」
「拓にぃもね」
「俺が?」
「うん。優しいところ」
一瞬。拓人の言葉が止まった。照れを隠すように視線を逸らす。
「行くぞ。遅れる」
「はーい!」
二人は春の光の中へ歩き出した。
桜並木を抜けるたび、花びらが風に乗って舞い上がる。幼い頃から何度も歩いたはずの道なのに、今日だけは少し違って見えた。
「……ここが、雷門中かぁ」
目の前に現れたのは、春の光に包まれた雷門中学校。白い校舎と広いグラウンド、その中央には雷門の名を象徴する稲妻のエンブレムが掲げられている。芝の緑は春風に揺れ、その向こうにはサッカーゴールが静かに立っていた。
ふわりと桜の花びらが舞う。
「……日本の桜、久しぶり」
思わず声がこぼれる。海外で過ごした日々は、音楽に囲まれた刺激の連続だった。それでも、この景色だけはずっと心のどこかで恋しかった。
校門をくぐる生徒たちの笑い声。柔らかな春風。そして、舞い落ちる桜の花びら。そっと手を伸ばくと、一枚の花びらが手のひらに舞い降りた。
「やっぱり落ち着くなぁ……」
そう呟いて、奏音は小さく微笑む。
けれど、その笑顔は昨日の出来事を思い出して少しだけ揺れた。
「京ちゃん……」
あの日見た瞳。冷たくて、遠くて。昔知っていた少年とは違っていた。けれど一瞬だけ見えたものがあった。
昔と同じ、優しい色。幼い頃。一緒にボールを追いかけた少年。不器用で、それでも誰より優しかった幼馴染。奏音はそっと拳を握る。
(絶対、理由がある)
そう思えたのは、昔の剣城を知っているからだけじゃない。
あの一瞬だけ見えた瞳が、嘘をついているようには見えなかったから。その時。
「キャプテン! 神童妹先輩!」
明るい声が響いた。振り向けば、そこには元気いっぱいに駆けてくる少年。松風天馬だった。
「おはようございます!」
「おはよう、天馬くん」
奏音が笑うと、天馬も嬉しそうに笑った。
「神童妹先輩も今日から雷門なんですよね?」
「うん。よろしくね」
「はい!」
その返事の明るさに、奏音は自然と笑顔になる。すると天馬は少しだけ迷ってから。
「……あの」
「ん?」
「神童妹先輩って……剣城と知り合いだったんですよね?」
その名前を聞いた瞬間。奏音の表情が、ほんの少しだけ揺れた。でも。すぐに、いつもの優しい笑顔へ戻る。
「うん。小さい頃、一緒にサッカーしてたんだ」
「じゃあ……」
天馬は少しだけ目を輝かせた。
「やっぱり剣城は、サッカーが好きだったんですね!」
その言葉に奏音は一瞬だけ視線を落とした。
「……うん」
奏音は静かに頷く。
「京ちゃんね、負けず嫌いで、勝負になるとすぐ熱くなっちゃうの」
「……」
「でも、ボールを追いかけてる時は、本当に楽しそうで……見ているこっちまで嬉しくなるくらい、いい笑顔をする子だったんだ」
その声は優しい。けれど、どこか寂しさも混ざっていた。
天馬は黙って聞いていた。入学式の日。初めて見た剣城のプレー。圧倒的な技術。鋭い動き。それなのに。本人は言った。
『サッカーなんてくだらねぇもんは……必要ねぇ!』
その言葉と、あのプレー。二つがどうしても結びつかなかった。
「俺も……不思議なんです」
天馬がぽつりと呟く。
「剣城はサッカーが嫌いだって言うのに」
拳をぎゅっと握る。
「どうして、あんなに上手いんだろうって」
その問いに、奏音は少しだけ考えるように目を伏せた。そして。
「天馬くん」
「はい?」
「京ちゃんはね」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「大丈夫なふりをするのは、すごく上手なんだ」
「……剣城が?」
「うん。昔から」
天馬が瞬きをする。初めて聞いた〝剣城京介〟という人間らしい部分に戸惑った。
「でも……」
奏音は小さく笑った。
「嘘をつくのは、昔からあまり得意じゃないの」
「……」
「本当は優しいのに、素直じゃなくて」
その声には確信があった。
「自分で全部抱え込もうとするところがあるんだ」
その言葉に。隣を歩いていた拓人が、わずかに視線を動かした。まるで、誰か別の人間を重ねるように。
「だから……今の京ちゃんが何を考えてるのか、私にはまだ分からない」
一瞬。表情に影が落ちる。
「でも……」
すぐに顔を上げた。
「昔、一緒にサッカーしていた京ちゃんまで嘘だったなんて思えない」
天馬は目を見開く。疑うより先に、信じる。その姿はどこか、自分と似ている気がした。
「……神童妹先輩って、本当に剣城を信じてるんですね」
「うん。京ちゃんは、大切な友達だから」
その笑顔を見て、天馬は小さく笑った。
「なんか……俺と同じですね」
「え?」
「俺も、剣城のこと知りたいんです」
春風が二人の間を吹き抜ける。二人の胸にある願いは一つだった。もう一度、剣城京介の本当の気持ちを知りたい。
拓人はそんな二人を静かに見ていた。剣城京介。敵なのか。味方なのか。まだ答えは出ていない。けれど。
「……」
拓人は静かに息を吐いた。
(まあ……あいつについて考える人間が増えるのは、悪いことじゃないか)
万能坂中との試合。あの時、雷門が勝利できた理由。そのひとつに間違いなく剣城京介という存在があった。天馬へ向けられた卑劣なプレー。それを見た瞬間の剣城の表情。
あの瞬間だけは、剣城はフィフスセクターのシードではなかった。ただひとりのサッカー選手だった。
(……あいつなりの正義、なのかもしれないな)
拓人は校舎へ視線を向ける。剣城はサッカーを嫌いだと言った。雷門のサッカーを否定した。それでもあの瞬間だけは、誰よりも真っ直ぐ、ボールと向き合っていた。
(本当にサッカーを憎んでいる人間が、あんなふうにボールを見るだろうか)
拓人は校庭へ視線を向ける。これから始まる戦いは、決して優しいものではない。フィフスセクターは、さらに強い学校を送り込んでくるだろう。雷門が今まで戦ってきた相手とは比べ物にならないほどの強敵を。
革命を成し遂げるなら。綺麗事だけでは足りない。力が必要だった。絶対的な存在感を持つエースストライカー。どんな状況でもゴールを奪える切り札。今の雷門には――剣城京介が必要だった。
***
「……」
校舎へ続く道の影。ひとりの少年が立っていた。剣城京介。いつものように、誰にも興味がないような顔。けれどその足は、なぜか動かなかった。聞くつもりなどなかった。ただ通りかかっただけ。そう思っていた。なのに。
『京ちゃん』
その呼び方だけが胸に残る。忘れたはずの日々。捨てたはずの自分。
「……くだらねぇ。俺はもう、あの頃の俺じゃない」
フィフスセクターのシード。本気でサッカーを楽しむ奴らを否定する存在。そうでなければならない。なのに。
『昔の京ちゃんまで嘘だったなんて思えない』
その言葉だけが。どうしても消えなかった。拳を握る。強く自分に言い聞かせるように。
「……なんでだよ」
誰に向けた言葉なのか。自分でも分からない。
「なんで……そこまで信じられるんだよ」
普通なら。変わってしまった自分を見れば、離れるはずだ。怖がるはずだ。なのに。奏音は違った。昔の自分を知っているから。今の自分だけを見るのではなく。その奥にあるものを探そうとしている。
「……馬鹿だろ」
吐き捨てる。けれどその声には、いつもの冷たさはなかった。
春の風が吹く。桜の花びらが一枚、剣城の足元へ落ちた。