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春の風が吹いていた。桜の花びらが空を舞い、柔らかな陽光が街を包み込む。それは、革命の風が吹き始めたばかりの頃の出来事だった。海外での留学を一時中断し、日本へ帰国した神童奏音は、空港のターンテーブルから大きなキャリーケースを引き上げると、そのまま足早に駅へ向かった。
「急げ急げ~っ!」
列車の発車ベルが鳴る。万能坂行き。その表示を見つけた瞬間、奏音は人波を縫うように走り出した。赤いリボンが揺れる。キャリーケースの車輪がガラガラと音を立てる。
「待ってぇぇぇぇ!」
飛び込むように車内へ滑り込んだ瞬間、ドアが閉まった。プシューッという音と共に列車が動き出す。
「はぁ……はぁ……」
座席に腰を下ろし、大きく息を吐く。なんとか間に合った。帰国前、本来ならもっと余裕を持って出発する予定だった。だが最後に出演したコンサートの終了時間が大幅に押してしまったのだ。それを聞いた奏音は大慌てだった。衣装を着替え、荷物をまとめ、空港へ直行。空いていた便へ飛び乗り、日本へ向かった。その結果――
「拓にぃに連絡してない……」
今さら気付いた。搭乗した後ではどうしようもなかった。いつもなら事前に連絡している。何日の何時に帰るか。どの便か。どこの空港か。全部伝えている。だが今回は何も言えていない。
「怒ってるかなぁ……」
少しだけ不安になる。けれどその不安より大きいものがあった。今日は万能坂中との試合の日だ。帰国したら真っ先に兄の試合を見に行く。それだけを楽しみにしていた。窓の外を流れる景色を眺めながら、奏音は自然と笑みを浮かべた。
「待っててね、拓にぃ」
列車は春の街を走っていく。まるで運命を乗せるように。
***
万能坂中へ続く坂道は有名だった。地元では「心臓破りの坂」と呼ばれている。長い。急だ。終わりが見えない。しかし奏音にとっては障害ですらなかった。
「もう少し!」
キャリーケースを引きながら駆け上がる。普通なら息が切れる。だが奏音はサッカー選手でもあった。留学中も鍛錬を欠かしていない。春風を切るように坂を駆け抜ける。そして――試合会場へ辿り着いた。
「す、すいませぇぇぇぇぇん!!」
勢いよく扉を開く。バァン! という豪快な音が控室に響いた。その瞬間、扉の向こう側から出てきた人物と正面衝突しそうになる。
「うわっ」
「あっ」
二人同時に声を上げる。
「……奏音?」
目の前には見慣れた顔があった。柔らかな灰色の髪。優しい瞳。世界で一番大好きな兄、神童拓人。海外に行ってから直接会うのは久しぶりだった。胸の奥が、きゅっと熱くなる。
「拓にぃ!」
奏音はぱっと顔を輝かせる。一方の拓人は驚いたように目を瞬かせていた。
「どうしてここにいるんだ?」
「それより!」
奏音は慌てて周囲を見回した。
「試合! もう始まっちゃった!?」
「いや」
拓人は少し困ったように答える。
「終わったぞ」
数秒の沈黙。
「…………」
「…………」
「うひゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
奏音は頭を抱えた。間に合わなかった。兄の試合を見るために飛行機へ飛び乗ったのに。まさかの試合終了後である。
「終わったぁぁぁ……」
奏音にとって拓人は、かけがえのない兄であると同時に、憧れの存在でもあった。だからこそ、兄の試合はいつでも、どこであっても、可能な限り応援する。それは奏音にとって当然のことだった。しかし、そんな大切な兄の活躍を見逃してしまったことに気づき、奏音は涙ぐんだ瞳を伏せる。
まるで世界の終わりのように肩を落とし、深い悲しみに沈む妹の姿を見て、拓人は少し呆れたような、それでいて優しい眼差しを向けた。そして――
「……そこまで落ち込むことか?」
拓人は静かに声をかけた。
「だってぇ……」
奏音はしゅんと肩を落とし、悔しそうに唇を尖らせる。
「帰国初日から、何をやっているんだ。……どうせまた道に迷ったんだろ」
拓人は呆れたようにため息をつきながら言った。
「違うもん!」
奏音はすぐさま顔を上げ、ぷくっと頬を膨らませて反論する。そんな兄妹のやり取りを、雷門サッカー部の面々がぽかんと眺めていた。そして倉間が口を開く。
「……で、お前誰だ?」
その一言で奏音は我に返った。
「あっ!」
勢いよく立ち上がる。
「申し遅れました!」
ぺこり。深々と頭を下げた。
「みなさん、はじめましてっ! 神童奏音です! 拓にぃがお世話になってます!」
明るい声で挨拶する奏音に続き、拓人が静かに口を開く。
「俺の双子の妹だ。奏音は俺にも引けを取らない、れっきとしたサッカープレイヤーだぞ」
その言葉に、倉間は少し驚いたように眉を寄せた。
「双子……なのか。言われてみれば、確かに似てるな」
「へぇ~。そういや妹がいるとか言ってたっけ?」
浜野が興味深そうに頷く。
「神童くんがお兄さんしてるのって、なんだか不思議な感じがします。仲良いんですね」
速水の言葉に、奏音は嬉しそうに笑うと、自然な動作で拓人の隣へ寄り添った。拓人は「やれやれ」と言いたげな表情を浮かべながらも、特に離そうとはしない。
この年頃の双子の兄妹にしては少し距離が近い。初めて二人を見る者なら、その仲の良さに思わず目を丸くしてしまうほどだった。
それほどまでに、二人の兄妹としての絆は深い。奏音にとって拓人は、誰よりも尊敬し、誰よりも大切な兄なのだ。
(……変わってないな、この双子)
その様子を見て、霧野は肩を竦め、小さく苦笑する。
「どっちかっていうと神童が好かれてるだけだけどな」
「その通り!」
奏音は元気よく頷く。
「拓にぃ大好き!」
「堂々と言うな……」
拓人が額を押さえる。その光景に控室は少しだけ和やかな空気に包まれた。
「神童キャプテンの妹だから……神童妹先輩ですね!」
そう言って元気よく頭を下げたのは、一年生の西園信助だった。
「僕は一年の西園信助です! よろしくお願いします!」
「神童妹先輩もサッカーするんですね! 俺も一年の松風天馬って言います!」
続けて天馬も、まっすぐな笑顔で挨拶する。
「わあ~っ、新入生の子たちだよね?」
二人の元気いっぱいな声に、奏音はぱっと表情を明るくした。
「よろしくね!」
柔らかく笑う奏音に、天馬と信助も嬉しそうに笑い返す。そんな三人の様子を少し離れたところから見ていた拓人は、ふと眉を寄せた。
「……奏音」
「ん?」
「お前、先輩なんだからな」
「え?」
きょとんと首を傾げる。
「いや、なんだその反応」
拓人は思わずため息をつく。海外留学をしていたとはいえ、もう二年生。後輩から見れば立派な先輩なのだ。けれど奏音は、昔から変わらない無邪気な笑顔で新しい仲間を迎えている。
「だって、二人ともすごく元気で可愛いんだもん」
「可愛いって……」
呆れたように言いながらも、拓人の表情はどこか柔らかい。そんな二人を見て、天馬と信助は顔を見合わせる。
「やっぱり仲良いんですね、キャプテンと神童妹先輩」
「うん! なんだか双子って感じがする!」
その言葉に、奏音は嬉しそうに笑った。その瞬間――
「……神童、奏音」
背後から、どこか戸惑いを含んだ声が響いた。
「……かのん?」
声の主は部屋の隅に立っていた。名前を確かめるように呟いたのは、剣城だった。その声に奏音は首を傾げる。
「え?」
呼ばれた理由が分からず振り向くと――
「……」
「……」
ばちり、と視線がぶつかった。琥珀色の瞳と、柔らかな色をした瞳。互いに何も言わないまま、しばらく見つめ合う。その瞬間、奏音の胸の奥に小さな違和感が生まれた。
(……あれ?)
初めて会ったはずなのに、不思議と懐かしい。夕暮れの公園。泥だらけで追いかけたボール。ぶっきらぼうに差し出された小さな手。
「……きょうちゃん?」
ぽつりと、名前がこぼれた。剣城の表情がわずかに揺れる。
「……!」
「やっぱり……」
奏音の瞳が大きく見開かれる。
「京ちゃんだ……!」
その瞬間、懐かしさが一気に押し寄せた。そして次の瞬間、奏音の身体は、もう動いていた。
「京ちゃ――ん!!」
走る。全力で。それはもはや華麗なドリブルでも、鍛え抜かれたスプリントでもない。ただただ、再会の喜びだけを燃料にした――純粋な突進だった。
「……は?」
突然迫ってくる奏音に、剣城が反応するより早く。ど――ん!! 鈍い音が響いた。
「ぐふっ!?」
剣城の身体が大きく揺れる。しかし――倒れない。さすがフィフスセクターのシード。日々鍛えられた体幹が、最後の一線で彼の身体を支えた。周囲が静まり返る。隣にいた拓人は、目の前の光景に思わず目を丸くしていた。ついさっきまで初対面のような空気だったはずなのに。
「久しぶり、京ちゃん~! 会いたかったよ!」
ぎゅう、と抱きしめながら、奏音は嬉しそうに言葉を続ける。
「なんで急にいつもの公園に来なくなっちゃったの? ずっと待ってたんだからね? ねぇねぇ、京ちゃん~!」
「ぐ、ぐぇ……っ!?」
突然の再会に喜ぶ奏音とは対照的に、剣城は完全に不意を突かれていた。逃れようとするものの、奏音は昔から変わらない――いや、昔より少し強くなった腕力でしっかりと掴んでいる。
「元気だった!? 背も伸びたね!? 声も変わったね!?」
「ま、待て……」
「あと目つき悪くなった! 不良になった!?」
「誰がだ!」
そのやり取りを見ていた拓人は、さすがに見かねてため息をついた。
「奏音」
「?」
「離してやれ。剣城の首が絞まっている」
「あっ」
拓人に言われ、奏音は慌てて手を緩める。
「いけない……つい嬉しくなっちゃって」
解放された剣城は、その場で大きく息を整えた。
「はぁ……はぁ……ったく……」
そして、呆れたように奏音を見る。
「相変わらずだな、奏音」
昔からそうだった。この少女は距離感というものを知らない。太陽みたいに真っ直ぐで。だからこそ厄介だった。その呼び方に、奏音の表情がぱっと明るくなる。
「雷門にいたんだね」
「……」
「ずっと会えなかったから、びっくりしちゃった」
懐かしそうに笑う奏音。しかし、剣城は視線を逸らした。
「……昔の話はやめろ」
ぶっきらぼうな返事。けれど、昔を知る奏音には分かっていた。冷たい言葉の奥に、変わらない何かが残っていることを。そんな二人の様子を見て、拓人は自然に浮かんだ疑問を口にする。
「知り合いなのか?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
奏音は不思議そうに瞬く。
「京ちゃんは私の幼馴染だよ!」
「幼馴染?」
「小さい頃、一緒にサッカーしてたの!」
拓人が目を見開く。霧野も少し驚いていた。一方。その言葉に、剣城の表情がわずかに揺れた。剣城はそっぽを向く。
「まさか、奏音がこいつの妹だったとはな」
「こ、こいつ……!?」
剣城の何気ない一言に、奏音はぴたりと動きを止めた。まるで石像になったかのように固まる。剣城としては、少しばかり意地を込めた言葉だった。けれど――
「……今、拓にぃのこと……こいつって言った?」
奏音の声が低くなる。
「……ああ。お前の兄貴なら、入学初日に叩き潰してやったぜ。大したことなかったな」
その瞬間。奏音の手が、わなわなと震え始めた。
「……」
ゆっくりと顔を上げる。
「な……なんだってぇぇぇ!?」
突然の大声に、雷門全員が一歩下がった。怖い。これは怖い。ブラコンの逆鱗である。
「私のお兄ちゃんは世界一かっこよくて、すごくて、誰よりも努力家なんだからっ!!」
瞳が燃えている。本気だ。剣城は思わず息を呑んだ。――思い出した。この女、昔からこうだった。兄のことになると、異常なまでに熱い。完全に気圧された剣城は、しばらく言葉を失う。
(お嬢様はどこ行ったんだよ……)
心の中でそう呟いた。
「知ってる」
「絶対思ってない!!」
「思ってないな」
「認めたぁぁぁ!?」
控室に悲鳴が響く。剣城は少しだけ口元を緩めた。あの頃のままだ。そう思ってしまったから。けれど。次の瞬間、空気が変わる。奏音が真剣な目で見つめてきた。
「……ねぇ、京ちゃん」
奏音の声が少しだけ静かになる。
「どうしてそんな言い方するの?」
剣城の表情が消える。静寂。誰も口を開かない。
「京ちゃん、サッカー好きだったよね」
その一言が。剣城の胸を刺した。
「関係ないだろ」
「ううん、関係ある」
即答だった。
「京ちゃんがそんなことする人じゃないって、私は知ってるもん」
剣城の瞳が揺れる。
しかし、その迷いを振り払うように一歩踏み出し、奏音を鋭く見据えた。
「……関係ないと言ったはずだ」
低い声だった。奏音は目をぱちぱちと瞬かせる。怖がるどころか、不思議そうに首を傾げた。
「京ちゃん、そんな怖い顔しないでよ」
「誰のせいだ」
「私!?」
「そうだ」
その時だった。拓人が二人の間へ割って入る。
「やめろ」
静かな声。だが有無を言わせない迫力があった。そして拓人は奏音へ向き直る。
「こいつはお前の知っている剣城じゃない」
奏音が息を呑む。
「雷門を監視するために、フィフスセクターから送り込まれたシードだ」
残酷な現実だった。けれど奏音は剣城から目を逸らさなかった。長い沈黙の後。小さく笑う。
「……それでも、京ちゃんに会えてよかった」
剣城は何も言えなかった。
まっすぐな笑顔を前に、視線を逸らすことしかできなかった。奏音は信じていた。剣城京介が、理由もなく誰かを傷つける人ではないことを。だからこそ。
「私、サッカー部に入る! 雷門のサッカーを守りたいから!」
その宣言に、控室がざわめく。
奏音は剣城をまっすぐ指差した。
「京ちゃん!」
「……なんだ」
「宣戦布告です!」
全員が固まる。物騒な言葉とは裏腹に、奏音は満面の笑みを浮かべていた。
「絶対に本当のサッカーを取り戻す!」
春風が吹く。赤いリボンがふわりと揺れる。
「その時は、京ちゃんとも本気で勝負するからね!」
その笑顔は眩しかった。
剣城は思わず目を細める。
(……相変わらずだ)
理想ばかり語る。甘い。甘すぎる。
それでも――その真っ直ぐさだけは、昔から何ひとつ変わらない。
「……好きにしろ」
「うん!」
奏音は嬉しそうに頷いた。その曇りのない笑顔から逃げるように、剣城は静かに視線を逸らした。そして奏音は振り返り、雷門サッカー部のみんなへ向かって明るく笑う。
「それじゃあ、サッカー部のみなさん! よろしくお願いします!」
「急げ急げ~っ!」
列車の発車ベルが鳴る。万能坂行き。その表示を見つけた瞬間、奏音は人波を縫うように走り出した。赤いリボンが揺れる。キャリーケースの車輪がガラガラと音を立てる。
「待ってぇぇぇぇ!」
飛び込むように車内へ滑り込んだ瞬間、ドアが閉まった。プシューッという音と共に列車が動き出す。
「はぁ……はぁ……」
座席に腰を下ろし、大きく息を吐く。なんとか間に合った。帰国前、本来ならもっと余裕を持って出発する予定だった。だが最後に出演したコンサートの終了時間が大幅に押してしまったのだ。それを聞いた奏音は大慌てだった。衣装を着替え、荷物をまとめ、空港へ直行。空いていた便へ飛び乗り、日本へ向かった。その結果――
「拓にぃに連絡してない……」
今さら気付いた。搭乗した後ではどうしようもなかった。いつもなら事前に連絡している。何日の何時に帰るか。どの便か。どこの空港か。全部伝えている。だが今回は何も言えていない。
「怒ってるかなぁ……」
少しだけ不安になる。けれどその不安より大きいものがあった。今日は万能坂中との試合の日だ。帰国したら真っ先に兄の試合を見に行く。それだけを楽しみにしていた。窓の外を流れる景色を眺めながら、奏音は自然と笑みを浮かべた。
「待っててね、拓にぃ」
列車は春の街を走っていく。まるで運命を乗せるように。
***
万能坂中へ続く坂道は有名だった。地元では「心臓破りの坂」と呼ばれている。長い。急だ。終わりが見えない。しかし奏音にとっては障害ですらなかった。
「もう少し!」
キャリーケースを引きながら駆け上がる。普通なら息が切れる。だが奏音はサッカー選手でもあった。留学中も鍛錬を欠かしていない。春風を切るように坂を駆け抜ける。そして――試合会場へ辿り着いた。
「す、すいませぇぇぇぇぇん!!」
勢いよく扉を開く。バァン! という豪快な音が控室に響いた。その瞬間、扉の向こう側から出てきた人物と正面衝突しそうになる。
「うわっ」
「あっ」
二人同時に声を上げる。
「……奏音?」
目の前には見慣れた顔があった。柔らかな灰色の髪。優しい瞳。世界で一番大好きな兄、神童拓人。海外に行ってから直接会うのは久しぶりだった。胸の奥が、きゅっと熱くなる。
「拓にぃ!」
奏音はぱっと顔を輝かせる。一方の拓人は驚いたように目を瞬かせていた。
「どうしてここにいるんだ?」
「それより!」
奏音は慌てて周囲を見回した。
「試合! もう始まっちゃった!?」
「いや」
拓人は少し困ったように答える。
「終わったぞ」
数秒の沈黙。
「…………」
「…………」
「うひゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
奏音は頭を抱えた。間に合わなかった。兄の試合を見るために飛行機へ飛び乗ったのに。まさかの試合終了後である。
「終わったぁぁぁ……」
奏音にとって拓人は、かけがえのない兄であると同時に、憧れの存在でもあった。だからこそ、兄の試合はいつでも、どこであっても、可能な限り応援する。それは奏音にとって当然のことだった。しかし、そんな大切な兄の活躍を見逃してしまったことに気づき、奏音は涙ぐんだ瞳を伏せる。
まるで世界の終わりのように肩を落とし、深い悲しみに沈む妹の姿を見て、拓人は少し呆れたような、それでいて優しい眼差しを向けた。そして――
「……そこまで落ち込むことか?」
拓人は静かに声をかけた。
「だってぇ……」
奏音はしゅんと肩を落とし、悔しそうに唇を尖らせる。
「帰国初日から、何をやっているんだ。……どうせまた道に迷ったんだろ」
拓人は呆れたようにため息をつきながら言った。
「違うもん!」
奏音はすぐさま顔を上げ、ぷくっと頬を膨らませて反論する。そんな兄妹のやり取りを、雷門サッカー部の面々がぽかんと眺めていた。そして倉間が口を開く。
「……で、お前誰だ?」
その一言で奏音は我に返った。
「あっ!」
勢いよく立ち上がる。
「申し遅れました!」
ぺこり。深々と頭を下げた。
「みなさん、はじめましてっ! 神童奏音です! 拓にぃがお世話になってます!」
明るい声で挨拶する奏音に続き、拓人が静かに口を開く。
「俺の双子の妹だ。奏音は俺にも引けを取らない、れっきとしたサッカープレイヤーだぞ」
その言葉に、倉間は少し驚いたように眉を寄せた。
「双子……なのか。言われてみれば、確かに似てるな」
「へぇ~。そういや妹がいるとか言ってたっけ?」
浜野が興味深そうに頷く。
「神童くんがお兄さんしてるのって、なんだか不思議な感じがします。仲良いんですね」
速水の言葉に、奏音は嬉しそうに笑うと、自然な動作で拓人の隣へ寄り添った。拓人は「やれやれ」と言いたげな表情を浮かべながらも、特に離そうとはしない。
この年頃の双子の兄妹にしては少し距離が近い。初めて二人を見る者なら、その仲の良さに思わず目を丸くしてしまうほどだった。
それほどまでに、二人の兄妹としての絆は深い。奏音にとって拓人は、誰よりも尊敬し、誰よりも大切な兄なのだ。
(……変わってないな、この双子)
その様子を見て、霧野は肩を竦め、小さく苦笑する。
「どっちかっていうと神童が好かれてるだけだけどな」
「その通り!」
奏音は元気よく頷く。
「拓にぃ大好き!」
「堂々と言うな……」
拓人が額を押さえる。その光景に控室は少しだけ和やかな空気に包まれた。
「神童キャプテンの妹だから……神童妹先輩ですね!」
そう言って元気よく頭を下げたのは、一年生の西園信助だった。
「僕は一年の西園信助です! よろしくお願いします!」
「神童妹先輩もサッカーするんですね! 俺も一年の松風天馬って言います!」
続けて天馬も、まっすぐな笑顔で挨拶する。
「わあ~っ、新入生の子たちだよね?」
二人の元気いっぱいな声に、奏音はぱっと表情を明るくした。
「よろしくね!」
柔らかく笑う奏音に、天馬と信助も嬉しそうに笑い返す。そんな三人の様子を少し離れたところから見ていた拓人は、ふと眉を寄せた。
「……奏音」
「ん?」
「お前、先輩なんだからな」
「え?」
きょとんと首を傾げる。
「いや、なんだその反応」
拓人は思わずため息をつく。海外留学をしていたとはいえ、もう二年生。後輩から見れば立派な先輩なのだ。けれど奏音は、昔から変わらない無邪気な笑顔で新しい仲間を迎えている。
「だって、二人ともすごく元気で可愛いんだもん」
「可愛いって……」
呆れたように言いながらも、拓人の表情はどこか柔らかい。そんな二人を見て、天馬と信助は顔を見合わせる。
「やっぱり仲良いんですね、キャプテンと神童妹先輩」
「うん! なんだか双子って感じがする!」
その言葉に、奏音は嬉しそうに笑った。その瞬間――
「……神童、奏音」
背後から、どこか戸惑いを含んだ声が響いた。
「……かのん?」
声の主は部屋の隅に立っていた。名前を確かめるように呟いたのは、剣城だった。その声に奏音は首を傾げる。
「え?」
呼ばれた理由が分からず振り向くと――
「……」
「……」
ばちり、と視線がぶつかった。琥珀色の瞳と、柔らかな色をした瞳。互いに何も言わないまま、しばらく見つめ合う。その瞬間、奏音の胸の奥に小さな違和感が生まれた。
(……あれ?)
初めて会ったはずなのに、不思議と懐かしい。夕暮れの公園。泥だらけで追いかけたボール。ぶっきらぼうに差し出された小さな手。
「……きょうちゃん?」
ぽつりと、名前がこぼれた。剣城の表情がわずかに揺れる。
「……!」
「やっぱり……」
奏音の瞳が大きく見開かれる。
「京ちゃんだ……!」
その瞬間、懐かしさが一気に押し寄せた。そして次の瞬間、奏音の身体は、もう動いていた。
「京ちゃ――ん!!」
走る。全力で。それはもはや華麗なドリブルでも、鍛え抜かれたスプリントでもない。ただただ、再会の喜びだけを燃料にした――純粋な突進だった。
「……は?」
突然迫ってくる奏音に、剣城が反応するより早く。ど――ん!! 鈍い音が響いた。
「ぐふっ!?」
剣城の身体が大きく揺れる。しかし――倒れない。さすがフィフスセクターのシード。日々鍛えられた体幹が、最後の一線で彼の身体を支えた。周囲が静まり返る。隣にいた拓人は、目の前の光景に思わず目を丸くしていた。ついさっきまで初対面のような空気だったはずなのに。
「久しぶり、京ちゃん~! 会いたかったよ!」
ぎゅう、と抱きしめながら、奏音は嬉しそうに言葉を続ける。
「なんで急にいつもの公園に来なくなっちゃったの? ずっと待ってたんだからね? ねぇねぇ、京ちゃん~!」
「ぐ、ぐぇ……っ!?」
突然の再会に喜ぶ奏音とは対照的に、剣城は完全に不意を突かれていた。逃れようとするものの、奏音は昔から変わらない――いや、昔より少し強くなった腕力でしっかりと掴んでいる。
「元気だった!? 背も伸びたね!? 声も変わったね!?」
「ま、待て……」
「あと目つき悪くなった! 不良になった!?」
「誰がだ!」
そのやり取りを見ていた拓人は、さすがに見かねてため息をついた。
「奏音」
「?」
「離してやれ。剣城の首が絞まっている」
「あっ」
拓人に言われ、奏音は慌てて手を緩める。
「いけない……つい嬉しくなっちゃって」
解放された剣城は、その場で大きく息を整えた。
「はぁ……はぁ……ったく……」
そして、呆れたように奏音を見る。
「相変わらずだな、奏音」
昔からそうだった。この少女は距離感というものを知らない。太陽みたいに真っ直ぐで。だからこそ厄介だった。その呼び方に、奏音の表情がぱっと明るくなる。
「雷門にいたんだね」
「……」
「ずっと会えなかったから、びっくりしちゃった」
懐かしそうに笑う奏音。しかし、剣城は視線を逸らした。
「……昔の話はやめろ」
ぶっきらぼうな返事。けれど、昔を知る奏音には分かっていた。冷たい言葉の奥に、変わらない何かが残っていることを。そんな二人の様子を見て、拓人は自然に浮かんだ疑問を口にする。
「知り合いなのか?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
奏音は不思議そうに瞬く。
「京ちゃんは私の幼馴染だよ!」
「幼馴染?」
「小さい頃、一緒にサッカーしてたの!」
拓人が目を見開く。霧野も少し驚いていた。一方。その言葉に、剣城の表情がわずかに揺れた。剣城はそっぽを向く。
「まさか、奏音がこいつの妹だったとはな」
「こ、こいつ……!?」
剣城の何気ない一言に、奏音はぴたりと動きを止めた。まるで石像になったかのように固まる。剣城としては、少しばかり意地を込めた言葉だった。けれど――
「……今、拓にぃのこと……こいつって言った?」
奏音の声が低くなる。
「……ああ。お前の兄貴なら、入学初日に叩き潰してやったぜ。大したことなかったな」
その瞬間。奏音の手が、わなわなと震え始めた。
「……」
ゆっくりと顔を上げる。
「な……なんだってぇぇぇ!?」
突然の大声に、雷門全員が一歩下がった。怖い。これは怖い。ブラコンの逆鱗である。
「私のお兄ちゃんは世界一かっこよくて、すごくて、誰よりも努力家なんだからっ!!」
瞳が燃えている。本気だ。剣城は思わず息を呑んだ。――思い出した。この女、昔からこうだった。兄のことになると、異常なまでに熱い。完全に気圧された剣城は、しばらく言葉を失う。
(お嬢様はどこ行ったんだよ……)
心の中でそう呟いた。
「知ってる」
「絶対思ってない!!」
「思ってないな」
「認めたぁぁぁ!?」
控室に悲鳴が響く。剣城は少しだけ口元を緩めた。あの頃のままだ。そう思ってしまったから。けれど。次の瞬間、空気が変わる。奏音が真剣な目で見つめてきた。
「……ねぇ、京ちゃん」
奏音の声が少しだけ静かになる。
「どうしてそんな言い方するの?」
剣城の表情が消える。静寂。誰も口を開かない。
「京ちゃん、サッカー好きだったよね」
その一言が。剣城の胸を刺した。
「関係ないだろ」
「ううん、関係ある」
即答だった。
「京ちゃんがそんなことする人じゃないって、私は知ってるもん」
剣城の瞳が揺れる。
しかし、その迷いを振り払うように一歩踏み出し、奏音を鋭く見据えた。
「……関係ないと言ったはずだ」
低い声だった。奏音は目をぱちぱちと瞬かせる。怖がるどころか、不思議そうに首を傾げた。
「京ちゃん、そんな怖い顔しないでよ」
「誰のせいだ」
「私!?」
「そうだ」
その時だった。拓人が二人の間へ割って入る。
「やめろ」
静かな声。だが有無を言わせない迫力があった。そして拓人は奏音へ向き直る。
「こいつはお前の知っている剣城じゃない」
奏音が息を呑む。
「雷門を監視するために、フィフスセクターから送り込まれたシードだ」
残酷な現実だった。けれど奏音は剣城から目を逸らさなかった。長い沈黙の後。小さく笑う。
「……それでも、京ちゃんに会えてよかった」
剣城は何も言えなかった。
まっすぐな笑顔を前に、視線を逸らすことしかできなかった。奏音は信じていた。剣城京介が、理由もなく誰かを傷つける人ではないことを。だからこそ。
「私、サッカー部に入る! 雷門のサッカーを守りたいから!」
その宣言に、控室がざわめく。
奏音は剣城をまっすぐ指差した。
「京ちゃん!」
「……なんだ」
「宣戦布告です!」
全員が固まる。物騒な言葉とは裏腹に、奏音は満面の笑みを浮かべていた。
「絶対に本当のサッカーを取り戻す!」
春風が吹く。赤いリボンがふわりと揺れる。
「その時は、京ちゃんとも本気で勝負するからね!」
その笑顔は眩しかった。
剣城は思わず目を細める。
(……相変わらずだ)
理想ばかり語る。甘い。甘すぎる。
それでも――その真っ直ぐさだけは、昔から何ひとつ変わらない。
「……好きにしろ」
「うん!」
奏音は嬉しそうに頷いた。その曇りのない笑顔から逃げるように、剣城は静かに視線を逸らした。そして奏音は振り返り、雷門サッカー部のみんなへ向かって明るく笑う。
「それじゃあ、サッカー部のみなさん! よろしくお願いします!」