一目惚れアンサンブル(GO21話)
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昼休みを告げるチャイムが校舎いっぱいに鳴り響き、生徒たちは待ちかねたように教室からあふれ出していく。剣城と奏音も弁当を手に、屋上へ続く廊下をゆっくりと歩いていた。
開け放たれた窓から吹き込む初夏の風が、火照り始めた空気をさらりと撫でていく。奏音の灰色がかった茶色のウェーブが風にふわりと揺れ、左上で結んだ白いリボンが陽射しを受けて、軽やかに踊った。
「今日は暑くなりそうだね」
眩しそうに空を見上げる奏音の横顔は、夏の始まりをそのまま映したように明るい。
「ああ」
短く返事をしながら、剣城はふと隣へ目を向けた。
「そういえば京ちゃん、今日も朝ランニングしてたでしょ?」
「見てたのか」
「うん。校門に入る前に見かけたの。毎日欠かさず走ってるよね」
感心したように目を輝かせる奏音を見て、剣城は肩を竦める。
「サッカー部なら普通だろ」
「でも京ちゃんは普通じゃないもん。自主練も筋トレも毎日やってるし」
そう言って小さく拳を握る奏音の姿は、どこか憧れを抱く子どものようだった。
「私ももっと鍛えたら……京ちゃんみたいに強くなれるかな?」
その何気ない一言に、剣城の足が止まる。
数歩先まで進んでいた奏音も、不思議そうに振り返った。
「京ちゃん?」
剣城は静かに首を横へ振る。
「……いや」
ほんの一瞬だけ言葉を探すように目を伏せ、それから奏音を見る。
「奏音は、そのままでいい。無理して俺みたいになる必要なんてない」
穏やかな声だった。だが、その言葉には迷いがない。
「お前には、お前だけの強さがある。誰かと比べなくていい……今の奏音が、一番いい」
「京ちゃん……」
胸の奥へ、温かな何かがすっと染み込んでいく。
(……そんなふうに思ってくれてたんだ)
嬉しくて、照れくさくて。胸元へそっと手を添えると、自然と笑みが零れた。
「……えへへ」
その柔らかな笑顔につられるように、剣城もほんの少しだけ表情を緩める。穏やかな空気が二人を包んだ。だからこそ――次の瞬間は、あまりにも突然だった。
「よーし!」
奏音はぱん、と手を叩く。
「お昼食べたら準備運動も兼ねてボール蹴ろう!」
「そうだな」
「今日は負けないからね!」
元気よく一歩を踏み出した、その時だった。
「早く行かないと、今日もなくなるぞー!」
「急げ! 急げ!」
昼休みの廊下に、生徒たちの慌ただしい声が飛び交う。
「幻のカレーパンは俺がいただきだぜ!」
一人の男子生徒が食堂へ向かって全力で駆け出した。
「うわっ――!」
言い終えるより早く、その身体はちょうど角を曲がってきた一人の少年と激しくぶつかった。
「うおっ!?」
ぶつかった拍子に、青みがかった長めの髪が揺れ、茶金色の瞳を見開いた少年は、大きく体勢を崩した。
少年の身体が大きく前へ傾く。踏ん張る間もない。そして、その倒れる先には――。
「きゃっ……!」
奏音がいた。伸ばされた手は、届かない。重力に引かれる身体。世界が、ゆっくりと動き始める。ふわり、まるで時間だけが引き延ばされたような感覚。
偶然だった。本当に、ほんの偶然だった。
少年の身体が奏音にもたれかかった、その一瞬。踏みとどまることもできない。そして――羽根が触れるほどかすかな距離で、彼の唇が奏音の頬へ触れた。
それだけ。本当に、それだけだった。
「…………えっ」
音が消えた。少年は目を見開いたまま固まり、奏音も何が起きたのか理解できずに瞬きを繰り返す。頬に残る、かすかな温もり。
「な、な……」
ようやく我に返った少年は飛び退くように身体を起こし、顔を真っ赤に染める。
「ち、違っ! いや、これは、その……!」
言葉が出てこない。奏音も両手で頬を押さえ、目をぱちぱちと瞬かせた。
「えっ……えっ?」
その場にいた全員の思考が完全に停止していた。廊下を歩いていた生徒たちも足を止め、口を開いたまま動けない。さっきまでの喧騒が嘘のように消え、広い廊下には異様な静寂だけが流れていた。
「……………………は?」
その静寂を切り裂いたのは、低く、掠れた剣城の一言だった。まるで地の底から這い上がってきたような声。その響きに、周囲の空気が一瞬で凍りつく。
事故だ。誰も悪くない。そんなことは分かっている。それでも、胸の奥では黒い感情が音を立てて暴れていた。
「……京ちゃん?」
不安そうな声。剣城は何も答えない。ゆっくりと歩み寄ると、奏音の細い手首へ静かに触れた。
「え?」
そのまま奏音の手を取る。指先までしっかりと包み込むように握り、そのまま歩き出した。
「きょ、京ちゃん!?」
奏音の瞳が大きく揺れる。だが剣城は振り返らない。
「……来い」
低く押し殺した声。その静けさがかえって恐ろしかった。
「えっ、ちょ、ちょっと待って!」
奏音は戸惑いながらも、そのまま引かれて歩き出す。剣城の手は力強い。痛いほどではない。だが、決して振りほどけない強さがあった。
(な、何か怒ってる……?)
違う。いつもの不機嫌とはまるで違う。静かで、冷たくて。まるで必死に何かを押さえ込んでいるような空気だった。
人気のない校舎裏へ着くと、剣城はようやく立ち止まる。制服のポケットから白いハンカチを取り出し、無言のまま奏音へ向き直った。
「京ちゃん?」
「……動くな」
「え?」
次の瞬間だった。
「いたたたたたっ!?」
ごし、ごし、ごし、ごしっ――。
遠慮という言葉を知らない勢いで、奏音の頬を容赦なく拭き始める。
「きょ、京ちゃん!? な、何してるの!?」
「消毒だ」
「しょうどく!?」
意味が分からない。じたばたともがく奏音を、剣城は片手で軽く押さえ込みながら、なおもハンカチを動かし続ける。
「事故だ」
ごし、ごし。
「忘れろ」
ごし、ごし、ごし。
「事故だった」
何度も、何度も。それは奏音へ言い聞かせているようでいて、本当は違う。自分自身に言い聞かせていた。
「んむっ……も、もうっ!」
奏音は涙目になりながら抗議する。
「私のほっぺたなくなっちゃうよ~~!!」
しかし、その悲鳴すら剣城の耳には届いていない。呪文のように同じ言葉を繰り返しながら、必死に胸の奥で暴れ続ける感情へ蓋をしようとしていた。
そして奏音もまた、頬をいくら拭かれても、あの一瞬の柔らかな感触だけは消えてくれないことに、小さく困ったように眉を下げるのだった。
***
放課後。サッカー棟の部室には練習前ならではの穏やかな空気が流れていた。そんな日常の中へ、天馬と信助が一人の少年を連れて入ってきた。
「ここが部室だよ」
その声に、部室中の視線が一斉に集まる。
拓人も手を止め、新しく現れた少年へ目を向けた。見慣れない顔。サッカー部員ではないことは一目で分かる。
「君は?」
落ち着いた声音で問いかけると、少年は一歩前へ出る。
「サッカー部に入りたいんです」
「入部希望者か」
拓人が納得したように頷くと、天馬が嬉しそうに紹介した。
「転入生なんです! 狩屋マサキくん!」
名前を呼ばれた狩屋は姿勢を正し、背筋をすっと伸ばす。
「よろしくお願いします」
礼儀正しい挨拶に、部員たちは自然と笑みを浮かべる。その和やかな空気の中、狩屋の口元がほんの一瞬だけ吊り上がった。あまりにも短い変化だったため、それに気づいたのは円堂だけだった。
一方、その少し後ろでは、奏音が狩屋をじっと見つめていた。
「んー?あれれー?」
小首を傾げる。さらに反対側へ、こてん。まるで考え込むフクロウのように首を傾げながら、狩屋の顔をまじまじと見つめる。
「どうした?」
その様子に気づいた拓人が不思議そうに尋ねる。奏音は困ったように笑い、小さく唸った。
「どこかで会ったような気がするんだよね」
そう呟きながら、奏音は狩屋の顔をじっと見つめた。
(……昼休みに思いきり会っただろ)
剣城は思わず額に手を当てそうになるのを、ぐっと堪えた。あれだけの騒ぎがあったというのに、本人はすっかり忘れているらしい。
そんな剣城の心境など知る由もなく、奏音は眉を寄せ、記憶を辿るように狩屋の顔をじっと見つめていた。その空気を切り替えるように、浜野がひょいと手を挙げる。
「そんじゃ、今日の練習はまず入部テストっすか?」
「えっ? テスト?」
狩屋が意外そうに目を丸くした、その瞬間。
「あっ……!」
天馬と信助の表情がぴたりと固まる。二人は顔を見合わせると、次の瞬間、声を揃えて叫んだ。
「そうだったぁ!」
「入部テストのこと、すっかり忘れてた!」
微妙な沈黙が部室を包む。その空気を破るように、低く落ち着いた声が響いた。
「――狩屋」
円堂だった。部室中の視線が自然と監督へ集まる。円堂は狩屋の目を真っ直ぐ見つめた。試すようでも、値踏みするようでもない。ただ一つだけ確かめるような眼差しだった。
「お前は、サッカーは好きか?」
静まり返る部室。その問いに、狩屋は一瞬たりとも迷わない。
「はい!」
即答だった。その返事を聞いた瞬間、円堂は満足そうに笑う。
「よし! 入部を認める!」
狩屋だけでなく、部員たちまで一斉に目を丸くした。
「えっ!? 入部テストは?」
浜野が思わず聞き返す。だが、円堂は当然だと言わんばかりに、からりと笑った。
「今のが入部テストだ。サッカーをやりたい奴が入るのがサッカー部だからな!」
そう言い残すと、円堂は颯爽と部室を後にしていく。静まり返る部室。誰もが呆気に取られたまま、その背中を見送っていた。やがて、その沈黙を破るように天馬が嬉しそうに笑う。
「……監督」
その一言に、部員たちの頬も自然と緩む。
「ですよね~」
浜野が肩をすくめながら笑えば、三国も苦笑混じりに頷いた。
「円堂監督らしいやり方だな」
「はい」
拓人も穏やかに微笑み、静かに頷く。理屈では説明できなくても、不思議と納得してしまう。それが円堂守という監督だった。
狩屋は、まだ少し信じられないというように目を瞬かせていた。だが、その表情はやがて嬉しさに変わっていく。
「……面白いな」
誰にも聞こえないほど小さく呟いた声は、雑談に包まれた部室の喧騒に溶けて消えた。
「ねえねえ、狩屋くん!」
明るい声に振り向くと、そこには昼休みにぶつかった少女が立っていた。
「あっ……あの時の」
狩屋は思わず目を見開く。青みがかった髪を揺らしながら立つ狩屋を見て、奏音も「あっ」と声を弾ませた。
「思い出した! やっぱり、お昼休みにぶつかった子だよね?」
「は、はい!」
狩屋は反射的に背筋を伸ばえる。
「その……お昼は、本当にすみませんでした」
ようやく口にできた謝罪だった。すると奏音は、ふっと頬を緩める。
「そんなに気にしなくていいよ。あれは事故だったし、お互いびっくりしただけだから」
責めるような色は微塵もない。その一言だけで、昼休みから胸につかえていた重石が、すっとほどけていく。
(……よかった)
狩屋は胸の内で小さく息をついた。
「改めて自己紹介するね」
奏音はにこりと笑う。
「私は神童奏音。二年生でFWをやってるの」
「一年の狩屋マサキです。よろしくお願いします」
二人は軽く頭を下げ合う。
「FWなんですね」
狩屋は少し意外そうに目を丸くした。
「なんだか、イメージと違いました」
「えへへ!」
奏音は得意げに胸を張り、腰へ手を当てる。
「こう見えて、点を取るのは得意なんだから!」
ふわりとした雰囲気から飛び出した、自信たっぷりの一言。柔らかな笑顔はそのままなのに、サッカーを語る声だけが少し力強く響く。
(……なんだ、この人)
昼休みに見た、どこか天然そうな先輩。その印象は変わらない。けれど、サッカーへの想いだけは誰よりも真っ直ぐだった。狩屋は思わず口元を緩める。
「それとね」
奏音は少し照れくさそうに笑った。
「私も最近転校してきたばっかりなの」
「え?」
「最初はすごくすごく緊張したよ。でも、みんな本当に優しくて」
そう言って、狩屋へ優しく微笑む。
「だから、狩屋くんも大丈夫。一緒に頑張ろうね」
飾らない言葉だった。励まそうと考えて口にしたのではない。ただ、自分が言われて嬉しかった言葉を、そのまま差し出している。その何気ない優しさに、狩屋は少しだけ目を丸くした。
「……ありがとうございます。じゃあ、お願いがあるんですけど」
ほんの少し身を乗り出し、上目遣いに奏音を見つめる。
「奏音先輩って呼んでもいいですか?」
眉尻を下げたその顔には、年相応のあどけなさが浮かんでいた。
(……かわいい!)
奏音の胸が、きゅっと掴まれた。
「もちろん!」
ぱっと笑顔が弾ける。
「じゃあ私は、マサキくんって呼ぶね!」
「はい!」
二人は顔を見合わせて笑った。その様子を少し離れたところから見ていた剣城は、何とも言えない表情で二人を眺めていた。
開け放たれた窓から吹き込む初夏の風が、火照り始めた空気をさらりと撫でていく。奏音の灰色がかった茶色のウェーブが風にふわりと揺れ、左上で結んだ白いリボンが陽射しを受けて、軽やかに踊った。
「今日は暑くなりそうだね」
眩しそうに空を見上げる奏音の横顔は、夏の始まりをそのまま映したように明るい。
「ああ」
短く返事をしながら、剣城はふと隣へ目を向けた。
「そういえば京ちゃん、今日も朝ランニングしてたでしょ?」
「見てたのか」
「うん。校門に入る前に見かけたの。毎日欠かさず走ってるよね」
感心したように目を輝かせる奏音を見て、剣城は肩を竦める。
「サッカー部なら普通だろ」
「でも京ちゃんは普通じゃないもん。自主練も筋トレも毎日やってるし」
そう言って小さく拳を握る奏音の姿は、どこか憧れを抱く子どものようだった。
「私ももっと鍛えたら……京ちゃんみたいに強くなれるかな?」
その何気ない一言に、剣城の足が止まる。
数歩先まで進んでいた奏音も、不思議そうに振り返った。
「京ちゃん?」
剣城は静かに首を横へ振る。
「……いや」
ほんの一瞬だけ言葉を探すように目を伏せ、それから奏音を見る。
「奏音は、そのままでいい。無理して俺みたいになる必要なんてない」
穏やかな声だった。だが、その言葉には迷いがない。
「お前には、お前だけの強さがある。誰かと比べなくていい……今の奏音が、一番いい」
「京ちゃん……」
胸の奥へ、温かな何かがすっと染み込んでいく。
(……そんなふうに思ってくれてたんだ)
嬉しくて、照れくさくて。胸元へそっと手を添えると、自然と笑みが零れた。
「……えへへ」
その柔らかな笑顔につられるように、剣城もほんの少しだけ表情を緩める。穏やかな空気が二人を包んだ。だからこそ――次の瞬間は、あまりにも突然だった。
「よーし!」
奏音はぱん、と手を叩く。
「お昼食べたら準備運動も兼ねてボール蹴ろう!」
「そうだな」
「今日は負けないからね!」
元気よく一歩を踏み出した、その時だった。
「早く行かないと、今日もなくなるぞー!」
「急げ! 急げ!」
昼休みの廊下に、生徒たちの慌ただしい声が飛び交う。
「幻のカレーパンは俺がいただきだぜ!」
一人の男子生徒が食堂へ向かって全力で駆け出した。
「うわっ――!」
言い終えるより早く、その身体はちょうど角を曲がってきた一人の少年と激しくぶつかった。
「うおっ!?」
ぶつかった拍子に、青みがかった長めの髪が揺れ、茶金色の瞳を見開いた少年は、大きく体勢を崩した。
少年の身体が大きく前へ傾く。踏ん張る間もない。そして、その倒れる先には――。
「きゃっ……!」
奏音がいた。伸ばされた手は、届かない。重力に引かれる身体。世界が、ゆっくりと動き始める。ふわり、まるで時間だけが引き延ばされたような感覚。
偶然だった。本当に、ほんの偶然だった。
少年の身体が奏音にもたれかかった、その一瞬。踏みとどまることもできない。そして――羽根が触れるほどかすかな距離で、彼の唇が奏音の頬へ触れた。
それだけ。本当に、それだけだった。
「…………えっ」
音が消えた。少年は目を見開いたまま固まり、奏音も何が起きたのか理解できずに瞬きを繰り返す。頬に残る、かすかな温もり。
「な、な……」
ようやく我に返った少年は飛び退くように身体を起こし、顔を真っ赤に染める。
「ち、違っ! いや、これは、その……!」
言葉が出てこない。奏音も両手で頬を押さえ、目をぱちぱちと瞬かせた。
「えっ……えっ?」
その場にいた全員の思考が完全に停止していた。廊下を歩いていた生徒たちも足を止め、口を開いたまま動けない。さっきまでの喧騒が嘘のように消え、広い廊下には異様な静寂だけが流れていた。
「……………………は?」
その静寂を切り裂いたのは、低く、掠れた剣城の一言だった。まるで地の底から這い上がってきたような声。その響きに、周囲の空気が一瞬で凍りつく。
事故だ。誰も悪くない。そんなことは分かっている。それでも、胸の奥では黒い感情が音を立てて暴れていた。
「……京ちゃん?」
不安そうな声。剣城は何も答えない。ゆっくりと歩み寄ると、奏音の細い手首へ静かに触れた。
「え?」
そのまま奏音の手を取る。指先までしっかりと包み込むように握り、そのまま歩き出した。
「きょ、京ちゃん!?」
奏音の瞳が大きく揺れる。だが剣城は振り返らない。
「……来い」
低く押し殺した声。その静けさがかえって恐ろしかった。
「えっ、ちょ、ちょっと待って!」
奏音は戸惑いながらも、そのまま引かれて歩き出す。剣城の手は力強い。痛いほどではない。だが、決して振りほどけない強さがあった。
(な、何か怒ってる……?)
違う。いつもの不機嫌とはまるで違う。静かで、冷たくて。まるで必死に何かを押さえ込んでいるような空気だった。
人気のない校舎裏へ着くと、剣城はようやく立ち止まる。制服のポケットから白いハンカチを取り出し、無言のまま奏音へ向き直った。
「京ちゃん?」
「……動くな」
「え?」
次の瞬間だった。
「いたたたたたっ!?」
ごし、ごし、ごし、ごしっ――。
遠慮という言葉を知らない勢いで、奏音の頬を容赦なく拭き始める。
「きょ、京ちゃん!? な、何してるの!?」
「消毒だ」
「しょうどく!?」
意味が分からない。じたばたともがく奏音を、剣城は片手で軽く押さえ込みながら、なおもハンカチを動かし続ける。
「事故だ」
ごし、ごし。
「忘れろ」
ごし、ごし、ごし。
「事故だった」
何度も、何度も。それは奏音へ言い聞かせているようでいて、本当は違う。自分自身に言い聞かせていた。
「んむっ……も、もうっ!」
奏音は涙目になりながら抗議する。
「私のほっぺたなくなっちゃうよ~~!!」
しかし、その悲鳴すら剣城の耳には届いていない。呪文のように同じ言葉を繰り返しながら、必死に胸の奥で暴れ続ける感情へ蓋をしようとしていた。
そして奏音もまた、頬をいくら拭かれても、あの一瞬の柔らかな感触だけは消えてくれないことに、小さく困ったように眉を下げるのだった。
***
放課後。サッカー棟の部室には練習前ならではの穏やかな空気が流れていた。そんな日常の中へ、天馬と信助が一人の少年を連れて入ってきた。
「ここが部室だよ」
その声に、部室中の視線が一斉に集まる。
拓人も手を止め、新しく現れた少年へ目を向けた。見慣れない顔。サッカー部員ではないことは一目で分かる。
「君は?」
落ち着いた声音で問いかけると、少年は一歩前へ出る。
「サッカー部に入りたいんです」
「入部希望者か」
拓人が納得したように頷くと、天馬が嬉しそうに紹介した。
「転入生なんです! 狩屋マサキくん!」
名前を呼ばれた狩屋は姿勢を正し、背筋をすっと伸ばす。
「よろしくお願いします」
礼儀正しい挨拶に、部員たちは自然と笑みを浮かべる。その和やかな空気の中、狩屋の口元がほんの一瞬だけ吊り上がった。あまりにも短い変化だったため、それに気づいたのは円堂だけだった。
一方、その少し後ろでは、奏音が狩屋をじっと見つめていた。
「んー?あれれー?」
小首を傾げる。さらに反対側へ、こてん。まるで考え込むフクロウのように首を傾げながら、狩屋の顔をまじまじと見つめる。
「どうした?」
その様子に気づいた拓人が不思議そうに尋ねる。奏音は困ったように笑い、小さく唸った。
「どこかで会ったような気がするんだよね」
そう呟きながら、奏音は狩屋の顔をじっと見つめた。
(……昼休みに思いきり会っただろ)
剣城は思わず額に手を当てそうになるのを、ぐっと堪えた。あれだけの騒ぎがあったというのに、本人はすっかり忘れているらしい。
そんな剣城の心境など知る由もなく、奏音は眉を寄せ、記憶を辿るように狩屋の顔をじっと見つめていた。その空気を切り替えるように、浜野がひょいと手を挙げる。
「そんじゃ、今日の練習はまず入部テストっすか?」
「えっ? テスト?」
狩屋が意外そうに目を丸くした、その瞬間。
「あっ……!」
天馬と信助の表情がぴたりと固まる。二人は顔を見合わせると、次の瞬間、声を揃えて叫んだ。
「そうだったぁ!」
「入部テストのこと、すっかり忘れてた!」
微妙な沈黙が部室を包む。その空気を破るように、低く落ち着いた声が響いた。
「――狩屋」
円堂だった。部室中の視線が自然と監督へ集まる。円堂は狩屋の目を真っ直ぐ見つめた。試すようでも、値踏みするようでもない。ただ一つだけ確かめるような眼差しだった。
「お前は、サッカーは好きか?」
静まり返る部室。その問いに、狩屋は一瞬たりとも迷わない。
「はい!」
即答だった。その返事を聞いた瞬間、円堂は満足そうに笑う。
「よし! 入部を認める!」
狩屋だけでなく、部員たちまで一斉に目を丸くした。
「えっ!? 入部テストは?」
浜野が思わず聞き返す。だが、円堂は当然だと言わんばかりに、からりと笑った。
「今のが入部テストだ。サッカーをやりたい奴が入るのがサッカー部だからな!」
そう言い残すと、円堂は颯爽と部室を後にしていく。静まり返る部室。誰もが呆気に取られたまま、その背中を見送っていた。やがて、その沈黙を破るように天馬が嬉しそうに笑う。
「……監督」
その一言に、部員たちの頬も自然と緩む。
「ですよね~」
浜野が肩をすくめながら笑えば、三国も苦笑混じりに頷いた。
「円堂監督らしいやり方だな」
「はい」
拓人も穏やかに微笑み、静かに頷く。理屈では説明できなくても、不思議と納得してしまう。それが円堂守という監督だった。
狩屋は、まだ少し信じられないというように目を瞬かせていた。だが、その表情はやがて嬉しさに変わっていく。
「……面白いな」
誰にも聞こえないほど小さく呟いた声は、雑談に包まれた部室の喧騒に溶けて消えた。
「ねえねえ、狩屋くん!」
明るい声に振り向くと、そこには昼休みにぶつかった少女が立っていた。
「あっ……あの時の」
狩屋は思わず目を見開く。青みがかった髪を揺らしながら立つ狩屋を見て、奏音も「あっ」と声を弾ませた。
「思い出した! やっぱり、お昼休みにぶつかった子だよね?」
「は、はい!」
狩屋は反射的に背筋を伸ばえる。
「その……お昼は、本当にすみませんでした」
ようやく口にできた謝罪だった。すると奏音は、ふっと頬を緩める。
「そんなに気にしなくていいよ。あれは事故だったし、お互いびっくりしただけだから」
責めるような色は微塵もない。その一言だけで、昼休みから胸につかえていた重石が、すっとほどけていく。
(……よかった)
狩屋は胸の内で小さく息をついた。
「改めて自己紹介するね」
奏音はにこりと笑う。
「私は神童奏音。二年生でFWをやってるの」
「一年の狩屋マサキです。よろしくお願いします」
二人は軽く頭を下げ合う。
「FWなんですね」
狩屋は少し意外そうに目を丸くした。
「なんだか、イメージと違いました」
「えへへ!」
奏音は得意げに胸を張り、腰へ手を当てる。
「こう見えて、点を取るのは得意なんだから!」
ふわりとした雰囲気から飛び出した、自信たっぷりの一言。柔らかな笑顔はそのままなのに、サッカーを語る声だけが少し力強く響く。
(……なんだ、この人)
昼休みに見た、どこか天然そうな先輩。その印象は変わらない。けれど、サッカーへの想いだけは誰よりも真っ直ぐだった。狩屋は思わず口元を緩める。
「それとね」
奏音は少し照れくさそうに笑った。
「私も最近転校してきたばっかりなの」
「え?」
「最初はすごくすごく緊張したよ。でも、みんな本当に優しくて」
そう言って、狩屋へ優しく微笑む。
「だから、狩屋くんも大丈夫。一緒に頑張ろうね」
飾らない言葉だった。励まそうと考えて口にしたのではない。ただ、自分が言われて嬉しかった言葉を、そのまま差し出している。その何気ない優しさに、狩屋は少しだけ目を丸くした。
「……ありがとうございます。じゃあ、お願いがあるんですけど」
ほんの少し身を乗り出し、上目遣いに奏音を見つめる。
「奏音先輩って呼んでもいいですか?」
眉尻を下げたその顔には、年相応のあどけなさが浮かんでいた。
(……かわいい!)
奏音の胸が、きゅっと掴まれた。
「もちろん!」
ぱっと笑顔が弾ける。
「じゃあ私は、マサキくんって呼ぶね!」
「はい!」
二人は顔を見合わせて笑った。その様子を少し離れたところから見ていた剣城は、何とも言えない表情で二人を眺めていた。