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病室の窓から、夕暮れの柔らかな陽射しが静かに差し込んでいた。コンコン、と控えめなノックが響く。続いて、病室の扉がゆっくりと開いた。
「優一さん、こんにちは!」
弾むような声とともに、奏音がひょこっと顔を覗かせる。試合を終えたばかりとは思えないほど元気いっぱいの様子に、ベッドに腰掛けていた優一は思わず目元を緩めた。
その後ろから、少しだけ気まずそうな顔をした剣城が静かに足を踏み入れる。
「いらっしゃい。二人とも、お疲れさま」
「今日はありがとうございました! 試合、見ていてくれたんですね!」
奏音が嬉しそうに身を乗り出す。
「ふふ、もちろん。最初から最後まで、しっかり見届けたよ」
優一は静かに頷いた。
「帝国学園のみんなも強かったけど、それ以上に二人のプレーがすごく良かった」
そう言って、優一は弟へ視線を向ける。
「京介」
「……なんだよ」
「勝ったな、いいシュートだったぞ」
その何気ない一言に、剣城の肩がわずかに震えた。兄の声には誇張も遠慮もない。ただ純粋に、弟を誇りに思う気持ちだけが滲んでいた。剣城は視線を逸らし、短く息を吐く。
「……そうか」
帝国学園には勝った。フィフスセクターに抗う第一歩も踏み出した。それでも、兄の手術を巡る現実が消えたわけではない。
奏音は隣に立つ剣城の横顔をそっと見つめた。嬉しいはずなのに、笑えない。そんな彼の苦しさが、痛いほど伝わってきた。病室には、静かな沈黙だけが流れる。その空気を和らげるように、優一はふっと笑った。
「そういえばさ、今日の試合で一番印象に残った場面があるんだ」
「え?」
奏音が首をかしげる。
「京介のシュートももちろんすごかった。でも、それ以上に目が離せなかったのは――」
優一の目が、いたずらっぽく細められる。
「奏音ちゃんがベンチを飛び出したところかな」
「…………えっ!」
奏音の笑顔がぴたりと固まる。
「見てたんですか!?」
「そのあと慌てて戻っていくところまで、ちゃんと見てたよ」
「ええぇぇぇぇっ!?」
奏音は顔を真っ赤にして、思わず両手で頬を覆った。
「そ、そこまで見られてたんですか!?」
「うん。全部見てたよ」
「ちょ、ちょっと優一さん!」
奏音は恥ずかしさに身を縮める。
「忘れてください! あれは勢いというか、その……!」
「いやぁ、あんなに必死な奏音ちゃん、初めて見たよ」
「うぅぅ……!」
耳まで真っ赤になった奏音は、思わず顔を両手で隠してしまう。
その隣では、剣城が小さく鼻を鳴らした。
「……ふっ」
「あああ〜〜〜!京ちゃんまで笑った!」
「悪い」
そう言いながらも口元は完全に緩んでいる。
「お前、あの時すげぇ勢いだったからな」
「だ、だって京ちゃんが落ち込んでたから!」
奏音はぷくっと頬を膨らませる。
そんな二人を見つめながら、優一は嬉しそうに笑った。
「ああ、そうだ京介」
「なんだよ」
「喉が渇いちゃってさ。悪いけど、自販機で何か買ってきてくれない?」
剣城は怪訝そうに眉をひそめる。
「……奏音に頼めばいいだろ」
すると優一は、わざと困ったように肩をすくめた。
「いやぁ、せっかく来てくれた女の子に、お使いなんて頼めないだろ?」
にこり、と悪戯っぽく笑う。剣城は呆れたようにため息をついた。
「……分かったよ」
「ありがとう」
財布を受け取った剣城は病室を出ようとする。その直前、不意に振り返った。
「……奏音」
「なあに?」
「勝手に変な話するなよ」
「えぇっ!? しないよ!」
「……ならいい」
ぶっきらぼうに言い残し、扉が静かに閉まる。
足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。その音を聞きながら、優一は小さく笑った。
「……ごめんね。少しだけ、奏音ちゃんと二人で話したかったんだ」
「いえいえ! 私も優一さんとお話ししたかったです!」
奏音は慌てて首を横に振る。優一は一度、窓の外へ目を向けた。
「俺の怪我はね……京介を庇ってできたものなんだ」
奏音は思わず息を呑んだ。
「木から落ちた幼い京介を助けようとして……その時に負った怪我なんだ」
優一は懐かしむように目を細め、小さく苦笑する。
「でもね、あれは京介のせいじゃない」
その言葉には、一片の迷いもなかった。
「俺は自分の意思で京介を助けたんだ」
優一の声は穏やかだった。
「もし時間を戻せたとしても……きっと同じことをするよ」
「優一さん……」
「だからね」
優一はゆっくりと奏音を見つめた。
「サッカーができなくなったことは、もちろん悔しいよ」
優一は少しだけ視線を落とした。
「あの時、京介を助けたことで、俺の人生が大きく変わったのは事実だから」
それでも、その声に迷いはなかった。
「だけど……あの時、京介を助けたことを後悔したことは一度もないよ」
優一は静かに顔を上げ、奏音を見つめる。
「京介を助けられて、本当に良かったと思ってる」
その言葉を、奏音は静かに受け止めた。きっとこの想いは、ずっと京介の心に残るのだろう。今すぐ何かが変わるわけではない。それでも、兄の口から直接伝えられたその言葉は、長い間胸の奥に抱えてきたものに、そっと触れているように思えた。
「それと、もう一つ……ありがとう。ずっと京介を信じてくれて」
奏音は驚いたように目を丸くする。優一はゆっくり頷いた。
「今日の試合を見ていて分かった。京介が前を向けたのは、天馬くんや仲間のみんなのおかげでもある。でも、その中でも奏音ちゃんの存在は特別だった」
奏音は恥ずかしそうに笑った。
「私はそんな……」
「謙遜しなくていい」
優一は静かに首を振る。
「フィフスセクターにいた時も、誰よりも京介を信じ続けてくれた。兄として、本当に嬉しかった」
胸の奥がじんわりと熱くなる。奏音は小さく息を吸った。
「……私」
声は少しだけ震えていた。それでも、笑顔は揺るがない。
「京ちゃんは、本当はすごく優しい人だって知ってました。だから、信じられたんです」
優一の表情が、ふっと和らいだ。
「その言葉が聞けて、本当に良かった」
病室の扉が静かに開いた。
「戻ったぞ」
缶ジュースを両手に抱えた剣城が部屋へ入ってきた。
「ほら」
「ありがとう」
優一は缶を受け取ると、一口飲んで満足そうに目を細めた。
「……うん、おいしい」
剣城は照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「自販機のジュースなんだから、味なんて同じだろ」
「いや、弟が買ってきてくれたから特別おいしいんだ」
「……」
「照れてるのか?」
「照れてねぇ」
間髪入れない返事だった。そのあまりの速さに、奏音は思わず吹き出す。
「ふふっ」
「笑うな」
「ごめん。でも、なんだか素敵だなぁって思っちゃって」
照れくさそうにそっぽを向く剣城と、そんな弟を優しく見つめる奏音。そのやり取りを見つめながら、優一はどこか嬉しそうに目を細めた。
「次はいよいよ決勝だな」
剣城は肩をすくめる。
「……あんまり期待するなよ」
「それと、天馬君だったかな」
優一は少し意地悪そうに笑った。
「気を抜いたら、お前のポジション取られるぞ?」
「……余計なお世話だ」
剣城は苦笑しながら答える。そんな弟の表情を見て、優一は静かに頷いた。
「ここまで来たんだ」
「二人とも、最後まで自分たちらしいサッカーを貫いておいで」
「ああ」
剣城は静かに頷く。
奏音も力いっぱい笑顔を浮かべた。
「もちろん! ぜーったい優勝してみせます!」
「その報告を楽しみにしてるよ」
「それじゃあ、また来ますね!」
二人は立ち上がる。病室を出る直前、剣城は一度だけ振り返った。夕焼けに照らされた兄は、いつものように穏やかに笑っている。その笑顔を見つめながら、剣城は小さく息を吐いた。
「……またな、兄さん」
「行ってらっしゃい」
優一は静かに頷く。閉まっていく扉の向こうへ、弟たちの足音が遠ざかっていく。 一人になった病室で、優一は窓の外へ目を向けた。西の空は、淡い橙色に染まり始めていた。窓から差し込む光が、静かな病室をゆっくりと包んでいる。
「京介……」
その声は誰にも届かないほど静かだった。
「今度こそ、自分のためにサッカーを楽しむんだぞ」
優一は小さく微笑む。夕暮れの光は、そんな兄の横顔を静かに照らし続けていた。
* * *
病院を出ると、空は淡い橙色に染まっていた。河川敷を吹き抜ける涼しい風が草を揺らし、川面には残り少ない陽の光がきらきらと反射している。二人は並んで土手の道を歩く。
病室で交わした優一の言葉が、まだ胸の奥で温かな余韻を残していた。互いに何も話さないまま、ゆっくりと歩みを進める。聞こえてくるのは、川のせせらぎと、草を渡る風の気配だけだった。
やがて、不意に剣城が立ち止まった。
「……なあ」
「ん?」
奏音が振り返る。剣城は川面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「俺さ……」
その声は、自分自身へ語りかけるように静かだった。
「まだ覚えてる。初めて雷門に来た日のこと……旧部室の看板を、ボールで蹴り飛ばして真っ二つにした」
奏音は何も言わず、その続きを待つ。
「あの頃は、命令だからって自分に言い聞かせてた。フィフスセクターに従うしかない。サッカー部を潰せと言われたから、その通りにするしかないって……でも違った」
ぎゅっと拳を握る。
「サッカーが好きな奴らを、俺は傷つけた。自分と同じようにボールを追いかけていた奴らの居場所まで、壊そうとしてた」
雷門で過ごした日々が脳裏をよぎる。帝国戦で仲間と笑い合った時間。本気でぶつかり合った試合。汗だくになって追いかけたボール。だからこそ、分かってしまう。自分が壊そうとしていたものが、どれほど大切だったのか。
「忘れられるわけがない」
震える声が、夕暮れに溶けていく。
「兄さんのためだったとしても……いや」
ゆっくりと首を振る。
「兄さんを理由にするなら、なおさらだ。誰かのサッカーを踏みにじっていい理由なんて、どこにもなかった」
その声には、これまで抱えてきた後悔が滲んでいた。
「俺は……」
言葉が喉につかえる。
「最低なことをしてきた。今さら仲間面して笑ってる資格なんて、本当はないのかもしれない」
静寂が訪れる。川のせせらぎだけが静かに流れていた。その沈黙を、奏音の声がそっと破った。
「京ちゃん」
剣城はゆっくり顔を上げた。
夕日を背に立つ奏音は、まるでその光を映したように穏やかに微笑んでいた。
「自分を悪い人間だって決めつけないで」
その言葉に、剣城は少し目を伏せる。けれど、奏音は視線を逸らさなかった。
「確かに京ちゃんは間違えた」
静かに頷く。
「でもね。その間違いに気付いて、ちゃんと後悔できる人は、きっと前に進める人だよ」
剣城は息を呑む。
「一つ一つやり直していけばいいんだよ」
奏音は優しく笑う。
「看板を壊したなら、今度は雷門のために頑張ればいい。傷つけた人がいるなら、その人たちが笑えるようなサッカーをすればいい。京ちゃんはもう、その一歩を踏み出してる」
その言葉は、責めるためではなく、未来へ背中を押すための言葉だった。剣城は黙ったまま奏音を見つめる。
「帝国学園戦で見せてくれた京ちゃんはね」
奏音は誇らしそうに笑った。
「私が大好きな、サッカーが大好きな京ちゃんだったよ!」
その一言が、胸の奥へ静かに染み渡っていく。
――そうだ。本当は、ずっとサッカーが好きだった。
兄がもう立てないピッチを、自分だけが走っていることが苦しかった。その苦しさから目を逸らすために、サッカーまで嫌いになろうとしていたのかもしれない。
けれど、もう逃げる必要はない。サッカーが好きだという気持ちも。これまで自分がしてきたことも。その全部を抱えたまま、これから進んでいけばいい。
気がつけば、奏音がすぐ隣にいた。
「……奏音」
その名前を、こんなにも素直に呼んだのはいつ以来だろう。剣城は照れくさそうに笑う。
「……ありがとう」
その言葉は、驚くほど自然に口をついて出た。
奏音の瞳がふんわりと細くなる。
「えへへ」
照れ笑いを浮かべると、すぐにいつもの調子へ戻った。
「それならよかった!」
胸を張って宣言する。
「これからも京ちゃんが迷ったら、私がちゃんと隣で引っ張ってあげる!」
剣城は思わず苦笑する。
「……それ、俺が引っ張られる側なのか」
「もちろん!」
「即答かよ」
思わず笑みがこぼれる。奏音もつられて笑った。二人の笑い声が、風に乗って穏やかに広がっていく。
剣城は静かに前を向いた。その時だった。河川敷の広場に、ぽつんと転がる一つのサッカーボールが目に入る。
「あっ!」
奏音の瞳がきらりと輝いた。
「ね、ね! 京ちゃん!」
「ん?」
「せっかくだし、少しだけサッカーしよ!」
返事を待つより早く、奏音はボールを軽く蹴り上げる。橙色の空へ、ボールがふわりと弧を描いた。
「おい、勝手に始めるな」
呆れたように言いながらも、剣城の体は自然と動いていた。軽やかにボールを胸で収め、そのまま足元へ落とす。思わず口元が緩む。
「……まったく」
そう呟いた声には、もう迷いも苦しみもなかった。剣城が軽く足を振る。ボールは回転をほとんど失わないまま、真っすぐ奏音の足元へ吸い込まれるように転がってきた。
「えいっ!」
奏音は軽快にリフティングを二度挟み、インサイドで優しく蹴り返す。
――パシッ。乾いたボールの音が、静かな河川敷に心地よく響いた。光の残る空の下で、二人は言葉を交わす代わりにボールをつないでいく。
(嬉しいな……)
奏音の胸いっぱいに、温かな想いが広がった。
(また京ちゃんと、一緒にサッカーができる!)
敵としてではない。遠くから見つめるだけでもない。同じピッチに立ち、同じボールを追いかける。そんな当たり前のことが、今は何より嬉しかった。
パスを受け、返し、また走る。その一つひとつが楽しくて、自然と笑みがこぼれた。何本かボールをつなぐうちに、奏音は改めて気付かされる。
(……やっぱり京ちゃん、すごい)
帝国学園戦でも感じていた。けれど、一対一で向き合うと、その実力はさらに鮮明になる。
足元に吸いつくようなボールコントロール、無駄のない身のこなし、どんな体勢からでも正確にボールを操る技術。その一つひとつから、長い時間積み重ねてきた努力が伝わってきた。
(置いていかれちゃったみたい……)
自分も努力してきた。それでも今の剣城との間には、まだ確かな差がある。その事実が少しだけ悔しくて、少しだけ眩しかった。そんな気持ちが胸をかすめる。その時だった。剣城から返ってくるパスは、どれも奏音が受けやすい場所へ届いていた。
(……あれれ?)
奏音はすぐに気付く。
(もしかして、手加減してる?)
本気なら、こんなものじゃない。帝国学園戦で見せたような鋭いボールを、彼なら蹴れる。それでも剣城は、奏音に合わせてくれている。その優しさが嬉しい反面、少しだけ悔しかった。
(……でも)
奏音はボールをしっかりと受け止める。
(次はもっときれいに止めよう。もっと速く追いつこう。京ちゃんが本気で蹴っても受けられるくらい、強くなりたい)
自然と足に力が入る。
「もう一回!」
「……元気だな」
「当然!」
満面の笑みでボールを追いかける奏音を見て、剣城は思わず小さく笑った。夕暮れの河川敷に、何度もボールの音が響く。
しばらく蹴り合ったあと、不意に剣城が口を開いた。
「なあ」
「ん?」
「怖くないのか」
奏音は首をかしげる。
「怖いって何が?」
剣城は少しだけ考えるように視線を落とした。
「お前、ずっと男子に混じってサッカーやってるだろ」
河川敷を渡る風が二人の間を吹き抜ける。そして、まっすぐ奏音を見た。
「体格も違う、当たりも強い、ケガだってしやすい……無理してまで、立ち向かう必要はないって思ったことはないのか」
その声には責める色はなかった。ただ純粋に、彼女を案じる気持ちだけが込められていた。奏音は少し驚いたように瞬きをすると、ふわりと笑った。
「うーん……」
少しだけ空を見上げる。茜色に染まった雲が、ゆっくりと流れていた。
「怖いって思ったことは、あるよ」
剣城は何も言わず耳を傾ける。
「でもね」
奏音は胸の前でボールを抱きしめた。
「雷門のみんなとサッカーをしてると、不思議なんだ。もっと上手くなれるって思えるの。天馬くんのまっすぐなドリブルも、拓にぃのきれいなパスも、霧野くんの頼もしい守備も」
奏音は、逸らすことなく剣城を見つめた。
「京ちゃんのシュートもだよ」
その瞳は夕日よりも眩しく輝いていた。
「みんなと一緒にいるとね、昨日できなかったことが今日できるようになる。今日できなかったことが、明日にはできるようになる」
ボールを足元へ落とす。トン、トン、と軽やかにリフティングを始める。
「だから私――」
ボールを優しく足元へ収め、満面の笑みを浮かべた。
「もっともっと上手くなりたい。男子とか女子とかじゃなくて雷門のみんなと、一緒に強くなりたい」
一歩踏み出し、まっすぐ剣城を見る。
「だから――私にサッカーを教えてよ!」
まっすぐ自分へ向けられるその笑顔に、剣城は何も言えなくなった。奏音の瞳は、ただ純粋に「サッカーが好き」という想いだけで輝いていた。
「剣城ー! 奏音先輩ー!」
河川敷に元気な声が響く。
二人が振り向くと、土手の階段を駆け下りてくる少年の姿が見えた。
「天馬くん!」
その隣では、天馬の飼い犬・サスケがゆっくりと歩いてくる。白い毛並みに、深い緑色の耳と左目の模様がよく映えていた。二人の前までやってくると、サスケはその場にぺたりと伏せる。
「わんちゃん飼ってたんだね!」
「はい! サスケっていうんですよ」
「そうなんだ。こんにちは、サスケ~」
奏音がしゃがんで頭を撫でると、サスケは気持ちよさそうに目を細め、ゆっくりと尻尾を振る。やがてごろんと寝転がり、お腹まで見せてきた。
「わあ、かわいい!」
その様子を微笑ましく見つめていた天馬は、ふと剣城へ視線を向ける。
「お兄さんのところ、行ってきたの?」
「……ああ」
短く答える剣城に、天馬はにっと笑った。
「今日はありがとう! 帝国に勝てたのは、やっぱり剣城が来てくれたからだって思ってる!」
剣城は少しだけ視線を逸らした。
「……別に」
ぶっきらぼうな返事。けれど、その表情に以前のような冷たさはない。どこか照れくさそうで、少しだけ居心地が悪そうだった。
「……じゃあな」
それだけ言うと、剣城は踵を返す。
「えっ、もう帰るの?」
「練習は終わりだ」
「京ちゃん、照れてる?」
奏音が悪戯っぽく笑う。
剣城の足がぴたりと止まった。
「……違う」
「じゃあ、天馬くんにも『ありがとう』って言えばいいのに」
「言わなくても分かるだろ」
「素直じゃないな~」
奏音は肩を揺らして笑う。
「京ちゃんって、本当にツンデレ男子だよね!」
「誰がだ」
「京ちゃんだよ! 優一さんもそう言ってたもん!」
「兄さんまで……」
剣城は額に手を当て、大きくため息をついた。その姿に、天馬は思わず吹き出す。
「あはははっ!」
「ウオン!」
サスケまで鳴き声を上げ、まるで一緒に笑っているようだった。剣城は耳までほんのり赤く染めながら背を向ける。
「……帰る」
「はいはい」
奏音はくすくす笑いながら、大きく手を振った。
「また明日ね、京ちゃん!」
「……ああ」
夕陽に照らされながら歩いていく剣城の背中を見送り、二人は顔を見合わせて笑う。
その笑い声は、夕暮れの河川敷に心地よく溶けていった。
「優一さん、こんにちは!」
弾むような声とともに、奏音がひょこっと顔を覗かせる。試合を終えたばかりとは思えないほど元気いっぱいの様子に、ベッドに腰掛けていた優一は思わず目元を緩めた。
その後ろから、少しだけ気まずそうな顔をした剣城が静かに足を踏み入れる。
「いらっしゃい。二人とも、お疲れさま」
「今日はありがとうございました! 試合、見ていてくれたんですね!」
奏音が嬉しそうに身を乗り出す。
「ふふ、もちろん。最初から最後まで、しっかり見届けたよ」
優一は静かに頷いた。
「帝国学園のみんなも強かったけど、それ以上に二人のプレーがすごく良かった」
そう言って、優一は弟へ視線を向ける。
「京介」
「……なんだよ」
「勝ったな、いいシュートだったぞ」
その何気ない一言に、剣城の肩がわずかに震えた。兄の声には誇張も遠慮もない。ただ純粋に、弟を誇りに思う気持ちだけが滲んでいた。剣城は視線を逸らし、短く息を吐く。
「……そうか」
帝国学園には勝った。フィフスセクターに抗う第一歩も踏み出した。それでも、兄の手術を巡る現実が消えたわけではない。
奏音は隣に立つ剣城の横顔をそっと見つめた。嬉しいはずなのに、笑えない。そんな彼の苦しさが、痛いほど伝わってきた。病室には、静かな沈黙だけが流れる。その空気を和らげるように、優一はふっと笑った。
「そういえばさ、今日の試合で一番印象に残った場面があるんだ」
「え?」
奏音が首をかしげる。
「京介のシュートももちろんすごかった。でも、それ以上に目が離せなかったのは――」
優一の目が、いたずらっぽく細められる。
「奏音ちゃんがベンチを飛び出したところかな」
「…………えっ!」
奏音の笑顔がぴたりと固まる。
「見てたんですか!?」
「そのあと慌てて戻っていくところまで、ちゃんと見てたよ」
「ええぇぇぇぇっ!?」
奏音は顔を真っ赤にして、思わず両手で頬を覆った。
「そ、そこまで見られてたんですか!?」
「うん。全部見てたよ」
「ちょ、ちょっと優一さん!」
奏音は恥ずかしさに身を縮める。
「忘れてください! あれは勢いというか、その……!」
「いやぁ、あんなに必死な奏音ちゃん、初めて見たよ」
「うぅぅ……!」
耳まで真っ赤になった奏音は、思わず顔を両手で隠してしまう。
その隣では、剣城が小さく鼻を鳴らした。
「……ふっ」
「あああ〜〜〜!京ちゃんまで笑った!」
「悪い」
そう言いながらも口元は完全に緩んでいる。
「お前、あの時すげぇ勢いだったからな」
「だ、だって京ちゃんが落ち込んでたから!」
奏音はぷくっと頬を膨らませる。
そんな二人を見つめながら、優一は嬉しそうに笑った。
「ああ、そうだ京介」
「なんだよ」
「喉が渇いちゃってさ。悪いけど、自販機で何か買ってきてくれない?」
剣城は怪訝そうに眉をひそめる。
「……奏音に頼めばいいだろ」
すると優一は、わざと困ったように肩をすくめた。
「いやぁ、せっかく来てくれた女の子に、お使いなんて頼めないだろ?」
にこり、と悪戯っぽく笑う。剣城は呆れたようにため息をついた。
「……分かったよ」
「ありがとう」
財布を受け取った剣城は病室を出ようとする。その直前、不意に振り返った。
「……奏音」
「なあに?」
「勝手に変な話するなよ」
「えぇっ!? しないよ!」
「……ならいい」
ぶっきらぼうに言い残し、扉が静かに閉まる。
足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。その音を聞きながら、優一は小さく笑った。
「……ごめんね。少しだけ、奏音ちゃんと二人で話したかったんだ」
「いえいえ! 私も優一さんとお話ししたかったです!」
奏音は慌てて首を横に振る。優一は一度、窓の外へ目を向けた。
「俺の怪我はね……京介を庇ってできたものなんだ」
奏音は思わず息を呑んだ。
「木から落ちた幼い京介を助けようとして……その時に負った怪我なんだ」
優一は懐かしむように目を細め、小さく苦笑する。
「でもね、あれは京介のせいじゃない」
その言葉には、一片の迷いもなかった。
「俺は自分の意思で京介を助けたんだ」
優一の声は穏やかだった。
「もし時間を戻せたとしても……きっと同じことをするよ」
「優一さん……」
「だからね」
優一はゆっくりと奏音を見つめた。
「サッカーができなくなったことは、もちろん悔しいよ」
優一は少しだけ視線を落とした。
「あの時、京介を助けたことで、俺の人生が大きく変わったのは事実だから」
それでも、その声に迷いはなかった。
「だけど……あの時、京介を助けたことを後悔したことは一度もないよ」
優一は静かに顔を上げ、奏音を見つめる。
「京介を助けられて、本当に良かったと思ってる」
その言葉を、奏音は静かに受け止めた。きっとこの想いは、ずっと京介の心に残るのだろう。今すぐ何かが変わるわけではない。それでも、兄の口から直接伝えられたその言葉は、長い間胸の奥に抱えてきたものに、そっと触れているように思えた。
「それと、もう一つ……ありがとう。ずっと京介を信じてくれて」
奏音は驚いたように目を丸くする。優一はゆっくり頷いた。
「今日の試合を見ていて分かった。京介が前を向けたのは、天馬くんや仲間のみんなのおかげでもある。でも、その中でも奏音ちゃんの存在は特別だった」
奏音は恥ずかしそうに笑った。
「私はそんな……」
「謙遜しなくていい」
優一は静かに首を振る。
「フィフスセクターにいた時も、誰よりも京介を信じ続けてくれた。兄として、本当に嬉しかった」
胸の奥がじんわりと熱くなる。奏音は小さく息を吸った。
「……私」
声は少しだけ震えていた。それでも、笑顔は揺るがない。
「京ちゃんは、本当はすごく優しい人だって知ってました。だから、信じられたんです」
優一の表情が、ふっと和らいだ。
「その言葉が聞けて、本当に良かった」
病室の扉が静かに開いた。
「戻ったぞ」
缶ジュースを両手に抱えた剣城が部屋へ入ってきた。
「ほら」
「ありがとう」
優一は缶を受け取ると、一口飲んで満足そうに目を細めた。
「……うん、おいしい」
剣城は照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「自販機のジュースなんだから、味なんて同じだろ」
「いや、弟が買ってきてくれたから特別おいしいんだ」
「……」
「照れてるのか?」
「照れてねぇ」
間髪入れない返事だった。そのあまりの速さに、奏音は思わず吹き出す。
「ふふっ」
「笑うな」
「ごめん。でも、なんだか素敵だなぁって思っちゃって」
照れくさそうにそっぽを向く剣城と、そんな弟を優しく見つめる奏音。そのやり取りを見つめながら、優一はどこか嬉しそうに目を細めた。
「次はいよいよ決勝だな」
剣城は肩をすくめる。
「……あんまり期待するなよ」
「それと、天馬君だったかな」
優一は少し意地悪そうに笑った。
「気を抜いたら、お前のポジション取られるぞ?」
「……余計なお世話だ」
剣城は苦笑しながら答える。そんな弟の表情を見て、優一は静かに頷いた。
「ここまで来たんだ」
「二人とも、最後まで自分たちらしいサッカーを貫いておいで」
「ああ」
剣城は静かに頷く。
奏音も力いっぱい笑顔を浮かべた。
「もちろん! ぜーったい優勝してみせます!」
「その報告を楽しみにしてるよ」
「それじゃあ、また来ますね!」
二人は立ち上がる。病室を出る直前、剣城は一度だけ振り返った。夕焼けに照らされた兄は、いつものように穏やかに笑っている。その笑顔を見つめながら、剣城は小さく息を吐いた。
「……またな、兄さん」
「行ってらっしゃい」
優一は静かに頷く。閉まっていく扉の向こうへ、弟たちの足音が遠ざかっていく。 一人になった病室で、優一は窓の外へ目を向けた。西の空は、淡い橙色に染まり始めていた。窓から差し込む光が、静かな病室をゆっくりと包んでいる。
「京介……」
その声は誰にも届かないほど静かだった。
「今度こそ、自分のためにサッカーを楽しむんだぞ」
優一は小さく微笑む。夕暮れの光は、そんな兄の横顔を静かに照らし続けていた。
* * *
病院を出ると、空は淡い橙色に染まっていた。河川敷を吹き抜ける涼しい風が草を揺らし、川面には残り少ない陽の光がきらきらと反射している。二人は並んで土手の道を歩く。
病室で交わした優一の言葉が、まだ胸の奥で温かな余韻を残していた。互いに何も話さないまま、ゆっくりと歩みを進める。聞こえてくるのは、川のせせらぎと、草を渡る風の気配だけだった。
やがて、不意に剣城が立ち止まった。
「……なあ」
「ん?」
奏音が振り返る。剣城は川面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「俺さ……」
その声は、自分自身へ語りかけるように静かだった。
「まだ覚えてる。初めて雷門に来た日のこと……旧部室の看板を、ボールで蹴り飛ばして真っ二つにした」
奏音は何も言わず、その続きを待つ。
「あの頃は、命令だからって自分に言い聞かせてた。フィフスセクターに従うしかない。サッカー部を潰せと言われたから、その通りにするしかないって……でも違った」
ぎゅっと拳を握る。
「サッカーが好きな奴らを、俺は傷つけた。自分と同じようにボールを追いかけていた奴らの居場所まで、壊そうとしてた」
雷門で過ごした日々が脳裏をよぎる。帝国戦で仲間と笑い合った時間。本気でぶつかり合った試合。汗だくになって追いかけたボール。だからこそ、分かってしまう。自分が壊そうとしていたものが、どれほど大切だったのか。
「忘れられるわけがない」
震える声が、夕暮れに溶けていく。
「兄さんのためだったとしても……いや」
ゆっくりと首を振る。
「兄さんを理由にするなら、なおさらだ。誰かのサッカーを踏みにじっていい理由なんて、どこにもなかった」
その声には、これまで抱えてきた後悔が滲んでいた。
「俺は……」
言葉が喉につかえる。
「最低なことをしてきた。今さら仲間面して笑ってる資格なんて、本当はないのかもしれない」
静寂が訪れる。川のせせらぎだけが静かに流れていた。その沈黙を、奏音の声がそっと破った。
「京ちゃん」
剣城はゆっくり顔を上げた。
夕日を背に立つ奏音は、まるでその光を映したように穏やかに微笑んでいた。
「自分を悪い人間だって決めつけないで」
その言葉に、剣城は少し目を伏せる。けれど、奏音は視線を逸らさなかった。
「確かに京ちゃんは間違えた」
静かに頷く。
「でもね。その間違いに気付いて、ちゃんと後悔できる人は、きっと前に進める人だよ」
剣城は息を呑む。
「一つ一つやり直していけばいいんだよ」
奏音は優しく笑う。
「看板を壊したなら、今度は雷門のために頑張ればいい。傷つけた人がいるなら、その人たちが笑えるようなサッカーをすればいい。京ちゃんはもう、その一歩を踏み出してる」
その言葉は、責めるためではなく、未来へ背中を押すための言葉だった。剣城は黙ったまま奏音を見つめる。
「帝国学園戦で見せてくれた京ちゃんはね」
奏音は誇らしそうに笑った。
「私が大好きな、サッカーが大好きな京ちゃんだったよ!」
その一言が、胸の奥へ静かに染み渡っていく。
――そうだ。本当は、ずっとサッカーが好きだった。
兄がもう立てないピッチを、自分だけが走っていることが苦しかった。その苦しさから目を逸らすために、サッカーまで嫌いになろうとしていたのかもしれない。
けれど、もう逃げる必要はない。サッカーが好きだという気持ちも。これまで自分がしてきたことも。その全部を抱えたまま、これから進んでいけばいい。
気がつけば、奏音がすぐ隣にいた。
「……奏音」
その名前を、こんなにも素直に呼んだのはいつ以来だろう。剣城は照れくさそうに笑う。
「……ありがとう」
その言葉は、驚くほど自然に口をついて出た。
奏音の瞳がふんわりと細くなる。
「えへへ」
照れ笑いを浮かべると、すぐにいつもの調子へ戻った。
「それならよかった!」
胸を張って宣言する。
「これからも京ちゃんが迷ったら、私がちゃんと隣で引っ張ってあげる!」
剣城は思わず苦笑する。
「……それ、俺が引っ張られる側なのか」
「もちろん!」
「即答かよ」
思わず笑みがこぼれる。奏音もつられて笑った。二人の笑い声が、風に乗って穏やかに広がっていく。
剣城は静かに前を向いた。その時だった。河川敷の広場に、ぽつんと転がる一つのサッカーボールが目に入る。
「あっ!」
奏音の瞳がきらりと輝いた。
「ね、ね! 京ちゃん!」
「ん?」
「せっかくだし、少しだけサッカーしよ!」
返事を待つより早く、奏音はボールを軽く蹴り上げる。橙色の空へ、ボールがふわりと弧を描いた。
「おい、勝手に始めるな」
呆れたように言いながらも、剣城の体は自然と動いていた。軽やかにボールを胸で収め、そのまま足元へ落とす。思わず口元が緩む。
「……まったく」
そう呟いた声には、もう迷いも苦しみもなかった。剣城が軽く足を振る。ボールは回転をほとんど失わないまま、真っすぐ奏音の足元へ吸い込まれるように転がってきた。
「えいっ!」
奏音は軽快にリフティングを二度挟み、インサイドで優しく蹴り返す。
――パシッ。乾いたボールの音が、静かな河川敷に心地よく響いた。光の残る空の下で、二人は言葉を交わす代わりにボールをつないでいく。
(嬉しいな……)
奏音の胸いっぱいに、温かな想いが広がった。
(また京ちゃんと、一緒にサッカーができる!)
敵としてではない。遠くから見つめるだけでもない。同じピッチに立ち、同じボールを追いかける。そんな当たり前のことが、今は何より嬉しかった。
パスを受け、返し、また走る。その一つひとつが楽しくて、自然と笑みがこぼれた。何本かボールをつなぐうちに、奏音は改めて気付かされる。
(……やっぱり京ちゃん、すごい)
帝国学園戦でも感じていた。けれど、一対一で向き合うと、その実力はさらに鮮明になる。
足元に吸いつくようなボールコントロール、無駄のない身のこなし、どんな体勢からでも正確にボールを操る技術。その一つひとつから、長い時間積み重ねてきた努力が伝わってきた。
(置いていかれちゃったみたい……)
自分も努力してきた。それでも今の剣城との間には、まだ確かな差がある。その事実が少しだけ悔しくて、少しだけ眩しかった。そんな気持ちが胸をかすめる。その時だった。剣城から返ってくるパスは、どれも奏音が受けやすい場所へ届いていた。
(……あれれ?)
奏音はすぐに気付く。
(もしかして、手加減してる?)
本気なら、こんなものじゃない。帝国学園戦で見せたような鋭いボールを、彼なら蹴れる。それでも剣城は、奏音に合わせてくれている。その優しさが嬉しい反面、少しだけ悔しかった。
(……でも)
奏音はボールをしっかりと受け止める。
(次はもっときれいに止めよう。もっと速く追いつこう。京ちゃんが本気で蹴っても受けられるくらい、強くなりたい)
自然と足に力が入る。
「もう一回!」
「……元気だな」
「当然!」
満面の笑みでボールを追いかける奏音を見て、剣城は思わず小さく笑った。夕暮れの河川敷に、何度もボールの音が響く。
しばらく蹴り合ったあと、不意に剣城が口を開いた。
「なあ」
「ん?」
「怖くないのか」
奏音は首をかしげる。
「怖いって何が?」
剣城は少しだけ考えるように視線を落とした。
「お前、ずっと男子に混じってサッカーやってるだろ」
河川敷を渡る風が二人の間を吹き抜ける。そして、まっすぐ奏音を見た。
「体格も違う、当たりも強い、ケガだってしやすい……無理してまで、立ち向かう必要はないって思ったことはないのか」
その声には責める色はなかった。ただ純粋に、彼女を案じる気持ちだけが込められていた。奏音は少し驚いたように瞬きをすると、ふわりと笑った。
「うーん……」
少しだけ空を見上げる。茜色に染まった雲が、ゆっくりと流れていた。
「怖いって思ったことは、あるよ」
剣城は何も言わず耳を傾ける。
「でもね」
奏音は胸の前でボールを抱きしめた。
「雷門のみんなとサッカーをしてると、不思議なんだ。もっと上手くなれるって思えるの。天馬くんのまっすぐなドリブルも、拓にぃのきれいなパスも、霧野くんの頼もしい守備も」
奏音は、逸らすことなく剣城を見つめた。
「京ちゃんのシュートもだよ」
その瞳は夕日よりも眩しく輝いていた。
「みんなと一緒にいるとね、昨日できなかったことが今日できるようになる。今日できなかったことが、明日にはできるようになる」
ボールを足元へ落とす。トン、トン、と軽やかにリフティングを始める。
「だから私――」
ボールを優しく足元へ収め、満面の笑みを浮かべた。
「もっともっと上手くなりたい。男子とか女子とかじゃなくて雷門のみんなと、一緒に強くなりたい」
一歩踏み出し、まっすぐ剣城を見る。
「だから――私にサッカーを教えてよ!」
まっすぐ自分へ向けられるその笑顔に、剣城は何も言えなくなった。奏音の瞳は、ただ純粋に「サッカーが好き」という想いだけで輝いていた。
「剣城ー! 奏音先輩ー!」
河川敷に元気な声が響く。
二人が振り向くと、土手の階段を駆け下りてくる少年の姿が見えた。
「天馬くん!」
その隣では、天馬の飼い犬・サスケがゆっくりと歩いてくる。白い毛並みに、深い緑色の耳と左目の模様がよく映えていた。二人の前までやってくると、サスケはその場にぺたりと伏せる。
「わんちゃん飼ってたんだね!」
「はい! サスケっていうんですよ」
「そうなんだ。こんにちは、サスケ~」
奏音がしゃがんで頭を撫でると、サスケは気持ちよさそうに目を細め、ゆっくりと尻尾を振る。やがてごろんと寝転がり、お腹まで見せてきた。
「わあ、かわいい!」
その様子を微笑ましく見つめていた天馬は、ふと剣城へ視線を向ける。
「お兄さんのところ、行ってきたの?」
「……ああ」
短く答える剣城に、天馬はにっと笑った。
「今日はありがとう! 帝国に勝てたのは、やっぱり剣城が来てくれたからだって思ってる!」
剣城は少しだけ視線を逸らした。
「……別に」
ぶっきらぼうな返事。けれど、その表情に以前のような冷たさはない。どこか照れくさそうで、少しだけ居心地が悪そうだった。
「……じゃあな」
それだけ言うと、剣城は踵を返す。
「えっ、もう帰るの?」
「練習は終わりだ」
「京ちゃん、照れてる?」
奏音が悪戯っぽく笑う。
剣城の足がぴたりと止まった。
「……違う」
「じゃあ、天馬くんにも『ありがとう』って言えばいいのに」
「言わなくても分かるだろ」
「素直じゃないな~」
奏音は肩を揺らして笑う。
「京ちゃんって、本当にツンデレ男子だよね!」
「誰がだ」
「京ちゃんだよ! 優一さんもそう言ってたもん!」
「兄さんまで……」
剣城は額に手を当て、大きくため息をついた。その姿に、天馬は思わず吹き出す。
「あはははっ!」
「ウオン!」
サスケまで鳴き声を上げ、まるで一緒に笑っているようだった。剣城は耳までほんのり赤く染めながら背を向ける。
「……帰る」
「はいはい」
奏音はくすくす笑いながら、大きく手を振った。
「また明日ね、京ちゃん!」
「……ああ」
夕陽に照らされながら歩いていく剣城の背中を見送り、二人は顔を見合わせて笑う。
その笑い声は、夕暮れの河川敷に心地よく溶けていった。
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