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前半終了を告げるホイッスルが、スタジアムいっぱいに響き渡った。スコアボードには、帝国学園が一歩リードしたままの数字が刻まれている。
雷門の選手たちは誰一人として口を開かなかった。肩を落とし、うつむいたまま、重い足取りでベンチへ戻っていく。誰もが分かっていた。このままでは勝てない、と。
「ちゅーか……何とか二点で済んだなぁ」
浜野が腰を下ろしながら、苦笑混じりにつぶやく。無理に空気を軽くしようとした言葉だったが、返事はない。沈黙だけが、重苦しくその場を支配していた。
「でも……」
速水が膝の上で手を握り締め、小さく顔を上げる。
「このままじゃ勝てませんよ……せめて、アルティメットサンダーを成功させないと……」
その声には焦りが滲んでいた。帝国学園の守備を崩すには、あの必殺タクティクスしかない。
「くっ……!」
倉間が拳を強く握り締める。何度挑戦しても完成しないアルティメットサンダー。あと一歩届かないまま、帝国学園の鉄壁の守備に阻まれ続けていた。
ベンチの隅では、奏音も静かに膝へ視線を落としていた。アルティメットサンダー。その最後を託されるキッカーは、自分と倉間だ。だからこそ、失敗するたび胸へ突き刺さる責任は重い。
(私が……もっと正確に蹴れていたら)
仲間たちが繋いできたボールを、あと一歩のところで決めきれなかった。
(悔しい……もっともっと、みんなの力になりたいのに)
自分の未熟さが、こんなにも歯がゆい。その思いは、きっとここにいる全員が抱えていた。誰も諦めてはいない。けれど、焦りだけが少しずつ心を蝕んでいく。
アルティメットサンダーを完成させなければ、帝国学園には勝てない。その現実だけが、重くベンチへ圧しかかっていた。
沈黙を破ったのは、天馬だった。ゆっくりと立ち上がると、倉間と奏音の前へ歩み寄る。
「倉間先輩、神童妹先輩」
二人が顔を上げる。
天馬の瞳には、不思議なくらい迷いがなかった。
「もう一度、挑戦しましょう!」
真っ直ぐな声が、ベンチへ響く。
「天馬……」
倉間が小さく名前を呼ぶ。
天馬は深く頭を下げた。
「挑戦しなきゃ、何も始まりません……お願いします!」
その姿には、意地も見栄もない。必死だった。だからこそ、その言葉は胸へ届く。
奏音は目を丸くしたあと、小さく微笑んだ。
「……うん」
ゆっくり立ち上がる。
「私にできることなら、全部やるよ」
その笑顔は少しぎこちなかった。それでも瞳の奥に宿る光は消えていない。失敗してもいい。まだ、自分にできることが残っているならそのために走りたい。それが奏音の答えだった。
「簡単に言うな!」
鋭い声が空気を切り裂いた。
倉間だった。俯いたまま肩を震わせ、拳を強く握り締めている。
「これだけやって……上手くいかねぇのに!」
勢いよく顔を上げた瞳は赤く滲んでいた。
「どうやって成功させるんだよ!」
その叫びは、誰かを責めるためではない。努力しても届かない自分自身への怒りだった。
誰も言葉を返せない。奏音も、天馬も、拓人も、苦しさは皆同じだった。だからこそ、慰めの言葉など見つからなかった。
「諦めるな!」
よく通る声が、ベンチへ力強く響く。
全員が顔を上げた。円堂が、まっすぐ選手たちを見つめている。
「諦めない奴にだけ、掴めるものがある!」
その言葉が、重く胸へ響いた。
円堂は、それ以上何も言わなかった。ただ、選手たちを信じるように、まっすぐその場に立っている。
拓人は静かに拳を握り締めた。
(どうすれば……)
諦めたくはない。絶対に勝ちたい。それでも、あと一歩を越えるための答えが見つからない。焦りを抱えたまま、時間だけがただ流れていく。その時だった。
「――俺を出せ!」
低く、よく通る声がベンチに響く。
聞き覚えのあるその声に、全員の視線がベンチの入口へ向いた。
「剣城……!」
天馬が思わず息を呑む。奏音も大きく目を見開いた。そこに立っていたのは、ついさっきまで病院にいたはずの剣城だった。
迷いを振り切ったような、まっすぐな眼差し。ベンチのざわめきにも動じることなく、剣城はゆっくりと前へ歩き出す。
「俺を……試合に出してくれ!」
その一言に、空気が張り詰めた。
拓人がそっと口を開く。
「……今度は逃げないのか?」
責めるような口調ではない。ただ、その覚悟が本物かを確かめるような問いだった。
剣城は真っ直ぐ拓人を見返す。
「シードじゃない。一人のサッカープレイヤーとして……頼む!」
その言葉がベンチに響いた瞬間――
「信用できるわけないだろ!」
倉間の怒声が空気を切り裂く。
その叫びは、倉間一人の感情ではない。ベンチにいる誰もが、一度は抱いた疑いだった。部員たちの視線が剣城へ集まる。
厳しい視線、戸惑いの視線。それでも剣城は動かなかった。ただ黙って、その視線を受け止め続ける。それが、自分のしてきたことへの責任だと分かっていたからだ。
その姿を見つめる奏音は、小さく息を呑む。
(京ちゃん……)
剣城の瞳に宿る覚悟を確かめるように見つめたあと、何かを決意したように表情を引き締める。そして、くるりと身を翻すとベンチの奥へ駆け出した。
「神童妹先輩?」
天馬が思わず声を上げる。しかし奏音は振り返らない。部員たちは戸惑いながら、その背中を見送るしかなかった。
「円堂監督……」
沈黙に耐えきれず、葵が不安そうに口を開く。その先を促すように円堂を見る。
「決めるのは、お前たちだ」
低く、それでいて力強い声だった。円堂は、それ以上何も言わなかった。受け入れるのか、拒むのか。その答えを出すのは、雷門イレブン自身だった。
「京ちゃん。これ、必要でしょ?」
柔らかな声が静寂を破る。全員が振り向く。そこには、ベンチの奥から戻ってきた奏音の姿があった。
胸に大切そうに抱えられているのは、一枚のユニフォーム。黄色と青の雷門ユニフォーム。十の背番号が刻まれていた。剣城のユニフォームだった。ざわめきが広がる。
「神童妹先輩……?」
天馬が驚いたように目を丸くする。奏音は誰の顔も見ず、ゆっくりと剣城の前まで歩いていく。そして、両手で抱えていたユニフォームをそっと差し出した。
剣城は、しばらく受け取れなかった。そのユニフォームが、自分には眩しすぎたからだ。
「京ちゃん」
静かな呼びかけに、剣城が顔を上げる。
奏音は優しく微笑んだ。
「私は信じるよ」
剣城の瞳が、小さく揺れる。
「ここまで来たってことは……」
奏音は剣城をまっすぐ見つめた。
「本気なんでしょ?」
返事はなかった。けれど、その沈黙が答えだった。奏音はそっと頷く。
「だったら、私は信じたい」
一歩だけ、剣城との距離を縮める。
「幼馴染としてじゃない」
奏音は、剣城の胸へそっとユニフォームを押し当てる。
「雷門の仲間として――京ちゃんを信じたい」
剣城は震える手でユニフォームを受け取った。指先が、わずかに震えている。
「奏音……」
掠れた声だった。それ以上、言葉が続かない。こんな自分を、まだ信じてくれる人がいる。その事実だけで、胸がいっぱいになった。
「俺も剣城を信じます!」
天馬も一歩前へ踏み出した。剣城をじっと見つめる。その瞳には、少しの迷いもなかった。
「剣城はいつも俺たちを苦しめて来た。前の試合で、少しは信じられるかと思ったが……その後は練習にも来ない。今日の試合には遅刻する。それで、信じられるか!」
倉間が吐き出すように言う。その言葉に、天馬は一瞬だけ黙った。けれど、すぐに顔を上げる。
「思い出して下さい、剣城のプレーを!」
力強い声が響く。
「サッカーが好きじゃなきゃ、あんな凄いプレーは出来る筈ないです」
万能坂中戦で見せた、誰よりもサッカーを愛しているようなプレー。天馬は、あの姿を忘れていなかった。
「だから俺、信じます!」
その言葉を受けた剣城の表情が、ほんの少しだけ変わる。それを見た拓人は、静かに口元を緩めた。
「俺も信じる」
それはキャプテンとしての判断ではない。雷門の仲間として、剣城を信じるという意志だった。
「キャプテン……!」
天馬が嬉しそうに振り返る。その言葉をきっかけに、信助たちも次々と頷いた。先ほどまで剣城へ向けられていた疑いの眼差しは、少しずつ和らいでいく。一人、また一人と。雷門の輪が、剣城のもとへ広がっていった。
ただ一人、倉間だけは腕を組んだままだった。しばらく黙っていたが、やがて大きくため息をつく。
「……チッ」
頭を掻きながら、剣城を見据える。
「そこまで言われたら、俺だけ反対してるのも馬鹿らしい。お前が本気で戦うってんなら、プレーで証明してみせろ」
「……はい」
剣城は、その言葉をしっかりと受け止めた。それを見届けた円堂が、力強く頷く。
「剣城、行ってこい!」
「はい!」
迷いのない返事が、ベンチに響いた。
交代の時間が迫る。奏音はタッチラインへ向かう。入れ替わるように剣城が隣へ立った。ほんの一瞬だけ、二人の視線が重なる。
「京ちゃん」
奏音はいたずらっぽく笑った。
「優一さんに、ちゃんと見せてあげようよ」
「……何を」
「京ちゃんが、サッカーしてるところ」
一瞬だけ、剣城は目を丸くする。次の瞬間。自然と笑みがこぼれた。
「……ああ、任せろ」
「うん!」
二人は同時に手を上げる。
――パシン。
乾いたハイタッチの音が、響いた。
「いってらっしゃい、京ちゃん」
「ああ、行ってくる」
その声に背中を押されるように、剣城はゆっくりとピッチへ歩き出す。後半開始を告げるホイッスルが、帝国学園のスタジアムに高らかに響き渡った。
選手たちが一斉に動き出す。帝国学園のキックオフ。ボールが転がった瞬間、雷門イレブンの空気が一変した。
真っ先に飛び出したのは、剣城だった。鋭く地面を蹴る。逸見のパスコースを一瞬で見抜いた剣城は、迷いなく身体を滑り込ませた。鮮やかなインターセプト。ボールはそのまま剣城の足元へ収まる。その動きに一切の無駄はない。その背中を見つめ、天馬は思わず笑みを浮かべた。
(やっぱり……これが剣城だ!)
迷いなくボールを追う姿は、万能坂中戦で見せた〝本当のサッカー〟そのものだった。
拓人も小さく頷く。
「倉間!」
鋭い声が飛ぶ。
「シュートは頼むぞ!」
「わかった!」
倉間が一気にゴール前へ走り出す。同時に雷門イレブン全員が動いた。幾度となく繰り返してきた連携。身体が自然と動く。全員の呼吸が、一つになっていく。
「剣城!」
拓人が叫ぶ。
「やり方は分かっているな!」
「ああ!」
短い返事。剣城は迷うことなくボールを拓人へ預ける。その瞬間だった。
「行くぞ!」
拓人を中心に、雷門イレブンが駆け出す。稲妻のように交差するパス。息の合った連携。ボールが目にも止まらぬ速さでフィールドを駆け抜けていく。
「アルティメットサンダー!」
剣城は大きく踏み込んだ。迫り来るボールを見据え、右足へ力を込める。
「兄さんのためにも……決める!」
叫びとともに右足を振り抜く。轟音がフィールドを揺らした。
「やった!」
天馬が拳を握る。
「蹴りやがった……!」
倉間も思わず声を上げる。
「このキック力ならいける!」
拓人も確かな手応えを感じていた。
雷をまとったボールは一直線に帝国学園ゴール前へ突き進む。あと少し――ゴールまで、ほんの数メートル。その瞬間だった。
「……!」
ボールを包んでいた雷光が、ふっと揺らぐ。勢いは残っている。だが、あと一押し届かない。力なく弾んだボールを、帝国学園DF・龍崎が難なく足元へ収める。
「惜しい……!」
奏音が思わず叫ぶ。
あと一歩だった。アルティメットサンダーは確かに帝国を追い詰めた。しかし、完成には至らなかった。龍崎が薄く笑う。
「剣城を入れた甲斐もなかったようだな」
その言葉が雷門の胸へ突き刺さる。
剣城は拳を握り締めた。
「もう一度だ……今度は決める!」
剣城の叫びに応えるように、雷門イレブンが再び走り出す。
「アルティメットサンダー!」
雷鳴が轟く。最後のボールが剣城の足元へ届く。
「こいつでどうだ!」
全身の力を込めて右足を振り抜く。しかし雷が一瞬だけ走った。その輝きは、まるで火が消えるように、あっけなく霧散した。
「また……何故だ!?」
拓人が愕然とする。
「ちゅーか、どうなってんの?」
浜野が思わず呟く。
「まさか……」
速水がおそるおそる口を開いた。
「手を抜いてたりするとか……」
その言葉に、信助が思わず振り返る。
「そんな……!」
だが、その疑念はピッチ全体へ広がっていく。倉間も剣城を見つめた。
「あいつ……雷門を負けさせるためにわざとミスしてるんじゃ……?」
「わざわざそんなことしなくても、間違いなく倒してやるよ」
逸見の嘲笑が耳へ届く。
(違う……)
剣城は歯を食いしばる。
(違う……俺は、本気だ!)
何度蹴っても、なぜか雷が続かない。本気で蹴っているはずなのに――どうしてだ。
「……っ!」
答えは見つからない。それでも試合は待ってくれない。二度の失敗で流れを掴んだ帝国学園は、すぐさま鋭いカウンターを仕掛ける。ボールを持った逸見が、一気に前線へ駆け上がった。
「このまま押し切る!」
雷門の守備陣へ一直線に迫るその姿を見据え、霧野がゆっくりと前へ出た。
「――ザ・ミスト」
その声と同時に、霧野の姿が淡く霞む。
ふわり、と白い霧がピッチ一面へ広がった。視界が奪われる。
「なっ……!」
逸見が思わず足を止める。目の前にいたはずの霧野の姿が、どこにもない。右を見ても、左を見ても、ただ白い霧だけが漂っている。
「どこだ!?」
焦ったその瞬間だった。背後から伸びた足が、鮮やかにボールだけをさらっていく。
「しまっ……!」
気づいた時にはもう遅かった。霧が晴れる。そこには、ボールを奪い返した霧野が立っていた。
「すごい……!」
天馬が目を輝かせる。
「これが霧野先輩のディフェンス技……!」
霧野は軽く笑うと、そのまま左サイドを一気に駆け上がった。
「剣城!」
霧野の鋭いパスが一直線に送られる。絶好のタイミングだった。ほんの一歩踏み出せば届く、完璧なパス。しかし、剣城の意識はまだアルティメットサンダーの失敗に囚われていた。消えた雷。仲間たちの表情。その光景が脳裏から離れない。
「京ちゃん!」
ベンチから奏音の声が飛ぶ。
「っ!」
はっと顔を上げ、慌てて足を伸ばす。だが、その一瞬の遅れは致命的だった。ボールはつま先をすり抜け、そのままコロコロとタッチラインを割る。
――ピーッ!
主審の笛が響いた。
(京ちゃん……)
ベンチの奏音は、ぎゅっと拳を握り締めた。誰よりも分かっていた。剣城は手を抜いているわけじゃない。けれど、何かに迷っている。
(このままじゃ駄目……)
胸が締めつけられる。
(京ちゃんは、こんなところで止まる人じゃない)
気づけば、身体が勝手に動いていた。ベンチを飛び出し、タッチライン際まで駆け寄る。
「えっ!? 神童さん!?」
春奈が慌てて立ち上がる。けれど奏音の耳には何も届いていなかった。その瞳は、ただ剣城だけを見つめている。
「京ちゃん!」
透き通る声が、スタジアムいっぱいに響き渡る。
剣城が驚いたように振り返る。
「優一さんに、いいところ見せるんじゃなかったの!?」
その一言に、剣城の瞳が大きく揺れた。
奏音は両手を口元に添え、精一杯の声で叫ぶ。
「力ずくでも成功させて! 得点をもぎ取らなきゃダメなんだからねぇーっ!!」
一瞬、スタジアムから音が消えたような気がした。帝国学園の選手も、雷門イレブンも。スローインを構えていた選手でさえ、その場で固まってしまう。あまりに突然の出来事に、誰もが呆然と奏音を見つめていた。
――ピィィィーッ!!
鋭い笛の音が、静寂を切り裂く。
「そこの選手!」
主審がびしっと奏音を指差した。
「ベンチからピッチへ出ない! 試合中ですよ!」
「は、はいっ!!」
奏音は肩をびくりと震わせる。
「あっ……」
ようやく我に返った。自分がベンチを飛び出していたことに気づき、みるみる顔が赤くなる。
「ご、ご、ごめんなさ――い!!」
何度も頭を下げながら、慌ててベンチへ駆け戻る。その姿に、葵は思わず苦笑した。
「もう、奏音先輩ったら……」
「ご、ごめん……京ちゃんのこと見てたら、じっとしていられなくて……」
恥ずかしそうにうつむく奏音。そのおかしなやり取りに、張り詰めていた空気がほんの少しだけ和らいだ。
だが、剣城だけは笑えなかった。奏音の言葉が、胸の奥へ深く残っている。
「どうしたんだ、剣城!」
今度は天馬が声を張り上げる。剣城を確かな眼差しで捉えた。
「今のお前――」
天馬は強く拳を握る。
「ちゃんとサッカーに向き合ってない!」
その言葉が、剣城の胸を鋭く突き刺した。
「そんなんじゃ……」
天馬は息いっぱいに叫ぶ。
「そんなんじゃ、サッカーが泣いてるよ!!」
スタジアム中へ響き渡る叫び。剣城は何も答えられなかった。ただ黙って、その言葉を受け止めていた。
奏音の声。天馬の叫び。二人の言葉が、何度も胸の奥で響いていた。
帝国学園のスローインで、試合は再び動き始めた。ボールが宙を舞い、佐々鬼へ渡る。雷門イレブンはすぐさま守備陣形を整えた。
「ここだ!」
鋭い声が響く。しかし、そのパスは届かなかった。
「なっ!?」
佐々鬼が目を見開く。剣城だった。素早い踏み込みで一気に間合いを詰め、鮮やかにボールを奪い取る。流れるようなターン。そのまま前を向き、剣城は迷いなく駆け出した。
「剣城!」
そのプレーに、天馬の表情がぱっと明るくなる。ベンチでは奏音も思わず立ち上がっていた。
「京ちゃん……!」
「神童!」
剣城の鋭いパスが拓人へ通る。拓人はボールを受けると、小さく笑みを浮かべた。
「行くぞ、みんな!」
その一声を合図に、雷門イレブンが一斉に駆け出す。ボールが次々と仲間たちの足元を渡っていく。剣城の胸に、奏音と天馬の声が蘇った。
『優一さんに、いいところ見せるんじゃなかったの?』
『そんなんじゃ、サッカーが泣いてるよ!!』
何度も、その言葉が胸の奥で響く。
その瞬間――脳裏に浮かんだのは、夕焼けに染まる公園だった。
隣で笑う兄の姿。二人でボールを追いかけ、転んでは笑い、何度でも立ち上がった。
あの頃は、ただ夢中だった。勝つことも、強くなることも考えていなかった。ただ、兄さんと一緒にボールを蹴ることが楽しかった。 ただ――サッカーが好きだった。
(そうだ……俺は、俺のサッカーをすればいい)
その答えに辿り着いた瞬間、不思議なほど身体が軽くなった。
兄さんのために、自分を偽る必要なんてない。ただ、自分が好きだったサッカーをすればいい。その先に、兄さんとの約束がある。
(兄さんの涙を……もう二度と裏切るわけにはいかない!)
仲間たちの想いを乗せたボールが、最後に剣城の足元へ届く。
(もし俺が兄さんに報いることができるなら――)
雷をまとったボールが、唸りを上げた。
「俺と兄さんのサッカーをすることだ!!」
剣城は深く息を吸い、大きく右足を引く。もう、余計なことは考えなかった。右足に込めるのは、兄への想い。仲間を信じる心。そして、自分が心から愛するサッカー。
「アルティメットサンダー!!」
雷鳴が、フィールドを駆け抜けた。
今度こそ――その一撃に、迷いはなかった。
「くらえ!」
右足が力強く振り抜かれる。もう失速しない、もう止まらない。今まで足りなかったのは、力でも技術でもなかった。剣城自身が、自分のサッカーを信じる心。それを取り戻した瞬間、アルティメットサンダーは本来の力を取り戻した。
「成功した……!」
拓人が目を見開く。
天馬は思わず拳を握り締める。
「やったぁ!!」
帝国学園の守備陣が慌てて前へ出る。
しかし雷鳴にも似た轟音とともに、アルティメットサンダーが炸裂した。稲妻をまとった衝撃波がディフェンスラインへ激突する。
「うわぁぁぁっ!!」
選手たちは耐え切れず、大きく吹き飛ばされた。守備陣形が一気に崩壊する。
アルティメットサンダーが切り開いた突破口を、誰よりも速く駆け抜けたのは天馬だった。転がってきたボールを迷いなく受け止めると、そのまま高く宙へ舞い上がった。風が渦を巻く。足元から巻き起こる旋風が、渦を巻きながら天高く舞い上がる。
「マッハウィンド!!」
振り抜かれた右足から放たれたシュートは、暴風そのものだった。鋭い風をまとったボールが一直線にゴールへ突き進む。
帝国学園ゴールキーパー・雅野が大きく踏み込んだ。
「パワースパイク!!」
高く跳び上がり、ボールへ向かって一直線に飛び込む。全身の力を乗せた拳が、激突した。轟音がスタジアムを揺らす。風と衝撃波がぶつかり合い、激しい火花が四方へ散った。
「はああああっ!!」
雅野が叫ぶ。両腕へ伝わる凄まじい重圧。押し返そうと踏ん張る足が、芝生を深く削っていく。しかし。
「くっ……!」
風は止まらない。天馬の想い。仲間たちの想い。そして剣城が取り戻した〝本当のサッカー〟への想いを乗せたシュートは、雅野の必殺技を少しずつ押し込んでいく。
ピシッ――。小さな音が響いた。次の瞬間。
「なっ……!?」
雅野の表情が大きく揺らぐ。パワースパイクが砕けた。マッハウィンドは勢いを失うことなく、そのまま一直線にゴールネットへ突き刺さる。ネットが大きく揺れた。
「すごいよ天馬!」
信助が一番に駆け寄ってきた。二人は勢いよくハイタッチを交わす。続いて拓人が笑みを浮かべながら歩み寄った。
「やったな!」
その言葉に天馬は照れくさそうに笑う。そして、ゆっくりと振り返った。視線の先には、剣城が立っている。肩で息をしながらも、その表情は晴れやかだった。目が合う。剣城が、ほんの少し笑った。天馬も笑い返す。それだけで、十分だった。
「やったぁぁーっ!!」
ベンチでは奏音が勢いよく立ち上がる。隣にいた葵へ飛びつくように抱きついた。
「葵ちゃん!」
「奏音先輩!」
二人は思わず顔を見合わせ、声を上げて笑う。
「成功しましたね!」
「うん! 本当に良かった……!」
奏音の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
嬉しかった。アルティメットサンダーが完成したこと。同点へ追いついたこと。
それ以上に――。
(京ちゃん……)
もう迷っていない。誰かのために自分を偽る剣城ではなく、自分の意志でサッカーを楽しんでいる剣城が、そこにいた。その姿を見るだけで胸がいっぱいになる。奏音は大きく両手を振った。
「京ちゃーん!!」
透き通る声がピッチへ届く。剣城は少し照れたようにベンチへ視線を向けた。そして、小さく頷く。その横顔はどこか柔らかかった。その様子を見た天馬が思わず笑う。
「剣城、奏音先輩が呼んでるよ」
「……聞こえてる」
ぶっきらぼうに返しながらも、その口元はわずかに緩んでいた。その何気ないやり取りに、雷門イレブンの表情も自然とほころぶ。誰もが笑っていた。ほんの数分前までベンチを覆っていた絶望は、もうどこにもない。
一方、帝国学園ベンチには動揺が走っていた。余裕に満ちていた選手たちの表情から笑みが消えている。完成しないはずだった雷門の切り札。それが今、帝国学園の守備を真正面から打ち破った。もはや目の前の雷門は、前半とは別のチームだった。
ピッチ中央へ戻りながら、拓人は仲間たちをゆっくりと見渡す。一人ひとりの瞳に宿る光は、もう迷いではない。勝利を信じる強い意志だった。拓人は微笑む。
「――ここからが、本当の勝負だ」
その言葉に、全員が頷く。
「はい!!」
声が一つになる。その返事は、スタジアム中へ響き渡った。
絶望の淵から立ち上がった雷門イレブン、本当のサッカーを取り戻した剣城。そして、その背中を信じ続けた仲間たち。それぞれの想いが重なり、ひとつの力になる。スコアボードに、ついに同点を示す数字が灯った。
二対二。
雷門の反撃は、ここからだった。
雷門の選手たちは誰一人として口を開かなかった。肩を落とし、うつむいたまま、重い足取りでベンチへ戻っていく。誰もが分かっていた。このままでは勝てない、と。
「ちゅーか……何とか二点で済んだなぁ」
浜野が腰を下ろしながら、苦笑混じりにつぶやく。無理に空気を軽くしようとした言葉だったが、返事はない。沈黙だけが、重苦しくその場を支配していた。
「でも……」
速水が膝の上で手を握り締め、小さく顔を上げる。
「このままじゃ勝てませんよ……せめて、アルティメットサンダーを成功させないと……」
その声には焦りが滲んでいた。帝国学園の守備を崩すには、あの必殺タクティクスしかない。
「くっ……!」
倉間が拳を強く握り締める。何度挑戦しても完成しないアルティメットサンダー。あと一歩届かないまま、帝国学園の鉄壁の守備に阻まれ続けていた。
ベンチの隅では、奏音も静かに膝へ視線を落としていた。アルティメットサンダー。その最後を託されるキッカーは、自分と倉間だ。だからこそ、失敗するたび胸へ突き刺さる責任は重い。
(私が……もっと正確に蹴れていたら)
仲間たちが繋いできたボールを、あと一歩のところで決めきれなかった。
(悔しい……もっともっと、みんなの力になりたいのに)
自分の未熟さが、こんなにも歯がゆい。その思いは、きっとここにいる全員が抱えていた。誰も諦めてはいない。けれど、焦りだけが少しずつ心を蝕んでいく。
アルティメットサンダーを完成させなければ、帝国学園には勝てない。その現実だけが、重くベンチへ圧しかかっていた。
沈黙を破ったのは、天馬だった。ゆっくりと立ち上がると、倉間と奏音の前へ歩み寄る。
「倉間先輩、神童妹先輩」
二人が顔を上げる。
天馬の瞳には、不思議なくらい迷いがなかった。
「もう一度、挑戦しましょう!」
真っ直ぐな声が、ベンチへ響く。
「天馬……」
倉間が小さく名前を呼ぶ。
天馬は深く頭を下げた。
「挑戦しなきゃ、何も始まりません……お願いします!」
その姿には、意地も見栄もない。必死だった。だからこそ、その言葉は胸へ届く。
奏音は目を丸くしたあと、小さく微笑んだ。
「……うん」
ゆっくり立ち上がる。
「私にできることなら、全部やるよ」
その笑顔は少しぎこちなかった。それでも瞳の奥に宿る光は消えていない。失敗してもいい。まだ、自分にできることが残っているならそのために走りたい。それが奏音の答えだった。
「簡単に言うな!」
鋭い声が空気を切り裂いた。
倉間だった。俯いたまま肩を震わせ、拳を強く握り締めている。
「これだけやって……上手くいかねぇのに!」
勢いよく顔を上げた瞳は赤く滲んでいた。
「どうやって成功させるんだよ!」
その叫びは、誰かを責めるためではない。努力しても届かない自分自身への怒りだった。
誰も言葉を返せない。奏音も、天馬も、拓人も、苦しさは皆同じだった。だからこそ、慰めの言葉など見つからなかった。
「諦めるな!」
よく通る声が、ベンチへ力強く響く。
全員が顔を上げた。円堂が、まっすぐ選手たちを見つめている。
「諦めない奴にだけ、掴めるものがある!」
その言葉が、重く胸へ響いた。
円堂は、それ以上何も言わなかった。ただ、選手たちを信じるように、まっすぐその場に立っている。
拓人は静かに拳を握り締めた。
(どうすれば……)
諦めたくはない。絶対に勝ちたい。それでも、あと一歩を越えるための答えが見つからない。焦りを抱えたまま、時間だけがただ流れていく。その時だった。
「――俺を出せ!」
低く、よく通る声がベンチに響く。
聞き覚えのあるその声に、全員の視線がベンチの入口へ向いた。
「剣城……!」
天馬が思わず息を呑む。奏音も大きく目を見開いた。そこに立っていたのは、ついさっきまで病院にいたはずの剣城だった。
迷いを振り切ったような、まっすぐな眼差し。ベンチのざわめきにも動じることなく、剣城はゆっくりと前へ歩き出す。
「俺を……試合に出してくれ!」
その一言に、空気が張り詰めた。
拓人がそっと口を開く。
「……今度は逃げないのか?」
責めるような口調ではない。ただ、その覚悟が本物かを確かめるような問いだった。
剣城は真っ直ぐ拓人を見返す。
「シードじゃない。一人のサッカープレイヤーとして……頼む!」
その言葉がベンチに響いた瞬間――
「信用できるわけないだろ!」
倉間の怒声が空気を切り裂く。
その叫びは、倉間一人の感情ではない。ベンチにいる誰もが、一度は抱いた疑いだった。部員たちの視線が剣城へ集まる。
厳しい視線、戸惑いの視線。それでも剣城は動かなかった。ただ黙って、その視線を受け止め続ける。それが、自分のしてきたことへの責任だと分かっていたからだ。
その姿を見つめる奏音は、小さく息を呑む。
(京ちゃん……)
剣城の瞳に宿る覚悟を確かめるように見つめたあと、何かを決意したように表情を引き締める。そして、くるりと身を翻すとベンチの奥へ駆け出した。
「神童妹先輩?」
天馬が思わず声を上げる。しかし奏音は振り返らない。部員たちは戸惑いながら、その背中を見送るしかなかった。
「円堂監督……」
沈黙に耐えきれず、葵が不安そうに口を開く。その先を促すように円堂を見る。
「決めるのは、お前たちだ」
低く、それでいて力強い声だった。円堂は、それ以上何も言わなかった。受け入れるのか、拒むのか。その答えを出すのは、雷門イレブン自身だった。
「京ちゃん。これ、必要でしょ?」
柔らかな声が静寂を破る。全員が振り向く。そこには、ベンチの奥から戻ってきた奏音の姿があった。
胸に大切そうに抱えられているのは、一枚のユニフォーム。黄色と青の雷門ユニフォーム。十の背番号が刻まれていた。剣城のユニフォームだった。ざわめきが広がる。
「神童妹先輩……?」
天馬が驚いたように目を丸くする。奏音は誰の顔も見ず、ゆっくりと剣城の前まで歩いていく。そして、両手で抱えていたユニフォームをそっと差し出した。
剣城は、しばらく受け取れなかった。そのユニフォームが、自分には眩しすぎたからだ。
「京ちゃん」
静かな呼びかけに、剣城が顔を上げる。
奏音は優しく微笑んだ。
「私は信じるよ」
剣城の瞳が、小さく揺れる。
「ここまで来たってことは……」
奏音は剣城をまっすぐ見つめた。
「本気なんでしょ?」
返事はなかった。けれど、その沈黙が答えだった。奏音はそっと頷く。
「だったら、私は信じたい」
一歩だけ、剣城との距離を縮める。
「幼馴染としてじゃない」
奏音は、剣城の胸へそっとユニフォームを押し当てる。
「雷門の仲間として――京ちゃんを信じたい」
剣城は震える手でユニフォームを受け取った。指先が、わずかに震えている。
「奏音……」
掠れた声だった。それ以上、言葉が続かない。こんな自分を、まだ信じてくれる人がいる。その事実だけで、胸がいっぱいになった。
「俺も剣城を信じます!」
天馬も一歩前へ踏み出した。剣城をじっと見つめる。その瞳には、少しの迷いもなかった。
「剣城はいつも俺たちを苦しめて来た。前の試合で、少しは信じられるかと思ったが……その後は練習にも来ない。今日の試合には遅刻する。それで、信じられるか!」
倉間が吐き出すように言う。その言葉に、天馬は一瞬だけ黙った。けれど、すぐに顔を上げる。
「思い出して下さい、剣城のプレーを!」
力強い声が響く。
「サッカーが好きじゃなきゃ、あんな凄いプレーは出来る筈ないです」
万能坂中戦で見せた、誰よりもサッカーを愛しているようなプレー。天馬は、あの姿を忘れていなかった。
「だから俺、信じます!」
その言葉を受けた剣城の表情が、ほんの少しだけ変わる。それを見た拓人は、静かに口元を緩めた。
「俺も信じる」
それはキャプテンとしての判断ではない。雷門の仲間として、剣城を信じるという意志だった。
「キャプテン……!」
天馬が嬉しそうに振り返る。その言葉をきっかけに、信助たちも次々と頷いた。先ほどまで剣城へ向けられていた疑いの眼差しは、少しずつ和らいでいく。一人、また一人と。雷門の輪が、剣城のもとへ広がっていった。
ただ一人、倉間だけは腕を組んだままだった。しばらく黙っていたが、やがて大きくため息をつく。
「……チッ」
頭を掻きながら、剣城を見据える。
「そこまで言われたら、俺だけ反対してるのも馬鹿らしい。お前が本気で戦うってんなら、プレーで証明してみせろ」
「……はい」
剣城は、その言葉をしっかりと受け止めた。それを見届けた円堂が、力強く頷く。
「剣城、行ってこい!」
「はい!」
迷いのない返事が、ベンチに響いた。
交代の時間が迫る。奏音はタッチラインへ向かう。入れ替わるように剣城が隣へ立った。ほんの一瞬だけ、二人の視線が重なる。
「京ちゃん」
奏音はいたずらっぽく笑った。
「優一さんに、ちゃんと見せてあげようよ」
「……何を」
「京ちゃんが、サッカーしてるところ」
一瞬だけ、剣城は目を丸くする。次の瞬間。自然と笑みがこぼれた。
「……ああ、任せろ」
「うん!」
二人は同時に手を上げる。
――パシン。
乾いたハイタッチの音が、響いた。
「いってらっしゃい、京ちゃん」
「ああ、行ってくる」
その声に背中を押されるように、剣城はゆっくりとピッチへ歩き出す。後半開始を告げるホイッスルが、帝国学園のスタジアムに高らかに響き渡った。
選手たちが一斉に動き出す。帝国学園のキックオフ。ボールが転がった瞬間、雷門イレブンの空気が一変した。
真っ先に飛び出したのは、剣城だった。鋭く地面を蹴る。逸見のパスコースを一瞬で見抜いた剣城は、迷いなく身体を滑り込ませた。鮮やかなインターセプト。ボールはそのまま剣城の足元へ収まる。その動きに一切の無駄はない。その背中を見つめ、天馬は思わず笑みを浮かべた。
(やっぱり……これが剣城だ!)
迷いなくボールを追う姿は、万能坂中戦で見せた〝本当のサッカー〟そのものだった。
拓人も小さく頷く。
「倉間!」
鋭い声が飛ぶ。
「シュートは頼むぞ!」
「わかった!」
倉間が一気にゴール前へ走り出す。同時に雷門イレブン全員が動いた。幾度となく繰り返してきた連携。身体が自然と動く。全員の呼吸が、一つになっていく。
「剣城!」
拓人が叫ぶ。
「やり方は分かっているな!」
「ああ!」
短い返事。剣城は迷うことなくボールを拓人へ預ける。その瞬間だった。
「行くぞ!」
拓人を中心に、雷門イレブンが駆け出す。稲妻のように交差するパス。息の合った連携。ボールが目にも止まらぬ速さでフィールドを駆け抜けていく。
「アルティメットサンダー!」
剣城は大きく踏み込んだ。迫り来るボールを見据え、右足へ力を込める。
「兄さんのためにも……決める!」
叫びとともに右足を振り抜く。轟音がフィールドを揺らした。
「やった!」
天馬が拳を握る。
「蹴りやがった……!」
倉間も思わず声を上げる。
「このキック力ならいける!」
拓人も確かな手応えを感じていた。
雷をまとったボールは一直線に帝国学園ゴール前へ突き進む。あと少し――ゴールまで、ほんの数メートル。その瞬間だった。
「……!」
ボールを包んでいた雷光が、ふっと揺らぐ。勢いは残っている。だが、あと一押し届かない。力なく弾んだボールを、帝国学園DF・龍崎が難なく足元へ収める。
「惜しい……!」
奏音が思わず叫ぶ。
あと一歩だった。アルティメットサンダーは確かに帝国を追い詰めた。しかし、完成には至らなかった。龍崎が薄く笑う。
「剣城を入れた甲斐もなかったようだな」
その言葉が雷門の胸へ突き刺さる。
剣城は拳を握り締めた。
「もう一度だ……今度は決める!」
剣城の叫びに応えるように、雷門イレブンが再び走り出す。
「アルティメットサンダー!」
雷鳴が轟く。最後のボールが剣城の足元へ届く。
「こいつでどうだ!」
全身の力を込めて右足を振り抜く。しかし雷が一瞬だけ走った。その輝きは、まるで火が消えるように、あっけなく霧散した。
「また……何故だ!?」
拓人が愕然とする。
「ちゅーか、どうなってんの?」
浜野が思わず呟く。
「まさか……」
速水がおそるおそる口を開いた。
「手を抜いてたりするとか……」
その言葉に、信助が思わず振り返る。
「そんな……!」
だが、その疑念はピッチ全体へ広がっていく。倉間も剣城を見つめた。
「あいつ……雷門を負けさせるためにわざとミスしてるんじゃ……?」
「わざわざそんなことしなくても、間違いなく倒してやるよ」
逸見の嘲笑が耳へ届く。
(違う……)
剣城は歯を食いしばる。
(違う……俺は、本気だ!)
何度蹴っても、なぜか雷が続かない。本気で蹴っているはずなのに――どうしてだ。
「……っ!」
答えは見つからない。それでも試合は待ってくれない。二度の失敗で流れを掴んだ帝国学園は、すぐさま鋭いカウンターを仕掛ける。ボールを持った逸見が、一気に前線へ駆け上がった。
「このまま押し切る!」
雷門の守備陣へ一直線に迫るその姿を見据え、霧野がゆっくりと前へ出た。
「――ザ・ミスト」
その声と同時に、霧野の姿が淡く霞む。
ふわり、と白い霧がピッチ一面へ広がった。視界が奪われる。
「なっ……!」
逸見が思わず足を止める。目の前にいたはずの霧野の姿が、どこにもない。右を見ても、左を見ても、ただ白い霧だけが漂っている。
「どこだ!?」
焦ったその瞬間だった。背後から伸びた足が、鮮やかにボールだけをさらっていく。
「しまっ……!」
気づいた時にはもう遅かった。霧が晴れる。そこには、ボールを奪い返した霧野が立っていた。
「すごい……!」
天馬が目を輝かせる。
「これが霧野先輩のディフェンス技……!」
霧野は軽く笑うと、そのまま左サイドを一気に駆け上がった。
「剣城!」
霧野の鋭いパスが一直線に送られる。絶好のタイミングだった。ほんの一歩踏み出せば届く、完璧なパス。しかし、剣城の意識はまだアルティメットサンダーの失敗に囚われていた。消えた雷。仲間たちの表情。その光景が脳裏から離れない。
「京ちゃん!」
ベンチから奏音の声が飛ぶ。
「っ!」
はっと顔を上げ、慌てて足を伸ばす。だが、その一瞬の遅れは致命的だった。ボールはつま先をすり抜け、そのままコロコロとタッチラインを割る。
――ピーッ!
主審の笛が響いた。
(京ちゃん……)
ベンチの奏音は、ぎゅっと拳を握り締めた。誰よりも分かっていた。剣城は手を抜いているわけじゃない。けれど、何かに迷っている。
(このままじゃ駄目……)
胸が締めつけられる。
(京ちゃんは、こんなところで止まる人じゃない)
気づけば、身体が勝手に動いていた。ベンチを飛び出し、タッチライン際まで駆け寄る。
「えっ!? 神童さん!?」
春奈が慌てて立ち上がる。けれど奏音の耳には何も届いていなかった。その瞳は、ただ剣城だけを見つめている。
「京ちゃん!」
透き通る声が、スタジアムいっぱいに響き渡る。
剣城が驚いたように振り返る。
「優一さんに、いいところ見せるんじゃなかったの!?」
その一言に、剣城の瞳が大きく揺れた。
奏音は両手を口元に添え、精一杯の声で叫ぶ。
「力ずくでも成功させて! 得点をもぎ取らなきゃダメなんだからねぇーっ!!」
一瞬、スタジアムから音が消えたような気がした。帝国学園の選手も、雷門イレブンも。スローインを構えていた選手でさえ、その場で固まってしまう。あまりに突然の出来事に、誰もが呆然と奏音を見つめていた。
――ピィィィーッ!!
鋭い笛の音が、静寂を切り裂く。
「そこの選手!」
主審がびしっと奏音を指差した。
「ベンチからピッチへ出ない! 試合中ですよ!」
「は、はいっ!!」
奏音は肩をびくりと震わせる。
「あっ……」
ようやく我に返った。自分がベンチを飛び出していたことに気づき、みるみる顔が赤くなる。
「ご、ご、ごめんなさ――い!!」
何度も頭を下げながら、慌ててベンチへ駆け戻る。その姿に、葵は思わず苦笑した。
「もう、奏音先輩ったら……」
「ご、ごめん……京ちゃんのこと見てたら、じっとしていられなくて……」
恥ずかしそうにうつむく奏音。そのおかしなやり取りに、張り詰めていた空気がほんの少しだけ和らいだ。
だが、剣城だけは笑えなかった。奏音の言葉が、胸の奥へ深く残っている。
「どうしたんだ、剣城!」
今度は天馬が声を張り上げる。剣城を確かな眼差しで捉えた。
「今のお前――」
天馬は強く拳を握る。
「ちゃんとサッカーに向き合ってない!」
その言葉が、剣城の胸を鋭く突き刺した。
「そんなんじゃ……」
天馬は息いっぱいに叫ぶ。
「そんなんじゃ、サッカーが泣いてるよ!!」
スタジアム中へ響き渡る叫び。剣城は何も答えられなかった。ただ黙って、その言葉を受け止めていた。
奏音の声。天馬の叫び。二人の言葉が、何度も胸の奥で響いていた。
帝国学園のスローインで、試合は再び動き始めた。ボールが宙を舞い、佐々鬼へ渡る。雷門イレブンはすぐさま守備陣形を整えた。
「ここだ!」
鋭い声が響く。しかし、そのパスは届かなかった。
「なっ!?」
佐々鬼が目を見開く。剣城だった。素早い踏み込みで一気に間合いを詰め、鮮やかにボールを奪い取る。流れるようなターン。そのまま前を向き、剣城は迷いなく駆け出した。
「剣城!」
そのプレーに、天馬の表情がぱっと明るくなる。ベンチでは奏音も思わず立ち上がっていた。
「京ちゃん……!」
「神童!」
剣城の鋭いパスが拓人へ通る。拓人はボールを受けると、小さく笑みを浮かべた。
「行くぞ、みんな!」
その一声を合図に、雷門イレブンが一斉に駆け出す。ボールが次々と仲間たちの足元を渡っていく。剣城の胸に、奏音と天馬の声が蘇った。
『優一さんに、いいところ見せるんじゃなかったの?』
『そんなんじゃ、サッカーが泣いてるよ!!』
何度も、その言葉が胸の奥で響く。
その瞬間――脳裏に浮かんだのは、夕焼けに染まる公園だった。
隣で笑う兄の姿。二人でボールを追いかけ、転んでは笑い、何度でも立ち上がった。
あの頃は、ただ夢中だった。勝つことも、強くなることも考えていなかった。ただ、兄さんと一緒にボールを蹴ることが楽しかった。 ただ――サッカーが好きだった。
(そうだ……俺は、俺のサッカーをすればいい)
その答えに辿り着いた瞬間、不思議なほど身体が軽くなった。
兄さんのために、自分を偽る必要なんてない。ただ、自分が好きだったサッカーをすればいい。その先に、兄さんとの約束がある。
(兄さんの涙を……もう二度と裏切るわけにはいかない!)
仲間たちの想いを乗せたボールが、最後に剣城の足元へ届く。
(もし俺が兄さんに報いることができるなら――)
雷をまとったボールが、唸りを上げた。
「俺と兄さんのサッカーをすることだ!!」
剣城は深く息を吸い、大きく右足を引く。もう、余計なことは考えなかった。右足に込めるのは、兄への想い。仲間を信じる心。そして、自分が心から愛するサッカー。
「アルティメットサンダー!!」
雷鳴が、フィールドを駆け抜けた。
今度こそ――その一撃に、迷いはなかった。
「くらえ!」
右足が力強く振り抜かれる。もう失速しない、もう止まらない。今まで足りなかったのは、力でも技術でもなかった。剣城自身が、自分のサッカーを信じる心。それを取り戻した瞬間、アルティメットサンダーは本来の力を取り戻した。
「成功した……!」
拓人が目を見開く。
天馬は思わず拳を握り締める。
「やったぁ!!」
帝国学園の守備陣が慌てて前へ出る。
しかし雷鳴にも似た轟音とともに、アルティメットサンダーが炸裂した。稲妻をまとった衝撃波がディフェンスラインへ激突する。
「うわぁぁぁっ!!」
選手たちは耐え切れず、大きく吹き飛ばされた。守備陣形が一気に崩壊する。
アルティメットサンダーが切り開いた突破口を、誰よりも速く駆け抜けたのは天馬だった。転がってきたボールを迷いなく受け止めると、そのまま高く宙へ舞い上がった。風が渦を巻く。足元から巻き起こる旋風が、渦を巻きながら天高く舞い上がる。
「マッハウィンド!!」
振り抜かれた右足から放たれたシュートは、暴風そのものだった。鋭い風をまとったボールが一直線にゴールへ突き進む。
帝国学園ゴールキーパー・雅野が大きく踏み込んだ。
「パワースパイク!!」
高く跳び上がり、ボールへ向かって一直線に飛び込む。全身の力を乗せた拳が、激突した。轟音がスタジアムを揺らす。風と衝撃波がぶつかり合い、激しい火花が四方へ散った。
「はああああっ!!」
雅野が叫ぶ。両腕へ伝わる凄まじい重圧。押し返そうと踏ん張る足が、芝生を深く削っていく。しかし。
「くっ……!」
風は止まらない。天馬の想い。仲間たちの想い。そして剣城が取り戻した〝本当のサッカー〟への想いを乗せたシュートは、雅野の必殺技を少しずつ押し込んでいく。
ピシッ――。小さな音が響いた。次の瞬間。
「なっ……!?」
雅野の表情が大きく揺らぐ。パワースパイクが砕けた。マッハウィンドは勢いを失うことなく、そのまま一直線にゴールネットへ突き刺さる。ネットが大きく揺れた。
「すごいよ天馬!」
信助が一番に駆け寄ってきた。二人は勢いよくハイタッチを交わす。続いて拓人が笑みを浮かべながら歩み寄った。
「やったな!」
その言葉に天馬は照れくさそうに笑う。そして、ゆっくりと振り返った。視線の先には、剣城が立っている。肩で息をしながらも、その表情は晴れやかだった。目が合う。剣城が、ほんの少し笑った。天馬も笑い返す。それだけで、十分だった。
「やったぁぁーっ!!」
ベンチでは奏音が勢いよく立ち上がる。隣にいた葵へ飛びつくように抱きついた。
「葵ちゃん!」
「奏音先輩!」
二人は思わず顔を見合わせ、声を上げて笑う。
「成功しましたね!」
「うん! 本当に良かった……!」
奏音の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
嬉しかった。アルティメットサンダーが完成したこと。同点へ追いついたこと。
それ以上に――。
(京ちゃん……)
もう迷っていない。誰かのために自分を偽る剣城ではなく、自分の意志でサッカーを楽しんでいる剣城が、そこにいた。その姿を見るだけで胸がいっぱいになる。奏音は大きく両手を振った。
「京ちゃーん!!」
透き通る声がピッチへ届く。剣城は少し照れたようにベンチへ視線を向けた。そして、小さく頷く。その横顔はどこか柔らかかった。その様子を見た天馬が思わず笑う。
「剣城、奏音先輩が呼んでるよ」
「……聞こえてる」
ぶっきらぼうに返しながらも、その口元はわずかに緩んでいた。その何気ないやり取りに、雷門イレブンの表情も自然とほころぶ。誰もが笑っていた。ほんの数分前までベンチを覆っていた絶望は、もうどこにもない。
一方、帝国学園ベンチには動揺が走っていた。余裕に満ちていた選手たちの表情から笑みが消えている。完成しないはずだった雷門の切り札。それが今、帝国学園の守備を真正面から打ち破った。もはや目の前の雷門は、前半とは別のチームだった。
ピッチ中央へ戻りながら、拓人は仲間たちをゆっくりと見渡す。一人ひとりの瞳に宿る光は、もう迷いではない。勝利を信じる強い意志だった。拓人は微笑む。
「――ここからが、本当の勝負だ」
その言葉に、全員が頷く。
「はい!!」
声が一つになる。その返事は、スタジアム中へ響き渡った。
絶望の淵から立ち上がった雷門イレブン、本当のサッカーを取り戻した剣城。そして、その背中を信じ続けた仲間たち。それぞれの想いが重なり、ひとつの力になる。スコアボードに、ついに同点を示す数字が灯った。
二対二。
雷門の反撃は、ここからだった。