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神童奏音には、大好きなものが三つある。ピアノ。サッカー。そして――双子の兄、神童拓人。その順番は日によって変わることもあるけれど、最後だけは絶対に変わらない。奏音にとって拓人は、世界で一番大切な人だった。
幼い頃からずっとそうだ。拓人は、いつもみんなのことを一番に考えている優しい兄だった。どんなに苦しい時でも諦めず、仲間を信じて前を向く、本当に強い人。ピアノもサッカーも努力を重ねる姿を、奏音は幼い頃からずっと近くで見てきた。普段はクールだけれど、実は誰よりも温かく、不器用なくらい優しい。
だからこそ、拓人の周りにはいつだって人が集まり、その輪の中心で彼は穏やかな笑みを浮かべていた。その笑顔を見るだけで、なぜだか安心できるのだ。奏音にとって拓人は兄であり、憧れであり、ヒーローだった。
だから奏音は頑張った。かわいいと思ってほしくておしゃれを覚えた。褒めてもらいたくてピアノもサッカーも頑張った。人に優しくあろうとも心掛けた。
もちろん最初から全部うまくできたわけではない。転んで泣いた日もある。ピアノの発表会で失敗して落ち込んだ日もある。それでも立ち上がれたのは、「大丈夫だよ、奏音」と笑ってくれる兄がいたからだった。
奏音は気付いていない。母親譲りの整った顔立ち、誰とでも打ち解ける明るさ、努力を惜しまない性格、兄への憧れを力に変えられる強さ。その積み重ねが、中学生になる頃には誰もが振り返る少女へと成長させていた。
当然、異性からの人気も高い。告白された回数など数え切れない。しかし――
「ごめんなさい」
その全てが玉砕していた。理由は単純だ。兄より格好いい人がいないからである。奏音は真剣にそう思っていた。映画の王子様? いやいや、アイドル? うーん、人気俳優? 悪くないけれど、でも拓人の方が格好いい。優しいし、頭も良いし、ピアノも弾けるし、サッカーも上手い。完璧ではないか。むしろ白馬の王子様の方が兄に勝てるか怪しい。未来人や宇宙人の方がまだ可能性がある。その結論に至るたび、奏音は頭を抱える。
(これじゃ、好きってどういう気持ちか分からなくなっちゃうよ〜!)
本気の悩みだった。そんな兄は成長するにつれ、ますます眩しくなっていった。小学校のサッカー部へ入ると、あっという間に中心選手となり、チームの誰もが拓人を頼るようになった。もちろん、その後ろには小さなひよこのようについて回る奏音の姿もあった。
「拓にぃ!」
「また来たのか」
そう言いながらも、拓人は嫌な顔をしたことがない。練習にも付き合ってくれた。ドリブルもパスもシュートも、一つずつ丁寧に教えてくれた。だから奏音も試合に出られるようになった。
ある日の試合。拓人のスルーパスを受けた奏音は、震える足でゴール前へ飛び出した。思い切り振り抜いたボールがゴールネットへ突き刺さる。歓声、笛の音、チームメイトたちの喜ぶ声。その中で一番嬉しかったのは――
「よく決めたな、奏音!」
拓人は穏やかに微笑みながら、そっと奏音の頭を撫でる。あの日の光景は、きっと一生忘れない。
やがて二人は別々の道を歩むことになる。奏音は音楽留学のため海外へ。拓人は雷門中へ進学した。離れていても連絡は欠かさなかった。電話越しに聞く兄の声は、いつだって奏音を安心させてくれた。そんなある日だった。
「拓にぃ!」
受話器を握った奏音は飛び上がった。
「スタメン入りしたんだって!?」
雷門サッカー部。全国に名を轟かせる名門。その一軍入り。夢のような話だった。
「おめでとう!」
「ああ……まぁな」
だが拓人の返事は歯切れが悪い。奏音は首を傾げた。もっと喜んでいると思っていたのに。
「明日の試合、絶対見るからね!」
その瞬間だった。
「見るな」
低い声が返ってくる。奏音は聞き間違えたかと思った。
「え?」
「絶対に見るな」
拓人が強い口調で言った。こんな兄の声は初めてだった。
「どうして?」
しばらくして聞こえた声は、まるで泣くのを我慢しているようだった。
「……頼む。今回は見ないでくれ」
その声に、奏音は何も言えなくなった。ただ、小さく頷くしかなかった。
そして翌日。大型テレビの前に座った奏音は、リモコンを握りしめていた。
「ごめんね、拓にぃ」
小さく呟く。でも兄と霧野の初めての公式戦なのだ。見ないなんて無理だった。
「絶対絶対、応援するんだから!」
そう言って電源を入れる。だが――画面の向こうの雷門イレブンは、どこかおかしかった。楽しそうじゃない。みんな沈んだ顔をしている。まるで昨日の拓人みたいに。
その違和感を胸に抱えたまま、試合開始のホイッスルが鳴った。試合開始から数分。雷門が先制した。倉間のラストパスを受けた南沢が、迷いなくシュートを放つ。鮮やかな連携だった。
「すごい!」
思わず立ち上がる。
「いつもの拓にぃたちだ!」
胸が高鳴った。けれどその勢いは、突然途切れた。相手のドリブル。決して止められないほどではない。むしろ普段の雷門なら簡単に奪えている。それなのに誰もボールを追わない。
最初は気のせいだと思った。だが、時間が経つほど、その違和感ははっきりと形になっていく。
「え……?」
奏音は目を瞬いた。テレビの向こうで、相手選手が悠々と駆け抜けていく。
「霧野くん!」
思わず叫ぶ。今なら止められる。そう思った。だが霧野は動かなかった。必殺技も使わない。身体を寄せることすらしない。まるで、最初から止める気がないように。そのままシュート。
雷門のゴールキーパー・三国も動かない。ボールはゆっくりとネットを揺らした。静かだった。あまりにも簡単な失点だった。
画面の向こうの選手たちも苦しそうだった。悔しそうだった。なのに誰も抗わない。誰も戦わない。それが何より理解できなかった。試合はその後も続いた。いや続いたというより、終わっていった。雷門は抵抗しない。相手は得点する。また失点する。
気がつけば、四対一。試合終了を告げるホイッスルだけが、虚しく響いた。
テレビの前で、奏音はしばらく動けなかった。負けたことが悔しいわけじゃない。勝てたはずの試合を落としたことが悔しいわけでもない。ただ、悲しかった。画面の向こうにいたのは、サッカーを楽しむ選手たちではなかった。ボールを追いながら、心だけはどこか遠くへ置き去りにしてしまった人たち。
サッカーを諦めたから負けたのではない。負ける前に、心がサッカーを諦めてしまっていた。その姿が、奏音には何よりも悲しかった。
「……どうして」
ぽつりと漏れた声は、静かな部屋へ吸い込まれていく。こんなサッカーは知らない。拓人が、あんなふうにボールを追わないはずがない。勝つことよりも、サッカーを楽しむことを誰より大切にしていた兄が、まるで別人のようだった。
(何があったの……?)
胸のざわめきは、いつまで経っても消えない。気づけば奏音は受話器を手に取っていた。時計を見る。日本はまだ起きている時間。迷う理由はなかった。コール音が静かな部屋に響く。数回鳴ったあと、ようやく電話が繋がった。
『もしもし』
聞き慣れた声。だが、どこか疲れていた。
「拓にぃ」
『奏音か』
「聞きたいことがあるの」
短い沈黙だった。それだけで拓人は察したらしい。
『……見たんだな』
「うん」
『だから見るなと言ったのに』
拓人は小さく息を吐く。
「……ごめん。でも、見ないなんてできなかった」
少しだけ間を置いて、奏音は静かに続けた。
「ねえ、拓にぃ……何があったの?」
『……』
「今日の拓にぃを見て、すぐ分かった。あれは、拓にぃがやりたかったサッカーじゃない。だから教えて。何があったの?」
少しの沈黙のあと、絞り出すような声が返ってきた。
『……あんなサッカーをしたかったわけじゃない』
その声は。どこか泣いているようだった。その一言だけで十分だった。奏音は理解する。兄は苦しんでいる。心の底から。
それから拓人は全てを話した。フィフスセクター、勝敗指示、逆らえない現実、従わなければ潰されるサッカー部、そして誰も逆らえないということ。奏音は何も言えなくなった。
『俺だって勝ちたい。誰よりも、本気でサッカーがしたい。だけど……俺たちだけじゃ、どうにもならないんだ』
その声は弱々しかった。今まで聞いたことがないほど。拓人は強い。誰よりも強い。奏音はずっとそう思っていた。だが今、その強さが限界まで削られている。そんな気がした。奏音はゆっくりと息を吸い、小さく微笑む。
「……そっか」
その一言には、責める気持ちも、失望もなかった。
「話してくれて、ありがとう」
拓人は何も答えない。
「苦しかったよね」
静かな声だった。
「ずっと一人で抱えてきたんだね」
受話器の向こうで、小さく息を呑む音が聞こえた。
「でもね」
奏音は窓の外へ目を向ける。異国の夜空には、日本と同じように星が瞬いていた。
「私は知ってるよ」
奏音は優しく笑う。
「小さい頃、転んで泥だらけになっても笑ってた拓にぃを。負けて悔しくて泣いても、『もう一回やろう』ってボールを蹴ってた拓にぃを。誰よりもサッカーが好きだった拓にぃを」
受話器の向こうは静かなままだ。けれど、その沈黙が耳を傾けていることを教えてくれる。
「私は、ちゃんと知ってるから。拓にぃが、本当はどんなサッカーをしたいのか」
長い沈黙が流れた。
やがて、拓人が小さく息を吐く。
『……ありがとう』
その声はまだ苦しそうだった。それでも、ほんの少しだけ力が戻っているように聞こえた。
奏音は受話器を握り直し、明るく笑う。
「だからね、一人で全部背負わないで。離れていても、私は拓にぃの味方だから。今は何もできないかもしれない。でも、いつか絶対、一緒に思い切りサッカーをしよう!」
その約束だけは、迷わず口にできた。
『……ああ』
短い返事だった。けれどその声には、さっきまでにはなかった、かすかな温もりが宿っていた。
通話が終わる。部屋は静まり返っている。けれど、奏音の胸は静かではなかった。拓人は、一人で苦しみながら戦っている。その事実を知った今、何もできないふりなんてできない。
奏音は勢いよく立ち上がった。胸の奥が熱く燃えている。兄は、いつだって自分を支えてくれた。転んだ時も、泣いた時も、迷った時も、何度だって手を差し伸べてくれた。
だから――今度は、自分の番だ。今度は私が、拓にぃの力になりたい。
「拓にぃ」
誰もいない部屋で呟く。そして拳を胸の前で握り締めた。
「あなたの願いは、私が叶える」
窓の向こう。夜空の星が瞬いていた。その光はまるで。遠い日本で戦う兄へと続いているようだった。奏音は決める。
帰ろう、日本へ。春になれば帰れる。その日まで、もっと強くなろう。兄の隣で戦えるように。兄が誇れる妹になれるように。少女は静かに決意した。
そして春。雷門中学校に――革命の風が吹く。
幼い頃からずっとそうだ。拓人は、いつもみんなのことを一番に考えている優しい兄だった。どんなに苦しい時でも諦めず、仲間を信じて前を向く、本当に強い人。ピアノもサッカーも努力を重ねる姿を、奏音は幼い頃からずっと近くで見てきた。普段はクールだけれど、実は誰よりも温かく、不器用なくらい優しい。
だからこそ、拓人の周りにはいつだって人が集まり、その輪の中心で彼は穏やかな笑みを浮かべていた。その笑顔を見るだけで、なぜだか安心できるのだ。奏音にとって拓人は兄であり、憧れであり、ヒーローだった。
だから奏音は頑張った。かわいいと思ってほしくておしゃれを覚えた。褒めてもらいたくてピアノもサッカーも頑張った。人に優しくあろうとも心掛けた。
もちろん最初から全部うまくできたわけではない。転んで泣いた日もある。ピアノの発表会で失敗して落ち込んだ日もある。それでも立ち上がれたのは、「大丈夫だよ、奏音」と笑ってくれる兄がいたからだった。
奏音は気付いていない。母親譲りの整った顔立ち、誰とでも打ち解ける明るさ、努力を惜しまない性格、兄への憧れを力に変えられる強さ。その積み重ねが、中学生になる頃には誰もが振り返る少女へと成長させていた。
当然、異性からの人気も高い。告白された回数など数え切れない。しかし――
「ごめんなさい」
その全てが玉砕していた。理由は単純だ。兄より格好いい人がいないからである。奏音は真剣にそう思っていた。映画の王子様? いやいや、アイドル? うーん、人気俳優? 悪くないけれど、でも拓人の方が格好いい。優しいし、頭も良いし、ピアノも弾けるし、サッカーも上手い。完璧ではないか。むしろ白馬の王子様の方が兄に勝てるか怪しい。未来人や宇宙人の方がまだ可能性がある。その結論に至るたび、奏音は頭を抱える。
(これじゃ、好きってどういう気持ちか分からなくなっちゃうよ〜!)
本気の悩みだった。そんな兄は成長するにつれ、ますます眩しくなっていった。小学校のサッカー部へ入ると、あっという間に中心選手となり、チームの誰もが拓人を頼るようになった。もちろん、その後ろには小さなひよこのようについて回る奏音の姿もあった。
「拓にぃ!」
「また来たのか」
そう言いながらも、拓人は嫌な顔をしたことがない。練習にも付き合ってくれた。ドリブルもパスもシュートも、一つずつ丁寧に教えてくれた。だから奏音も試合に出られるようになった。
ある日の試合。拓人のスルーパスを受けた奏音は、震える足でゴール前へ飛び出した。思い切り振り抜いたボールがゴールネットへ突き刺さる。歓声、笛の音、チームメイトたちの喜ぶ声。その中で一番嬉しかったのは――
「よく決めたな、奏音!」
拓人は穏やかに微笑みながら、そっと奏音の頭を撫でる。あの日の光景は、きっと一生忘れない。
やがて二人は別々の道を歩むことになる。奏音は音楽留学のため海外へ。拓人は雷門中へ進学した。離れていても連絡は欠かさなかった。電話越しに聞く兄の声は、いつだって奏音を安心させてくれた。そんなある日だった。
「拓にぃ!」
受話器を握った奏音は飛び上がった。
「スタメン入りしたんだって!?」
雷門サッカー部。全国に名を轟かせる名門。その一軍入り。夢のような話だった。
「おめでとう!」
「ああ……まぁな」
だが拓人の返事は歯切れが悪い。奏音は首を傾げた。もっと喜んでいると思っていたのに。
「明日の試合、絶対見るからね!」
その瞬間だった。
「見るな」
低い声が返ってくる。奏音は聞き間違えたかと思った。
「え?」
「絶対に見るな」
拓人が強い口調で言った。こんな兄の声は初めてだった。
「どうして?」
しばらくして聞こえた声は、まるで泣くのを我慢しているようだった。
「……頼む。今回は見ないでくれ」
その声に、奏音は何も言えなくなった。ただ、小さく頷くしかなかった。
そして翌日。大型テレビの前に座った奏音は、リモコンを握りしめていた。
「ごめんね、拓にぃ」
小さく呟く。でも兄と霧野の初めての公式戦なのだ。見ないなんて無理だった。
「絶対絶対、応援するんだから!」
そう言って電源を入れる。だが――画面の向こうの雷門イレブンは、どこかおかしかった。楽しそうじゃない。みんな沈んだ顔をしている。まるで昨日の拓人みたいに。
その違和感を胸に抱えたまま、試合開始のホイッスルが鳴った。試合開始から数分。雷門が先制した。倉間のラストパスを受けた南沢が、迷いなくシュートを放つ。鮮やかな連携だった。
「すごい!」
思わず立ち上がる。
「いつもの拓にぃたちだ!」
胸が高鳴った。けれどその勢いは、突然途切れた。相手のドリブル。決して止められないほどではない。むしろ普段の雷門なら簡単に奪えている。それなのに誰もボールを追わない。
最初は気のせいだと思った。だが、時間が経つほど、その違和感ははっきりと形になっていく。
「え……?」
奏音は目を瞬いた。テレビの向こうで、相手選手が悠々と駆け抜けていく。
「霧野くん!」
思わず叫ぶ。今なら止められる。そう思った。だが霧野は動かなかった。必殺技も使わない。身体を寄せることすらしない。まるで、最初から止める気がないように。そのままシュート。
雷門のゴールキーパー・三国も動かない。ボールはゆっくりとネットを揺らした。静かだった。あまりにも簡単な失点だった。
画面の向こうの選手たちも苦しそうだった。悔しそうだった。なのに誰も抗わない。誰も戦わない。それが何より理解できなかった。試合はその後も続いた。いや続いたというより、終わっていった。雷門は抵抗しない。相手は得点する。また失点する。
気がつけば、四対一。試合終了を告げるホイッスルだけが、虚しく響いた。
テレビの前で、奏音はしばらく動けなかった。負けたことが悔しいわけじゃない。勝てたはずの試合を落としたことが悔しいわけでもない。ただ、悲しかった。画面の向こうにいたのは、サッカーを楽しむ選手たちではなかった。ボールを追いながら、心だけはどこか遠くへ置き去りにしてしまった人たち。
サッカーを諦めたから負けたのではない。負ける前に、心がサッカーを諦めてしまっていた。その姿が、奏音には何よりも悲しかった。
「……どうして」
ぽつりと漏れた声は、静かな部屋へ吸い込まれていく。こんなサッカーは知らない。拓人が、あんなふうにボールを追わないはずがない。勝つことよりも、サッカーを楽しむことを誰より大切にしていた兄が、まるで別人のようだった。
(何があったの……?)
胸のざわめきは、いつまで経っても消えない。気づけば奏音は受話器を手に取っていた。時計を見る。日本はまだ起きている時間。迷う理由はなかった。コール音が静かな部屋に響く。数回鳴ったあと、ようやく電話が繋がった。
『もしもし』
聞き慣れた声。だが、どこか疲れていた。
「拓にぃ」
『奏音か』
「聞きたいことがあるの」
短い沈黙だった。それだけで拓人は察したらしい。
『……見たんだな』
「うん」
『だから見るなと言ったのに』
拓人は小さく息を吐く。
「……ごめん。でも、見ないなんてできなかった」
少しだけ間を置いて、奏音は静かに続けた。
「ねえ、拓にぃ……何があったの?」
『……』
「今日の拓にぃを見て、すぐ分かった。あれは、拓にぃがやりたかったサッカーじゃない。だから教えて。何があったの?」
少しの沈黙のあと、絞り出すような声が返ってきた。
『……あんなサッカーをしたかったわけじゃない』
その声は。どこか泣いているようだった。その一言だけで十分だった。奏音は理解する。兄は苦しんでいる。心の底から。
それから拓人は全てを話した。フィフスセクター、勝敗指示、逆らえない現実、従わなければ潰されるサッカー部、そして誰も逆らえないということ。奏音は何も言えなくなった。
『俺だって勝ちたい。誰よりも、本気でサッカーがしたい。だけど……俺たちだけじゃ、どうにもならないんだ』
その声は弱々しかった。今まで聞いたことがないほど。拓人は強い。誰よりも強い。奏音はずっとそう思っていた。だが今、その強さが限界まで削られている。そんな気がした。奏音はゆっくりと息を吸い、小さく微笑む。
「……そっか」
その一言には、責める気持ちも、失望もなかった。
「話してくれて、ありがとう」
拓人は何も答えない。
「苦しかったよね」
静かな声だった。
「ずっと一人で抱えてきたんだね」
受話器の向こうで、小さく息を呑む音が聞こえた。
「でもね」
奏音は窓の外へ目を向ける。異国の夜空には、日本と同じように星が瞬いていた。
「私は知ってるよ」
奏音は優しく笑う。
「小さい頃、転んで泥だらけになっても笑ってた拓にぃを。負けて悔しくて泣いても、『もう一回やろう』ってボールを蹴ってた拓にぃを。誰よりもサッカーが好きだった拓にぃを」
受話器の向こうは静かなままだ。けれど、その沈黙が耳を傾けていることを教えてくれる。
「私は、ちゃんと知ってるから。拓にぃが、本当はどんなサッカーをしたいのか」
長い沈黙が流れた。
やがて、拓人が小さく息を吐く。
『……ありがとう』
その声はまだ苦しそうだった。それでも、ほんの少しだけ力が戻っているように聞こえた。
奏音は受話器を握り直し、明るく笑う。
「だからね、一人で全部背負わないで。離れていても、私は拓にぃの味方だから。今は何もできないかもしれない。でも、いつか絶対、一緒に思い切りサッカーをしよう!」
その約束だけは、迷わず口にできた。
『……ああ』
短い返事だった。けれどその声には、さっきまでにはなかった、かすかな温もりが宿っていた。
通話が終わる。部屋は静まり返っている。けれど、奏音の胸は静かではなかった。拓人は、一人で苦しみながら戦っている。その事実を知った今、何もできないふりなんてできない。
奏音は勢いよく立ち上がった。胸の奥が熱く燃えている。兄は、いつだって自分を支えてくれた。転んだ時も、泣いた時も、迷った時も、何度だって手を差し伸べてくれた。
だから――今度は、自分の番だ。今度は私が、拓にぃの力になりたい。
「拓にぃ」
誰もいない部屋で呟く。そして拳を胸の前で握り締めた。
「あなたの願いは、私が叶える」
窓の向こう。夜空の星が瞬いていた。その光はまるで。遠い日本で戦う兄へと続いているようだった。奏音は決める。
帰ろう、日本へ。春になれば帰れる。その日まで、もっと強くなろう。兄の隣で戦えるように。兄が誇れる妹になれるように。少女は静かに決意した。
そして春。雷門中学校に――革命の風が吹く。