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case1 日常的ブース

これを世間では恋というのか、
いや、言わないはずだ。

冬の寒さに女子の小さな悲鳴が聞こえるころ、
とある男子に、恋をされた。

好きでもないが、良い人ではあった。

課題提出は厳守するし、部活動でも真面目、
そして何より、私と趣味が似ていたのだ。
本が好きで、よく本を読むことが、
この陳腐な恋の引き金だった。

その男は、別のクラスで、自分の友人の友人でもあった。
その友人は、私よりも女子力というものが高くて、
よくお菓子やレジンの作品を学校に持ってきている。
彼女の作った作品はどれも、キラキラしていて、
とても魅力的であった。
彼女は、とても可愛らしく、
授業中もよくうとうととしている。
小さな乙女のような学生で、
男から好かれるのはむしろ
ああいう家庭的で可愛らしい子だと思っていた。

あの男は、自分の何に惚れたのか。

それがずっと心の底でひっかかっていた。

楽しい古典の時間は、昔の恋愛の話で。

今、自分の心の隅にあるのもまた恋というのだ。

冬のある日、スマートフォンがブブブと振動した。
一件のメッセージ、

「もしよければ、俺と付き合いませんか。」

そんな一言で、この心の隅の霧のようなものは
晴れるわけがなかった。
逆に、より一層霧が濃くなった。

愛と恋は違うのか、そんな小難しいことは考えなかった。
この男に、私は恋という感情を抱いていない。
これはどうするべきなんだろう。

「その気持ちはうれしいけど、もっといい人がいるよ」

それだけの言葉を紡いだだけなのに、
深いため息が出る。
そして、ゆっくりと重い鉛のようななにかが
体中に押し寄せて、
私はベッドに沈み込んだ。

ここ数年、風邪などひいたことは無かった。

それなのに、そのくらいに体がだるい。

段々と陽が落ちて、母親の声が聞こえる。
弟が入ってきて、頭を叩かれる。

すべてのことに、不安が募ったのが一瞬にして
崩れていった。

次の日、
隣のクラスに行く前に、ひとつ前のクラスへ
もう一人の友人に、昨日の事を話す。

全てにおいて普通で、時々毒を吐き、
身体が弱い彼女は、今日も目の下に不健康な隈を作っていた。

「告白された。」

その男の名前をAとしよう。
その男の名前を出すと、彼女は静かに、

「付き合ってはダメ。」

と目の奥に震えを覚えながら、私の肩を掴んだ。

どうやら彼女とAは同じ中学の出身者らしく、
彼の過去を知った。

好きな女の全てをしりつくしたい、という独自の恋愛情景に
私は少しばかりの不信感と寒気を覚えた。
頭の中がぐるぐると回る。

そうだ、こんなときは本を読めばなんとかなる。

金欠だろうが、本屋にはいく。
立ち読み、という行為は社会的禁忌ではないはずだ。
見るだけタダだろう。

駅近くの本屋では、同級生や知人、教師に会う可能性がある。
そんなことはどうしても避けなければならない。
だがしかし、本は読みたい。

そうだ、と我ながら良い発想が浮かんだ。

病弱な友人の付き添いとして、一度、街に出向いたことがあった。
そこは小さな古本屋で、春のそよ風とともに甘い本の薫りを漂わせていた。

「一回行ってみたかったんだ。一人で行くのは怖くて。」

人見知りの彼女らしい理由であった。
その日は別に部活もないので、ついていくことにしたが、
雰囲気の良い古本屋であった。
人がいるようには見えなかったが、彼女は、好きな小説家の処女作を手に取り、店の奥に消えていった。

桜の薄紅の花弁が、道路に落ちた時だった

「いらっしゃいませ」

と、若い男の声がした。


そんな想い出を頼りに、商店街を抜け、大通りをぬけ、
人のいない裏道を進む。
何ともいえない、夕焼けに染まりゆく空を
東奔西走。

たどり着いた目的地は、小さなオレンジ色の灯りが
ぽつり、とついていた。

その神秘的な、色合いに引き込まれるように足を運び、ゆっくりと中に入っていく。
本の魔法、とでもいうように、胸の奥がすう、と軽くなる。

「いらっしゃいませ」

その青年は、奥から、微笑みながら姿を現した。
艶のある黒髪に、憂いの帯びられた瞳、肌は白く、声も優しい。
少しばかり、小柄なその人に。
自分は恋をしたようだ。

「どんな本をお探しですか。」

その青年の声に、我に返り、特に用はないのに店に入るな、という小学校の頃の意味の分からないルールを再認識した。

どうにかしなければ、と焦った目先に入ったのは。
彼が手に持っていた一冊の本。

「あ、それ!」

自分のいつも通りの声が出た、デカすぎると言われた声が。
やっと。出たのだ。

いつも通りの自分が帰ってきた。

「え?」

青年は驚いたのか、指がさされた手元に視線を下ろした。手に持たれていたのは、薄い空色の表紙の長編小説。

小学校の頃、図書室で読みふけっていた本によく似ている。
よく似ている、と言うだけで声を上げてしまう自分に自嘲しそうになったが、上げてしまった声は引っ込まない。このまんま、いつも通りに行こうじゃないか。

「小学校の時、めっちゃ好きで、何回も読んでたんすよ!」

体育の時も、座学教科でも、
よく響く自分の声。
周りはうるさい、と一喝する。
この人もそうだと思った。
初対面の人に、怒鳴る勇気はないと思う、
引かれただろう。
なんだこいつは、と思ったはずだ。

「この作家さん、面白いですよね。」

帰ってきた言葉に、自分という人間は、
目を丸くして、心のそこから湧き上がる嬉しさを隠すのに必死だった。

「主人公が、冴えなくて、話下手で、一見ただのいじられやすい人かと思ったら、策士で、最後に、作中で初めて笑うところがすごく好きなんです。」

あ、すいません。語っちゃって...。と小さく彼は会釈した。けれど、私もうんうんと頷いていた。まさしくその通りだった。

あの小説は一見さえない男子の復讐劇、
では終わらない。
初めて、モブという立ち位置から主人公になったときの優越感に飛び込む笑顔の描写が、本当の終わりなのだ。

それを知ってる人はなかなかいないと思った。そこら辺のクラスメイトは、みんな復讐劇だ、と言う。
けどこれは、小さな青年の成長を書いた、純粋なものだとなぜ気が付かないのだろう。
と、静かに悔しく思ったものだ。

本当のハッピーエンドを彼は知っていた。

それだけのことで緊張が解れ、ますます話が盛り上がった。

「主人公じゃない性格、そこがまた好きなんですよ。」

ふふ、と微笑んで、何だかいろんな人に見せたいっていう気持ちがなくて、逆に、僕みたいな協調性がなくても、こんな生き方あるよ、って言ってくれてるみたいで。と彼は話を続けていった。すると、あっ、と声を出して。

「いけない、お客人の時間を割いちゃいました。」

「...へ?」

随分間抜けな声だ、お客人、とは自分のことだろうか。いやそうだ。私は客で、彼は書店員。

ただの他人同士。

その事実冷たい事実が、暮れていく夕焼けの後に広がる夜空の闇を私の目に写した。
時計の針はもうすでに5時を通り越していた。

時間切れだ、帰らなくては。

母親に怒鳴られ、こき使われる、
あの家に。

「今日はどんな本をお探しで?」

書店員の声に色を付けるなら、優しい紅茶の色じゃないか?と思いながら、頭は不思議と冷静で次に出てきたのは、病弱な友人。

「友人の付き添いで前に来たことがあって...」

言葉が詰まった、嘘をつくのは下手くそな訳では無い。むしろ、学校の友人関係のほとんどは、嘘の糸で繋げていた。
それなのに、どうして、こう喉に詰まるんだ。

「今日はもう帰らないと...、また来ますね」

「ぜひ、ここにはこの作家さんの本が沢山あるので、こんど表に出しておきますね。」

この店員さんはきっと魔法使いだ。
微笑んだ瞬間、ここを離れる恋しさが、沸騰した。

「必ず来ます。」

私はそう言って、店を後にした。
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