戯れの三味線
河上万斉と山崎退。
敵でありながら、惹かれ合う不思議な縁。
互いの引力に抗えず幾度か会う内に、二人きりで居るとその境界は曖昧になった。
身体は交えど、それでも明確に想いを伝えないのは、敵である現実が一線を越えることをさせないためだ。
想いも距離も曖昧で、この関係に名がつかない。
互いの心には、冷たい靄がかかっている。
だがそのままが、今は心地よい。
「三味線を弾いてみぬか」
山奥にある、二人の隠れ家で待ち合わせ、会う度に漂う緊張がとけた頃。
万斉が提案する。
外では梅花が、冷たい雨に震えては重たい雫を溢している。
その甘い香りと、湿気を吸った古家の独特な香りが交わるのを感じながら退は頷いた。
万斉の脚の間に誘われるままおさまる。
背にした壁も、にじりよった床も、触れ合った互いの服もしっとり湿っている。
脚の間の退に、愛用の三味線を持たせた万斉は、手に手を添える。
「先ず・・・三味線は三弦を、撥ではじく」
「それくらいは、知ってるよ」
「何事も基本からでござる。因みに三味線は天神、棹、胴と三体から成り、更に棹は3つに分割できる」
万斉の声音はとても軽やかだ。
彼が三味線教授を楽しんでいるのが退にもわかる。
「そのような棹を『三つ折れ』という。持ち運びに便利でござる。逆に、拙者のは分割しない『延棹』」
云いながら万斉の手が退から離れ、棹を撫でて戻ってくる。
しかし、楽しむ彼にわざとつれなくしたくなる退だ。
ふぅん、とだけ答えた。
「気のない返事を・・・。この太い糸から、一の糸、二の糸、三の糸・・・」
万斉は溜息混じりにこぼすと、趣向を変えて今度は耳許で囁きながら退の指を糸に触れさせる。
低く甘い声も湿度を持ち、退の鼓膜を震わせる。
「この糸は特殊な物で、鉄の強度を誇る」
万斉にとって三味線は楽器であり、武器でもある。
出逢った時を思い出した退は、撥を手にして皮肉っぽく笑った。
「そんな大層なものが、この撥で弾けるんかい?」
「それは、弾き手次第でござる」
皮肉を打ち消すように鼻につく言い方をする。
または先程の仕返しとでも言いたげだ。
「まあ、弾いてみるが早いでござる。撥を持つときは五本の指を、ちょうど卵を握っているように柔らかく曲げて・・・三本の指で持つ」
万斉に云われるままされるままに、退の手は撥を持つ。
同様に弦に指を置かれ、見た目だけならこの後流暢に弾き出しそうだ。
退は黒子に操られる浄瑠璃人形の気分でいたが、万斉は添えた手に少し力を込めるとやってみろと云う。
「よし・・・」
退の撥が弦を弾いた。
硬く、弱々しい音がなる。
弾いた事はないが、これが良い音で無いことは退にもわかった。
先程の言い様とは違い、万斉は馬鹿にすることもなく続きを促す。
背後の万斉の手解きを受けながら、弾き続けた。
上手でない三味線の音を、木々だけが聴いている。
優しい雨音に溶けていく。
どうにか聞ける音になり、ほぼ万斉の手により一曲弾いた頃には退の額には汗が滲んでいた。
詰めるようにしていた息を吐き出した退に、力が入りすぎていると、万斉がクスリと笑う。
「不器用な俺には形を保つので精一杯だよ。あぁ、肩凝った」
「退は、弾くより弾かれる方が向いているでござるな」
主は、良い音がする・・・そう耳許で囁くと万斉の手が退の身体を撫で、汗ばんだ首筋に鼻を寄せる。
そこからは濡れた梅花の薫りがする。
「ん・・・。なんだよ、それ」
情事の声を指してか、以前の『面白い音』の事を云っているのか、どちらにしても嫌だと退は顔をしかめる。
その顔に万斉は愉しそうな笑みをする。
「三味線が何で出来ているか、知ってる?」
「動物の皮だろ」
「そう。最近は犬が多いが、これは猫皮でござる」
「ねこ・・・」
退は三味線の胴を指の腹で撫でる。
「雌猫は交尾の際に雄猫に皮を引っ掛かれてしまう。よって、雌猫の皮を用いる場合は交尾未経験の個体を選ぶ事が望ましいと言われている。しかし、実際には交尾前の若猫の皮は薄いので、傷の治ったある程度の厚みの有る皮を使用することが多いんでござるよ」
すらすらとそんな事を諳じる万斉に、退は、へぇ・・・と返すしかない。
この三味線の猫もそうなのだろうか。
「退は、猫に似ているでござる。しかも、拙者が付けた傷も塞がっている・・・」
いつの間にか服に潜り込んだ万斉の指が退の傷痕を辿る。
今は塞がり、周りの皮膚を引きつらせている其処は、万斉が刺したものだ。
背中まで貫通する程の刃を受けながら、前進を止めない退を思い出す。
あの音と姿が、普段の本人の見た目からはわからないだろう奥底にある熱を万斉に伝えてきた。
面白いと思い、また聞き惚れた。
「あの時から拙者は、主とはこうなると思っていたでござる」
「おやおや、今度は御得意の口八丁か」
「確かに拙者は、三味線を弾くのが上手い」
「うまくないから!いや、うまいけども!」
「云っていることが滅茶苦茶でござるな」
退は自分でも云っていることがわからなくなり唸った。
三味線という楽器が語り手に調子を合わせて弾くことから、『三味線を弾く』とは相手を惑わせる、更に嘘という意味でも使われる。
万斉はそれが上手い。
恐らく、交渉役などは彼が行っているだろうと退は見当をつけていた。
そんな退には構わず、背中の傷痕に指を這わせる万斉はご機嫌だ。
傷痕をつけた張本人が、悪びれずその傷を愛でる様子に退は呆れつつ可笑しさを感じる。
伊東を利用し、真選組壊滅を図った者とこうしているのは裏切りなのだろう。
それでも、あの時自分を殺さず生かしたこの男を憎めなかった。
「よく云うよ。マジで死ぬ程痛かったんだからな」
「殺す気であったのだから当然でござる」
「それもそうか・・・つーか、俺と雌猫を一緒にするなよなあ!」
退は後方に向かい肘を突き込む。
万斉は身体を捩りかわすと、退の首筋に歯を立てた。
びくりと揺れる肩を剥き、素肌に唇を落としていく。
三味線を持たされたままだった退の腕がぶるりと震える。
「退はいい三味線になる・・・」
「アッ・・・、誰が、なるか、よ」
其のままでも弾けば震えて良い音を出す、と万斉は退の敏感な場所に触れてゆく。
身体から力が抜け、退の手から撥が落ちる。
開いた唇からは抑えられない吐息が洩れる。
反った喉元に汗が垂れ込み、しっとりと髪がはりついている。
万斉は扇情的な姿に目を細める。
音は、あの時とは変わってしまった。
次にあの音を聞くときは、今の関係には戻れない。
いつか訪れるかもしれない時を思う。
明確に言葉にしなくとも、互いの霞の奥は見えている。
それでも其れを払おうとせず、そのままにするのはその心地好さと来る何時かの為だ。
一線を越えることは出来ない。
今、この時の彼の音を聴き、弾く。
万斉にとって特別なことだった。
「も・・・む、り・・・ハァ、」
快感に絡めとられた退は万斉の身体を滑ると、遂に三味線を置いた。
弦に爪がかかる。
てぃん、と今日一番の良い音で鉄の強度を誇る弦が鳴いた。
了
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