紛れもなくそれは青春
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平日の朝。学生ならばその足は学校へと赴く時間帯。女を一人、淡い色で塗装を施された自転車の後ろに乗せて全速力でペダルを漕ぐ。思い返さなくとも自転車を誰かと二人乗りした経験などない。立ちながら息を切らして必死にペダルを漕いだ事もない。最後に乗ったのはいつだったか、自転車に乗る自体が久し振りな気がする。そして今、嘗てない程に自分は焦っていた。それはHRに遅刻しそうだからなどとそんな理由ではない。行く先は通う学校ではなく、元来た道を引き返し自分の家であった。学生の本分である学業に嫌気が差して二人で学校をサボるなど俗に言う感傷的な青春を謳歌させている訳でもなし。そもそも自転車の後ろに座り、背中に凭れ込む女とはその様な間柄ではない。
女とは、苗字名前とはただのクラメイトだった。前の席に座る苗字は後ろに振り返ってはよく授業でわからなかった事を尋ねたり、下らない話題を持ち出しては話しかけて来た。昨日は「毛利君知ってる?インドネシア語で勉強する事をブラジャーって言うんだって!」とどこか誇らし気に申して来た。テレビのCMでやっている犬を模する気味の悪い豆のキャラクターがそんな事をほざいておったのは記憶に新しい。恐らく苗字はそのCMに深く感銘したのか全く同じ事をひけらかしていた。それを指摘すれば「豆しばって言うんだよ。因みに犬でも豆でもないらしいよ。」とやはりどこか誇らし気であった。犬であろうが、豆であろうがそんな事はどうでも良い。その後、「つまり、私も毛利君も毎日学校でブラジャーしてる事になるんだよ!」と他者が耳にすれば誤解しか生まれぬ発言をするものだから、先程の授業の為に机に出していた辞典を苗字の前頭部目掛けて減り込む様に振り下ろしてやった。その時の授業では辞典は使わなかったのだが予期せぬ所で使い道があろうとは。「阿呆か。」と冷たく吐き捨てても「阿呆じゃない。」と返して来る。そう言う所が阿呆なのだ阿呆が。クラスの者に限らず、恐れをなして、話しかける以前に近寄りもしない輩の中で我の目から見ても苗字は可笑しな奴だった。しかし、こうして苗字と会話する時間は決して悪くはなかった。
そして今朝。登校中、歩いていると見慣れた後ろ姿を見付けた。苗字だった。不思議な事に苗字はよろよろと覚束ない足取りで乗らない自転車を押していた。タイヤがパンクでもしたのか。しかし、何か様子が可笑しい。おい、と前のめりに萎びた背中に呼び掛けると立ち止まってからゆっくり後ろを振り返る苗字の顔はいつもよりも阿呆面で、いつもよりも赤かった。
体調に異常を来たしているのは一目瞭然であった。さらさらとした前髪を掻き分けて触れた額は見た目通りに熱く、苦しそうに繰り返される呼吸の間隔は短く、黒い瞳は虚に潤んでいた。苗字は体調が芳しくない事を薄々理解していながら学校へ行こうとしていたのだ。こいつは正真正銘の阿呆だ。考えるよりも先に体が動き、急いで苗字を自転車の後ろに乗せ、二人分の鞄を無理矢理、篭の中に詰めて、高さが合わない低いサドルに跨がって自転車を走らせた。苗字の家は知らない。病院はここからでは遠過ぎる。学校よりも自分の家の方が近いとペダルを漕ぎ始める。腰に手を回す苗字の腕が何とも心許なく、落ちてしまうのではないかと気が気でならない。
「…毛利君、…ごめんね…。」
「うるさいっ、無駄口を叩くな。」
「……皆勤賞、だったのに…。」
この期に及んで自分の事ではなく、他人のそんな瑣末な事を考えているとは。この女はいよいよ救い様がない呆れ返る程の阿呆だと改めて認識する。確かに昨日までは無遅刻無欠席であり、苗字をそのまま見捨てておけばこれからもその功績は傷付きはしなかったであろう。しかし、そんな選択肢など毛頭ない。この状況下で考えるまでもない問題、いや、問題にすらならない事柄だった。
「そんな事はどうでも良いっ。それよりも、精々振り落とされぬ様にしがみついておれッ。」
それからもう喋るな、気が散る、と告げれば苗字は口を閉ざす。いつもだとこうはいかないのに何ともしおらしいものだ。それ程までに苦しいのであろうと察する。人二人分と二つの鞄で重くなったペダルを全力で漕ぐのは相当の体力が必要とされ、辛酸なものであったが、今、自転車を漕ぐ我よりも苗字は辛いはずなのだ。自転車を漕いで全身が熱いが背中から伝わる熱に勝りはしない。
「悪いと思うのならば、我にこの様な気苦労をかけさせるな。」
無自覚の内にぽつりと漏れる本音が苗字の耳に今の言葉が届いたかは定かではなかったが、訴えかけるはずのその言葉が相手に聞こえていなければ良いと思った。今朝からの一挙一動全てが否定出来ぬ本心でそれら何もかもが実に自分らしからぬものだった。相手が苗字でなければ間違いなくここまで世話を焼いたりなどしなかっただろう。それらの理由を知るには今の己では些か冷静さと余裕がなかった。
紛れもなくそれは青春
(熱に浮かされているのは一人だけではなかった。)
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MANA3*120421