君がどうか幸せであります様に
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それはお昼休みが終わり、集中力が散漫になりがちな五時間目の授業の半ば。何の脈絡もなくがらりと開かれたドアの音に生徒も教師も注目した。現れたのはジャージを着た男性教員と思しき人物。関わりがないので失礼ながら名前を知らない。そこはかとなく焦りが窺える男性教員がクラスで現国を教えていた先生に会釈をしてからクラスを見渡す。
「毛利。毛利元就は居るか。」
その一言に生徒、教師の視線が一点に集中する。そこにはたった今、名前を呼ばれた毛利君が居た。静謐としていた教室が更に静まり返るが漂う空気は何処か穏やかではない。そんな中で当事者である毛利君は眉一つ動かさず、ただただ平然としていた。男性教員に手招きされ、無言で席を立った毛利君は教室から出て行く。現国の先生も呼ばれ、私達に帰って来るまで自習しておきなさいと告げて教室から姿を消してしまう。何事かとただならぬ雰囲気に残された生徒達がざわめく。授業を中断してまで呼び出されるなど、頻繁にある事ではない。しかも呼び出されたのはあの毛利君だ。皆は不思議で仕方がないのだろう。私は違った。私には心当たりがあった。呼ばれて教室から出て行ったのは私ではないのに心臓が煩く脈を打つ。手に汗をぎゅっと握り締め、居ても立っても居られなくなった私は席を立ち上がり、急いで廊下へ飛び出した。
廊下には毛利君の姿も先生の姿も見当たらなかった。ふと窓の外に校門へ向かう人影が見える。窓に張り付き、眼を凝らすとそれはスーツを着た知らない人が二人と毛利君だった。校門には一台の車。私は直ぐに走り出した。幸い今は授業中。私を咎める者は誰も居ない。必死に走って、階段を数段飛ばして飛び下りて、途中でバランスを崩して転びそうになるのを何とか耐えて、また走って、息を切らしながら、走って、間に合え、間に合えと焦る気持ちだけが募っていく。今を逃せば、きっと、絶対、私は一生後悔する。それだけは嫌だった。
校舎から出て、私が目にしたのはスーツの人がドアを開けて、毛利君が車に乗り込もうとした所だった。一心不乱に走って来た私は既に足ががくがく震える程に疲労困憊していた。だが、ここまで来て諦められるはずもなかった。
「ッ毛利君!!!!!!」
あれほど当たり前に出来た呼吸が困難な程に苦しくからからに渇いた喉で叫ぶ。それが相手の耳にちゃんと届いた様でゆっくりと毛利君は私の方へ振り返る。間に合った。しかし、まだ安心してはならない。私はよたよたと覚束ない足取りで前へと進む。
「違うんです、彼は、毛利君は、毛利君はっ―」
「もう良い、名前。」
その一言は酷く淡々としたもので、じりじりと焦げつく私の心を一瞬にして冷ました。足はそれ以上、歩まなくなり止まってしまう。もう良いって、もう良いってどう言う事なんだ。上手く思考が働かないのは疲れたせいなのか毛利君のせいなのか、私は言葉の意味を理解出来ずに呆然としていた。私が躍起になっているのに対して毛利君はまるで傍観者で他人事の様に涼し気でその表情は席を立った時と同様何一つ変わっていなかった。毛利君が車からこちらに体を向けるとスーツの人は毛利君を制止しようとする動きを見せたが「案ずるな。何処ぞへと逃げるつもりは毛頭ない。」と視線を私から離す事なく諫めた。そう言われたスーツの人は何歳も年下の毛利君にたじろいでいる。
「…毛利君…。」
「何ら誤りなどはない。我は我の意志で任意同行に応じたまで。」
額から汗が流れ、頬を伝う。それを拭う気力は私にはなかった。歩いて手を伸ばせば届く程近くに居るはずなのにどうしてこんなにも遠い。彼の冷ややかな目は現状を私を自分自身さえも冷静に見据えていた。いつだってそうだ。あの時でさえも。
「我はこの手で貴様の親を殺めた。」
―――
私の両親はどうしようもない最低の人間だった。
両親と言っても母親の方は知らぬ間に父が再婚した女性で私の本当の母は私が中学生の時に病気で死んだ。あまりにも早過ぎる母の死に嘗てない悲しみに打ち拉がれ傷付いた心が癒えぬ間に父は突然として連れて来た女性を新しい母親だと紹介して家に迎え入れた。私はその時、実の父親の神経を疑い、こんな人と同じ血が私の体の中にも流れていると考えただけで激しく嫌悪し虫酸が走り、吐き気さえ覚えた。父に女性の影がちらついていたのは母も私も何となく勘付いていた。でも、それを問い質したりなどはしなかった。私はあの人を信じる、私が信じなければ、母はそう言った。私も信じた。父ではなく他でもない母の言葉を。そして母は最後まで父を信じたままこの世を去ってしまった。しかし、現実は何とも残酷であった。まさかその答えを皮肉にもこの様な形で知る羽目になろうとは。真実を知らぬまま去った母は果たして幸せだったのだろうか。少なくとも母を失い、母と私を裏切った父とその女が生きる世界にたった一人取り残されてしまった私の人生は決して幸せと呼べるものではなかった。
程なくして、私達は今まで住んでいた家を捨て、女のマンションに住む事となった。マンションはデザイナーズマンションで父と私が増えてもまだまだ余裕がある広さで内装も綺麗であったが女の趣味で溢れたその空間に息が詰まりそうになり私の居場所がなくなっていくのを実感した。女は顔に濃い化粧を施し、きつい香水を振り撒き、髪を明るく染め、ブランド品の服やアクセサリーを身に纏い、控え目で素朴な母とは真逆であった。言わずもがな、私が女を母と慕う事も況してや人間として親しくなるつもりは毛頭なかった。それはあちらも同じ様だ。まるで私を塵を見る様な目で見て、目の上のたん瘤と言わんばかりに接して来る。優しくされても煩わしいだけだが父と浮気していた女に何故そんな冷遇を受けなければならないのか。思わず拍手喝采してしまう程の肝の据わり様である。父はすっかり女に骨抜きにされていて私に肩入れしたりはしなかった。された所で感謝するつもりはないし嬉しくも何ともないのだけれども。せめてもの罪滅ぼしだなんて以っての外である。この二人を死んでも許さない、そう思った私は居場所どころか味方も居らず、常に孤独であった。
引っ越しても前の家とは然程、距離は変わらず学校を転校する必要はなかった。私としてもそれは助かる。ここへ来てから初めての登校する朝。慣れない環境とベッドの感触に目覚ましをセットした時間よりも早く起きてしまう。そのまま二度寝する事もなくリビングへと向かうがやはり誰も居ない。と言うか、どうやらあの二人は家に居ない様であった。それを知って少しだけ気抜けする。登校初日の朝からあの女と対面してねちねちと嫌味を言われて憂鬱な気持ちになるのは避けたいところ。朝ご飯を食べようとしたが、勝手に家の食べ物に手を出して後で何を言われるのかわかったものではない。学校に行くまでの道程は確認したが念の為に早く行くに越した事はないと思っていたし、朝ご飯は途中でコンビニに寄って買う事にした。着替えて仕度を済ませ、行ってきますと言わずに家から出る。貰った鍵でドアを閉めようとした時、隣からドアが開く音がしてそちらへ目をやると、隣のドアから出て来たのは思いも寄らない人物だったもので私は目を見開いた。まさかお隣りのドアから現れたのが同じクラスの毛利君だったとは。吃驚した。相手もこちらの存在に気が付き視線が交じり合う。毛利君とは仲が良い訳ではないしただのクラスメイトな上、口にせずとも他者に興味がないと言わんばかりのオーラを放つ彼が私の事を知っているはずがない。しかし、クラスメイトでしかもお隣りさんで更に目が合ってしまっては無視をする訳にもいかない。
「…おは、よう。」
学校で過ごす時と変わらず一切の感情を表に出さない能面の様な面持ちでこちらを見てくる相手に高まる緊張。とても同い年とは思えない貫禄である。挨拶をしてしまった手前、向こうが何かアクションしてくれないとこちらとしてはこの場から去りづらい。いっその事、無視をして立ち去ってくれたならば有り難い。だが、相手は挨拶もせず立ち去ろうともせずただ私をじっと見ている。何故。
「貴様、この家に住んでおるのか。」
予想外の問い掛けに唖然。その言い方から察するにもしかして私をクラスメイトと認識している、のだろうか。まさか話し掛けられるとは思ってもみなかったが、このまま口をぽかんと開けていた所で毛利君に不審がられるだけだし、折角、向こうから話を振ってくれたのだからそれが善意でも社交辞令でもなかったとしても答えなければ。
「うん、そうだけど。」
「そこには下卑た女が一人住んでおったはずだ。」
毛利君が言う下卑た女と言うのは思い返すまでもなくあの女の事だろう。毛利君が以前からここに住んでいたのであれば知っていて当然であろう。それにしても下卑た女とは。否定はしない、寧ろ賛同するが。見た目からして毛利君の嫌いそうなタイプだしな。同じマンションに私が居るのが疑問に思うのも当たり前か。
「最近、ここに引っ越して来たの。父親がここに住んでいる人と再婚したから今はあの人が私のお母さん。」
知らなかったとは言え仮にも私の母親を罵ってしまった毛利君だが全く動じる様子は皆無だ。ただ恐ろしく無表情のまま私を見ている。流石と言うべきか、何と言うべきか。毛利君との初めての会話がこんな朝早くからこんな重苦しいものになるとは。まあ、毛利君相手に弾んだ軽快なトークを望んだ訳でもないし出来るとは期待もしていないのだけれども。暫くして毛利君はそうか、とだけ言って私の横を通り抜けて行ってしまった。彼の心を汲み取るなんて出来るはずもないのだが、あんな風に呼ぶのだからもしかしたら、義理とは言え、あの女の娘と言うレッテルにより嫌われてしまったのかもしれない。元より毛利君と仲良く出来るとは思ってはいないがそんな理由で嫌われるのは不本意だな。そう考えながら私も家の鍵を施錠してから歩き始めた。
日を重ねる事に益々、二人との距離は遠くなり、溝は深まり、関係は悪化していった。鉢合わせする度に嫌味を言って来た女は到頭、手を上げるまでに至った。その目が気に食わないと頬に平手打ちを浴びせられた。生まれて初めて人に顔面を打たれた。理不尽に、だ。どこまでもさもしい女だと女の人間性を再認識した。底が知れる。そして、こんな奴には決してなりたくないと心中で改めて誓った。不意打ちに食らった平手打ちは存外、強烈なものだった様でひりひりとした痛みがじんじんと鈍いものへと変わり、打たれた直後よりも時間が経った後の方が痛かった。次の日になって鏡を見れば痛みは随分と引き、触りさえしなければ何ともないのだが、叩かれた赤い痕はくっきりと残っていた。華奢な癖に規格外の威力である。念の為、薄く目立たない肌色の湿布を貼ったが、貼る場所が貼る場所なので目立つものは目立つ。けれども赤くなった頬をそのままにしておくよりは増しだろうと諦めて家を出た。
この展開はここに引っ越して最初に学校に行った日の朝以来である。私が家から出て直ぐに隣の家から現れた毛利君。あの日以来、玄関先で毛利君と出会す事はなかったので彼は毎朝早くに登校しているのだとばかり思っていたのだが、今日はどうしたのだろうか。
「おはよう。今日は遅いんだね。」
「…その頬はどうした。」
相変わらず挨拶を返してはくれないどころか早速、触れてほしくない所を。目敏い。それに毛利君に頬について尋ねられるとは思ってもみなかった。親しい仲なら兎も角として何故、毛利君がそんな事を尋ねるのだろう。やはり思ったよりも目立つのだろうか。
「昨日、ちょっと転んで、その時に物に思いの外強くぶつけたみたいで。」
鈍臭いよね、と笑ってみせるが毛利君は安定の無表情。まるで私が馬鹿みたいだ。いや、私は馬鹿だ。今時、こんな嘘が、当然ながらあの毛利君に通用する訳がないではないか。怪しまれているのだろうか、毛利君はじっと私の目を見詰めて来る。突き刺さる様な鋭いその視線から逃げたくて目を逸らしたいがそこは我慢する。そして、毛利君はあの時と同じく根掘り葉掘り深くは追及する事なく、そうか、とだけ言って去って行った。信用されたのだろうか。と言うか、もしかして気遣ってくれたのか。あの毛利君が。いや、そんなはずはない。毛利君が打算的な人間なら私と関わっても何のメリットもないはずだ。なら、気紛れ、興味本位か。私が知る彼はそんな人には思えないのだけれども。どうせ凡人の私には彼の様な優れた人間の思考を推し量れは出来ないのだと考えるのを止めた。所詮、私と毛利君は違う。だから、この事については毛利君にも、誰にも悟られてはならない。これは私だけの問題だ。誰にも関係ない。触れてもいない頬の痛みがまた疼き始める。
帰宅する頃には頬の痛みも完全に治まり、湿布を剥がしてみれば痕はすっかり消えていた。しかし、私に安堵する隙もあの人は与えようとはしなかった。突然、床に張り倒されたかと思ったら足で腕を思いっ切り踏まれてぐりぐりと体重をかけて躙られた。あまりの痛みに私は悲鳴を上げそうになったが下唇を噛み締めぐっと堪える。その姿が女の癇に触れたのか更に力を加えて腕を踏み躙られる。堪らず小さな呻き声が漏れても女は力を弱めようとはしない。兎に角、私の存在が許せず、早く消えろと訴える女は私を見下し蔑みながら冷罵する。言われなくとも高校を卒業すれば望み通りこの家から出て行ってやるのに。誰が好き好んでこんな場所に身を置くものか。今はただ誰でもない自分自身の為に我慢をしているだけ。そう、卒業までの辛抱なのだ。卒業すれば全てが終わる、全てから解放される。父からも、この女からも、何もかもから。だから私は逆らわないし、何も言わない。反抗しようとするものならば相手の機嫌を損ねてしまい、もっと酷い仕打ちをされるのは目に見えているからだ。気が済んだ女が鼻であしらいながら去った後、踏まれた腕を徐に動かしてみる。痛い。打たれた頬の痛みと比べるまでもない程に。けれど折れてはいない。利き手でなかったのは幸いかと私はゆっくりと目を閉ざす。
昨日、今日と立て続きにとは、果たしてタイミングが良いのか悪いのか。いや、悪いに決まっている。昨日は偶然で、また暫くは玄関先で逢うとは思ってはいなかったのだが、どうやら甚だしい見当違いだったらしい。出逢ってしまったからには仕方がない。私は諦めて自然を装い口を開く。
「おはよう、毛利君。」
やはり返事はない。わかってはいた。だからこのまま学校へ行こうとしたのだが、つかつかとこちらへ近寄って来た毛利君に動く事が出来ず体を固まらせていると腕をがっちりと掴まれた。しかも、怪我をしている方の腕をだ。掴まれる痛みに声を上げそうになるのは何とか堪える事は出来たが顔を歪めて強張らせてしまう。
「この腕はどうした。」
腕の怪我の事がばれたのか?そんなはずはない、制服で隠れているのだから肉眼で目視してわかる訳がない。有り得ない。いくら優秀で明敏と周りから一目も二目も置かれて持て囃されているどこか人間離れした彼とは言えどそんな超人じみた事が出来るとは考えられない。だからこそ毛利君の言動が理解出来ないのだ。
「何の事?」
「白を切る気か。腕の傷はどうしたのかと聞いておる。」
ばれている。はっきりと断言するその満ち溢れる自信の根拠はわからないが毛利君は私の腕の怪我を知っている。確かに制服で隠れた腕は患部を白い包帯でぐるぐる巻かれていて、頬の時とは違い全治するまでに時間はかかるだろう。でも、それを何故毛利君が。切れ長の目が真っ直ぐ私を見据え、その眼光を欺き通せる自信がなかったが、本当の事を話す気も更々なかった。幸い、言い方から察するに原因はわかってはいない様だ。しかし、これ以上何か喋って墓穴を掘るとも限らないので下手に口を出せない。
「あの女の仕業か。」
何なんだこの人は。まるで全てを見て来たかの様に言い当てるではないか。どうして、そこまで。それにどうして私に構うのか。あの女がやったと言うならそれは紛れもなく私がDVを受けていると言っていると同じ。明らかに厄介事である他人の家庭事情に首を突っ込んだ所で良い事など一つもないし、巻き込まれて被害を蒙る可能性だってある。今の毛利君の振る舞いは非常に彼らしくない。下手な嘘は直ぐに見透かれそうだ。とは言え、沈黙は即ち、肯定とみなされるであろう。
「何で、そんな…。」
「大方、昨日の頬も彼奴にやられたのであろう。」
それさえも看破されていられては、もう根拠が何なのかと言う話ではない。それでも、事実を、私の本心を吐露するかは別なのだ。口にしてはならない。それが正しいはずなのに。掴まれた腕が熱い。脈拍がやけに早い。もしかして、この人なら、毛利君なら、私を。恐る恐る、一文字に結んでいた口を開いていく。しかし、心は声にならず、喉まででかかっていた言葉は再び飲み下された。掴まれた腕を振り払うとその衝撃でずしりと重い痛みが広がるがそんなのはどうだって良い。
「毛利君には関係ないからっ。」
そう冷淡に吐き捨てて私はその場から、毛利君から逃げた。可能性はないに等しいが毛利君は私を気にかけてくれていたのかもしれない。それに対して関係ないと言った心ない一言を吐いた私は最低な奴だ。それよりも許せないのは何もかもを毛利君に打ち明けて、私の苦しみを毛利君に背負わせて楽になろうとしていた浅ましい自分が一番許せない。最低だがこれが最善だったんだ。だから、これで良かったんだ。これで。なのに、腕の傷よりも心がずきずきと重苦しい痛みを主張するのはどうしてなのか。訳もわからず私はただ息を切らしながらがむしゃらに走っていた。
学校で過ごす間、毛利君が私に話し掛ける事はなかった。今朝の事を怒っているのかもしれない。それでも良い。私に関わらないでくれるならば周りにどう思われ様とも構わない。どうせ、卒業すればあの家からは出ていくし、毛利君とももう逢わないのだろうから。家に帰ると女が既に帰っていた。直感的に漂う空気が芳しくないと察した私は見付からない様に部屋へと戻ろうとしたが遅かった。私の姿を見付けた女が見た事がない怪しい笑みを浮かべる。こちらへと近付く女の醸し出す何処か不気味な雰囲気に気圧された私の体は自然と後ずさる。すると壁もない場所で背中に何かがぶつかる衝撃に足を阻まれた。振り返ればそこに居たのは父だった。だが様子が可笑しい。何も喋らない父に声をかけようと、気が付いたら背中と頭を打っていた。次の瞬間には息が出来なくなっていた。突き飛ばされ、倒れた体を起こそうとした所を馬乗りされて、首を絞められてると理解した時には手遅れだった。足掻こうにも男の力に敵うはずもなく、ぎりぎりと首に食い込む指に気道を潰され、呼吸がままならない。父の後ろで女のくすくすと笑う声が聞こえる。どうして、とは言葉にならず、酸素が失われ掠れた声だけが口から漏れる。
「…と…う……さッ…。」
やはり、言葉は喘ぎへと溶け、体から徐々に抜けていく感覚に確実に己の身に迫る死を実感していた。私の首を絞める虚ろ気な目をした父が何かを呟いている。お前は段々と母さんに似てきた。確かにそう聞こえた。この状況で何故そんな事を。疑問に思っていると父は続けてこう言った。あいつに似ているお前を見ていると虫酸が走る、と。首を絞める手に更に力が込められて、視界が歪んで霞み、意識が遠退いていく。何とも惨めで無惨な末路だが、どんな形であれどこの現実から、この二人からやっと解放される。それに死んだらあの世で母と再会出来るのだと、諦めて目を瞑る私は実の父親に首を絞められて頭が可笑しくなってしまったのだろうか。それでもきっとこの二人よりは増しだろう。瞼を閉ざした息も出来ない真っ暗な世界の中で鼓膜を劈く様な金切り声が聞こえた。今度は呻き声が直ぐ側で聞こえたと思えば、途端、首への圧迫感と殺意がなくなり、げほげほと盛大に噎せ返った後に意図せずとも酸素を求めた肺が浅く呼吸を繰り返す。少ししてから落ち着いた私は一体何が起きたのかと上体を起こしてみれば目にした光景に絶句した。綺麗なフローリングの床は赤い液体で汚れてしまっていてそこにはあの二人が沈んでいた。赤い液体は二人の体から流れていてそれは今も尚、フローリングを広がり続けて、気付けば私の手まで到達していた。知っている。これは血だ。そして、ぴくりとも動かず倒れ伏す二人とは違う佇む誰かの足が見えて視線を上へ上へと移す。そこに立っていたのは毛利君だった。全身が血に塗れた彼の右手には一本の包丁が握られていた。その包丁も毛利君と同じくべっとりと付着した血が滴る。この赤く、吐き気を催しそうな空間で毛利君は顔色一つ変えず私を見下ろしていた。
「…何、で…。」
思った事が口からそのまま漏れてしまった。一度に様々な事が起こり過ぎて頭はパンクしそうになっていて私はとても困惑していた。何で毛利君がここに居るの。何で二人を殺したの。何で。そんな疑問ばかりがぐるぐると私の中で駆け巡り支配する。しかし、不思議と恐怖感と言うものは沸き起こらなかった。それどころか、私の目に映る毛利君がとても綺麗に見えたのだ。そして彼は一言、私にこう言った。
「これで我も無関係ではなかろう。」
彼はその手で私の両親を殺めた。父と、あの女を。あの綺麗な手をあの二人の穢らわしい血で自ら汚してしまったのだ。例え彼等が死んでも仕方のない人間だったとしても、いや、そんな度し難い最低な人間だったからこそ殺す価値なんてなかったのに、そんな奴等の為に毛利君の人生を狂わせる必要なんて絶対にあってはならないのに。それにやるにしたって毛利君ならもっと上手く、綿密で確実な殺人の計画を画策出来たはずだ。毛利君がそうしなかった理由を私はこう考えた。彼は私を助ける為にあの二人を殺したのではないかと。だから、彼が警察に逮捕され、法で裁かれるのは間違っている。私が悪いんだ。彼ではない。毛利君は悪くない。このまま見す見す毛利君が警察に連行されていくのを黙って手を拱いてはいられなかったのだ。だが、救いたい一心で伸ばした手は敢えなく振り払われて拒絶されてしまった。私は彼の本心を知りたかった。
「どうして、殺したの?」
彼は私がDVの被害に遭っていた事を知っていた唯一の人物だ。二人を殺した動機が私を助ける為だと言うのなら多少なりとも減刑されるはず。そうだ、警察にその目で見た事、その耳で聞いた事、その肌で感じた事をありのままに話せば良い。私を救う為だったと。それで仕方なく殺したんだと。そうすればと祈る様な思いで見守る私に彼はこう言った。
「彼奴等が我にとって目障りだった。だから殺してやった。それだけよ。」
その衝撃的な発言に自分の耳を疑った。私は今の彼の発言が嘘だと直ぐにわかった。だって、そうではないか。この世の中では俄かには信じ難い単純でほんの些細な理由で人の命を容易く奪う事件が有り触れている。確かにそんな人間がこの世界に生きているのは事実だが、彼はそんな短絡的で衝動のままに行動する人間ではないからだ。況してや目障りだったから人を二人も殺したなんて絶対に有り得ない。自分の罪が重くなるだけの嘘を吐いてまで毛利君は何を隠そうとしているのか。その胸の内は未だに見えては来ないが、私は彼にまだ言ってない一言があった。これまで言いそびれていて言えてなかった一言が。
「ありがとう。」
「気でも狂ったか。我は貴様の親を殺した男ぞ。」
そうだ。彼は私の親を殺した。だが、あの女を連れて来た日から父を父親だなんて思った日はないし、あの女など親でも何でもない、ただの赤の他人。私に親なんて居ないも同然だったのだ。ニュースになれば世間は毛利君を冷徹な殺人鬼と口を揃えて呼ぶのかもしれない。それでも、私は毛利君に救われたとそう感じている。毛利君に対して死んだ二人の様な憎しみや怒りなど微塵も抱かない。あるのは言葉では言い表せない溢れんばかりの感謝の気持ちだけ。
「それでも、ありがとう。」
何も言わない毛利君に後ろで待機していた男の人が時間だ、と声をかける。促されるがままに毛利君は踵を返し、私に背を向けて車の方へと歩いて行く。これで毛利君と暫くは逢う事もない。もしかしたら、もう二度と逢えないのかもしれない。遠ざかっていく背中に向かって大きく叫ぶ。
「待ってる!私、毛利君が帰って来るまで、ずっと待っているから!」
車に乗り込もうとしていた毛利君の足が止まる。でも、こちらへ振り返ろうとはしなかった。
「止めよ、徒労となるだけぞ。それに貴様が我の帰還を待つ行為そのものが我にとって厭わしい。」
一切、目を合わそうともせずに冷たく突き放されてしまう。しかし、毛利君は私を酸鼻極まる艱苦から、索漠とした孤独から救ってくれたかけがえない恩人だ。どんなに嫌われ様ともどんなに邪険にあしらわれ様とも私が彼を見捨てるはずがないし、一人にさせる訳がない。単なる義理や罪悪感やそんなもので言っているのではない。私がそうしたいのだ。そうしたいと自ら望んでいるのだ。それで受けた恩を返せるとは思ってはいない。私の人生をかけても報える恩義ではないかもしれない。だから、私の出来る限りの精一杯をやりたいのだ。
「ごめん。それでも私は毛利君が帰って来るのを待ってる。」
すると、毛利は顔のみを後ろへと見返す。再び合い見えたその顔容に私は胸を締め付けられ、心を奪われた。
「好きにしろ。」
それはいつもの無表情ではなく、呆れた様な、困った様な、悲しそうで、けれどもどこか嬉しそうなそんな微笑みであった。どんな時でも、人を殺した時でさえ何の感情も表に出そうとしなかった毛利君が初めて笑ったのだ。その笑顔を最後に毛利君は今度こそ振り返る事なく車に乗り込み、毛利君を乗せた車は走り去って行ってしまった。私は見えなくなっても車が消えて行った方を見ていた。彼のあの表情が目に焼き付いて離れない。きっとその光景は彼から受けた恩と共に一生忘れる事はないだろう。また見れるだろうか。いや、これを最後になどするものか。毛利君が帰って来たらちゃんと笑顔でおかえりと言って迎えてあげて、今度は二人で笑い合える。その為にも私は今だけはと人知れず涙を流し泣いた。
君がどうか幸せであります様に
―――――
就サンが主人公の為に殺人を犯して甘んじて警察に連れて行かれる光景を想像したら何とも言えず書いたもの。何を言っているんだ御前は。就サンからの視点なら不明瞭な部分が見えて来るのでしょうが書きません。別視点で同じ話を書くのは苦手なので書きません。捉え方によっては就サンが病んでいる或いはストーカー疑惑も浮上する所もありますが今回はそんなつもりでは書いてはいないです。しかし、その様な解釈もありです。
MANA3*121118-121120