大事な忘れ物
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既に日付は次の日を跨いでしまい、辺りはすっかりと真っ暗で空には月が朧気に光を放つ。敢えなく終電を逃してしまった私は仕方なくタクシーを利用して家に帰る事にした。深夜帯、この通りには車も人通りも疎らで閑散としている為に私を乗せたタクシーは乗車した時に指定した目的地、自宅へと滞りなくすいすいと円滑に進んでいく。タクシーのラジオから流れるニュースは交通事故、暴行事件、誘拐に殺人と物騒な内容ばかりで気が滅入る。タクシーは大きな交差点に差し掛かり赤で点滅する信号で一時停止をし、再び走り出す。やはり、他に走る車も歩く人も見当たらない。
『緊急ニュースです。先程、×××にある××公園付近で40代と見られる男性の死体を近隣住民の通報により駆け付けた警察官が発見。男性の後頭部には殴られた後があり、更に胸部には複数の刺し傷が――――』
突然、流れた緊急ニュース。淡々と読まれた事件に私はぞくりと身震いする。××公園と言えば確か駅の近くにあった大きな公園の名前ではなかっただろうか。事件現場があまりにも身近な場所で戦慄する。どうしてその男性が殺されたなんてわかるはずもないのだが、もしかして殺されていたのは私だったかもしれない。もしかして犯人はまだこの辺りを彷徨いているのかも―――
「××公園と言えばお客さんが乗った駅の近くの公園ですね。」
不穏な考えが脳裏で掠めていると運転手さんが今し方流れたニュースについて話し掛けて来た。今まで何も喋らなかったものだから私は少しだけ驚いた。
「そう、みたいですね。」
「最近、何かと物騒ですからね。あなたも気を付けて下さい。」
「…はい。」
抑揚のない読み方でニュースを読んだラジオキャスターと比べれば決して無感情ではないものの、運転手さんの言葉も何処か他人事であった。いや、確かに他人事なのだけれども。こんなに近くでおきた事件だと言うのにこの人は怖くないのだろうか。運転手さんが言う様に最近、物騒なのは事実。自分とは関係ないと思っていたら明日は我が身なのかもしれないのだから。私は一刻も早く家に帰りたくなった。真夜中のこの時間、人気がないのが私の恐怖心を煽る。しかし、今はタクシーに乗っていて運転手さんも一緒だ。一人で居るよりは余程、安心出来るし早々、滅多な事は起きないだろう。
そろそろ家に着く頃だろうとふと窓の外を見てみる。そこには見慣れた景色が見えているとてっきり思っていた私であったが、車が走っている場所は全く知らない場所であった。暗くて気が付かなかったが心做しか家どころか建物さえも見当たらない。どう言う事だろうか。まさか、道を間違えているとか。一気に不安になった私は運転手さんに問い掛ける。
「あの、すみません。ここは何処でしょうか?」
「何処でも良いではありませんか。」
帰って来た答えに一瞬、唖然とするが良い訳があるまいと少し焦りながら前の座席に手を添えて前のめりでもう一度運転手さんに尋ねる。ただでさえあんなニュースを聞いて怖くて早く帰りたいと言うのに道を間違えられていたのでは堪ったものではない。
「ちゃんと家に向かっていますか?ここ何だか、私の家の方向じゃない気がするんですけど…。」
次の瞬間。落ち着いた走行をしていた車の速度が耳障りなエンジン音を響かせ急激に加速し、その勢いで私の体はがくんと揺さ振られ、座席に叩きつけられる。夜道を尚も加速して走り続けるタクシー。運転手は無言のまま。打って変わった荒々しい運転に驚くばかりで、一体何故こんな事をするのか理解出来なかったが今はどうにか車のスピードを落としてもらわねば。この速さでは事故を招き兼ねず命を預けていると同じなこちらとしては気が気ではない。
「何やってるんですか!スピード!スピード落として下さい!」
「安心したまえ。事故を起こす様なへまは仕出かさないよ。君が大人しくしていればね。」
やっと口を開いたかと思えば急に馴れ馴れしい口調に変わった運転手。熟々、理解出来ない異常事態に私はただただ混乱し、恐怖していた。大人しくしていればなど、こんな状況で冷静でいられるはずもない。そんな中、不意に目が留まった乗務員証。名前の横に貼られた写真は40代後半くらいのおじさんが制服に身を包み写っていた。だが、今このタクシーを運転している運転手の顔は見えないが声から察するにまだ若く、写真の人物と一致するとは思えない。何より写真の人物が黒髪なのに対し、運転手の方は白い色をしていた。それを知った途端、一つの仮説が浮上し、身の毛がよだち全身から血が引いていくのを感じた。私はタクシーの外へ出ようとドアハンドルに手を掛ける。このスピードで車外に飛び出そうなど危険窮まりない。これはアクション映画ではなく紛れもなく現実だ。そんな事をすれば重傷だって免れないかもしれない。しかし、私はこれ以上、一秒たりともこのタクシーに居たくはなかったのだ。けれども願い虚しく、ドアハンドルをどれだけがちゃがちゃと乱暴に引いても全く手応えはなく、ドアは運転席から操作され開かない様になっていた。
「止まって!止まって下さい!下ろして!」
冷静さを欠いているせいか正常な判断が出来ているか定かではないが私よりも間違いなく、この運転手に成り済ましている男のやっている行いは尋常の沙汰ではない。開かないと知りながらも未だドアハンドルをがちゃがちゃ鳴らせながら叫ぶ私。すると車は金切り声の悲鳴を上げた様なブレーキ音を響かせながら突然の急停車。体のバランスを大きく崩しながらも今なら下りても危なくはないとドアハンドルを引くもドアはびくともしない。終いにはドアガラスを叩きながら助けを呼びつつ、割ろうと試みるも、私達以外に人が居る様子もなく、頑丈な固いガラスが私程度の力で割れるはずもなかった。窓の外の絶望的な夜の暗闇しか映らなかったそんな私の視界の端に光るもの。鋭く光るそれは希望の光なんかではなく男が私へ向けたナイフが放つ狂気の光であった。それに気付いた私は息を飲み、窓を叩くの止めていつ私を傷付けて来るかもわからない鋭利なナイフから目を離せずにいた。
「大人しくしていてはくれないか。君もニュースの男の様にはなりたくないだろう名前?」
初めて拝んだ男の顔はやはり、乗務員証の写真の人物とは全くの別人で端正なその顔容は楽しげに口元を釣り上げて歪んだ狂気の笑みを浮かべている。嘗てない悪夢に直面した私は背筋も心臓も凍り付く。まだ死にたくなかった私は目を閉じて下唇をぎゅっと噛み締め抵抗を止めてを静かにする。
「そうそう。君は聡明だね名前。従順で良い子だ。」
男はそう言うと私に向けていたナイフを下ろし、すっとしまった。だが、脅威はまだ消え去ってなどいない。私はまだ助かってなどいない。今、死ななかっただけで殺されるのが先延ばしにされただけなのかもしれない。男は何でこの様な凶行に及んでいるのか。そして何より、男は何故、私の名前を知っているのか。その疑念はこの状況では恐怖と不安を引き立てる素材にしかならなかった。
「どうしてって言いたげだね?」
顔に出ていたのか男は見事、私の考えを見抜いた。いや、私でなくても疑念を抱かない方が可笑しいだろう。何も言わず黙っているとバックミラー越しに男の紫色の目が合い、にたりと笑っている様だがその目は一切笑っておらず、男はそのまま話を続ける。
「知っているさ。君の事なら何でも。自分が好きなものを人間や物に限らず詳しく知りたいと思うのは人として当然の心理だろう?だから君の事なら僕は何でも知っている。君を手に入れる為の緻密に立てた計画もこうして遂行出来た。君の為ならば人を殺す事など厭わない。僕にとってそれは何ら問題でもない。僕がどれほどに君を想っているのかがわかってくれたかい?」
わかってくれただと?男は私を自分と同じ枠から外れた異端者だとでもカテゴライズしているのか。やめてくれ。私はただのごく普通に生きる一般人であって、男の様な狂った倒錯的な思考も精神も持ち合わせてなどいない。故に解り合えるなんて事は有り得ないのだ。絶対に。この男に何を説こうとも通じるとは思えない。どうすればこの男から逃げられるか。どうすれば私は助かるのか。そればかりを考えているのだが、機転の利いた策は生まれない。どうにもこの男から逃げられる気が全くしないのだ。
男は帽子を擦れを正す様な仕種をとった後、サイドブレーキを下ろし、車を発進させる準備をする。
「お客様の命は私が預かっています。生かすも殺すも私次第です。しかし、ご安心を。お客様の身の安全は私が保証致します。お任せ下さい。必ず目的地へと無事に送り届けますから。」
今更、タクシー運転手を装う必要がどこにあるのか。笑えるはずもないのにおどけてみせる男の指し示す“目的地”と言うのは恐らく、いや、絶対に私の家ではないのだろう。私を乗せたタクシーはまだ夜明けが遠いの闇の中へと消えて行った。
大事な忘れ物
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タクシーについて調べたら『大事な忘れ物』と言うのは事件に関した連絡を指す隠語だそうです。同義語で『大きな忘れ物』
MANA3*120921