陋劣なる僕等
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私の兄、竹中半兵衛は非常に優秀な人間だ。勉強でも、運動でも、何でも、全てにおいて何をしてもそつなく熟す兄はまさに完璧そのものだ。それは持病と言うデメリットを微塵に感じさせず十二分に補える程に。能力だけでなく誰にでも隔たりなく優しく、他者からの信望があり、秀麗な容姿と何もかもが天性に恵まれたその存在は一目も二目も置かれ、誰もが人格者だと認める。そんな兄は私の中ではまるでヒーローの様で、憧れの象徴で、誇らしく、自慢であった。そう、私が物心つく頃までは。
数年前。まだ小学生だった私はピアノをやっていた。興味本意で始めたピアノだったが鍵盤を弾く度に面白いくらいその魅力にのめり込んでいった。自分の指で旋律を奏でる事が楽しくて仕方がなかったのだ。課題曲のレベルが上がっていき、何度も練習して、長い時間を費やして、精一杯の努力をして、曲が弾ける様になり、報われた時の喜びと達成感は何物にも代えがたいものであった。ピアノが好き。ピアノを弾く事が好き。だから、私はどんなに難しい曲でも諦めず、一生懸命に取り組めたのだ。しかし、スランプと言うものは何にでも、誰にでも訪れる。斯く言う私も例に漏れずスランプに陥ってしまったのだ。どうしても上手く曲が弾けず、それでもピアノと向き合っていた時、その様子を見ていた兄が少し代わってくれとの一言で私は兄に席を譲った。すると、次の瞬間、私が弾けなかった曲を難無く弾いてみせたのだ。ピアノを弾く所なんて見た事がなかった兄の繊細で白くしなやかな指先が奏でる音に私は全身が粟立ち、驚愕した。聴く者を幻惑させる様な旋律を生み出す兄の背中を私はただただ呆然と見詰めながら立ち尽くす。その後、兄が一つ一つ順序良く丁寧に弾き方を教えてくれていた様なのだが、その言葉は何一つ私の耳には入らなかった。優しい兄の事だ。善かれと思って教えたのだろう。しかし、その日から私の虚しさに満たされた心に今まで抱いた事のない劣等感が憎悪にも似た激しさで渦巻き始めた。
そして、自慢の兄は私にとってコンプレックスでしかなくなってしまった。
翌日。私はピアノを止めた。もう弾く事もなくなったピアノも売りに出した。あんなに大好きだったピアノを捨てる事に不思議なくらいに何の躊躇いも未練もなかった。兄を含めた家族は大層驚いていて、何かあったのかと心配もしてくれた。何て良い家族なんだろうか。これからは勉強に専念したいからと半分本当、半分嘘を言ったら多少なりとも不安が払拭しきれてなかった様子だが最終的には納得してくれた。兄を除いては。あの時の私を見る兄の目が今でも忘れられない。兄が何を思って私を見ていたのかわからないが私にはあの目は憐情にしか汲み取れなかった。
思えば幼い頃から兄に何かで勝った試しがない。それこそ取るに足らない戯れ事でも。これまで気に止めなかったものがここに来て、優秀な人間である兄は凡俗な人間である私を酷く惨めにさせた。他人ではなく血縁者である故に兄と言う近しい存在が尚更私を追い詰める。兄が典型的な天才型なら対照的に私は典型的な努力型。時間と労力を積み重ね、それに見合った結果を出すのに兄は一度見るだけ、聞くだけ、それだけで全てを吸収し自分のものにして、それ以上の結果を出す。まるで可能性の塊みたいなもの。兄妹なのにここまで似ないとは。何故、この人が私の兄なのか。何故、私がこの人の妹なのか。せめて他人ならば。そんなどうしようもない事を何度思っただろうか。あの人が、兄が聞けば悲しむだろうか。ピアノを止めたあの日の目でまた私を見るのだろうか。
「ただいま。」
学校から帰宅すると玄関には兄の靴が揃えてあった。先に帰って来ているのか。今日は親が不在で明日になるまでは帰って来ない。それまでは兄と二人きり。憂鬱だ。リビングへと続く扉から漏れる明かり。どうやら兄はリビングに居るらしい。扉の取っ手に手をかけ小さく溜息。中に入ると案の定、ソファには寛ぐ兄の姿。
「おかえり、名前。」
「ただいま、お兄ちゃん。」
振り返って笑顔で迎えてくれる兄に私も笑顔を取り繕う。上手く笑えているだろうか。不自然ではないだろうか。誤魔化したり、嘘を吐いたりするのは苦手だ。正直、兄の前で従順な妹でいられる自信がなく、直ぐに顔を逸らしてしまう。何で部屋に行かずリビングなんかに来てしまったのかと後悔してももう遅い。何か飲もうと適当に鞄を置いて冷蔵庫があるキッチンへとそそくさと移動する。まだジュースは残っていただろうか。
「晩御飯はどうしようか。僕が作ろうか?それとも外食にする?」
あ、そうか。お母さんが居ないからこうなってしまうのは当たり前か。どうしよう。何も考えていなかった。でも、外食は嫌だな。出来れば長く兄と居たくもないのだが。
「私は良いよ。あんまりお腹減ってないし。疲れたからもうお風呂入って寝るよ。ごめんね。」
「大丈夫?具合でも悪い?」
「うん、大丈夫。ちょっと疲れただけだから。」
冷蔵庫にジュースはなかったので代わりにお茶を飲んで喉を潤してから脇目も振らず逃げる様にして鞄を拾い上げてリビング後にしようとする。が、後ろから凄い力で引っ張られたかと思えば今度は壁に背中を押し付けられた。家には私ともう一人しか居ない。必然的にその人物が私を引っ張って壁に押し付けた事になるのだが、今まで喧嘩をした事も況してや暴力など振るわなかった極めて温厚なその人がそんな事するとは俄かに信じられなくとも、眼前に写るものが真実であり、全てであった。
「お、お兄ちゃん…?」
先程までソファで寛いでいたはずの兄がいつの間にかここまで移動して肩を掴んで私の自由を奪っていた。そんな事をしなくとも兄が嘗てない厳めしい表情をして、真っ直ぐに私の姿を写す目から逃れる気など更々しない。この目は、そう、あの時のものと似ている。大切だった物を捨てた私を見るあの時の目と。
「親が居ないから丁度良い機会だと思っていたんだ。以前から僕に対して余所余所しいよね。どうして?」
ばれてた。いや、絶対にばれないなんて自信はなかったし、この兄を欺ける事など出来るはずもないのだ。しかし、それをこんな形で追及され様とは。
「僕が気が付かないとでも思っていたのかい?疾っくに気付いているさ。名前がピアノを捨てたあの日から。」
兄の言葉に息を飲み目を見張った。まさかそこまで的確に気付かれていたとは想定外だったから。瞬間、あの日の記憶、光景が鮮明にまざまざと蘇る。何故、今更になって。抑圧されていたはずの感情が濁流の様に溢れ出す。駄目だ。逃げないと。早くここから逃げ出さなければ。それに反して、私の体は石の様に重く固まって動こうとしない。
「名前。君のその態度が気に食わない。僕が何かしたのならはっきり言ってくれないか。」
ああ、溜め込んでいたものが堰を切ってしまった。
「…さい…。」
「名前?」
「うるさい!うるさいうるさいッ!!お前に、お前なんかに私の気持ちがわかってたまるか!私はいつだって努力してきた!努力して、今まで頑張ってきた!それなのにお前は努力する私を馬鹿にする様に何でも上手くやってのけてしまう!ピアノだって!兄妹なのにこうも違う!何が違うの!お前と私の一体何が!どうしてお前が私の兄なの!優等生で何もかも完璧な兄を持つただの平凡な妹が一体どんなに惨めな存在か…。生まれた時から才能に恵まれたお前には、私の気持ちなんて絶対にわかりはしない!!!!」
隠していた全てが口から勢いよく吐き出されてしまう。やってしまった。本音を兄にぶつけてすっきりする所か私の心には後悔や罪悪感と言った負の念しか残らなかった。そうだ。確かに今のが私の紛れもない歴とした本当の気持ち。それを隠していたのは兄との仲が今より行き違った修復出来ないものになるのを懸念したから。心の片隅ではコンプレックスであっても昔と変わらない優しい兄だとわかっていた。私はあの頃に戻りたかったのだ。たった一人の兄が誇らしく自慢で憧れだった純真な私に。この人は何一つ悪くない。悪いのは勝手に劣等感や妬みを抱いて自分の弱さから逃げていた私なんだ。
しかし、もう遅い。私の醜い部分を兄に晒してしまった。こんな私を見て間違いなく幻滅したに違いないだろう。いや、私なんて人間は幻滅する価値すらない。私の正体を知った兄は今どんな気持ちなのだろうか。悲哀、憐憫、焦燥、失望、軽蔑、憤然、一体その内のどれを込められた視線を向けられているのか。兄の顔を見るのが怖くて、考えるだけで涙が溢れ出しそうになる目を隠す為に下を俯くと、その拍子にぽたぽたて床に零れ落ちる涙。ああ、私は何でこんなにも脆弱なんだろうか。
刹那、変わる景色。背中には柔らかな衝撃。目の前には涙で微かにぼやける兄の姿とそれからリビングの天井。何がどうなってこうなってしまったのか理解できないのだが、私はソファで兄に押し倒されていた。絡まってこんがらがって滅茶苦茶になって雁字搦めで複雑にぐちゃぐちゃなった頭の中。何も考えられず当惑する私に兄は告げた。
「知ってたよ。全部。」
その一言でごちゃごちゃになっていた思考が真っ白になる。言葉の意を解せず、茫然自失する私に兄は続けて聞かせる。
「知ってたさ。名前が僕に対して劣等感を抱いていた事も、その原因となったのがあの日に僕がピアノを弾いたせいだと言う事も、それでも僕を心の底から恨んだり出来ない事も。周りが僕の事をどう評価しようとそれは僕にとってはどうでも良いんだ。僕はたった一人の人間にだけ認めてもらえればそれで構わないのだから。名前、君に認めてもらえるならそれで。他の生徒でもなく、先生でもなく、親でもなく、君に賛嘆されるのが何より変えがたい喜びだった。その為には僕は完璧な人間である必要があった。例えそれが君が大切にするものを奪う事になろうとも。あのピアノがどれだけ目障りだったか、そして、そのピアノを夢中になって嬉しそうに演奏する君の姿がどれだけ僕を苛立たせたのか君は知らないだろう?君の手に二度とピアノが弾けない傷を負わせようとも考えたが結果的に君はピアノを捨て、僕に劣等感を抱いてくれる様になった。それは君が僕を認めてくれている事であり、それによって君の中で僕の存在が以前よりも大きくなって定着する様になり、邪魔だったピアノも消えた。僕はあの時、歓喜したよ。あまりにも僕の都合良く事が運んだものだからね。どんなに頑張っても、どんなに努力しても、君は僕には敵わない。理由はそう言う事さ。手品と同じで蓋を開ければ単純なものだ。僕を絶対越えられないと知りながらも健気に精励するも、やはり敵わない事を思い知り涙を堪えながら悔しそうにする君の姿は最高に可愛かったよ。さっきの君みたいにね。でも、名前。君は今のままで十分だよ。自分で気付いていないだけで君は君自身が思うよりも非常に優秀で魅力的な人間だ。」
兄は一体何を言っているのだろうか。それ以前に、今、私が対峙している人間は本当に兄なのか。違う。私が今まで見てきた優しい兄でもなければ周りが知っている優等生の兄でもない。私をソファに押し倒す兄の姿をしたこの人間は誰なのか。兄であるはずなのに、兄ではないと言う違和感と同時に生まれる底知れぬ恐怖。怖い。声が耳に届いても言葉の真意までは心には届かない。到底、解せはしない。私の五感は未知なる不可視の恐怖に支配されてしまう。
「ただ、そうだね、君が言った様に僕も常々思うのだよ。どうして僕が君の兄なのか、どうして君が僕の妹なのかと。」
頬に手を寄せられて親指で肌を撫でられる。いつだったか、幼い日に泣きじゃくっていた私のぼろぼろと頬を伝って零れる涙を今と同じ挙措で拭ってくれたが、その時とは似ても似つかなかった。長く伸びる白い指先が純粋に、愚直なまでに欲が赴くままに貪る猟奇的なものに感じた。それを直に感受し触れられた肌にぞくりと何かが這う様な感覚は更に私を惑乱させ更なる昏迷へと導く。
「でも、そんな事は僕が考え倦ねていたよりもずっと単純で瑣末な事だったんだ。」
「…何を、言ってるの…。」
兄が笑う。目を細め、口角を少し吊り上げて薄ら笑いを浮かべる。金縛りにあったかの様に硬直し動かなくなった私の体を兄が抱き締める。そして、熱が込めて優しく甘く艶めかしく囁く。
「君は僕に劣等感を抱いている様に僕は君に劣情を抱いているのだよ。」
それは運命共同体だなんてそんな綺麗な相互関係ではない。兄は誰よりも完璧であったが何よりも歪んでいた。嗚呼、どうして私達は同じ血を分け合った兄妹に生まれてしまったのだろうか。私が今まで見てきた兄は全て幻想に過ぎなかったのだろうか。わからない。私は変わった。兄は?兄は変わってしまった?いや、私が本当の兄の姿を知らなかったのだ。あまりにも過去が眩しくて、今、知らない人間に抱き締められているのが怖くて、とても不快だ。
陋劣なる僕等
(追憶なる日々はまるで泡沫の様に消えて。)
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最初はただのシリアスだったのですが狂愛になってしまいました。兄妹ネタは好きなのにこのサイトにはあんまりない。
MANA3*120501