その眩惑を何と呼ぶ
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頬に伝わる床の冷たさがやけに心地好かった。痛い。体中が痛くて堪らない。苦しい、苦しい。全身が苦痛に支配される。まるでこの肉体が自分のものではない、そう思えてしまう程に。体は動こうとはしない。動こうとする気力さえもなかった。辛うじて呼吸は出来る。そう、辛うじて。ひゅうひゅうと喘鳴を立てながら息を吸い込み、吐く度に体が軋んだ。痛い。痛みも苦しみも呼吸も生きている証だが、今の私にはもうそんなものは必要なかった。この苦痛から逃れたい。その為ならば、息なんて出来なくて良い。生など最早、不要だ。無価値でしかない。だから、いっその事―
「殺してほしいかい?」
心中を見透かす様な、それは絶妙なタイミングだった。顔にかかる乱れた髪の隙間からこちらを薄ら笑いながら見下す男の姿が見えた。一体、何が面白いと言うのか。男はにたにたと笑い続ける。不快だ。殺してほしいか?あぁ、叶うのなら須らくそうしてほしいものだ。けれど、私は何も答えなかった。答えた所で、男が私の願いを聞き届けはしないと重々知っていたから。だから私は何も答えなかった。何も答えずに黙っていると男は突然、蹴り上げて来た。抗う力も残されいなかった私はそれをもろに脇腹に受ける。面白い程、呆気なくごろりと体が転がった。
与えられた新たな痛みは鼓膜を劈く叫び声を上げてしまうものだったが、絶叫は音にはならず、枯渇した喉からは嗄れた声しか出なかった。口腔に鉄の味が広がっている気がする。気がする、と漠然なのは以前と同じく感覚が正常に機能して、その役割を全う出来ているのかはこの状態では疑わしいからだ。そんな中、痛覚だけは痛みを敏感に、鮮明に感知した。何て忌ま忌ましいのだろう。ただひたすら私は唸り、悶えた。歯を食い縛る事しか出来ない私の蟀谷を男が足でずりずりと踏み躙る。家畜以下のぞんざいな扱いを受け、生かされ続け、人としての尊厳も権利もそこには存在しなかった。こうやって次第に人ではなくなっていくのだろうか。いや、もしかしたらもう人ではなくなってしまっているのかもしれない。私も、この男も。
「惨めな姿だね、名前。今の君は賎しく無様だ。こんなにも自分を甚振り、蔑ろにされてどんな気持ちだい?悔しい?悲しい?憤っている?それとも憎いかい?この僕が。」
頭から足を退け、徐に屈んで膝をついた男は片手で私の髪を掴んで自分の目線と平行になる位の高さまで引っ張り上げる。私は顔を歪ませ、小さく呻いた。
「そう、君のその傷付き、苦しむ表情はこの上なく美しい。煽惑させ度し難い程に貪婪に堕落させる。わかるかい?君の体中に隈なくあしらわれた傷痕は全て僕が君を愛している証拠なんだよ。言わばこれが僕の愛情表現なんだ。ああ、僕の名前。僕だけの名前。僕の為だけに苦しんでくれ。僕の為だけに傷付いてくれ。」
男は恍惚と私の頬から首筋へと指を滑らせる。少し触れられるだけでじんじんと痛みが波紋を広げていく。多分、そこにも男の瞳と同じ汚濁した紫色の痣があるのだろう。何て生き地獄だろうか。この男は自分の欲の為に私に苦しみながら生きてくれと言っている。あろう事かその行為を愛だとほざく。私はこんな男の為に生きていると言うのか。何て瑣末な命なのだろう。反吐が出る。だから、私は吐き捨ててやった。
「……わ……たし……は…ぁ…あなたの、もの…じゃ、ないっ……。」
渇いて干からびた喉から出た声は自分でも驚く程の、まるで私ではない誰かのものに思えたがそれは確かに私の声であり言葉であり意志であった。男は口を利けた事になのか、反抗的な言葉になのか、将又その両方になのか、大きく見開いた目で私を見詰めた。私は意表を突いた訳でもないのに。そう、例えこの取るに足らない命が朽ち果てたとしても、私は絶対にこの男のものにはならない。
「…はっ…はは……はははは、あはははははははは!!!!!!」
何も言わず驚いていたかと思えば、今度は男の狂った哄笑が殺伐とした部屋に谺した。その姿は正に狂者、いや人ならざる異形がそこに在った。欲望や狂気と言ったどす黒い感情が人の形を成して犇めいている、少なくとも私の眼にはそう写った。それは、ただ単に私は私とこの男が同じ生物だと分類されたくなかっただけなのかもしれない。
「何を言っているんだい?僕がいつ君に選択肢を与えたのかな?君は僕のものだよ、名前。僕が決めたその瞬間からね。」
だから君がこの状況に何か望んでも、僕に対して何を思おうとその意志は何ら意味を為さないんだよ、そう男はせせら笑う。言われなくても解っていた、そんな事は疾うの前に。しかし、認めたくなかった。受け入れる事など出来るはずがない。どう転んでも同じだと言うのなら今もこの男も拒絶したまま、やはり私を殺してほしい。こんな生殺しを半永久的に続けられるよりはよっぽど増しだった。命を軽んじていると言うのであれば私をこの男から救ってくれ。
男は今まで散々私を嬲ってきたその両腕でまるで壊れ物を扱うかの様に私のぼろぼろになった体を抱き締めた。そして、男は耳元で囁いたのだ。
「君の様な惨憺な人間を僕はこんなにも愛しているんだ。そう愛している、愛しているんだ、名前。君はただ大人しく僕に愛されていればそれで良い。それが君にとってこの上ない幸せなのだから。嗚呼、名前。愛してる、愛してるよ。」
外界から隔離され、薄暗い部屋に監禁され、罵詈雑言の言葉の数々を浴びせられるよりも、痣が残るまで殴り、血反吐が流すまで蹴られるそんな暴力よりも、私にはこの抱擁が何よりも一番痛かった。また体が軋んだ。
その眩惑を何と呼ぶ
(それが愛だと言うのであれば、私は愛など欲しくはない。)
―――――
日頃から半兵衛サンに踏まれたいと純粋に願った結果。
MANA3*111002