残骸アンソロジー
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夥しい時間が出来た。それこそ半永久とも言えるほどに。それとは反比例して何かのために考えることが一切なくなった。あれほどまでに欲していた時間が、今では一匙の価値もなくなっていた。
僕は友と夢を喪った。
床に伏せ、天井を眺める日々が続く。この身に巣くう病魔は追い打ちをかけるかのように僕を更に惰弱させていった。動く度、咳をする度に体はぎしぎしと軋んだ。朝昼晩と実直に部屋に運び込まれる食事も薬も碌に口にはしなかった。そんなことは無意味でしかないのだから。今の僕の存在と同じように。己の片足が棺に踏み込んでいる状態なのが嫌でも思い知らされてしまうのだ。
もう、僕には何も―
「失礼します。」
朦朧たる意識の中でもその声の主が誰なのかがはっきりとわかった。徐に開けられた障子から現れたのは、やはり彼女で、その手には器が乗せられた盆を持っていた。
僕は痛みに耐えながら横になっていた体を起こして、疎ましそうに彼女を見る。その視線に気付いているのかいないのか、彼女は畳の上に盆を置き、僕の傍らに座り込んだ。
「……誰かに頼まれたのかい。」
「ただの私のお節介ですよ。」
「…………。」
「最近、ちゃんと食べてないらしいじゃないですか。薬も飲まないと良くなりませんよ。」
「……僕には必要ない。」
「そんなこと言わずに、―」
「っ…要らないと言っているだろう!」
彼女が手にした椀を勢いよく払い退ける。その拍子に落ちた椀はゴトリと音を立てて、中身は無残にも零れ散った。彼女はと言うと、涙を堪えているのだろうか、俯いて表情が読み取れない。いや、衝撃的だったに違いない。このまま僕に構わず、部屋から出ていってくれることを願った。
「……私に、…私に何か出来ることはありませんか。」
僕は驚いた。てっきり、泣いているものかと思っていたのだから。彼女は気丈な眼差しで僕を見据えている。嗚呼、何て曇り一つない慈しみに満ちた綺麗な眼なのだろうか。
虫酸が走る。
「…君に何が出来るというんだい。」
「私に出来ることなら、何でも。」
「……何でも…?」
「はい。」
「じゃあ―」
彼女の手を強く引く。咄嗟のことに対処出来ないのか、為すがままの彼女を布団に組み敷いた。
「抱かせてよ。」
冷めた声で発せられた言葉に動揺を隠せなかったのであろう、見開いた黒い瞳は揺らいだ。
「簡単なことだろう。君自身で可哀相なこの僕を慰めてくれれば、それで良いんだから。」
何でもしてくれるんだろう、そう言って彼女を追い詰める。傍から見れば僕は卑怯者に見えるだろう。しかし、口では何とでも言えるのだ。それに挑発してきたのは他の誰でもない彼女なのだ。
彼女が誰よりも優しい人間なのは僕が一番理解しているつもりだった。だが、今ではそれが同情や哀れみにしか感じないのだ。どうしようもなく自分が惨めだと認識させられてしまう。誰にこの僕を理解出来ようと言うのか。誰にこの僕の絶望を汲み取ることが出来ようと言うのか。所詮、その時が来ないと絶対にわかりはしないのに。
不快だ。実に不快でしかない。何もかもが不快だ。すべて失ってしまえばいい。僕と同じように。
「いいですよ。」
一体、どれくらい続いたのか。一瞬のようで、長いような沈黙を破ったのは彼女だった。さっきまでの様子とは違い、その表情は非常に落ち着いたものであった。
「それが私があなたに出来ることなら、構いません。」
今度は僕が動揺する番だった。彼女の齢からして言葉の意味を知らない訳ではあるまい。僕は拒絶されると思っていた。拒絶されることを望んでいた。なのに彼女はその予想を裏切る答えを返した。そうだ、この際だから汚してやればいい。彼女の身も心も。そうすれば…―。僕は嘲笑した。
「冗談だよ。」
再び、僕は一人となった。彼女の持って来た食事と薬は女中に片付けさせた。部屋は何事もなかったかのように静寂を取り戻す。ただ、状態が悪化したのか咳がなかなか止まらなかった。体から沸き上がる悲鳴。荒い息を整える中、耳に残った彼女の言葉が脳裏に響く。
「嘘吐き。」
ようやく咳が治まる。だが、未だ微かに呼吸は乱れたまま。不意に彼女に触れた手をぼんやりと見る。
「……はっ…どっちが嘘吐きだろうね。」
震えてたくせに。
あの時、拒んでいてくれたのならば、やはり口先だけだと責め苛みながら躊躇いなく無理矢理にでもやれたのに。
彼女は一体何なのだろうか。僕にそうも献身的になって何か意味があるのだろうか。彼女にとって僕という人間は何だというのか。僕は一体、…。
それにしても、
「…最低だな、僕は…。」
残骸アンソロジー
(彼女もすべて喪ってしまえばいい。)
(僕にはもう君しか残されていないように。)
MANA3*100701