過去は死なない
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今日もいつもと変わらないはずだった。
なのに――――
「やぁ、名前。」
その声は非情にも私の日常を崩壊させた。
目に見える光景の全てにスローモーションがかかる。聞こえるのは自分の心臓がどくんどくんとゆっくりと強く大きく鳴り響く音だけ。一瞬、まるで今この世界には私しか存在しないと錯覚させたが、所詮、それは錯覚であり、私に呼び掛ける声も幻聴ではない。それが私の思い違いならどんなに良かったことか。
高鳴る鼓動が鎮まることはなく、徐に私は後ろへと振り返った。
そこには過去が笑いながら立っていた。
目に映るものが色彩を失っていきモノクロと化していく中、それは忌まわしくも鮮やかに色付いている。
「今、帰りかい?」
足が一歩、前へと踏み込む。逃げなくては。しかし、足が竦み動かない。叫びたくても恐怖で声が出ない。それでもあの人はじわじわと追い詰めるかのように一歩、一歩と私に近付いて来る。
この人、竹中半兵衛と私は以前は恋人という関係にあった。優しく誠実で私を愛してくれるこの人を私も愛していた。
だが、この人は変わってしまった。人並みの嫉妬と独占欲と思っていたものはいつしか理不尽な暴力になり、殴られ、蹴られ、髪を掴まれ、首を絞められ、浴槽に顔を押し込められ、時には丸一日、気絶させられたことも。私は心身共に衰弱していた。
でも、暴力の後はいつもの優しい人に戻って怪我を手当てしてくれた。「すまない。」「痛かっただろう。」「僕を嫌わないでくれ。」「愛している。」と口遊みながら。
この人は他より少し違うだけなのだと、これらはこの人なりの愛情表現なのだと、私は理解していた。理解していたつもりだ。
しかし、私は限界だった。
ある日のこと。私は遂に別れたいと告げた。この人は私のことを殴ったりはしなかった。代わりにその手には鋭く光る包丁が握られていた。今まで死を予感したことは何度もあったが、これまでに異例のない事態に本気で殺されると思った。死に対する恐怖から必死に抵抗をした。
気が付くと、
息を切らす私の両手は血に塗れていた。
私は逃げた。苦痛から。恐怖から。この人から。自分の犯した罪から。現実から…―。
住んでいた場所からも離れ引越しをした。何もかもを忘れよう、人生をやり直そうとした。なのに、過去は私の眼前へと現れた。
「二年だ。君が居なかったこの二年間は実に長く、辛く、耐え難い、虚しいものだったよ。だから、今日という日が待ち遠しくて仕方がなかった。君に刺され、離別してから丁度二年後のこの日に再会だなんて最高の演出だと思わないかい?君に刺された傷が君を求めるかのようにずっと疼いてた。だけど、それも今日までさ。」
「………っ。」
体の震えが止まらない。私の頭の中では過去がフラッシュバックしていた。あの愛憎に満ちた日々の、暴力による痛み、口に広がる血の味、匂い、何から何まで生々しく鮮明に甦る。
「おっと。誤解しないでくれ。僕は決して君を咎めにきたわけではないのだから。僕は君を許している。何故なら、僕は今でも君を愛しているからだ。」
“愛している”
今となってはこの言葉が暴力よりも何よりも一番、疑念を持ち、畏怖するものとなっていた。
そっと、体は両腕に搦め捕られ、抱きしめられる。伝わってくる温もりに、血の気が失せていく。
「嗚呼……名前……やっと、やっと君に逢えた。この感触をどれだけ待ち侘びたことか。」
もう、この人からは死ぬまで逃れられないだろう。私はそれを抱擁される腕の中で深く思い知った。冷たい手が頬に添えられ、視線が合う。
「もう、君を離したりはしない。これからはずっと一緒だ。ずっと。」
恍惚と慈しむように私を見詰めるその細められた瞳はあの時と全く変わってはいなかった。
過去は死なない
(例え、私が死んだとしても。)
MANA3*100321