欠落した空虚の世界
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「ごほっ、ごほ……」
いつも緩い顔で、へらへらと笑っていて他の人間より健康で丈夫そうな人間だった者が、突然、咳をしたりなんかすると、多少は驚きはするだろう。
見てみると、口元を手で抑える彼女の姿があった。
「何だい、名前。風邪なのかい?」
「んん゛!…どうなんでしょうか……んーあー…」
喉に手を当てて調子を調えようとしているが、なかなか喉に詰まった異物が消えてくれない様だ。
「馬鹿は風邪を引かないとは聞いていたのだが…」
「どうゆう意味ですか」
「いや、別に」
「でも、まぁ…まだ風邪かわかりませんし、直ぐに治るとは思うんですけど…」
「そうだね。君は風邪を引かないよ、絶対にね」
「だから、どうゆう意味ですか」
無意味と解っているくせに、名前は軽く目を怒らして見詰めて来る。
そんな名前との他愛のない会話に僕は自然と笑みを溢した。
直ぐに治まると思っていた名前の症状は日に日に酷くなっていった。
軽かった咳は吐血でもするのかと思う位に激しいものになり、その度に名前の体は軋んだ。全身から高熱を発し、何度も嘔吐を繰り返していた。
先日、名前は倒れた。
その日を境に、名前は寝た切りの状態が始まった。原因が全く解らない。手の施し様がない。食欲と気力は失せ、症状は悪くなる一方。
僕は出来る限り、名前の側に居てやった。虚ろな瞳が僕の姿を朧気に写す。
「……半兵衛……さん…すみ、ません……」
「謝らなくても良い。僕が勝手にやっている事だ。」
一文字、一文字を口から発する事さえも辛そうで痛々しかった。掠れた声と共に吐かれ、そして吸われる息はひゅーひゅーと音を洩らす。これまで、意識せず、当たり前の様にしていた呼吸。今の名前のそれは、やり方を忘れてしまったかの様に、浅く、小刻みに、不定期なものになっていた。
「最近、まともに食べていないらしいね」
「…………」
「食欲がなくても何か食べるんだ。治るものも治らない」
頷く事すら辛いのか、声が聞こえなかったのか、名前は無言だった。それとも無言は拒否の意味なのか。
僕は手の甲を名前の頬に滑らせた。
熱い。この高熱だけならばまだ良い。名前を蝕む原因は他にある。だが、この熱だけでも引いたなら少しは楽になるのだろうか。
「……仕事…………良い…ん…です、か?…」
「君が気にする必要はない。それよりも早く治す事だけに専念するんだ」
「………殺し、て……くだ…さ………い……」
「…………」
「……自分の…体なん、です。……わかり……ます。……治ら…ない……。……今の私…は………半兵衛さんの…夢の、妨げ……になって……る、…だから…………」
いつもなら、どうしてやっただろうか。威圧をかけ、黙らせる所だろう。だが、僕は冷たく鼻で笑ってやった。
「自惚れるのは止すんだ。君が僕の妨害なんて出来る筈ないじゃないか」
「………は…べえ…さん……」
「それとも、病人に看病されるのは不服かい?」
名前は何も言わなかった。言い返せない事、僕が言わない様な事を言ったからだ。
「具合は良くなるさ、きっとね。だから、もうおやすみ」
汗で張り付いた髪を剥がしながら頭を撫でる。
暫くすると、名前はゆっくりと目を閉じて眠りに就いた。閉じた瞳から零れ落ちた涙を指で拭う。
名前が眠りに就いたのを見届けてから、僕は漸く立ち上がり部屋を後にした。
手が震えていた。
「………殺し、て……くだ…さ………い……」
あの時、僕は内心動揺した。
震えが止まらない手を握り締めて、僕は初めて掌に冷や汗をかいている事を知った。
太陽が頭上から照り付ける真昼。
軍談で名前の様子を見に行く時間がいつもより遅くなってしまった。
「名前、僕だ」
襖越しから呼び掛ける。返事がないが、眠っているのか、辛くて返事が出来ないのかどちらかなのだろう。
「入るよ」
僕は襖を開けた。
「……名前?」
部屋の中には誰も居なかった。誰が眠っている訳でもなく布団が不自然に一式敷かれているだけで、人が居た気配すらなかった。
まるで、この部屋には初めから誰も存在しなかったと主張する様な光景だ。
その場で立ち尽くす僕は、目の前の虚しい光景と現実をただ茫然と見ていた。
欠落した空虚の世界
(妄想でも幻でもない。君は確かに居た。確かに居たんだ。)
MANA3*080919