河野瑞稀
夢小説設定
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※匂わせ表現あり
都会の喧騒が届かない鉄坂の夜は、どこか浮世離れした静寂に包まれている。ヨーカイの若者たちが身を寄せる秘密基地。あるいは彼らの家でもあるその隠れ家の一角に、名前の部屋はあった。キリコは数枚の資料と作戦のメモ帳を小脇に挟み、廊下を進む。静かな館内に彼女の足音が小さく木霊した。少し確認したいことがあった。次の作戦における人員配置と動線。特に状況に応じて柔軟に動ける名前の視点からの意見を事前に仰いでおきたかったのだ。
「名前、いる?」
声をかけながらキリコは名前の部屋のドアを軽くノックした。返事はない。いつもなら、ノックの音と同時に明るい声が返ってくるか、ドアが勢いよく開くはずだった。彼女はヨーカイのメンバーの中でも真面目でキリコの突発的な呼び出しにも快く応じてくれる貴重な存在だ。もしかして寝ているのだろうかとキリコは首を傾げた。まだ寝るには少し早い時間だ。もう一度、少し強めにノックをしてみる。やはり反応はない。ドアの僅かな隙間から漏れてくるはずの明かりが一切ない。部屋の中は完全に真っ暗なようだ。ほんの少しだけ胸騒ぎを覚えたキリコはドアノブに手をかけた。ゆっくりと回すと鍵はかかっておらず、静かに扉が内側へと開いていく。
「名前、入るよ……?」
一歩、足を踏み入れると部屋の中は予想以上に暗かった。開いた扉から廊下の薄暗い光がわずかに差し込んでいるものの、室内の深い闇に吸い込まれるように消えてしまう。暗順応していないキリコの目には部屋の中の輪郭がほとんど捉えられなかった。だが、部屋の空気に触れた途端、キリコは小さく眉をひそめた。何かが、いつもと違う。肌を撫でるかすかな熱と、どこか重たく沈んだ空気の気配。言葉にしがたい、妙な引っかかりを彼女は感じていた。目を凝らす。暗闇に目が慣れてくるにつれ、部屋の奥にあるベッドの輪郭が次第に浮かび上がってくる。そこには布団を深く被って横たわっている名前の姿があった。規則正しいが、どこか浅い呼吸の音が聞こえてくる。本当に深く眠り込んでいるようだ。そして、そのすぐ傍らに誰かがいた。ベッドの端で片脚をあぐらのように乗せて座り、じっと名前を見下ろす影。ミズキだった。ベッドに横たわる名前の姿を見つめながら、その大きな手が布団から少しだけ覗く名前の髪を、ゆっくりと、愛おしそうに撫でている。大きな掌が、彼女の額からこめかみ、そして耳の後ろへと、指先でなぞるように滑っていく。その手つきは酷く優しく、同時にどこか他者を寄せ付けない絶対的な所有欲を感じさせるものだった。
「ミズキ……?あんた、何して─」
キリコが声をかけようとした、その瞬間。ミズキの動きがピタリと止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、ドアの前に立つキリコへと視線を向けた。暗闇の中、ミズキの瞳だけが怪しく光ったように見えた。彼はキリコと目が合うとその端正な唇の端をゆっくりと吊り上げた。それは、いつものからかうような笑みとは明らかに異なる、どこか艶っぽく、妖艶な、ゾクリとするような微笑だった。ミズキはそっと人差し指を自分の唇に当てる。
シー……
声は出さず、ジェスチャーだけで静かに、とキリコを制する。その仕草一つに妙な色気が宿っていた。やがて、ミズキは未練を断ち切るように名前の頭を最後にもう一度だけ優しく撫でてから、音もなくゆっくりと腰を上げた。大柄な体躯でありながら、まるで猫のように気配を消して、ベッドの上の名前を起こさないよう、細心の注意を払って歩き出す。キリコは、その一連の動きを、ただ圧倒されて見つめることしかできなかった。ミズキはそのままキリコの横を通り抜け、廊下へと出ていく。キリコも促されるように部屋の外へと一歩下がった。ミズキは振り返り、部屋のドアをパタンとも音を立てずに、極めて静かに閉め切った。
「…びっくりした。あんた、なんで名前の部屋に居るのよ。しかも、あんな真っ暗な中で」
ドアが閉まった途端、肌にまとわりついていたあの奇妙な熱と重苦しい空気から解放されたキリコは小さく息を吐き出しながらミズキを見上げた。廊下の薄明かりの下で見るミズキはいつもの飄々とした雰囲気に戻っており、苦笑いを浮かべて首の後ろを掻いた。
「悪りぃな、キリコ。驚かせるつもりはなかったんだけど、ちょっと事情があってさ」
「名前、寝てたみたいだけど…どうかしたの?次の作戦のことで、ちょっと話したいことがあったんだけど」
キリコが小脇のノートをトントンと叩くとミズキは困ったように眉を下げ、肩をすくめた。
「ああ、それなら明日にしてやってくんね?あいつ、急に熱が出てしまったみたいでさ。さっき、俺がここまで運んで、看病してたところなんだよ」
「えっ?熱?」
キリコは目を丸くした。数時間前の彼女は体調の異変など少しも見せず、いつもと変わらず元気だったのだ。それが今ではまともに動けなくなるほどの高熱にうなされているだなんて、にわかには信じがたかった。とはいえ、もしそれが事実であれば、彼女の体調がひどく気がかりだ。これ以上悪化しなければいいのだが、とキリコは静かに眉をひそめた。
「名前が?昼間まであんなに元気だったのに?」
「ああ、俺も驚いたよ。急に足元がおぼつかなくなったと思ったら、顔が真っ赤でな。額に触ったらめちゃくちゃ熱いし、とても自力じゃ動けそうにないから、急いでこいつの部屋に担ぎ込んだんだ。俺が早めに異変に気付けて、本当によかったわ」
ミズキの言葉に嘘偽りはないようだった。彼のその穏やかな声からは、仲間を心から案じる響きしか感じられない。だが、キリコの胸の奥には何か言葉にできない違和感がざらりと残る。目の前のミズキは仲間を心配するいつもの彼に見えるが、だからこそ、先ほど部屋の中で見たあの妖艶な笑みと空間を支配していた独占欲に満ちた空気が恐ろしいほどの異物感となって刺さる。その乖離に戸惑いながらも、真摯な彼を前にキリコは引き下がるしかなかった。
「そっか…。じゃあ、お医者さんに見せなくて大丈夫?私が知ってる先生なら──」
「あー、いや、それは大丈夫ばい」
ミズキはキリコの言葉を遮るように、だが優しく手を振った。
「薬は飲ませたし、さっきよりは呼吸もだいぶ落ち着いたけん。明日にはようなっとうよ」
「本当に大丈夫? 急にそんな高熱が出るなんて心配だよ。水分補給とかは?」
「ああ、水もちゃんと飲ませたよ。今は薬が効いてぐっすり眠っとるし、このまま休ませとくのが一番よかと思う。やけん、そっとしておいてやってくれん?」
ミズキはそう言って優しく微笑んだ。その表情には一点の曇りもないように見える。名前を心から労り、守ろうとしている男の顔そのものだった。しかし、キリコはまだ何か釈然としないものを感じていた。彼女の直感がこの状況の裏を察知しようと警告を発していたが、ミズキのどこまでも誠実なその表情と一言の隙もない理路整然とした言葉の前に、それ以上追及する足がかりが得られない。何より、名前が部屋で静かに眠っているのは事実だ。ミズキが彼女を害するような真似をするはずがないことも、キリコはよく知っている。
「私がちょっと診てあげようか?お札を使えばもう少し楽にはなるかもしれないし」
そう言って、キリコが名前の部屋のドアノブに手を伸ばそうとした。すかさずミズキがキリコの前に腕をすっと伸ばしてそれを阻んだ。
「いや、キリコ。気持ちはありがたいが、俺に任せてくれん?せっかくあいつ、気持ちよさそうに深く眠りについたところやけん。起こしてしまったら可哀想やろ?」
「……それは、そうだけど」
「明日になって、もし熱が引かんかったら、その時は真っ先にキリコにお願いするけん。そん時は頼んでよかね?」
そう言って向けられたミズキの眼差しは、どこまでもひたむきで、仲間への純粋な気遣いに満ちているように見えた。そこまで言われてしまっては、これ以上踏み込むのは無粋というものだろう。彼の引いた明確な一線と有無を言わせぬ大人の包容力を前にキリコは小さく息を吐いた。
「……そっか。ミズキがそう言うなら、大丈夫なのかな」
キリコはどこか腑に落ちない感覚が燻りつつも、名前を深く案じるミズキの態度が本物であることは疑いようがなかったため、それ以上深くは追及しなかった。普段からよく一緒に行動している二人だ。彼がそこまで頑なに自分の領分を主張するなら任せるのが最善だとキリコは波立つ心を宥めた。
「…わかった。じゃあ、ミズキに任せる。これ、次の作戦のメモ。急ぎではないし、名前が起きたら、体調見ながらでいいから、渡しておいて」
キリコはノートから千切ったメモをミズキに手渡した。ミズキはそれを恭しく受け取り、ひらひらと振ってみせる。
「了解。預かっとく。俺はまだあいつの看病せないかんけん。キリコも、用があるならまた明日にお願いね」
「うん。無理させないでね。何かあったら、すぐ私を呼ぶこと。いい?」
「わかってるって。ありがとね、キリコ」
ミズキは小さく手を振り、キリコが廊下の角を曲がって、その足音が完全に聞こえなくなるまで、その場で見送っていた。足音が消え、静寂がその場を支配する。ミズキは手の中のメモをポケットに仕舞い込むと、ふう、と小さく息を吐き出した。その顔からいつもの気のいい仲間としての笑みがするりと剥がれ落ちる。ミズキは再び、音を立てずに名前の部屋のドアを開け、中へと滑り込んだ。ドアを閉め、鍵を静かに下ろす。カチャリ、という小さな金属音が、密室の完成を告げた。部屋の中は、相変わらずの暗闇。しかし、一度中に馴染んだミズキの目には、ベッドの上の光景がはっきりと見えていた。ミズキは足音を立てずにベッドへと近づき、先ほどと同じように、その端へと腰を下ろした。マットレスが、ミズキの体重でわずかに沈む。ベッドの中で、名前は未だに深い眠りの中にいた。シーツから覗く彼女の肩口は、微かに赤みを帯びている。呼吸は少し荒く、おでこにはうっすらと汗が浮かんでいた。ミズキは彼女の額の汗を、壊れ物を扱うかのような手つきで優しく親指で拭った。
「…ん……」
名前が、微かに身じろぎをし、小さく声を漏らす。だが、目が覚める気配はない。ただ、体力の消耗による疲労と体の奥に残る熱のせいで、意識を覚醒させることができないのだ。ミズキはそんな彼女の姿を暗闇の中でじっと見つめていた。その瞳にはキリコには決して見せなかった、深く、どろりとした情愛が満ちていた。彼は、再びその大きな手を名前の頭へと伸ばした。指先で、汗ばんだ髪を優しく梳いていく。頭のてっぺんから、耳の後ろ、そして、シーツの下に隠された首筋へと愛おしそうに指を滑らせる。
「……まあ、嘘は言ってないからな」
ミズキの口元から密やかな独り言が滑り落ちる。その口調は恐ろしいほどに落ち着いたものだった。熱が出たことも、熱に浮かされて動けなくなったことも、何一つ嘘ではない。動けなくなった彼女を優しく抱き上げ、この部屋で看病しているのもすべて本当のことだ。明日になれば、きっとこの熱も引いて、彼女も動けるようになるだろう。ミズキはただの一度も偽りを口にすることなく、真実の上澄みだけを器用に掬い取ってキリコに伝えたのだ。
「なぁ、名前」
ミズキはベッドに身を乗り出し、眠る彼女の耳元で、囁くように声をかけた。
「きつかったやろ。…よう頑張ったね」
ミズキは優しい手付きで名前の頭を何度も、何度も撫でた。その掌から伝わる体温がミズキの心をこれ以上なく満たしていく。普段はしっかり者で、ヨーカイのメンバーとしても明るく振る舞っている名前が、今こうして、自分だけのテリトリーで無防備に眠っている。その事実だけで、ミズキの中の独占欲は心地よく、静かにその渇きを癒やしていく。
「ゆっくり寝とき。明日、目が覚めるまで、俺がずっとここにおるけん」
名前は目を覚まさない。ただミズキの温かい掌の感触が心地よいのか、眠ったまま、小さく彼のほうへと身体を寄せた。ミズキは嬉しそうに目を細めると今度は名前が寒くならないよう、はだけた布団を優しく肩までかけ直した。そして、再び暗闇の中に溶け込むようにして、彼女の頭を底なしの情愛を指先に宿らせ、撫で続ける。この密室で刻まれる時間も、彼女の熱も、すべては自分だけのものだと確かめるように、ミズキはただ静かに、幸福な闇のなかに沈んでいった。
余熱
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