河野瑞稀
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無頼レジストの続き
ミズキが組を抜けてから、季節は音もなく移り変わっていった。私は相変わらず、組織の中で適当なポジションを維持し、平穏に保身に徹している。上層部の覚えもめでたく、立ち回りは上手くいっていた。あの夜、私が逃がしたミズキの裏切りの件も、私の「交戦し、負傷させて退けた」という虚偽の報告とその後の迅速な防衛措置への貢献によって、私に疑いの目が向けられることは一切なかった。彼が選んだヨーカイという組織はその後も橋元のシノギを執拗に脅かし続けていた。だが、組織を裏切った元教え子の安否を気遣うほど、私は暇ではない。橋元の忠実な犬として、与えられた任務を淡々とこなし、己の平穏と地位を守ることに汲々とする日々だ。手が掛かる教え子が居なくなり、面倒の種が一つ減った。私自身に起きた変化といえばそれくらいのものだが、私の預かり知らぬところで、組織は巨大なうねりを上げ始めていた。橋元が海外に本拠地を持つ巨大テロ組織タロンとの協力関係を結んだのだ。最近、タロンの指導者が変わった。情報が統制されているため詳細は不明だが、そのトップ交代のプロセスは、かなり強引で歪なものだったようだ。その際には多数の構成員が粛清され、現リーダーの理念に反抗して組織を抜けた者も居るという。しかも、タロンと言えば、あのオーバーウォッチと真っ向から敵対している組織である。それはすなわち、今後我々がオーバーウォッチを敵に回すということに他ならない。遅かれ早かれ、いずれ彼らと正面衝突する日は免れないだろう。鉄坂での地道な縄張り争いなどとは文字通り次元の違う戦争が始まるのだということは、容易に想像がついた。利害が一致したのか、あるいは橋元が実質的な傘下に下ったのかは定かではないが、タロンと手を結んだことにより、最新の兵器、テクノロジー、そして莫大な資金力を得た橋元組は、より強固で冷酷な組織へと変貌を遂げていた。正直、私はそんな組織と協力関係を結ぶことには懸念を抱いている。組織が肥大化したとしても、それを上回るあまりにも大きなリスクがあり、到底信用に足る相手とは思えなかったからだ。もっとも、私の立場から口を挟めるはずもない。それに、こちら側も裏切り者を抱え、その原因に私が少なからず加担している以上、組織の有り様に文句を言えた義理ではなかった。一枚岩ではないという意味ではお互い様だろう。ここ数ヶ月で劇的な変貌を遂げた橋元組。タロンという世界規模の組織と近代兵器をバックにつけた今の組に、ただでさえ手を焼いていたヨーカイが立ち向かうなど、自殺行為以外の何物でもない。圧倒的な暴力の前に、どれだけ高潔な理想を掲げ、泥をすすりながら抗おうとも、呆気なく踏みつぶされるのがこの世界の常識だ。それが、冷酷な現実。だが、あいつが選んだ道だ。どうなろうと知ったことではない。私が心配すべきは、彼らの命ではなく、この激動の中でいかにして自分の足場を揺るぎないものにするか、ただそれだけだった。
コンクリートが剥き出しの壁に一人の足音が静かに反響する。橋元組の直系組織が管理するこの地下道場は組織が変革を遂げてから使用される頻度がめっきりと減っていた。今や銃火器や特殊な兵器が主流となり、古臭い体術や剣術の訓練など時代遅れの遺物とみなされているからだ。今ではこの場所は備品の倉庫代わりにされかけていて、冷え切ったコンクリートの匂いだけが淀んでいる。だが、私は今でも時間があれば、この場所に足を運んでいた。ほとんど人の出入りがない、他人の目が届かないこの静寂だけが、私の心をわずかに落ち着かせてくれる唯一の空間だった。木刀を手に取り、ゆっくりと素振りを始める。風を切る鋭い音が無人の道場に響き渡る。私はあの日から何も変わっていない。自分の居場所を守るために、ただ淡々と、冷徹に刃を研ぎ澄まし続けている。その時だった。カツン、と私のものではない、微かな足音が道場の入り口から聞こえた。監視カメラの死角を突くような極めて洗練された無駄のない身のこなし。私は素振りの動作をピタリと止め、木刀を構えたまま、暗がりの広がる入り口へと鋭い視線を向けた。
「誰?」
毅然とした声がコンクリートの壁に跳ね返る。暗闇の中からゆっくりと歩み出てきたのは、見覚えのある、しかし決定的に何かが変わった一人の青年だった。
「……久しぶり、先輩」
そこに立っていたのはミズキだった。かつてのように傷にまみれ、躊躇と葛藤でボロボロになっていた面影は今の彼には微塵もなかった。不遜な笑みを浮かべるその佇まいに確固たる自信とどこか底知れない気配が満ちている。この場所で私に何度も床へ叩きつけられ、痛む脇腹を押さえながら悔しげに見上げていたあの頃の彼とは明らかに空気が違っていた。その瞳の奥には迷いを完全に振り切った者だけが持つ、静かで力強い光が宿っている。私は木刀の切っ先を崩さないまま、眉を微かに顰めた。
「…あなた、何その格好?ヨーカイのユニフォーム?」
そこにいたミズキは初めて目にする異様な格好をしていた。嫌が応にも目を引く大ぶりの笠、そして口元を完全に覆う嘴状のマスク。和の意匠をベースに腰からは紙垂のような装飾が揺れており、お世辞にも機動性を重視した合理的な衣装には見えなかった。
「いいだろこれ。仲間に作ってもらったんだ。橋元のセンスは終わってるから先輩も羨ましいだろ?」
「…ミズキ…あなた正気なの?ここがどこだかわかっていて来ているの」
私は即座に腰の銃に手をかけようとしたが、ミズキは両手を軽く上げて、戦う意志がないことを示すように笑った。
「わかってる。橋元の犬どもの巣窟、その中でも先輩が一番お気に入りの場所だろ?タロンの連中がうろつくようになってから地上の警備は厳しくなったけど、この地下への隠し通路は相変わらずザルだった。先輩が教えてくれた通りの死角さ」
「私の教えをそんな風に使うなんて本当に良い度胸ね。今すぐここであなたを手土産にして、上に差し出してもいいのよ。今の橋元なら裏切り者の首には相当な賞金が懸かっているわ」
「はは、手厳しいねえ。でも先輩はそんなことしないだろ。もし本気で俺を殺す気なら言葉を交わす前に眉間に弾をぶち込んでるはず。違う?」
不敵に笑うミズキの態度に私は内心で舌を巻いた。確かに変わった。雰囲気が変わったなどという生易しいものではない。まるで、何か人間を超越した別の力の依代にでもなったかのような、圧倒的な存在感。ヨーカイの劣勢に絶望しているかと思えば、その表情には微塵の焦りも見られない。
「用件は何?まさか、また一緒に逃げようだなんて、寝ぼけたことを言いに来たわけじゃないでしょうね」
「まさか。俺もあれから少しは大人になった。先輩が何があっても橋元を裏切らねえってことも、自分の保身が一番大事なことも、ちゃーんと理解したつもりだよ」
ミズキはゆっくりと歩き出し、壁に立てかけられていた一本の木刀を手に取った。埃を払うように軽く振ると、それだけで鋭い風圧が周囲の空気を震わせた。
「先輩。俺と手合わせしてほしい」
「……は?」
私は思わず眉を顰めた。この状況で手合わせ?何を言っているんだこいつは。あまりの現実感のなさに耳を疑った。
「何言ってるの?橋元がタロンと組んで、あなたたちヨーカイをいつでも圧殺できるこの状況で、わざわざ敵の牙城に忍び込んで、そんなお遊びを頼みに来たの?」
「お遊びじゃない。俺にとってはこれからの命運を賭けた大真面目な勝負ってやつ」
「馬鹿馬鹿しい。なぜ私が、組織を裏切って敵に回った人間と遊んでやらなきゃいけないの?私がこの無線を入れるだけで三分もしないうちに組の人間がここを包囲するわよ」
「やりたきゃやればいいじゃん。でも、先輩はそんなことしないだろ?」
ミズキの人を食ったような笑みが、私の胸の奥をわずかに逆撫でする。彼は私の性格を実によく理解していた。ここで騒ぎを起こせば、侵入を許した道場の管理責任や私自身が過去にミズキを見逃したことへの疑念が生じる可能性がある。私は保身を第一とする人間だ。わざわざ自分の地位を危うくするような面倒事は、極力避けたい。
「…本当に、生意気な口を叩くようになったわね」
私は木刀を構え直した。一切の容赦を排した、確実に彼を圧倒するための殺気を込めて。
「いいでしょう、そこまで言うなら、付き合ってあげる。ただし、条件があるわ」
「条件?」
「私が勝ったら、あなたは二度と私の前に姿を現さないこと。ヨーカイがどうなろうが、あなたがどこで野垂れ死のうが、二度と私に関わらないと約束しなさい。あなたのお守り役はあの夜でとっくに終わっているのよ」
私の冷酷な宣告にミズキは一瞬だけ寂しそうな目をしたが、すぐにそれを獰猛な笑みへと変えた。
「いいよ。その条件、乗った。けど、もし俺が勝ったら、あの日の約束、果たしてもらうからな」
「あの日の約束…?」
記憶の霧の向こうから、いつかの会話が蘇る。「俺が手合わせで勝ったら、何でも御褒美ひとつくれるってやつ」—組織を裏切ってなお、そんな過去の約束に縋りついているのか。この男の幼さに、私は鼻で笑った。
「勝つわけがないでしょう。今日まで私に一度だって勝てなかった男が。もし万が一にでもあなたが勝ったら、何でも言うことを聞いてあげるわよ」
「言ったな、先輩。…後悔すんなよ」
笠とマスクを脱ぎ捨てたミズキが木刀を構える。肌を刺すようなプレッシャー。ミズキの踏み込みと同時に道場の空気が一変した。乾いた鋭い打撃音が地下道場に鳴り響く。ミズキの一撃はかつてとは比べ物にならないほど洗練されていた。若さと勢いに任せた直線的な軌道は影を潜め、体重移動、軸のブレ、刃の角度に至るまで、驚くほどの精度でコントロールされている。一歩の踏み込みにかかる加速も以前のそれとは桁違いだった。私を捉えようと放たれる横一文字の薙ぎ払いは、空気を裂くような凄まじい風圧を伴っている。だが、私は焦らない。相手がどれほど成長しようが私の技術が衰えたわけではないのだ。私は最小限のフットワークでその一撃を紙一重でかわし、流れるような動作で木刀を斜め下から振り上げた。ミズキの顎を狙った鋭い切り返し。かつてのミズキならこれだけで体勢を崩し、無様に床へと転がっていただろう。しかし、ミズキは私の動きを完全に予期していたかのように、即座に木刀の柄を下げて私の刃を受け止めた。木刀同士が激しくぶつかり合い、火花が散るような錯覚を覚えるほどの衝撃が走る。ミズキはそのまま力で押し切るのではなく、瞬時に刃を滑らせて私の力を受け流し、私の死角へと回り込もうとした。その身のこなしには実戦の修羅場を幾度も潜り抜けてきた者だけが持つ、独特の荒々しさと鋭さが同居している。ミズキの放つ鋭い一突きを木刀の側面で叩き落とし、がら空きになった彼の胴へ向けて掌底を叩き込もうと一歩前に踏み込んだ。私の間合い。私の必勝のパターンだ。これまで何度もこのタイミングで彼の意識を刈り取り、床へ叩きつけてきた。私の掌がミズキの胸元へと肉薄する。勝負は決まった。そう確信した。だが、ミズキの瞳には、焦りの色は一切なかった。それどころか、彼は私の掌底を避ける動作すら見せず、妖しく笑ったのだ。
「―かかった」
ミズキの唇がそう動いたように見えた。次の瞬間、私の掌が彼の胸に触れる直前、信じられないことが起きた。目の前にいたはずのミズキの身体がまるで陽炎のように、ふっと掻き消えたのだ。
「…っ!?」
私の掌は虚空を掴み、勢い余って身体がわずかに前へ流れる。残像。いや、そんな生易しいものではない。物理的な法則を完全に無視した、文字通りの消失だった。私は本能的な危機感を覚え、即座に背後へと飛び退こうとした。長年の戦闘経験が私の身体に最大の警戒を促していた。しかし、その動作は完遂されることはなかった。
「な、に……これ…!?」
足元に異常なまでの重圧を感じた。驚愕して視線を下に落とすと、そこには現実の物理法則を超越した光景が広がっていた。足の周りに不気味なネオングリーンの光を放つ不可視の鎖のようなものが絡みつき、私の身体をその場に完全に固定していたのだ。どれだけ力を込めても足が一ミリも動かない。私の自慢の体術も、洗練された身のこなしも、足元を封殺されてしまっては、何の意味もなさなかった。
「―そこまで」
背後から静かな、しかし、確固たる勝利を確信した声音が響いた。木刀の切っ先が私のうなじの皮膚にぴたりと押し当てられる。私は動きを止め、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。足元を縛る鎖は、依然として私の自由を奪い続けている。これは普通の人間が使える技術ではない。未知のテクノロジーか、あるいはこの世界に実在すると噂される、人間の限界を超越した異能の力あるいは秘術か。ゆっくりとミズキが私の視界の端へと回り込んできた。木刀を私の首元に突きつけたまま、彼は少年のような無邪気な悪戯心を覗かせながら、しかし、同時に一人の成熟した勝者としての凄みを孕んだ瞳で私を見下ろしていた。
「……俺の勝ちやね。先輩」
ミズキが静かに告げた。この道場で何度も無様に転がされ、それでもいつか絶対に私を追い抜くなどと、大言壮語を叩いていた男。訪れるはずもないと一蹴した未来が、今、現実として私の首元に触れている。私にとって人生で初めての、そして教え子からの完全なる敗北だった。私は奥歯を噛み締め、屈辱と困惑が混ざり合った声を絞り出した。
「…卑怯よ、ミズキ」
私は忌々しげに彼を睨みつけた。
「こんな得体の知れない力を使って…。純粋な体術や剣術の勝負なら私の勝ちだった。こんな勝ち方、認められるわけがないでしょう」
私の非難に対してミズキは少しも怯むことはなかった。彼は木刀をゆっくりと引き、私の足元を縛っていた鎖を霧のように消散させた。足元にかかっていた凄まじい重圧が消え、私の身体に自由が戻る。だが、首元に突きつけられた敗北の事実は消えることはなかった。ミズキは木刀を肩に担ぎ、フッと息を漏らして笑った。
「卑怯、ねえ。でもさ、先輩。俺に裏社会の戦い方を徹底的に叩き込んだのは、誰だったっけ?」
「何…?」
「『実戦なら勝てば官軍。どんな手段を使おうが生き残って敵を排除した奴が正しい』使えるものは何でも使って生き残れって、その基本を徹底的に叩き込んでくれたのは先輩じゃん。これも先輩の教育の賜物ですよ。俺はただ、忠実な教え子として、先輩の教え通りのやり方で勝っただけなんで」
確かにそれは私が彼に教えた裏社会で死なないための最低限の鉄則だった。綺麗な戦いなどクソ喰らえ、泥をすすろうが騙し討ちをしようが、最後に立っていた奴が勝者だ、と。私が教えた生存戦略は彼の中で独自の進化を遂げていたらしい。自分の蒔いた種とはいえ、あまりに都合のいい言い分に声を冷たく尖らせる。
「屁理屈を言わないで」
「屁理屈なんかじゃない。俺は本気で先輩に勝ちたかった。そのために死に物狂いでここまで来たんだ。…全部、先輩に追いつくため、先輩を守れる男になるために」
真っ直ぐすぎる瞳、聞く耳を持たないその態度に私は大きな溜息をつくしかなかった。呆れと、認めざるを得ない敗北感。本当にどこで教え方を間違えたのだろう。これほどまでに生意気で、これほどまでに手がつけられない男に育ってしまうなんて。言葉に詰まり、言い返せない私を見て、ミズキの表情から張り詰めた鋭さが消え失せ、かつてのような、あの屈託のない無防備な笑顔が戻ってきた。道場の中心で、私たちはあの日とは逆の立場で互いを見つめ合っていた。
「さあ、先輩。約束、覚えてるよな?」
ミズキがぐっと顔を近づけてくる。その距離は、かつてないほどに近く、彼の体温すら感じられるほどだった。彼の瞳の奥には勝利の昂ぶりなど前座に過ぎないと言わんばかりに、ただ私に追いつくためだけにすべてを擲ってきた男が抱く、あまりに純粋な執着が渦巻いていた。
「手合わせして、俺が勝った。……ってことは―」
ミズキは悪戯っぽく、けれどどこか妖艶に唇の端を釣り上げ、私の目をじっと覗き込んだ。
「先輩、御褒美ちょーだい」
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