河野瑞稀
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ヨーカイのアジトの一室。外の騒がしい喧騒から完全に切り離されたその空間には低く唸る冷蔵庫の重苦しい駆動音とエアコンから吹き出す微かな風の音だけが、やけに大きく響いていた。リビングのソファに並んで座る、名前とミズキ。表向きにはいつもと変わらない平穏な日常のひとコマ。しかし、その均衡はすでにミズキの手によって歪められようとしていた。
「はい、これ。喉乾いてんだろ?」
そう言ってミズキから差し出されたグラスを名前は何の疑いもなく受け取った。中身は、名前が好きな市販のちょっと高めのジュース。ミズキはグラスを差し出した自分の手がわずかに汗ばんでいるのを悟られまいと必死にポーカーフェイスを維持していた。
「あ、ありがとうミズキ。ちょうど喉が渇いてたんだ」
名前は屈託のない笑みを浮かべ、ストローに唇を寄せる。ごくごくと喉が鳴るたびにミズキの心臓はドラムのように激しく鼓動を刻んだ。ミズキの胸の内で黒い期待と緊張が渦巻く。実はそのジュースにはミズキが裏のルートから心血を注いで、そしてそれなりの大金をはたいて手に入れた怪しい薬が混入されていた。効果は劇的、かつ単純。飲んだ相手が身近にいる人間に理性を失って甘えてしまうという、いかにも眉唾物な代物だ。同じヨーカイのメンバーとして戦場でも日常でも苦楽を共にしてきた名前。ミズキは彼女に対してずっと募らせてきた片思いをどうしようもなく拗らせてしまっていた。普段の名前は真面目でミズキのことも頼れる仲間としてしか見ていない。だからこそ、ほんの少しでいいから自分だけに無防備に甘えてくれる彼女が見たかったのだ。ちょっとした悪戯のつもりであり、ほんの少しの男としての我が儘のつもりだった。だが―
「やっぱり、このジュースおいしいね。ミズキ覚えててくれたんだ」
グラスをテーブルに置き、息をつく名前。ミズキはソファの背もたれに腕を回した体勢のまま、横目でちらちらと彼女の様子を観察した。五分が経過する。十分が経過する。しかし、名前には何の変化も起こらず、時間だけが徒に過ぎていく。名前の意識は手元のスマホに向いており、SNSの可愛い動物や笑える画像を時々ミズキに見せる以外、変わった様子は一切ない。ミズキが期待するような無防備に甘えてくる様子は微塵もない。ミズキは内心、酷く狼狽していた。ただでさえ、金欠であるミズキが彼女に甘えてほしいという一時の欲望を叶えるためにあんな大金をはたいて手に入れたあの薬は偽物だったのか。それとも量が少なすぎたのか。猜疑心と不安と焦りが、ミズキの裏の顔をじわじわと侵食していく。眉間に皺が寄り、知らず知らずのうちに貧乏揺すりを始めそうになる。もし薬の副作用で、名前が甘えるどころか体調を崩しでもしたら。そう思ったら急に背筋が寒くなってきた。
「…ミズキ?どうかした?さっきから顔色が悪いけど…」
名前の呼びかけにミズキの心臓が跳ねた。見つめてくる瞳は濁りがなく、自分を心から案じる純粋さに満ちている。その無垢さに罪悪感が刺激され、ミズキの背中にさらに冷や汗が吹き出した。
「あ、いや…なんでもねえよ。ちょっと、考え事してただけだから。気にすんな」
「本当に?でも、額に汗かいてるし、どこか痛いの?」
名前はすっと腰を上げ、ミズキとの間にあった一人分の空間を一気に縮めて、身を乗り出してきた。そうして気遣わしげな表情で至近距離から顔を覗き込まれ、ミズキは思わず息を呑む。
「……大丈夫?」
そう言いながら、名前の手がそっとミズキの太ももに触れ、そのまま服の裾をぎゅっと握りしめた。ちり、とミズキの脳裏に電撃が走る。いつもなら、こんな距離感で触れてくることなど絶対にない。心配しているとはいえ、その目元はどこか潤んでいて、呼吸が少しだけ熱を帯びているように見えた。
(…来た。これ、来たばい…!)
ミズキの脳内で勝利のファンファーレが鳴り響いた。薬の効果は遅れてやってきたのだ。 見よ、この破壊力抜群の上目遣い。そして、躊躇いのないボディタッチ。彼女の純粋さに冷や汗を流していたはずのミズキだったが、この甘い誘惑を前にしては、残る罪悪感など一欠片もなかった。企みは成功した。後は、この可愛い雛鳥のように甘えてくる名前を、優しく受け止めて、存分に堪能させて―
「ねえ、ミズキ」
「ん、どうした、名前……」
甘い声を返そうとした、次の瞬間だった。
「…ミズキの匂い、すごく落ち着く」
どん、と予測不能の筋力と勢いで、ミズキの胸が押された。背中に強い衝撃が走り、気がつけばミズキはソファの上に完全に仰向けにひっくり返されていた。
「ッ!?え、ちょっと、名前!?」
視界が反転し、目の前にはミズキの体を両手で押し込んでいる名前の顔があった。その瞳は、完全に据わっている。甘える、なんて可愛いレベルではない。それはまるで、獲物を前にした肉食獣のそれだった。
「ちょっと待って、これ、想定と違う…!」
「待たない。だって、今のミズキ、凄く可愛い」
「かわい、って…お、おい、どこ触ってんだ!待て待て待て待て、落ち着けって!」
押し倒された体勢のまま、名前の細い指先がミズキの首筋や胸元を容赦なく愛撫し始める。理性が消し飛んだ彼女の力は驚くほど強く、そして何より、容赦がなかった。甘えるの解釈が、薬の成分のせいで完全に暴走している。
「ミズキ、ミズキ……好き……」
耳元に直接響く、蕩けた甘い声。そのまま首筋へと這わされる熱い唇。片思いの相手から眩暈がするほどの過剰供給。彼女の情熱的かつ剥き出しの猛攻の前に、ミズキの自制心はあっけなく粉砕された。
「……くっ、あー……もう、知らんぞ……!」
最初は抵抗しようとしていたミズキの手がずるずると彼女の腰に回る。抗う術さえ見出せぬまま、ミズキは名前の主導する圧倒的な熱の波に、ただただ翻弄され、溺れていくしかなかった。部屋の空気は一気に沸点を迎え、二人の境界線を曖昧にしていくのであった。
数時間後。アジトのリビングは、氷点下よりも冷たい空気に包まれていた。
「……で?これはどういうことなの、ミズキ」
地獄の底を這うような、低く冷徹な声。仁王立ちで腕を組み、額に青筋を浮かべたキリコだった。その表情は文字通り般若そのもの。今すぐにでもアルティメットの狐走りを発動させ、本来なら投げるためのクナイを両手で逆手持ちしたまま、相手の急所という急所を滅多刺しにし、喉笛を掻き切り、首をもぎ取らんとする凄まじい面構えをしている。御狐様の導きによって地獄へ導きそうな殺伐とした威圧感は、鉄坂の悪い子供が見た瞬間に泣き出すどころか、「言うことを聞かないと、両手にクナイを握りしめて般若の面を被った二足歩行の鬼狐がやってくるよ」と、街の新しい躾の怪談として語り継げそうなほどである。とはいえ、それは悪い子供だけでなく悪い大人の躾にも絶大な効果があるようで、現にミズキはリビングの硬い床の上に、完璧な姿勢で正座をさせられていた。その姿にヨーカイの年長者としての威厳は欠片も残されていなかった。
「いや、あのさ、キリコ。これには…その…深い訳というか、不可抗力というか…」
ミズキは完全に小さくなっていた。はだけた首元には、はっきりとわかる鮮やかな赤い痕がこれでもかと刻まれている。乱れた髪や衣服からは、つい先ほどまで激しい運動が行われたことは火を見るより明らかだった。そして、そのミズキの隣には、まだ薬の効果が完全に切れていない名前が、彼の左腕にべったり抱きついていた。彼女の髪も乱れ、服のボタンが掛け違えられており、やはり首元にはミズキが付け返したであろう赤い痕がしっかりと残っている。いつもなら真面目な彼女が、今は完全に放心したような、それでいて幸福そうな表情で、ミズキの肩に頭を擦り付けているのだ。誰がどう見ても、一線を越えた後の光景だった。
「へえ、どんな不可抗力があったら、名前がそんな風になるわけ?」
キリコの視線が、ミズキの首元と名前の首元を往復する。そのたびに、キリコから放たれる殺気が膨れ上がっていく。ミズキは、腕に絡みつく名前の柔らかい感触に一瞬だけ理性が溶けそうになるのを必死で堪え、彼女の頭をそっと撫でながら、蚊の鳴くような声で言った。
「あの、名前…。俺、今ちょっとキリコに怒られよるからさ。一回、ちょっとだけ離れようか?ね?」
「やだ。離れたくない。ミズキ、離れるのやだ…」
ミズキが優しく諭すように言うが、名前は即答して、さらに強く腕を抱きしめてくる。困ったようにやんわりと引き離そうとするも、名前は弱弱しい声を出しながら、今にも大粒の涙をこぼしそうな顔でミズキを見上げてくる。
(…あかん、可愛すぎる。何これ、反則やろ。薬のおかげとはいえ、こんな名前が見られるなら、俺、地獄に落ちてもよか……)
内心で身悶えするミズキ。しかし、自分がすでに地獄のド真ん中に叩き落とされていることを彼は完全に失念していた。ふと視線を上げると、キリコがクナイをちらつかせて、今にも脳天に突き立てて来そうだった。ミズキの背中に冷や汗がどっと噴き出す。
「ミズキ。私の目の前で、被害者相手に盛るのをやめろ」
「ひゃいっ!盛ってません!滅相もない!」
「…はぁ。ちゃんと説明して。どうして名前がこんな状態になってるの。あんた、何をしたの?」
キリコの凍てつくような尋問。ミズキは、ここで嘘をついても無駄だと悟った。キリコの勘は恐ろしく鋭いし、何より証拠が揃い過ぎている。
「…白状します。俺、名前に甘えてほしくて…ちょっと、怪しい薬を手に入れて、ジュースに混ぜて飲ませました。そしたら、思ったより効果が強過ぎて、逆に押し倒されて…。その、最初は抵抗したのですが、名前があまりにも可愛くて、俺の理性がサヨナラしてしまって、…あ、違うわ、その前に、押し倒された状態で名前の手で容赦なく弄られて、俺、一回先にイかされてしまいまして…そのまま、その…、一回目は名前が上で、二回目は俺が我慢できなくなって、―」
「ストップ!そこまで聞いてない!!」
キリコが激昂し、リビングのテーブルを思い切り叩いた。凄まじい音にミズキの肩が跳ね上がる。
「誰がそこまで生々しいディテールを話せって言ったのよ!聞きたいのは薬の出所と経緯だけだよ!この最低のエロ河童!!」
「エロ河童って…!俺かて男ですよ!?好きな女にあんなことされたら、手ぇ出すのが自然の摂理ってやつでしょうが!」
「黙りな!往生際の悪い容疑者の定番セリフみたいなこと言って、自分を正当化しようとするな!」
キリコは頭痛を堪えるように額を押さえた。大きく深呼吸を繰り返し、殺気をどうにかコントロールしようとしている。これでもミズキは一応、ヨーカイの仲間だ。今の所は。キリコがここでミズキを八つ裂きにすることは容易かったが、今はまだその時ではない。
「それで?この落とし前はどうつけるつもりなの、ミズキ」
キリコの冷ややかな追及に対し、ミズキは不意に真面目な表情を作った。そして、己の腕にすがりつく名前の手を、今度は自分の左手でしっかりと握りしめる。
「わかっとる。俺が男として、ちゃんと責任はとるけん」
「へえ、どうやって?」
「名前、俺と結婚しよう。一生、大事にする」
状況、倫理観、タイミング、そのすべてを無視した、大真面目なプロポーズだった。どさくさに紛れて、ずっと胸に秘めていた本心をこれ以上ないほどストレートに投げつけたのだ。手を握られた名前も、薬の効果でトロンとした目をしながら、嬉しそうにふにゃりと微笑んでいる。完璧なハッピーエンド。ミズキの中では確信していた、はずだった。
―ゴンッ!!!
「痛ああっ!!」
間髪入れず、キリコの強烈な鉄拳がミズキの脳天にクリーンヒットした。あまりの衝撃に、ミズキは床に頭を打ち付けそうになる。
「何が結婚しようだ、正気じゃない相手になに言ってんのよ!この状況でちゃっかり自分の願望を叶えようとするな!順番と倫理観が狂いまくってるのよ!」
「痛かぁ…っ! 殴らんでもよかろうもん! 俺は本気で―」
「うるさい。それから、朗報と悲報を教えてあげる」
キリコは拳についた埃を払うように息を吹きかけ、冷たい目でミズキを見下ろした。
「その怪しい薬、私が以前、闇市場の摘発データで見たことあるやつだわ。後一時間もすれば、効果は綺麗に切れる」
「えっ、後一時間…?」
「そう。つまり、後一時間経てば、名前は正気に戻る。正気に戻った名前にちゃんと包み隠さず自分が最低最悪のエロ河童であることを懺悔して、死ぬ気で謝りな。それから、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられながら再起不能になるまでボコボコにされて、そのまま死ぬほどの絶望を味わって、最終的に死ねばいいわ。わかったら今すぐ死ぬ準備をはじめなさい」
言い捨てるようにそう言うと、キリコは盛大なため息をつきながら、リビングを出て行った。パタン、とドアが閉まる音が、まるで裁判の判決のように重く響く。静まり返った室内。ミズキはキリコに殴られた頭のてっぺんを涙目で押さえながら、ようやく正座を崩す。
「痛っ…キリコの奴、容赦なかね…」
溜息をついた、その時だった。ミズキの打たれた頭を優しく、何度もなでなでと撫で始める手の感触。当然、名前だった。彼女は心配そうにミズキの顔を覗き込む。
「ミズキ、痛い?大丈夫?」
「あ、いや…大丈夫。キリコのパンチはいつも効くけど、名前が撫でてくれたら痛いのも飛んでいくよ」
優しく労るような彼女の行動に、ミズキの心はまたしても激しく揺さぶられる。薬の効果とはいえ、その優しさは五臓六腑に染み渡った。
「…ねえ、ミズキ」
「ん?」
「さっきの…キリコの前でのプロポーズ。すごく…かっこよかった」
名前は頬を林檎のように真っ赤に染め、潤んだ瞳でミズキを見つめた。
「私、嬉しかったな。…本当に、私をお嫁さんにしてくれるの?」
破壊力抜群の本日二度目の上目遣いだった。 ミズキの心臓がどくん、と大きく跳ね上がる。 数時間、激しく愛し合った直後であるはずなのに、ミズキの体は信じられないほどの熱を帯び始める。だが、ミズキは必死で理性の残骸を掻き集めた。キリコの言葉が脳裏をよぎる。後一時間で、彼女の魔法は解けるのだ。
「…お前さ、それ、薬のせいで頭がフワフワしてるから言ってるだけなんだよ。聞いてただろ?後一時間したら、薬の効果が切れるって。正気に戻った後も、今の言葉、同じように言える?」
少し意地悪な、確認の問い。どうせ薬のせいだ。正気に戻ったら、彼女は怒るに決まっている。そう自分に言い聞かせ、ブレーキをかけようとした。しかし、名前は首を横に振った。
「言えるよ。だって私、ミズキのこと、ずっと―」
名前はミズキの首の後ろにその細い両腕を絡めた。体温が直接伝わってきて、彼女の吐息が、ミズキの耳元に直接吹きかけられた。
「―ずっと、好きだったよ」
甘く、確かなトーンで囁かれた告白。その瞬間、ミズキの頭の中で何かのスイッチがカチリと入る。名前が正気に戻るまで後一時間。その一時間、この極上の甘えん坊な彼女をただ眺めているだけで、終わらせるなんて、男として不経済が過ぎるというものだ。ミズキの目が獰猛な男のそれに変わる。感情が限界突破し、欲が濁流のごとく押し寄せる。
「……おい、そりゃ卑怯たい、名前」
ミズキは、自分の首に回された名前の腕を掴み、そのまま彼女の細い腰を強引に引き寄せた。二人の体が、隙間なく密着する。名前は驚く風でもなく、むしろ嬉しそうにミズキの胸に体を預けてきた。
「キリコは後一時間で薬が切れるって言ってたよな」
ミズキの低い声が、名前の耳を優しく噛むように響く。
「後一時間あるなら、もう一回くらい責任ってやつを深めとく必要があると思わない?なぁ、名前?」
ミズキの手が、ゆっくりと名前の服の裾から、その温かい肌へと滑り込んでいく。逃がさない。そう言わんばかりに、ミズキの指先が彼女の腰を強く愛撫する。薬の効果が残る今の名前がそんな魅力的な提案を断るはずもなかった。
「…うん。いいよ、ミズキの好きにして…」
どこまでも無防備にミズキのすべてを受け入れる姿勢の名前。ミズキは彼女の髪を優しく愛おしそうに撫でながら、今度はゆっくりと、だが確実に彼女の唇を奪いに行った。時計の針が、薬の切れるリミットへと向かって刻一刻と進む中、一時間後に訪れる地獄のような修羅場など今のミズキの頭からは完全に消え去っていた。腕の中で自分を求める愛おしい存在を前に理性を残せるほど諦めも良くなかった。
「…はあ、後悔しても、もう絶対に離さねえかんな」
一時間後にどれほど残酷な現実が待とうとも、今はただ、彼女の確かな体温だけがミズキのすべてだった。未来の代償など惜しくはないと思えるほど、男の理性は彼女の無防備な愛に優しく狂わされていった。
ちなみに一時間後に訪れた修羅場はミズキの想像を絶するものであり、現場は筆舌に尽くしがたい凄惨を極め、目を覆うばかりに無残な阿鼻叫喚の血溜まりへと様変わりした。ただ、そんな地獄の真ん中で、当の本人はといえば、「反省はしています。でも、あの瞬間本気で愛し合えたけん後悔はなか」と、とても安らかな笑みを浮かべながら、そう言い残したという。
致死量トキシック
MANA3/260630