河野瑞稀
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好きな子をいじめるタイプの河童の続き
翌日。ミズキは昨夜、一睡もできなかった。一晩中、部屋のベッドの上で天井を見つめて過ごしていた。目を閉じれば、涙をいっぱいに溜めて自分を睨みつけた名前の顔が鮮明に蘇る。耳の奥では、あの大嫌いという鋭い悲鳴のような声が、鼓膜を何度も引っ掻くようにリフレインしていた。どうやって名前に謝ればいいか。どうすれば大嫌いという言葉を取り消してもらえるのか、そればかりを考えていた。鏡に映った自分の顔は、目の下に濃い隈が浮かび、痛々しいほどにやつれている。ミズキは重い足取りでアジトへと向かった。胸の奥がまるで他人のもののように不規則にドクドクと不快な音を立てている。扉を開ける手が、情けないほどに震えていた。もし、今日も昨日と同じような拒絶の目で睨まれたら。もし、自分の姿を見た瞬間に部屋を出て行かれたら。そんな恐怖が、全身の血を凍らせていく。アジトの共有スペースの扉を開けると、すでに定位置のソファに腰掛け、タブレット端末をじっと見つめている名前の姿があった。昨日あれほどずぶ濡れになっていた髪はきちんと整えられて、いつも通りの服装に身を包んでいる。部屋の隅、キリコは壁に背を預け、腕を組んでじっとその光景を見守っている。ミズキはごくりと固唾を呑み、意を決して、一歩、彼女の方へと足を踏み出した。
「……名前。おはよ」
喉の奥がカラカラに干からびていて、上手く声が出ない。何とか必死に絞り出した声は、自分のものではないかのように掠れていた。いつもなら背後からからかうように声をかけていた。それがどれほど傲慢で、彼女の尊厳を傷つける行為だったのかを失って初めて痛感する。今のミズキには、その数歩の距離が、まるで底の見えない奈落の溝のように遠く、深く感じられた。声をかけられたはずの名前はぴくりとも動かなかった。挨拶の声が聞こえなかったはずがない。ミズキの声は、静まり返った部屋の中に確かに響いていた。しかし、名前は睫毛一つ動かすことなく、ただじっと手元の画面を見つめ続けている。
「あの、さ……昨日のこと、なんだけど…俺、お前がそんなに悩んでいるなんて知らなくて、本当に悪いことしたなって―」
「キリコ」
ミズキの言葉を遮るように、名前は立ち上がると足早にキリコの元へと歩み寄る。
「次のエリアの索敵データだけど、やっぱり東側のルートが一番安全だと思う。こっちの裏路地なら、橋元組の監視カメラの死角に入り込めるはずだから」
「…そうだね。確かにそこなら遮蔽物も多いし、いざという時の退路も確保しやすいかも」
キリコは一瞬だけミズキに冷淡な一瞥をくれたが、すぐに名前の言葉に合わせて、あえてミズキを無視するように話を進めていく。ミズキは自分がそこに存在していないかのような扱いに、息が詰まるほどの衝撃を覚えた。いつもなら、どれだけ冷たくあしらわれても笑って流せていた。だが、今の拒絶は毛色が違いすぎる。存在の全否定。心臓が、雑巾を絞るようにギュウギュウと締め付けられる。これほどまでにきつい仕打ちが、この世にあるのだと初めて知った。
やがて、他のメンバーも集まり、本格的な作戦会議が始まった。次回の作戦エリアにおける各員の役割分担が決められていく中、ミズキはなんとかこの最悪な状況を打破したくて、そして何より、傷つけてしまった名前の安全を自分が守りたくて、必死に会話の隙間を探していた。
「よし、大まかな配置はこんなところかな。このエリアでの前衛は私と、あとミズキ。後方のサポートと情報収集を名前に頼みたい。何か意見はある?」
キリコが地図を広げて指示を出し、全体を見回して問いかける。名前が「私は大丈夫」と頷いた、その瞬間だった。ミズキはここぞとばかりに、少し焦ったような声で身を乗り出した。
「待ってくれ。俺、今回の作戦、前衛じゃなくて名前のフォローに回る。後方つっても、今回のエリアは橋元組の奇襲が予想される場所だろ?近くに居た方が、何かあった時に俺がすぐ動けるし、安全だと思うんだけど」
「必要ありません」
敬語。他人行儀という言葉すら生ぬるい、明確な境界線。冷酷な、刃のような声が、ミズキの言葉をばっさりと切り捨てた。周囲のメンバーもただならぬ険悪な雰囲気を察し、顔を見合わせ、二人の動向を窺っていた。
「ミズキの言うその配置は、事前の作戦計画にはないものです。私は当初の予定通り、キリコの指示に従って、指定されたポジションから後方支援を全うします」
「でも、万が一ってことが―」
「作戦に関係のない個人の主観を挟まないでください。効率と安全性を考えるのなら、キリコの作戦通り、各自の持ち場に徹するのが最善です」
「いや、そうじゃなくて!俺はただ、お前の身が心配で……」
「作戦の話をしています、ミズキ。足手まといだと判断されるなら、私は別のルートを単独で構築します」
ぴしゃりと言い放たれたその言葉の冷たさに、ミズキの思考は真っ白になった。足手まといだなんて、そんなこと微塵も思ったことはない。むしろ、情報収集や分析において、彼女がどれほどヨーカイの要としてみんなを支えているか、ミズキだって痛いほど理解している。それなのに、自分の浅はかな言葉のせいで、彼女にそんな頑なな防衛線を張らせてしまった。
「これ以上、議論の余地はありません。キリコ、この配置で確定でいいよね」
「…うん。名前がそう言うなら、当初の予定通りで行こう。前衛は私とミズキ。名前は後方支援。じゃあ、今日はこれで解散」
キリコが重苦しい空気の漂う会議を締めくくると同時に、名前は手元の資料をまとめて早々に部屋から出ていく。ミズキはただただその姿を見送ることしかできなかった。張り詰めていた緊張の糸が切れ、残されたメンバーたちが一斉にざわつき始める。口々に非難や心配の声を漏らしながらミズキに詰め寄ろうとするのをキリコが鋭い声を張り上げ、遮るように両手を叩いて追い立てる。メンバーたちはなおも後ろ髪を引かれるようにミズキを気にしつつも、キリコの有無を言わせぬ態度に押され、口々に小声で囁き合いながらしぶしぶと部屋を後にしていった。静まり返った部屋で、ミズキはふらふらとした足取りで椅子にどさりと深く体重を預け、両手で顔を覆った。そのまま前髪を乱暴にかきむしり、喉の奥から絞り出すような呻き声を漏らす。
「……あー、クソ。何やこれ、きっつ……」
肉体的な痛みなど比べものにならないほど、胸の奥がズタズタに引き裂かれ、血が流れているような感覚だった。心の底から、自分が仕出かしたことの深刻さが身に染みていた。彼女が怒って言い返してくれていたのは、自分に対してまだ心を開いていたからなのだ。本当に嫌われ、拒絶された時、人間はこうも冷たく、遠い存在になるのか。
「だから言ったじゃない」
キリコが淡々と、けれどどこか哀れみの混ざった声をかける。
「無視されて、他人のように扱われるのがそんなにショック?でも、むしろ感謝したらどう?その程度で済ませてもらえてさ。悪いけど、名前が味わわされた痛みはそんなものじゃないから。あんたがヘラヘラしていた裏で、あの子はずっと長い間、苦しみ続けてたんだよ」
「わかってる……わかってるよ、そんなこと……」
ミズキの声は情けないほどに震えていた。いつも余裕を崩さず、どんな窮地でも不敵な笑みを浮かべていた男の面影は、今のミズキにはどこにもなかった。
「あいつ、俺のこと、完全にいないものとして扱って……声、めちゃくちゃ冷たかった……。まだ他人のフリされるよりも、怒鳴られた方がマシだわ……。なあ、キリコ。俺どうしたらいい?どう謝ればあいつは許してくれる?」
「謝る?許してもらうために?何言ってんの」
キリコは厳しい眼差しのまま、鼻で笑った。
「あんたさ、まだ自分のことしか考えてないんじゃない?自分がきついから、自分が冷たくされるのが耐えられないから、だから謝って元の関係に戻りたいだけでしょ。本当に反省してる人間の態度じゃないわ」
「違う!俺は……!」
ミズキは激昂しかけたが、続く言葉が見つからず、そのまま口を噤んだ。違う、と叫んだものの、キリコの言う通り、拒絶される痛みに怯えている自分を否定しきれなかったからだ。キリコは静かに、けれど逃げ道を一切塞ぐような冷たいトーンで言葉を重ねた。
「あのね、ミズキ。名前が本当に傷ついたのは、からかわれたことそのもの以上に、自分の尊厳をあんたに踏みにじられ続けたことだよ。嫌だって言ってる本心を可愛いからなんて独りよがりな理由で無視されて、笑いものにされて…あの子がどれだけ惨めな気持ちだったか、本当にわかってる?」
「……」
「自分のプライドを守りながら上辺だけ謝ったって、あの子には全部見透かされるよ。そんな半端な気持ちじゃ、一生名前の心は戻ってこない。自分が傷つくのを恐れて防衛線張ってるうちは、あの子の本当の傷の深さなんて、一生わかりっこないんだから。本当に名前を大切に思うなら、自分がどれだけ最低なことをしたか、格好悪いところも全部晒して、地べたに這いつくばるくらいの覚悟で向き合いな。それができないなら、もう二度とあの子に近づかないで」
キリコはそれだけ言い残すと、振り返ることもなく部屋を出て行った。ミズキはただ一人、自分の震える両手を見つめて、すべてを遮るように顔を覆う。いつもおちゃらけて、からかう側に回っては煙に巻いていた。傷つくのが怖くて、本当の気持ちを伝えるのが恥ずかしくて、歪んだ愛情表現でしか名前に触れられなかった。そんな自分のちっぽけなプライドが、世界で一番失いたくない人をここまで追い詰めたのだ。
「……格好悪かぁ、俺」
ポツリと溢れた自嘲の言葉は、力なく、弱々しかった。冷たく無視されるこの痛みがきついなんて、本当に自分のことしか考えていない証拠だ。名前は、これの何倍もの痛みに、毎日耐え続けてくれていたのだ。ミズキは、顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。そこに浮かんでいたのは、いつもの不遜な構えでも、先ほどまでの怯えでもない。ただ、自分のプライドも、格好悪さも、すべてをかなぐり捨てるという、静かで痛切な覚悟だった。許してもらえないことも、大嫌いと言われることも当然だ。だが、このままで終わることは絶対に嫌だった。もう、逃げない。どれほど憎まれようと、存在を否定されようと、ただ、自分のせいでボロボロになった名前の心に、今度こそ真っ直ぐに向き合うと、ミズキは強く拳を握りしめた。
名前は、アジトの奥にある倉庫の片隅で、一人タブレットの画面と向き合っていた。薄暗い空間。精密機械の駆動音だけが静かに響くそこは、今の彼女にとって、唯一息をつける避難所だった。
「……はぁ……」
画面を見つめたまま、名前は小さく胸を押さえた。ミズキを完全に無視した。業務に徹して、冷徹に切り捨てた。その瞬間、彼の顔がどれほど絶望に染まったか、視界の端で嫌でも見えてしまった。すっきりすると思っていた。あれだけ嫌なことをされて、傷つけられたのだから、当然の報いだと。だが、胸の奥に残るのは、泥のように重苦しく這い回る自己嫌悪だけだった。本当は、あんな突き放すような言葉を投げつけたいわけじゃない。ただ、もう二度と傷つけられたくなくて、必死に心を尖らせて身を守るしか選択肢がなかったのだ。カツ、と通路から、躊躇うような、けれど確かな足音が近づいてくる。名前は一瞬で体を硬くした。この足音の主を、彼女が忘れるはずがない。
「……名前」
背後から掛けられた声に、名前は振り返ることもなく、ただタブレットを握る指にぎゅっと力を込めた。昨日までの気の抜けた軽薄さは、その声から完全に削ぎ落とされている。低く、酷く震えた、今にも壊れてしまいそうなほど痛切な声。だが、名前は感情を無理やり押し殺して返事をする。
「…何の用ですか。作戦のデータなら、先ほど共有サーバーにすべてアップロードしました。確認漏れがないかそちらを見てください」
「違う、作戦の話じゃない」
「私的な会話なら、あなたと話すことは何もないです」
名前はそれ以上、言葉を返さなかった。完全にシャットアウトする意思を示すように、再びタブレットの画面に視線を落とし、指先を動かし始める。沈黙が二人の間に重くのしかかる。これ以上、聞く耳を持たない。完全に心を閉ざした名前の拒絶は、鉄壁だった。言葉を返さず、まるでそこに誰もいないかのように淡々と作業を続ける彼女の背中は、ミズキの胸をこれでもかと締め付けた。それでも、ミズキは退かなかった。昨日までの彼なら、気まずさに耐えかねて冗談で誤魔化すか、その場を逃げ出していただろう。だが、今のミズキは違う。キリコの言葉が、自分の浅はかさをこれでもかと暴いてくれたから。
「…頼む、こっちを向かなくていいから。俺の顔なんて見たくもないよな、わかってる…。でも、お願いだ、話だけは聞いてほしい」
周囲を煙に巻いていた、あの掴みどころのない雰囲気は微塵もなく、ただただ懇願するような、ひたむきな響きだけが狭い倉庫に満ちていく。ミズキは彼女の背中に向かって、震える息を吸い込み、一語一語を自分の心臓から血を絞り出すようにして言葉を紡ぎ始めた。
「俺さ、ほんっとうに最低なクズやった。お前が毎日、どれだけ俺のせいで嫌な思いをしとったか、俺、ちっともわかっとらんかった。嫌がっとるお前の顔を可愛いだの何だの都合のいい言い訳にして、自分のくだらん欲求を満たすためだけに、お前の心ば、ズタズタに踏みにじっとった…。お前が怒った後にどれだけ一人で傷ついて、自己嫌悪に陥っとったか……想像したこともなかった。お前をそこまで追い詰めたのは、他でもない俺たい」
背中越しに伝わってくるミズキの声は、いつもと違ってあまりにも脆く、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。名前はタブレットを握る手に一層の力を込めたが、動かしていた指は完全に止まっていた。
「俺、お前を馬鹿にしたことなんて、一度もなか。笑い者にしたかったわけじゃなか……。ただ、お前が、その……あまりにも愛おしくて。俺にだけ見せてくれるあの真っ赤な顔が、独り占めしたくなるくらい可愛くて、どうしようもなくお前に構ってほしくて、お前の特別になりたくて……。でも、ガキみたいに格好つけて、いじることでしか気持ちの伝え方を知らんかった。傷つけることでしか、お前を引き留められんかった……本当に、格好悪い、ただの臆病者やった」
倉庫の張り詰めた空気の中に、ミズキの痛切な本音が、胸の傷口から溢れ出るように響く。それは、飄々とした態度の裏にずっと隠し持っていた、狂おしいほどの一途さを露わにする言葉だった。いつも被っていた軽薄な仮面をすべて剥ぎ取られ、心の一番奥にある、泥臭くて格好悪い本音をすべて晒し出す言葉。彼女を傷つけることでしか繋がれなかった、哀れな男の、これが本当の姿だった。
「昨日のお前の涙ば見た時、俺、呼吸が止まるかと思った。俺のせいで、お前がそんな顔せんと気づけんかった自分が、本当に情けなくて、消えてしまいたいくらい悔しかった。お前がおらんと、俺……マジで、どうしていいかわからんと。ヨーカイのメンバーとしても、一人の男としても、お前が、お前だけが、俺にはどうしても必要やけん……っ」
肺腑をむしり取られるような痛みに耐えながら、ミズキはなおも言葉を紡いだ。
「許してくれなんて言えんし、元の関係に戻してほしいなんて、そんな虫のいいことも口が裂けても言わん。お前が俺を一生許さなくても、無視し続けても、それは俺が背負わんといかん罰やけん……。ただ、これだけは約束させてほしい。もう二度と、お前が嫌がることはせん。お前が真面目に頑張っとるのを、絶対に笑ったりせん。お前を傷つけるようなことは、死んでもせんから……。だから、俺を、もう一度だけ……お前の視界の端にだけでも、置いてくれん、かな……」
倉庫を支配する、耳が痛くなるほどの静寂。名前の胸の奥で、冷たく尖っていたはずの防衛線が、ミズキのあまりにも不器用で、剥き出しの言葉によってじわじわと融解していくのがわかった。あの飄々として、誰に対しても自信に満ちていたミズキが、ここまで自分を惨めに晒して謝っている。名前は小さく息を呑み、意を決して、ゆっくりと振り返ると、ぎょっとして言葉を失った。そこに立っていたのは、彼女の記憶にある、いかなるミズキの姿ともかけ離れていたからだ。ミズキは胸元の服を、まるで肺腑が引き裂かれる痛みに耐えかねているかのように、拳でぎゅっと苦しそうに掴みしめていた。銀髪はボサボサに乱れ、その隙間から覗く目の下には濃い隈が刻まれ、顔は酷くやつれ果てていて、彼がどれほど過酷な夜を過ごしたかを物語っていた。そして、その瞳からは、大粒の涙が次から次へと溢れ落ち、頬を濡らしている。昨日まで彼女を困らせて悦に入っていた過去の自分を激しく呪うように、かつての意地悪く口元を釣り上げた笑みは完全に死に絶えていた。そこには、ただ一人の、今にも壊れてしまいそうなほどボロボロに打ちのめされた男が立ち尽くしていた。
「ごめん……本当に、ごめん……。俺、どうしたらいいか、本当にわからんくなって……。お前に嫌われたら、俺……もう、生きてる心地がせん……」
喉をひくつかせ、必死に嗚咽を噛み殺すミズキは、なおも頭を下げようと身を震わせる。その姿からは、かつての傲慢さや人を食ったような態度、ちっぽけなプライドの残滓はどこにもなかった。あるのはただ、名前を傷つけてしまったことへの底知れない恐怖と、彼女を失うことへの絶望だけだった。
「……ミズキ」
名前はタブレットを静かに近くの棚に置いた。彼の泣き顔を見て、胸の奥がズキリと痛む。昨日まであれほど自分を支配していた怒りや拒絶の感情が、彼の剥き出しの涙と、形振り構わない必死な言葉の数々によって、みるみるうちに霧散していくのを感じていた。キリコの言う通り、ミズキは本当に、自分の格好悪いところをすべて晒して、地べたに這いつくばるような覚悟でここに来たのだ。名前はゆっくりと歩みを進め、ミズキの目の前で足を止めた。いつもなら背後から見下ろしてくるはずの彼が、今は肩を小さくすぼめ、視線を床に落としたまま小刻みに震えている。その姿を見つめながら、名前は小さく息を吐き出した。
「顔、上げて」
「……名前……」
恐る恐る顔を上げたミズキの瞳は、涙で真っ赤に腫れ上がっていた。いつものことを考えれば、情けない顔と追い討ちをかけているところかもしれない。けれど、今の彼の憔悴しきった姿からは、自分の過ちと本気で向き合い、一睡もできずに苦悩していた事実が痛いほど伝わってきた。
「……本当に反省してる?」
「しとる!骨の髄まで反省しとる。お前が許してくれるなら何でもする!」
「……謝罪は、受け入れます。あなたの、その情けない姿に免じて」
「じゃあ……!」
ミズキは弾かれたように顔を跳ね上げ、縋るような、けれどまだ信じられないといった面持ちで、涙に濡れた瞳を大きく見開いた。
「ただし!」
名前はそんな彼の顔をまっすぐに見据え、明確に、けれどどこかいつもの調子を取り戻した声で最後の条件を突きつけた。
「これからは、からかったり意地悪したりするんじゃなくて、私にちゃんと優しくすること。いい?これが私の絶対条件だからね」
その言葉を聞いた瞬間、ミズキの瞳に光が戻った。まるで真っ暗な奈落から引き揚げられたような、胸のすく底抜けの喜びが、彼の涙で濡れた顔いっぱいに広がっていく。
「約束する!絶対に約束する!これからはお前を世界一大事にするし、いじわるも絶対にせん!優しく、もうこれ以上ないくらい優しくするけん……!」
必死に何度も頷くミズキを見て、名前は押し殺していた感情が決壊するように、思わずフッと柔らかな笑みを零してしまった。
「うん。じゃあ、仲直りしてあげる」
「……ッ、名前……!」
ミズキは衝動的に名前の手を、まるで壊れ物を扱うかのような、けれど絶対に離したくないという切実な力加減で、両手で包み込むようにギュッと握りしめた。その手のひらは驚くほど熱く、そしてまだ小さく震えていた。
「ああ……よかった……本当によかった……。俺、まじでお前に見捨てられたと思って、死んでしまうかと思ったばい……」
ミズキはそう言うと、子供のように何度も大きく鼻をすすり、せっかく止まりかけていた涙をまたボロボロと溢れさせ始めた。大柄な体を小さく丸め、名前の小さな手を両手で拝むように包み込みながら、何度も、何度も、窮地から生還できたことを神に感謝するかのように頭を低く下げる。今のミズキの流す涙に、打算や欺瞞は微塵も存在しない。ただただ、世界の終わりから救い出されたような、剥き出しの安堵だけがそこにあった。
「ミズキ……もう泣かないでよ。誰かに見られたら、私が苛めてるみたいに見えちゃう」
「わかっとる、わかっとるけど……っ」
名前が困ったように眉を下げて声をかけると、ミズキはなおも声を震わせた。真っ赤に腫らした目で、縋るように名前を見つめる。その瞳には、先ほどまでの絶望に代わって、今度は狂おしいほどの不安が揺れていた。
「なぁ、名前……本当に俺のこと、もう大嫌いじゃなかと?無理して許したフリしとるわけじゃなかよね?俺、お前にまた冷たくされたら、今度こそ本当に心が死ぬ……」
「うん。本当だよ。嘘ついてどうするの」
「あぁ……」
ミズキの口から、魂が抜けたような深い吐息が漏れた。その顔に、ようやく、固く強張っていた憑き物が落ちたような安らかな表情が広がっていく。床にへたり込みそうなほど力が抜けていく身体をなんとか支えながら、ミズキは名前の手を握る力に、じんわりと温かい熱を込め直した。
「よかった……マジでよかった……。じゃあ、さ……」
最悪の事態を免れたものの、ミズキの心はまだ怯えを忘れてはいなかった。その温もりが消えてしまわないか恐れるように、潤んだ瞳で恐る恐る名前の顔を覗き込んだ。
「大嫌いじゃなか、ってことは……俺のこと、好き?」
「ふっ……何それ。好きだよ。仲間としてね」
名前は呆れたように息を吐きながら、けれど繋がれた手は振り払わずに、釘を刺すように言葉を重ねた。
「……仲間として」
ミズキは少しだけ寂しそうに眉を下げたが、すぐにその表情を柔らかいものへと変えた。今の自分が犯した過ちの大きさを考えれば、拒絶されず、こうして同じ空間にいられるだけでも奇跡に近いのだ。
「贅沢は言えんね。今は、それでいい……。いや、それがいい」
ミズキは名前の小さな手を、今度は愛おしさを込めて優しく握り直した。
「でもさ、これからはただの仲間じゃなくて、一人の男として認めてもらえるように、俺、ちゃんと変わるから。お前が嫌がることは絶対にせんし、誰よりもお前のことを大切にする。だから……俺が本当に優しくて頼れる男になれるかどうか、傍でずっと見てて」
「うん、わかった。ちゃんと見てる」
名前の優しい微笑みに、ミズキの胸の奥には心地よい温かさが広がっていった。もう、歪んだからかいで気を引くような真似は要らない。格好悪い姿もすべて受け入れてくれた彼女の隣で、今度は真っ直ぐに、その笑顔を守っていけばいいのだから。
好きな子に許されたい河童
MANA3/260617