河野瑞稀
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ヨーカイのアジトにある古びたソファは、名前の定位置だった。その日も名前は、タブレット端末に表示された次回の任務エリアのマップや、巡回ルートのデータを真剣な眼差しで確認していた。鉄坂を橋元組から守るという同じ志をもつ、ヨーカイのメンバーとして、仲間の足手まといになるわけにはいかない。少しでも頭に情報を叩き込もうと、名前は画面をスクロールする指に力を込める。
そんな彼女にとって、毎日必ず訪れる最大の試練が、背後から迫っていた。
「おーい、名前。何、真剣な顔して画面見てんの?」
背後から掛けられた気の抜けた声と、同時に頭頂部に乗せられたずっしりとした腕の重み。それだけで、名前は心の中で大きなため息をついた。画面に表示されていた任務のタイムラインから目を離さず、名前はできるだけ平坦な声を意識して返す。
「…作戦の確認。邪魔しないで、ミズキ。今、結構大事なところだから」
「へえ、任務ね。相変わらず、お前は真面目だなあ」
ミズキは感心したような口振りとは裏腹に、まったく退く気配がない。頭の上から腕を引きはがしたかと思えば、今度は名前が座っているソファの背もたれに肘をかけ、上から覗き込むようにして距離を詰めてきた。橋元組に奪われた鉄坂の平和を取り戻す。その同じ志のもと、ヨーカイのメンバーとして共に戦うことになった仲間、それがミズキだった。実力は確かで、戦場では頼りになる。それは間違いない。だが、ひとたび任務を離れた日常に戻ると、名前にとって彼は途端にある種、橋元組よりも厄介な天敵へと変貌するのだった。毎日毎日、顔を合わせればこれだ。服が裏表逆なんて小学生のような嘘をつき、少し言葉を噛んだだけでここぞとばかりに突っ込んでくる。センスがガキっぽいだの弱いんだからもっと俺を敬うべきだの、重箱の隅をつつくような小言といじりを執拗に繰り返してくるのだ。
「なあ、これ何のデータ? 俺にも見せて」
「ちょっと、近い。画面が見えないんだけど。ミズキも自分の端末に送られてるでしょ。それ見て」
「お前のやつを一緒に見るからいいんだろ」
名前は努めて冷静に、抑揚のない声で返したが、すでに眉間には薄く皺が寄っている。気にしない、気にしない。そう念仏のように脳内で繰り返すが、ミズキの手がすっと伸びて、名前の視界を遮るようにタブレットの画面を指でトントンと叩いた。
「これさ、ここのルート、俺と二人で偵察行くことになってる。楽しみだなあ、名前」
「私は別に楽しくない。ちょっと、画面が見えないから退いて」
「やだね。お前がこっち向くまで、ずーっとこうしといてやる」
名前はついに耐えかねて、大きくため息をついてデータパッドを膝の上に叩きつけた。
「ミズキ、本当にいい加減にして!毎日、よくそんなに人に嫌がらせする体力が残ってるわね!暇なの!?」
弾かれたように顔を真っ赤にして怒鳴る名前。その瞬間、ミズキの目が三日月のように細められ、嬉しそうな、満足げな笑みがその唇に浮かんだ。待ってました、と言わんばかりの反応。
「やっとこっち向いた。お前、怒るとすぐ顔が真っ赤になるよな。ほんと、わかりやすくて面白いわ」
「何も面白くない!こっちは真面目に仕事の話をしてるの!」
「俺も真面目に名前で遊んでるつもりなんだけど?それよりさ、お前、今日の髪型、なんか気合い入ってる? いや、入ってるっていうか…なんかちょっと、寝癖が残ってる気がするんだけど…」
「え? 嘘、ちゃんと鏡見て直したはず…」
「俺が直してやるよ」
次の瞬間、大きな手のひらが名前の頭にがっしりと置かれ、そのまま左右前後に激しく動かされた。わしゃわしゃ、というよりは、ガシガシと、まるで大型犬をあやすかのような容赦のない力加減。せっかく綺麗にまとめていた髪の毛が、一瞬にしてめちゃくちゃにかき乱されていく。
「ミズキ!ちょっと!やめてってば!」
「あはは!はい。これで可愛くなった。よく似合ってんじゃん」
「笑い事じゃない!せっかくセットしたのに!」
結局、いつも通りムキになって怒鳴り返してしまった。名前が顔を真っ赤にして睨みつけると、ミズキは破顔し、心底楽しそうに声を上げて笑った。その瞳は、お気に入りのおもちゃをからかって大満足している子供そのものだ。
「あー、おもしろ。名前は、ほんっと期待通りの反応してくれるから、いじり甲斐があるわー」
「だから、全ッ然、面白くないから!このバカ!もうっ!本当に最悪!」
頭をめちゃくちゃにされた屈辱と、またしても綺麗に煽りに乗ってしまった悔しさで、名前は顔を真っ赤に染め、乱れた髪を乱暴に手ぐしで直しながら、ソファから勢いよく立ち上がった。タブレットをひったくるように掴むと、足音を荒々しく立てて、その場を飛び出した。バタン、と激しくドアが閉まる音が響き渡る。後に残されたミズキは、自分の手のひらに残る名前の髪の感触を思い返すように、指を軽く曲げたり伸ばしたりしながら、くつくつと声を立てて笑っていた。
「ほんと、いい反応するねぇ、あいつは」
「……あんたさ、いい加減にしなよ」
振り返ると、そこには腕を組んで壁に寄りかかっているキリコがいた。彼女はいつからそこにいたのか、一部始終を見ていたようで、その目は完全に冷ややかだった。
「何が?」
ミズキは悪びれもせず、ソファの背もたれにどさりと体重を預け、天井を仰いだ。
「何が、じゃない。名前、結構本気で嫌がってたでしょ。ほどほどにしとかないと、そのうち本当に愛想尽かされるよ」
「まさか。あいつのあの反応、見た?めちゃくちゃ可愛いだろ。ムキになって怒るところがガチで堪らん。嫌がってるように見えて、あいつも俺に構われて喜んでるって」
「優しいからいつも我慢してくれてるだけでしょ。限界ってものがあるんだよ。あんたが思ってる以上に、あの子の心は離れてるからね」
キリコの言葉は、長年、鉄坂の街を守り、人の機微を見てきた彼女なりの真剣な忠告だった。だが、今のミズキには、その言葉はただの外野のノイズにしか聞こえなかった。名前はいつも怒る。怒って、拗ねて、でも次の日になれば、また普通に挨拶をしてくれる。その関係性が、永久に続く確固たるものだと、ミズキは無意識のうちに信じ切っていたのだ。
「心配性だなあ、キリコは。大丈夫だって。俺達の絆を舐めんなよ」
「忠告はしたからね。知らないよ、本当に愛想尽かされても」
「ハイハイ。余計なお世話。俺と名前の仲を邪魔すんなよ、キリコ」
キリコの言葉を、ミズキはいつもの小言として完全に右から左へと受け流していた。彼にとって、名前をいじることは日常の癒やしであり、一種の愛情表現だった。彼女が自分にだけ見せる、あの感情を剥き出しにした表情。それがあるからこそ、過酷な任務も乗り越えられる。自分が彼女にどれほど甘え、彼女の優しさをどれほど搾取しているか。その時のミズキは、微塵も気づいていなかったのだ。
翌朝。人生には、どうしようもなくついてない日というものが存在する。まさにその日の名前が、それだった。まず、充電をし忘れたスマホの電源が切れていたせいで、アラームが鳴らず、飛び起きた時点で予定の三十分遅れ。焦って立ち上がった拍子に、ローテーブルの角に足の小指を強打。涙目になりながら洗面所へ向かえば、まだあると思っていた洗顔料が最後の一滴まで使い切られていて、中身が出ない。「落ち着いて、私。ただの不運。よくあること」と自分に言い聞かせながら、必死に身支度を整え、少しでも気分を上げようと、お気に入りの服に袖を通す。だが、朝食代わりに淹れたコーヒーを一口飲もうとした瞬間に手が滑り、見事に服の胸元へぶちまけてしまう。じわじわと広がっていく茶色のシミを見つめながら、名前はその場にへたり込みそうになるのを何とか耐えて、サイズが合わない地味なシャツを着て、これまたオーバーサイズのパーカーを羽織る。髪を整える時間も満足になく、適当に手ぐしで済ませ、お世辞にも完璧とは言えない姿で、家を飛び出した。不運はまだ終わらない。追い討ちのような突然のゲリラ豪雨に見舞われ、傘を持っていなかった名前は一瞬でずぶ濡れになった。近くの軒下に避難したものの、通り過ぎた車に派手に水飛沫を跳ね上げられ、服は泥だらけ。何故。今日に限って、こんなことに。冷たい雨に打たれながら、名前は泣きたくなるのを必死に堪えていた。心も体も、完全に冷え切っている。ここ最近、連日の任務で肉体的な疲労もピークに達していた。睡眠不足、体調不良、そして今日の朝からの、呪われているとしか思えない不運の連鎖。結局、アジトの入り口にたどり着いた時には、服も、靴の中も、そして髪も、すべて雨でじっとりと濡れてしまっていた。最悪、最悪最悪最悪。タオルで服と髪を拭きながら、泣きそうな声を漏らす。名前の精神的なキャパシティは、すでに限界を迎えていた。表面張力でなんとか保っているコップの水のように、あと一滴でも何かが加われば、すべてが決壊してしまう、そんな状態だった。もう何もしたくないと共有スペースの隅にある、一番目立たない小さな一人掛けの椅子に座り、小さく身を縮めていた。大して美味しくもないインスタントコーヒーのマグカップを両手で包み込み、ただじっと床の一点を見つめていた。今は誰とも話したくない。静かに、この最悪な一日が過ぎ去るのを待ちたかった。
しかし、運命はどこまでも今日の名前に対して残酷だった。カツ、カツ、と、聞き覚えのある軽い足音が近づいてきた。お願い。今日だけは、本当に、来ないで。名前の祈りは、無情にも届かなかった。
「お、名前じゃん。おはよー…って、うわ、何そのネズミみたいにびしょ濡れになっちゃって。髪ボサボサだしよ。雨に濡れたわけ?どんくせえ」
最悪なことに、その男がやってきてしまった。ミズキはいつもの軽い足取りで、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら名前に近付いてくる。彼は名前が朝からどんな不運に見舞われていたかなど、知る由もない。いつもと同じ、自分にだけ特別な反応を返してくれる、世界で一番お気に入りの相手がそこにいる、ただそれだけの喜びで動いていた。名前はぴくりと肩を震わせたが、ミズキの方を見ようとはしなかった。ただ、マグカップを握る手にぐっと力を込める。
「…ミズキ。お願いだから、…今は話しかけないで」
声は低く、一本の淡々とした線のようだった。いつもなら、うるさいとすぐに言い返すはずの名前のその拒絶に、ミズキは少しだけ目を見開いたが、それもいつもの強がり程度にしか受け取らなかった。
「何だよ、朝から元気がねえな。そんな冷たいこと言うなよ。俺が慰めてやるからさ。ほら、その濡れた髪、乾かしてやろうか?」
ミズキはそう言って、からかうように手を伸ばし、名前の濡れた前髪を指先で弄ぼうとした。いつものように、顔を真っ赤にしてムキになって怒る、あの愛らしい反応を期待して。
「…やめて。本当に無理だから」
名前はミズキの手を小さく頭を振って避けた。その声は完全に冷え切っており、いつもと違って一切の覇気がない。ただただ、これ以上自分の中に土足で踏み込んでこないでほしいという、悲痛な防衛本能からの拒絶だった。だが、これまでの成功体験がミズキの目を曇らせていた。いつも名前は最初は嫌がる。冷たくあしらおうとする。けれど、そこをもう一押しすれば、極上の、最高に可愛い怒り顔を見せてくれるのだ。今日の名前の様子がどれほど深刻か、ミズキは察することができなかった。いや、自分の楽しい日常を優先するあまり、察することを放棄していたのだ。
「え〜?本当に無理って、何が無理なわけ?お前がそんな顔してると、俺がもっといじりたくなるって知ってるだろうが。ほら、こっち向けって」
その手が、名前の髪に触れるか触れないか、という瞬間だった。
「触らないでって言ってるのがわからないの!?」
悲鳴を上げるように叫んだ名前が、ミズキの手を全力で振り払った。パチン、と鋭く乾いた音が響き渡る。その勢いで、名前の手に握られていたマグカップが床に落ち、ガシャンと派手な音を立てて粉々に砕け散った。中のコーヒーが、床一面に、そしてミズキの足元に黒く広がっていく。あまりの衝撃に、ミズキの手が空中で泳ぐ。 ミズキは目を見開いた。今まで見たこともないような、激しい拒絶。 そして、目の前の名前の顔を見て、ミズキは息を呑んだ。名前の顔は、怒りで真っ赤に染まっていた。だが、それ以上に、その大きな瞳には、今にも溢れ出しそうなほどの涙が、いっぱいに溜まっていた。
「…名前……?」
ミズキの声から、余裕が消える。戸惑いと、明らかな動揺がその声に混じる。だが、一度決壊した名前の感情は、もう誰にも止められなかった。日頃の鬱憤。毎日のように繰り返される、ミズキからの理不尽ないじり。嫌だと言っても面白がられ、真剣に怒っても笑い飛ばされる。自分の気持ちを一切尊重してもらえない、その果てしないストレス。それに加えて、今日の朝からの最悪な不運。すべてが混ざり合い、巨大な爆発となってミズキへと向けられた。
「いい加減にしてよ!なんで、なんでいつもそうなの!?人が嫌がってるって、最初から言ってるじゃない!私が怒るのを見て、面白い?楽しい!?私はちっとも面白くないし、楽しくもない!毎日毎日毎日毎日毎日、あなたに馬鹿にされて、からかわれて、どれだけストレスが溜まってたか、あなたにはわからないでしょ!?ねえ、私が何かあなたに悪いことした!?私はヨーカイのメンバーとして、真面目にみんなの役に立ちたいだけなのに!あなたはいつもいつも私の邪魔をして、髪をめちゃくちゃにして、笑い者にして!私がどんなにやめてって言っても、一度だって真面目に聞いてくれたことないじゃない!」
「いや、俺は別に、お前が可愛いから……」
「可愛ければ、何してもいいわけ!?嫌がってる人に嫌がらせを続けていい理由になるわけないでしょ!最低だよ!」
名前の叫び声が、決して広くはないアジトの壁に反響する。ミズキは完全に気圧されていた。言葉を失い、ただ伸ばしかけた手を中途半端な位置で止めることしかできない。
「私はね!怒りたくもないのに怒らされて、気にしないようにしようって思っても、どうしてもムキになっちゃって!その後に、一人でどれだけ自己嫌悪に陥ってるか、あなたにわかる!?」
「…お前…そんな風に思って……?」
「わからないよね!?だって、人の気持ちなんてどうでもいいんだもんね!?自分が楽しければ、相手が傷ついてようが、困ってようが、関係ないんだもんね!?」
溢れ出た涙が、名前の頬を伝ってポロポロと流れ落ちる。名前はそれを、パーカーの袖で、ごしごしと乱暴に拭い去った。皮膚が赤くなるのも構わずに、何度も、何度も。まるでミズキの存在そのものを、自分の世界から消し去ろうとするかのように。その拒絶の仕方は、ミズキの心臓を素手で掴まれたかのような衝撃を与えた。
「……名前、…悪い…俺、そんなつもりじゃ……」
ミズキが、一歩足を踏み出す。傷つけてしまったという焦燥感から、名前の肩に手を置こうとした。
「触らないでって言ってるでしょ!」
名前は威嚇するような鋭い声をあげて、さらに一歩後ろへと下がった。ミズキの手が、虚しく空を切る。名前は、涙で濡れた瞳で、ミズキをまっすぐに見据えた。その目には、いつもの怒りではない。もっと冷たく、決定的な拒絶の色を宿していた。
「……もう、あなたの顔なんて、見たくもない」
その言葉がミズキの心臓を凍りつかせる。そして、涙に曇った瞳を刃のように尖らせてミズキを睨み、最後の一刺しを、冷酷に、明確に言い放った。
「…大嫌いッ…」
最後の一言は、部屋の空気を完全に切り裂いた。言い放つと同時に、名前は翻り、共有スペースのドアへと走った。激しくドアが開け放たれ、そして、鼓膜が震えるほどの大きな音を立てて閉まる。後に残されたのは、静寂。そして、あまりの衝撃に、手を伸ばしたままで完全に呆然と立ち尽くすミズキだけだった。ミズキは、自分が伸ばしたままの右手を、まるで他人のものかのように見つめていた。指先が、かすかに震えている。
大嫌い。
耳の奥で、先ほどの名前の悲痛な絶叫が、幾度となく木霊していた。いつもなら、怒った後もなんだかんだで近くにいてくれた。最後には呆れたようにため息をついて、それでも同じ空間にいてくれた。だが、今の彼女は違う。本当に、自分のすべてを拒絶して、目の前から消え去ってしまった。
「……あ、……え?」
ミズキの口から、間抜けな声が漏れる。脳が状況を拒絶していた自分の手のひらを見つめる。いつもなら、そこには名前をいじり倒した後の、どこか温かくて心地よい満足感が残っているはずだった。彼女の柔らかい髪の感触や、怒って背を向けた時の小さな肩の揺れ。そういった愛おしいもののすべてが、今の自分の手には何一つ残っていない。あるのは、容赦なく振り払われた時の、皮膚が擦れるような冷たい痛みだけだった。
「嘘、やろ、名前……」
ミズキの呟きは、名前に届くこともなく虚しく空間に消えた。全身の血の気が引いていくのがわかる。身体が鉛のように重く、指一本動かすことすら躊躇われた。胸の奥が、経験したことのないような嫌な熱さでズキズキと痛む。怒らせるつもりなんてなかった。ただ、いつも通りに戯れたかっただけだ。彼女のあの、ちょっとムキになって顔を真っ赤にさせる可愛い反応が見たかった、それだけだった。なのに、なぜこんなことになってしまったのか。
「…ほらね、言わんこっちゃない」
静まり返った共有スペースに、冷ややかで、けれどどこか諦めを含んだ声が響いた。ミズキがゆっくり振り返ると、いつの間にか部屋の入り口に立っていたキリコが、呆れたように肩をすくめていた。その目は「だから言ったのに」という無言の非難で満ちている。
「キリ、コ……」
「昨日、私がなんて言ったか覚えてる?ほどほどにしとかないと、そのうち本当に愛想尽かされるよって。まさにその通りになったじゃん」
散らばるマグカップの破片を横目にミズキへと近付いたキリコは、完全に打ちのめされ、生気を失ったその表情を覗き込むように見上げた。
「ふっ…ごめん、笑うとこじゃないんだけど。あまりにも綺麗な因果応報だから、逆に感心しちゃって。全部あんたが自分で招いた結果だよ、ミズキ」
「あいつ、マジで怒ってた…。俺、ただ、いつも通りに…」
「まだわかんないの?そのいつも通りが問題なんでしょ。あの子にとってはもう限界だったんだよ。あんたさ、今朝、あの子がどれだけボロボロな状態でここに来たか、その節穴な目には映りもしなかったんでしょ」
「……え?」
キリコは溜め息をつき、呆れと憐れみが混ざった視線をミズキに向けた。
「名前、今朝はスマホの充電が切れて寝坊するわ、足の小指をぶつけるわ、お気に入りの服にコーヒーをこぼすわで、朝から散々だったんだって。おまけに外に出たらあのゲリラ豪雨。傘もなくてずぶ濡れになって、車に泥水まで跳ね飛ばされて。それでも任務のためにって、泣きそうなのを必死に堪えて、ボロボロになりながらここに来たの。そんな時に、あんたがいつもの調子で余計な嫌がらせしてきたんだよ? 限界が来ないわけないじゃん」
キリコの容赦のない言葉がミズキの胸に突き刺さり、その心を粉々に砕いていく。今朝の名前の異様な様子の理由をミズキはそこで初めて知ったのだ。いつものミズキの独りよがりな遊びに付き合う余裕すらなく、今にもプツリと切れてしまいそうなほど張り詰めていた、あの痛々しい拒絶。彼女は確かに、何度も限界のサインを出していたのだ。それなのにミズキは彼女を消費して得る自分だけの心地良さを優先し、彼女の必死の拒絶を全て無視して、土足でその心を踏みにじったのだ。
「俺、は……」
「あいつが可愛いから?笑わせないでよ。あの子が怒る反応を面白がって、自分の歪んだ欲求を満たしてただけでしょ。あの子が毎回、どれだけの自己嫌悪に耐えてたか想像したこともないくせに。あんた、本当に底意地が悪いわ」
キリコの容赦のない言葉は、ミズキの浅はかな逃げ道を完璧に塞いでみせた。いつもの飄々とした訛りのあるおふざけなど、もう影も形もない。ただ、床に広がった泥のようなコーヒーを、暗い虚無を湛えた瞳で見つめることしかできなかった。
「…なぁ、キリコ。俺、どうすればよかと?」
ようやく絞り出した声は情けないほどに震えていた。いつも自信満々で、戦場でも不敵に笑うヨーカイの一員であるミズキが、今はまるで迷子の子どものように肩を落としている。
「どうすればいいかって? そんなの、自分で考えなよ。散々あの子を傷つけておいて、今更私に泣きつかないで」
キリコは冷徹な眼差しのまま、ぴしゃりと言い放った。
「自分で散々やらかしといて、本当に情けない男。言っとくけど、今回はちょっとやそっとの謝罪じゃ絶対に許してもらえないからね。名前の優しさに甘えて、その心をズタズタに踏みにじったんだ。自分がどれだけ酷いことをしたか、死ぬほど反省しな」
キリコに背を向けられ、一人残されたミズキは、ただただその場で立ち竦む。自分が犯した過ちの大きさを物語る、床に散らばるマグカップの破片と黒いコーヒーを見つめたまま、全身を襲う強い喪失感と、取り返しのつかないことをしたという恐怖で、視界がぐにゃりと歪み、奈落の底へ突き落とされたような感覚に陥る。喉の奥が引き裂かれそうなほどに締め付けられ、彼は震える声で、ただその名前をこぼした。
「……名前……」
いつもなら怒ってもしばらくすれば戻ってきてくれた。だが、あの冷徹なまでの拒絶の瞳が脳裏に焼き付いて離れない。ミズキは自分の震える両手を見つめ、絶望に満ちた困惑の声を、ぽつりと漏らした。
「……俺、本当に…嫌われた…?」
好きな子をいじめるタイプの河童
MANA3/260605