来世に乞うご期待
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お昼休み、資料室前。聞き覚えがある様でない様な、前の学校にはそんな場所があっただろうかとぼんやり考えながら、書類を抱えた私は資料室のドアを控えめにノックした。失礼しますと一声かけてから他の教室などよりも少し重く感じるドアを開けると、そこに目当ての人物であろう人が入口を背にして窓際に佇む姿があった。
「あの松永先生でしょうか?」
私の問い掛けに呼応して、振り向いたその人物は低く囁くような声で答えた。
「ああ、いかにも。私が松永だ。」
何故、先生をしているのか不思議なくらい、落ち着きがあり洗練された男性だった。憧れの大人の男性とはこんな人のことをいうのだろうか。そんな人と二人きりだと思うと緊張のあまり体が強張るも、本来の目的を思い出して、妙な印象を持たれてしまわぬように心を落ち着かせてから再び先生に話し出す。
「お昼休み中にすみません。あの、担任の先生に頼まれてこの書類を松永先生に持ってきました。」
預かっていた書類を両手で差し出すと先生はそれを受け取り、軽く目を通せば、すぐに視線を私に戻された。
「いや、こちらこそ貴重な休みだというのに雑用をさせてしまって時間にすまないね。」
「いえ、大丈夫です。気になさらないで下さい。」
「卿が噂の転校生だね。転校初日の半ばが過ぎたわけだが問題はないかな?」
書類を渡すという目的は果たせた。もうここに留まる理由は何もなく、何となく名残惜しくもあるが、それ以上にこの緊張に耐えられそうにもなく、早々に立ち去りたい思いに駆り立てられ、教室に戻ろうとする私を先生の言葉が遮る。それは転校して来たばかりで不安であろう生徒への気遣いであった。不安がないと言えば嘘になる。しかし、先生の考えているであろう不安は私が午前中に体験したハプニング、変事、珍事、変災は該当しないであろう。転校初日から問題を起こしたくはなかった。何より、ここに長居をするつもりはなかった私はこう答えるつもりだった。「大丈夫です。」「何も問題ありません。」と。だが、曝け出さずとも心の内を見透かすよう先生の目がそれを許さなかった。徐に私の口が抉じ開けられる。
「あの…私、不安だったんです。この新しい生活に馴染めるかどうか。でも、積極的に話しかけてくれる人達がいて、とても嬉しいですし、助かってます。けど、何て言うか…その、まるで、みんな前にもどこかで逢ったように接してくるので。私は覚えがないのでそれがちょっと、気になってしまって…。」
妙な話をしている。自分が一番理解していた。次第に顔が俯いて、声が萎んでいく。こんなことを言っても先生を困らせるだけなのに。そう思うとますます気が滅入り、頭を項垂れさせ、話してしまったことを後悔した。
「人は誰しも変化を恐れるものだが、それに順応できる生き物でもある。」
すっかり重くなった頭を上げると、松永先生はここに来た時と変わらない表情のままで話を続けた。
「その環境に長く身を置くと異常もいつしか平常になるものだ。努力など微塵も必要ない。何故なら慣れてしまうからだ。卿の意思など関係なく、否応なしにね。組織というのは容易く変わることはない。もし変わるのであれば、それは他でもない卿自身なのだよ。」
先生はご存知なのだろうか。この学校に突然、目の前で乱闘を起こす眼帯と生徒にメスを向ける養護教諭の存在を。初めてというのは誰しもが経験する、避けては通れない道である。未知とは今の私のように不安や恐れ抱くものだが、それがいつしか当然になってしまうのも経験し、理解している。遅かれ早かれ、この憂鬱も消えるかもしれない。だが、後ろ向きな考えが頭から離れなかった。
「それでも卿の憂いが晴れない時は至極単純なことだ。」
「…何でしょうか。」
「逃げればいいのだよ。」
「逃げる、ですか?」
「逃げるという行為は決して悪いことではない。逃げられる場所、心安らげる寄る辺は誰にだって必要なものだ。もし、逃げ出したくなったその時は私が卿にとっての寄る辺となろう。何かあれば、何もなくともいつでも私を頼ればいい。」
優しい先生、いい先生というのは何人かいる。しかし、その中でこうも真摯に、そして親身になってくれる先生は一体何人いるだろうか。根本的な解決にはなってないかもしれない。それでも先生の言葉に私は少なからず胸が空くのを感じた。
「あの…いいんでしょうか。また先生に頼っても。」
「ああ、勿論だ。」
「…ありがとうございます。先生のおかげで何だか気が楽になった気がします。」
「はは、それはよかった。何かあればいつでも私に言いたまえ。歓迎するよ。」
そう言うと、先生の手が私の肩に置かれた。それから乾いた音が鳴ったのはほぼ同時であった。手の甲に残る軽い衝撃と僅かな痺れ。何が起こったのか。白くなった頭では何も考えられなかった。ここに来てからその笑みを崩すことのなかった松永先生の瞠目した表情でようやく気付く。私が先生の手を払いのけたのだと。信じ難い行いに血の気が引いていくのを感じながら私は深々と頭を下げた。
「す、すみません!こんなことするつもりは、怪我はしていませんか!?」
完全に無意識だった。私の意思とは関係なく、まるで誰かに操られたかのように体が勝手に動いた。何故、人の厚意を無下にすることをしてしまったのか。もはや、許してもらおうだなんて烏滸がましいが今の私にはひたすら謝罪を繰り返すことしかできなかった。
「…ふ、ふふ…ははは、あはははは!」
響く声に罪悪感で重くなった頭を上げると松永先生は端正なその顔を手で覆って堪えることなく声を上げて笑っていた。てっきり、怒られるとばかり想像していたのと、最初の印象からは想像しなかった先生の姿に呆然とさせられた。一頻り笑うと先生は最後に一息吐くと何事もなかったかのように手を払う前と同じ様子に戻っていた。
「いや、失敬。安心したまえ。怪我などはしていない。それよりも不躾に女性の体に触ってしまって申し訳なかった。卿は何も気に病むことはない。悪いのは私の方だ。どうか許してはくれないか。」
「そ、そんな滅相もない!先生が悪いだなんて、本当にすみません!」
非は自分にあるのに、それを非難することなく、剰え、悪いのは自分であるという先生に心苦しさを感じずにはいられず、謝罪を繰り返し現状は堂々巡りになりつつあった。このままでは先生を困らせるだけではないかと考えると早急に事態を収束しなければならないだろうが私の立場ではその術はなかった。
「では、こうしよう。」
床しか映らなかった視界に表紙を開かずとも難解であることが察せる重厚そうな本が入り込む。それが何を意味するのか見当がつかず、不思議そうにする私に松永先生は続けた。
「この本を今日中に図書室へ返却してはくれないか。生憎、他の所要があって、返す時間がとれなさそうだ。卿が私の代わりに図書室に赴き、この本を返してくれるのであれば非常にありがたいのだが。」
差し出されるがままに私は本を受け取る。これで手打ちとする意味がこの本に込められているのを理解したので私はそれ以上何も言うことはなかった。何も言うことはないが、どうやら顔には出てしまったらしい。これで本当にいいのだろうかという、罪悪や不安を通り越した傲慢を先生は見逃さなかった。
「それでもまだ卿が罪悪感を抱くというのならば、これからも私の元へ来て手を貸してはくれないか。苗字名前。卿からは時間をいただくとしよう。その他よりも得難い時間私のために費やしてくれたまえ。」
「…それでいいのですか?」
「卿が思う以上にその時間は価値があるものなのだよ。私にとっても他の者達にとってもね。」
伸ばされた手は救いにも見えたが、有無を言わさず烈火のごとく奪略するものにも見えた。すでに私に選択肢はない。それに私は気付いていない。考えるよりも口が先に動く。引き出された譲歩の言葉に松永先生は満足気に笑う。
「よし、いいこだ。」
そう言いながら先生は私の頭を撫でた。肩は駄目で頭はいいのですか先生。先生が言ったんですよ、不躾に女性の体に触ってしまって申し訳なかったって。まあ、私はいいんですけどね。そう思いつつ私は差し伸べられた先生の手をとった。
それはそうと、私が転校生だというのはさておき、名前まで先生方は把握しているものだろうか。
MANA3/241002